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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 愛媛の商業活動

 明治期、本県の移出品に綿織物・伊予絣・製紙・木蝋・漆器・竹細工品などがある。特に伊予絣は本県の主要移出品であり、久留米や栃木の主要産地を抜いて全国屈指の絣産地として、その名を高めていた。絣生産高が全国生産高の数十%を占めるにつれ、品質低下の問題を他方でひき起こした。そのため明治一九年(一八八六)には製品の品質維持を目ざして製造業者・問屋・仲買人などから成る改良組合が結成されている。伊予絣は明治・大正期にかけて本県の大きな移出品であった。時代は新しくなるが大正二年(一九一三)の松山市の重要物産生産統計で見ると、伊予絣生産高六九万〇、二〇〇反、価格にして九一万円であった。生産高のうち七%が県内消費で、残り九三%は県外移出であり、その一部は海外へも輸出された。松山の物産では竹細工品も県外移出品となっていた。竹細工品は藩政時代から三津浜でつくられ、明治期に重松重太郎の力で発展し、その販路もアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・南洋方面にまで拡がることになる。愛媛県の生産物はこのほかにも工業製品・農産物・海産物・鉱産物があり国内市場にその販路を伸ばしていた。
 明治三八年(一九〇五)の『日本商業地図』によれば、本県の生産状況は次のとおりである。米の収穫高六五万四、〇〇〇トン、麦四八万八、〇〇〇トンで四国四県中第一位である。繭生産額は一万五、三二九石、茶八万三、七九九貫の規模である。製糸場は、明治三五年に二、七七六で自家製糸場は二、七四七で残り二九が製造所であった。蚕糸生産額は二万一、六三四貫、綿糸生産額は伊予が一六万五、〇〇〇貫、松山が一七万五、〇〇〇貫、宇和が二一万九、〇〇〇貫、八幡浜八万七、〇〇〇貫であった。綿織物製造額は三三〇万円に及び、関西・九州の地域では京都・大阪・和歌山に次ぐものであった。また酒類製造高では関西・九州地域の中で本県は比較的大きな生産額を誇っていた。陶磁器では京都・兵庫・佐賀に続き、その産出額は一七万四、三〇〇円である。また漆器ではその生産額は一〇万円強で、西日本では和歌山・京都・大阪・広島・愛媛の順であった。

 明治期の商品流通

 本県の農工産物は県内の主要港から県外へと積み出され、県外からは多種の農工産物が移入されていた。ここでは農工産物の移出入についてながめてみよう。
 明治一二年の『愛媛県統計書』によれば、商品移出入の大きな港は川之江・新居浜・今治・堀江・郡中港などである。明治一七年の主要輸出港は三津浜・八幡浜・宇和島港であった。つまり三津浜港の輸出入総額六五万三、五五九円(輸出価額四〇万九、一二四円、輸入二四万四、四三五円)、八幡浜の輸出入総額七五万五、八九八円(輸出価額四〇万〇、九五二円、輸入価額三五万四、九四六円)、宇和島港の輸出入総額五五万四、七六三円(輸出価額二八万九、九六一円、輸入価額二六万四、八〇二円)の概況である。これら三港の輸出入総額は一九六万四、二二〇円で、その内訳は輸出一一〇万〇、〇三七円、輸入八六万四、一八三円である。三港だけでみれば県外移出額が移入額を上回っている。三津浜港からの主要移出品は米で、一万三、五七〇石が輸出され、その価額は六万一、〇一七円である。また同港から紙・茶などが積み出された。八幡浜港の最大の移出品は呉服反物で、その価額は三万四、六七四円、次いで木綿糸二万〇、四八五円、綿一万一、六六〇円と続く。八幡浜は繊維産業の発展が著しく、港からの移出品は、そのことを裏づけるものである。宇和島港からは紙が最大の移出品で、移出価頓五万三、六六九円、数量で八万六、九五〇束である。紙は宇和周辺に産地があり、製品は産地から宇和島へ出荷され、宇和島港から各地に向けて船積みされた。紙に次いで醤油三、二三三石、価額にして二万一、二七〇円が移出され、このほか同港からは茶・鰹節が積み出された。他方、輸入品では三津浜港へは木綿糸三万四、一四一円の移入をみた。これに次いで呉服反物の移入が目だつ。工業燃料としての石炭の輸入量は七九万三、〇五〇貫で、価額にして八、一六○円である。八幡浜港の輸入品目では呉服反物、木綿糸が目立っていた。宇和島港では呉服反物、食塩が主要移入品であった。ちなみに食塩の輸入量は一八万一、三〇〇石で、三津浜港の七、一九八石、八幡浜港の七万〇、九〇〇石をはるかに凌ぐものである。宇和島の食塩需要は醸造業・食品工業からによるものであろう。各港の輸出入品目をみると港の
所在地とその周辺の産業を反映しているようである。
 さて明治四一年(一九〇八)の本県の主要物産県外仕入・仕向地をみると大阪・兵庫といった関西地方と中四国、そして九州に集中していることが分かる。これは、この年に限らず明治期の一般的傾向である。本県からの海外輸出は清国への綿ネル輸出、韓国への陶磁器輸出があげられる。明治四一年(一九〇八)の仕入総額二、〇八二万五、八六七円、仕向総額三、三五四万八、一五八円で、取引総額は五、四三七万四、〇二五円である。
 明治四四年の『愛媛県統計書』には本県の仕入・仕向が市郡別にまとめられている。それによるとやはり本県の取引相手地域は関西・中四国・九州に集中している。以下、本県の市郡毎の商品取引の概況を述べてみよう。
 温泉郡の主要移出品は米・絣木綿があり、仕入品では雑穀・絹織物・綿糸・石炭・石油などである。越智郡からは綿ネルが大阪・神戸・広島・九州・東京の各地へ移出され、その総価額は四九二万八、九六四円である。桜井では漆器の生産と行商が活発で九州・山陽方面・四国県内が大きな市場になっていた。仕入では綿糸が最大の品目でその移入総価額は三五七万七、五四七円である。綿糸に次いで絹織物が大阪・京都から移入された。また山口・九州からの石炭の仕入も越智郡の移入品目では大きな位置を占めている。これは製塩業・繊維産業からの需要によるものであろう。今治の隣接地周桑郡の移出品は米で阪神地方のほか、広島地方に移出された。和紙・銅も当地の主要移出品である。和紙は国安・吉岡・周布・石根・中川・吉井の村々で生産されていた。銅は千原鉱山から採掘され、周桑郡の唯一の鉱産物資源であった。移入品では石油が目立つ。新居郡最大の移出品は銅である。銅の移出量一、一四三万九、六六〇斤、その価額三六六万一、一〇二円、仕向地は兵庫である。銅は工業用・軍需用として大きな需要をもっていた。移入品では清酒・西洋紙・砂糖などが主たるものである。清酒は大阪・広島・香川から、西洋紙は大阪・兵庫、砂糖は大阪・広島から移入されていた。宇摩郡の主要移出品は和紙で九四五万六、八〇〇束、一九五万六、八〇〇円に及んでいる。川之江港から大阪・香川・九州・広島・京都・岡山の各県に及ぶ。他方、移入品は楮皮三椏で、価額にして八五万九、〇〇〇円、その仕入地は高知・徳島・島根・九州からである。上浮穴郡の主要移出品は茶で、移出量四九万二五〇〇斤、価額九万四、四四六円である。移出先は兵庫である。茶と並んで木材の移出がみられ、丸角材・挽材・竹材から成る木材の移出額は四万〇、七三九円である。移入品では特に目立ったものはない。伊予郡からは米が兵庫・広島・大阪へ移出され、その移出量は一万九、八三一石、価額にして三五万七、一三五円であった。特産物である伊予絣は阪神や広島の各地に移出され、価額にして一八万四、八七〇円であった。また砥部の陶磁器が郡中港から移出され、その価額一八万二、八二七円に及ぶ。移出先も国内ばかりでなくインド・中国の海外にまで販路を伸ばしている。移入品では大阪から生蝋などが移入されていた。その他に雑多な移入品があるが、金額的には注目するほどのものではない。喜多郡からは蚕糸が移出され、その価額は一五八万四、〇〇〇円で、出荷先は横浜・京都である。このほかにも丸角材・挽材・鉱山用抗木の木材(二七万七、一八〇円)の移出がなされた。仕向地は中国地方や大阪であるが、鉱山用抗木は九州に積み出されている。福岡の筑豊地方の炭鉱からの需要によるものであろう。喜多郡の仕入品では京都からの絹織物がある。西宇和郡では醸造業・製糸・蝋などの産業がある。最大の移出品は綿糸で、その移出価額は一六七万八、一二八円で、大阪・高知へ移出された。綿糸を含めての繊維の輸出総価額は三五五万四、二四三円で、明治四四年(一九一一)の本郡の移出総額の六〇%を占める。繊維に次ぐ移出品は銅である。西宇和郡には銅鉱山がけで三〇か所以上に及んでいた。ちなみに明治四四年の銅の移出額は五五万三、三九五円であった。移入品は綿糸・絹織物などで大阪・甲州から移入された。東宇和郡からは石灰が山口・大分・香川・兵庫・富山・新潟に移出され、移出額は八万円である。また米が高知・大阪・兵庫に移出される。移入品は京都・大阪からの絹織物がある。北宇和郡の移出品中、最大品目は蚕糸で、移出額も一〇六万〇、七八三円で、横浜・京都・大阪に出荷される。また和紙が阪神地方や門司に移出され、移出額は四六万円である。移入品は米・和紙・石油・食塩が大きなものであった。南宇和郡の移出品は節類で、移入品は大阪・神戸・高知からの米である。松山市は絣木綿を国内各地と海外市場へも一部移出している。移出総額は一〇八万五、九二〇円である。松山市は移出よりも移入が多く、移入品目の中では綿糸が最大の移入品である。額にして八三万円である。仕入先は大阪である。これに次ぐ品目は絹織物の五六万五、五〇〇円である。綿糸・白木綿・絣木綿・綿ネル・その他織物の移入総額は二五九万〇、二〇〇円である。この額は明治四四年(一九一一)の同市の移入総額二九六万五、八四八円のうちの八七%に及ぶものである。(『愛媛県史資料編社会経済下』商業、明治四四年の商品流通参照)。
 以上、明治四四年の本県の市郡別取引状況をながめてみた。本県の取引品目は明治期を通じて特に目立った変化はない。取引相手地域は関西地方・中四国・九州の各県である。海外市場への商品輸出は神戸・横浜
の港を介してなされたものと思われる。市郡別の取引額の順位でみると越智郡・西宇和郡が高位に位置していた。ところで、愛媛県からの移出品は第一次産業の生産物や蚕糸・綿糸や銅などから成っていた。これら
は、いずれもわが国の明治期における主要輸出商品でもあった。まさにわが国の貿易構造を本県の移出品は如実に示していたと言えないだろうか。

 明治期の流通業者

 明治になると、藩政時代の問屋の特権的地位は崩れ、問屋を介することなく商品取引が可能となった。しかも株仲間の廃止は問屋数・仲買数の制限をとり払った。このような理由から問屋と仲買の境界がはっきりとしなくなり、次第に問屋が仲買を兼ねる状況があらわれ、明治・大正期には問屋と仲買をあわせて一般に卸売と言うようになる。明治一三年(一八八〇)の営業規則では会社・卸売・仲買・小売の区別がなされ、
問屋は卸売の中に含まれることになる。なお問屋は、今日ほとんど卸売と同意語で用いられてきている。江戸時代、商人のみが集まって卸売を行う市場は魚・青物・綿などのほか牛馬の市場があった。それは明治になっても存続していた。
 明治一七年、松山市で最も多い卸売商は菓子・果物商で、その数五三戸、次いで醤油一三戸、綿一二戸と続いた。今治市には魚類卸商・呉服卸売商がそれぞれ一〇戸であった。南予地方には宇和島市街に魚類卸売商一七戸のほかに呉服七、蝋油六をかぞえた。仲買商では松山市街に穀類仲買商二〇店のほか材木・糸・綿仲買商がそれぞれ一店あった。今治市街には魚類仲買商が一五のほか甘薯仲買商、穀類仲買商が数店営まれていた。宇和島地方にも穀類・藍・茶・乾物などの仲買商が確認できる。小売商の数は、松山市街に一、六三七戸、今治市街に九〇二戸、宇和島市街に八五九戸があり、これら三地区で三、三九八戸である。これらに加えて質屋・古衣商・飲食店・仕立職など六〇種の雑商が加わるため、商業戸数はさらに増加する。ちなみに松山には一、三六〇戸、今治市街には五八四戸、宇和島市街には七三八戸の雑商があった。明治二八年(一八九五)の本県の流通業者の分布状況は表商1-3のとおりである(また明治三一年の松山・今治の商工人名をあわせて、『資料編社会経済下』で参照されたい)。

 市場・牛馬市・古物市

 本県の市場は、明治一九年については、魚市場・牛馬市・古物市を確認できる。魚市場は、宇摩郡に五、新居郡五か所、桑村郡・越智郡・野間郡にそれぞれ二か所、和気郡三か所、喜多郡四か所、西宇和郡三か所、東宇和郡一か所、北宇和郡九か所である。また牛馬市は和気郡西長戸村(現松山市)に一か所、上浮穴郡の上野尻村(現久万町)一か所、下浮穴郡に一か所、伊予郡一か所、東宇和郡二か所、北宇和郡に八か所あった。古物市は北宇和郡魚棚町(現吉田町)に一か所あった。市場の開市日数は毎日開市されるものと、そうでないものがあった。牛馬市・古物市は一年のうち数日を開市したにすぎない。

表商1-1 愛媛県の重要物産県外仕入・仕向状況①

表商1-1 愛媛県の重要物産県外仕入・仕向状況①


表商1-1 愛媛県の重要物産県外仕入・仕向状況②

表商1-1 愛媛県の重要物産県外仕入・仕向状況②


表商1-2 愛媛県市郡別仕向・仕入状況

表商1-2 愛媛県市郡別仕向・仕入状況


表商1-3 愛媛県における流通業者分布状況

表商1-3 愛媛県における流通業者分布状況