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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 明治期松山の商業地区

 古町三十町

 明治以降、近代都市として発展を遂げていった都市に松山・今治・宇和島のほか新居浜・川之江伊予三島がある。とりわけ松山は明治以降、商工業の中枢的位置を占め、その発展著しいものがある。しかし県都松
山も、その都市の商業中心地区を見ると時代とともに地理的変遷をたどってきている。
 明治までの松山の商業中心地区は、古町三十町と呼ばれる地区であった。この町区は慶長八年(一六〇三)の加藤嘉明の松山城築城に伴って造られた町である。今その町名を列記すれば、新町、上之棚町、呉服町
、鍛冶屋町、府中町一丁目、府中町二丁目、畳屋町、北上紺屋町、北下紺屋町、本町一丁目、本町二丁目、志津川町、魚町一丁目、魚町二丁目、米屋町、紙屋町、栄町、北松前町、中松前町、松前半町、南松前町、細物町、西町、北利屋町、西紺屋町、樽屋町、風呂屋町、檜物屋町、南利屋町、松屋町の三〇町であり、町名から各種商業の集中状況をうかがい知ることができる。松山藩は商業の発展のため、この地区を免租地として優遇し、また松前から栗田・後藤・古川・曽我部といった地方の豪商を連れてきていた。
 古町三十町をはじめ、松山の商業は、江戸時代どのような繁栄を遂げていたのかを知ることは困難である。しかし、『松山叢談附録松山往来』には、各種の商業や手工業の名が記され、その繁昌振りが伝わってくる。松山往来』に記された業種とは次のとおりである。

 掛屋、金銀両替、米場所、呉服店、薬種店、酒店、質店、道具店、米店、銭店、細物店、紙店、茶店、古物店、魚店、八百屋店、瀬戸物店、菓子屋、餅屋、飴屋、糀屋、油屋、醤油屋、酢屋、豆腐屋、多葉粉屋、竹屋、材木屋、植木屋、綿実 問屋、紙問屋、粉問屋、桝問屋、石屋、鍛冶、鋳物師、大工、木挽、指物師、檜物師、桶師、乗物師、左官屋、屋根葺、塗師、蒔絵師、繪佛師、表具師、筆師、紙漉、唐紙師、利師、鞘師、柄巻師、金銀銅細工、槍師、弓師、矢師、馬具師、鉄砲師、合羽師、摺縫物師、傘張、扇子折、紺屋、紅粉屋、黒茶屋、茜染、畳師、井門堀、鏡利、髪結、車師、実繰師。

 外側地区の発展

 明治時代に入ると、かつての古町の優遇もなくなり、商業の中心地区も古町から外側地区へと次第に移行していくことになる。この外側地区は古町の成立後まもなく商人町として登場していたと言われる。『松山
町鑑』によれば元禄期には、既に永町(現湊町)には、一~三丁目あわせて本家数九六軒、借家数一一九軒の家数をかぞえ、油屋五右衛門・三原屋介左衛門・米屋半兵衛・八幡屋三郎右衛門らの商人が住んでいた。
湊町を中心として外側地区が明治以降、古町にとってかわるまでに発展を遂げていったのには、幾つかの理由があった。ひとつには、石手川による良質の地下水に恵まれていたこと。これが古町よりも外側地区一帯
にかけて人々の居住を促す要因となった。居住者の増大は消費(人口)の拡大を意味した。外側地区の商人は、明治以降、官公庁・企業そして一般大衆からの消費を掌握することができ、さらに外側地区の発展の上
で決定的な貢献要因は近代交通機関の登場であった。明治二一年(一八八八)、松山~三津間に鉄道が開通し、明治二六年には松山~平井間、明治二九年に森松・郡中線が開通し、さらに明治三二年(一八九九)に
は平井~横河原線が開通している。また明治二八年には道後線も開通していた。近代交通機関の路線の拡張に伴い松山は東南地域へと拡がりを見せていく。外側地区の商人は、これにより後背地をも自己の商圏に組
み込むことが可能となった。しかし、だからといって古町が急激な衰退をたどったと見ることは間違いであろう。明治三五年三月に古町勧商場が開設され、大正時代には、短命であったものの大丸百貨店の登場もみ
ていた。