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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 国内商業観の変化

商業(人)蔑視から商工立国

 わが国が海外列強諸国と互角に競争をしていくためには、封建時代からの価値観を打破して、近代的価値観を創出・育成・定着させることが重要な課題になっていた。近代的価値観は、近代資本主義発展の前提条件となるものである。近代的価値観とは具体的には次のようなものであった。まず第一は、各藩割拠-自藩中心から日本一体としての国家中心の価値観への変革(藩経済尺度から国民経済尺度への変革)、第二は世襲的身分制度、家柄第一主義から人材第一主義への価値観の変革、そして第三は経済軽視、商工蔑視から経済重視、商工重視の価値観への変革、第四は貴穀賤金、営利賤視から貨幣経済中心、営利原則尊重への変革(高橋亀吉著『日本近代経済形成史 第二巻』より)である。経済重視、商工重視、貨幣経済重視、営利原則の重視が明治になって前面に押し出され、商工立国の傾向が、はっきりとあらわれてくる。商工重視の考えが封建時代に全くなかったわけではない。各藩は藩財政の破綻を立てなおすために、専売制などの商工政策を藩レヴェルで取り入れていた。太宰春台の「商業藩営論」や佐藤信淵の「商業国営論」は江戸時代の商業立国の代表的なものであろう。しかし一般世間の商業に対する認識は決して良いものであったとは言えない。江戸時代中期の儒学者、荻生祖来は『政談』で次のように語っている。「商人は利倍をもって渡世をする者ゆえ一夜検校ともなり、また一日のうちにつぶれもするものにて、これ元来不定なる渡世をする者なり。武士と百姓とは田地よりほかの渡世はなくて常住のものなれば、ただ武家と百姓の常住によろしきようにするを、治の根本とすべし、商人は不定なる渡世をする者ゆえ、善悪なに言うごとし。しかれば商人のつぶれることをば、かってかまうまじきなり。これまた治の大割の心得なりと知るべし。」。狙来によれば、武士と農民こそ政治の基本となるもので、商人は潰れてもかまわない、ということである。商業(人)蔑視の態度は、「商人と屏風は真直ぐに立たず」、「江戸に多きは伊勢屋に、稲荷に、犬のクソ」などの俚言からも推しはかられよう。商は士農工商の四民の下座につくものであるといった考え方が、当時の商業に対する社会的評価であったと言えよう。しかし、明治になると先進国の文物を輸入し、近代化政策を実行するために旧来の思想にかわる新思想を求められた。神田孝平の「商工立国論」は、西欧化政策を通じての資本主義経済の発展を目ざす新しい時代を反映するものであった。神田孝平は封建制度の一大成立要素である農業では国を富ますことは難しく、商業立国でなければならないとして、従来の商業蔑視の態度、あるいは商業(人)無用の態度を戒めた。そのことが、彼の『農商辨』の中で述べられている。つまり

 「商ヲ以テ国ヲ立ツレバ、其ノ国常ニ富ミ、農ヲ以テ国ヲ立レバ其国常ニ貧シ」と。続けて言う。「当今 商人ヲ卑シムコト甚シ、然レドモ万国商ヲ為ス者ハ栄エ商ヲ為サザル者ハ衰フ。是天下ノ権商人ニ移ルノ
時ナリ。此儘ニ指シ置バ、行末如何成行モ測リカタシ、然ラバ之ヲ如何ニシテ可ナランヤ。……西洋諸国地質一様ナラズト雖ドモ、大抵脊土ニシテ、殊ニ和蘭、英吉利ノ如キハ、寒国ナルヲ以テ、地ヨリ産スル所ノ物、至テ少シ。然レドモ方今ノ如ク、強大富盛ニ至リタルハ、多年ノ間力ヲ尽シテ貿易ヲ勤ムルニ依レリ。若シ西洋諸国ニテ、農ヲ以テ国ヲ立テシナラバ、其ノ国夙ニ自滅スベシ。」

と論じて、商工立国、開国貿易を通じての富国の道を力説した。神田孝平の商業立国思想は田口卯吉や福沢諭吉らの経済思想とともに広く、社会の認識するところとなるのである。