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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 明治初期の商業社会の変化

 新しい商業社会の動き

 明治政府は明治二年(一八六九)に藩籍奉還、明治四年廃藩置県によって国民国家の体制を確立していった。これと前後して明治元年に勧商などを目的に商法司が設立され、商法司は直ちに商法大意を布達して株仲間の特権を廃止した。また明治四年には官職にある者を除いて、「営業勝手たるべし」とされ、営業の自由が認められた。同年には「立会略則」・「会社辨」が出版され株式会社についての紹介がなされた。明治五年には国立銀行条例が発布され、全国各地に銀行設立の動きがみられた。愛媛県でも明治九年(一八七六)の国立銀行条例改正ののち明治一一年一月に第二十九国立銀行が西宇和郡川之石に設立された。第二十九国立銀行は明治八年設立の潤業会社を基礎に設立されたものである。明治一一年九月には第五十二国立銀行が温泉郡紙屋町(現松山市)にて、旧松山藩士族を中心にして創設された。翌一二年三月には新居郡(現西条市)にて旧西条藩士族らによって第百四十一国立銀行が設立されている。このように本県においても明治の新しい近代商業社会の息吹がはっきりとあらわれ始めていた。会社制度、銀行が広く社会に定着していく中で、他方では商業の秩序維持、商工業者の意見吸収をはかって商工業の発展につとめんとする商法会議所の設立が明治一一年東京・大阪でなされ、東京では設立に当たって渋沢栄一が、大阪では五代友厚が中心となった。商法会議所は商工業者の利益代表機関として全国各地に設立され、明治一六年には、その数三〇に及ぶものであった。松山では明治一五年(一八八二)五月に小林信近(第五十二国立銀行)を初代会頭にして設立された。
 実業界の新しい動きに対応して、人材育成の動きもみられた。明治二七年(一八九四)、文部大臣井上毅は実業教育の重要性を強く認識し、実業教育費国庫補助法を議会に提出し、これにより明治三二年(一八九
九)までに全国各地に商業学校の開校がみられた。その数三二校である。本県では明治三四年に西宇和郡立八幡浜商業学校、翌三五年四月には宇和島町立商業学校、同年一二月に松山商業学校の開設をみている。愛媛県では新しい時代の人材育成をはかるためにも、商業学校設立の意見は早くからみられたようであり、明治一四年の『愛比売新報』には、「松山には小学校、中学校が設立され、士族の子弟にまじって多くの商家の子弟も学び、商家の子弟は長じては将来、商業に従事することになるはずであるが、しかし彼らに対する商業教育を行う教育機関はなく、早急に商業学校を設立すべきである。」という投稿が寄せられていた。