データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)
八 明治期愛媛の実業人
小林信近
明治期愛媛の実業界において、また近代商業組織の導入の上で、多大な貢献をした人物としては小林信近をおいてほかにはいないであろう。『伊予鉄電思ひ出はなし』の著者、井上要の表現を借りれば小林信近は、わが地方に於ける「実業家の元祖であり元勲」であった。
小林信近は天保一三年(一八四二)八月二八日、松山藩士中島包津の二男として生まれ、嘉永二年(一八四九)五月小林信哲の家に養子として迎えられ、明治四年(一八七一)二九才の年に家督を相続する。家督相続の前年明治三年に彼は松山藩少参事に任命されていた。そして明治五年には石鉄県九等出仕を拝命し、明治六年には石鉄県七等出仕となった。明治九年七月には県会議員に当選し、明治一五年(一八八二)には県会議長に選ばれる。「明治十六年議事例規」には、明治一五年県会議員財産並履歴が記されているが、小林信近については、所有田畑宅地八反九畝五歩、地祖一二円、公債証書五〇五円となっている。また履歴では第五十二銀行取締役・石鉄県官吏・郡長としての履歴が示してある。彼の所有田畑宅地などでは議員の中では小さなものであった。
小林信近は公務に関わる一方で、他方では実業界にも進出していった。明治六年に浅田原桑園を開墾し、明治七年四月には宇和島神南山を試掘、同年五月に東野茶園で新茶をつくり、同年八月には松根油を試製、また一〇月に三番町に芝居定小屋を設立、さらに一二月に湊町にて紙店を開業したりしている。翌明治八年五月には正覚寺において養蚕を試みている。しかし小林の多方面にわたる新事業が、どの程度の規模のものであったかは、はっきりとしない。ただ彼が明治維新を迎えて直ちにさまざまな事業に足を踏み入れており、それだけでも、彼がいかに事業心旺盛であったか察しがつく。しかも彼の手がけた多数の事業の中で特筆すべきものに、牛行舎・松山米商会所・第五十二国立銀行・伊予鉄道会社・伊予水力電気株式会社・高浜築港事業などがある。これら事業の性格から窺知できることは、彼の旺盛なる事業心の背景には、自己の利害よりもむしろ地域社会に対する近代企業の果たす役割、というものが強く認識されていたのではないかと思われる。
牛行舎
明治九年(一八七六)七月に久松公の嘱託により、奥平貞幹・松本務と協同して小林信近三五才の年に、士族授産工業会社として牛行舎を設立した。社長に小林信近が選ばれた。社名の由来は「怠らずに行けば千里の道も見ん、牛の歩みのよし遅くとも」という古歌からひき出されたものである。牛行舎は男子部と女子部の二部門からなり、男子部は製紙・製靴を、女子部は小倉織を生産した。旧松山藩の製紙場を所有主
の興産社から借りて、大きな期待を受けて営業を開始しているが、次第に競争者があわられることになった。しかも本来、士族授産目的に設立されたため牛行舎は経営の不慣れに悩まされ、明治一九年、創業からわ
ずか一〇年にして廃業の止むなきに至った。
松山米商会所
明治一〇年、小林信近は、彼の手記によれば「松山米商会所を有志と同盟して設立する」と語っている。当米商会所は、前に既に述べているので、その箇所を参照されたい。
第五十二国立銀行
小林信近が牛行舎に次いで手がけた大きな事業のひとつに国立銀行創設がある。彼の手記によれば明治一一年八月、三七才の年に第五十二国立銀行創立のために上京、大蔵省にてその創立手続きを行っている。そ
して同年九月、第五十二国立銀行を加藤彰・伊藤奚疑らとともに開業した。小林は当行設立と同時に初代頭取となる。開業までには大蔵省での設立事務手続きのほか、資本金問題・紙幣局への紙幣注文・第一国立銀
行とのコレスポンデンス契約の締結など煩雑な問題があった。このような困難な問題を処理しての明治一一年九月の開業であった。小林は初代頭取として銀行経営に携わるものの、その就任期間は、わずか三か月で
終わり、そのあと加藤彰が頭取となった。
松山商法会議所
小林信近の手がけた事業は営利性追求といったものよりも、どちらかと言えば公共性の強いものが多い。松山商法会議所もそのひとつである。彼の手記には、明治一五年五月三日、商法会議所成立、頭取に当選と記されている。明治一五年までに松山をはじめ各地で商法会議所の設立をみた。商法会議所は中央官庁や地方官庁の諮問に応じたり、またその地域の商工業調査などを行う目的で設立されたものである。小林信近は松山商法会議所の初代頭取として活躍した。またこのころ明治一六年二月には海南新聞社長として、その在任期間わずか六か月であるが要職の地位にあった。
伊予鉄道会社
小林が最も苦心して事業をおしすすめたのは、この伊予鉄道会社であった。当時の社会では、鉄道会社に対する認識は極めて乏しかった。そのころ『海南新聞』は鉄道会社計画について、 「この計画は煙火の如きもの、鉄道若し運転せば誠に喜ぶべきことなれども、恰も煙火を見るが如く永く続く見込が無い」、と会社の将来性を危ぶんでいた。会社設立に当たって資金の調達もうまくいかず、会社設立もここまでか思われた時、愛媛県知事として赴任してきた藤村紫朗の讃同を得ることに成功した。藤村自身、五〇株の株主となって事業設立に積極的意欲を示した。また当時、政商として名を連ねていた藤田組社長で、新居浜にて鉱山経営を手がけていた藤田伝三郎、別子鉱山支配人広瀬担らが株の一部を引き受けた。藤田伝三郎は少なからず世間の耳目を集めた人物であった。明治一一年から一二年にかけての紙幣贋造事件で、容疑者として当局の取調にあったことがある。結果は、この事件では疑いがはれたが、他方で役人との関係が問題となったりして、とかく噂の人物であった。
いずれにせよ、資本調達問題などがあったものの、明治二〇年(一八八七)九月一四日、伊予鉄道会社創立総会が開催され、初代社長に小林信近が選ばれた。松山~三津間の営業開始は、明治二一年一〇月二八日
であった。その後、路線は拡張されていく。小林信近は地域社会における近代交通機関の導入者であると同時にまたわが国鉄道史上、軽便鉄道の生みの親としても名をとどめることになる。
伊予水力電気株式会社
明治一二年(一八七九)、エジソンが電灯を発明、世界各国に大きな反響をもたらした。わが国でも明治二〇年に東京電灯会社が営業を開始した。中央発電所方式による電力供給は人々が考えた以上に、工場・街
灯・家庭と幅広く、社会のすみずみにまで浸透していった。旧来のガス灯・石油ランプに代わって、クリーンな照明として明治末から大正期にかけて人々の耳目を集めていた。もちろん、工業界においても新動力源
として電気に対する需要は着実に拡大、その結果、工業界における電化率は高まっていた。
わが国における電力事業の進展を小林信近は見逃さなかった。彼は琵琶湖の水を利用した水力発電の動きに着目、松山でも電力事業を興こそうと計画した。彼の計画では、電灯一、〇〇〇灯の需要があれば企業として採算がとれるといった読みがあった。かくて明治二七年、小林は鈴木安職とともに松山電灯株式会社計画をねり、電灯需要者を募り始めるものの遅々として進まず、苦肉の策として堀の内の歩兵隊にまで電灯需要を求めたが失敗した。ここにきて小林の電力事業計画は早くも行き詰まりをみせる。しかし明治二八年になって、仲田槌三郎・二宮佐一平らが松山電灯株式会社を計画していたところから小林もこれに参加し、明治二八年一〇月二九日に農商務省・逓信省に設立申請を願い出た。そして発電所のための立地調査を松山にて開始する。最終的には石手川上流の湧が淵に発電所を設けることに決定した。しかしそのころ、松山において広島の桐原恒三郎が愛媛県郡中町(現伊予市)の篠崎謙九郎・豊島昌義らとともに、資本金二〇万円の伊予水力電気株式会社の準備をしていた。このため当時の知事小牧昌業の手によって両社の合併案がつくられ、明治二九年(一八九六)一〇月に伊予水力電気株式会社(資本金三〇万円)の創設をみることになる。しかし会社の創設をみたものの経済不況も手伝って株式募集も思うにまかせず、明治三四年四月には資本金を一五万円に減資せざるを得なくなった。そして減資後、内部から脱会者もあらわれ、誰がみても会社の先行きは厳しいものであった。こうした会社の窮状を救うのが才賀藤吉という人物であった。
才賀藤吉は京都の才賀商会の経営者であり、わが国電気事業の上でははかりしれない貢献をした人物である。才賀が松山における電力事業に関係したひとつの理由は、かつて松山紡績の鷲野正吉という技師ととも
に紡績会社の電気工事にたずさわっており、そうした親交から鷲野が松山の電気事業に才賀の参加を求めたのであった。かくて会社の再建がはかられ、明治三四年一二月伊予水力電気株式会社が創立された。その資
本金一三万円、その半額を才賀が引受けるというものであった。また取締役社長に仲田伝之<長公>、専務取締役に小林信近、監査役に才賀藤吉らが就任した。そして明治四一年才賀が社長に就任することになる。しかし会社の施設拡張や、才賀商会そのものが経済不況のあおりを受けて倒産するなど、水力会社の経営も危機に直面した。結局、才賀をはじめ経営陣は総辞職し、新経営陣に実権を移された。大正五年九月一八日の株主総会で、伊予鉄道株式会社への合併が決議され、伊予水力電気株式会社は短い運命で、その歴史を閉じる。
小林信近の手がけた事業は、このほかにも高浜築港事業などがある。彼の事業の多くは地域経済の振興のために必要不可欠なものであり、地域商工業近代化の先鞭をつけるものであった。たしかに小林信近は、そ
の意味では地域経済発展の推進者として特筆されるべき人物である。先見の明を持った優れた人物であったが、経営能力という点では、彼のウィークポイントであったように思われる。事実、彼の興した会社経営をみるとそのことが明らかとなろう。
矢野七三郎
愛媛におけるパイオニア的実業人として、忘れることのできない人物の一人に矢野七三郎がいる。彼は今治の地を明治・大正にかけて綿工業都市として、あるいは四国のマンチェスターと呼ばれるまでに発展させ
る上で、大きな貢献をした企業家である。
藩政時代から今治は白木綿で知られた町であった。しかし明治期になると輸入金巾や泉州産綿織物との競争に直面し、今治は大きな後退を強いられた。今治の地場産業の凋落を目にした矢野七三郎は、その起死回
生策として紀州ネルに注目、柳瀬滝雄・大智又七・正木直一・熊野長太郎らと協力して和歌山に調査に出かけた。そして彼らは紀州ネルの生産にのり出すのであった。明治一九年(一八八六)和歌山から染色・毛掻
きの職工二名を雇い、機具八台を導入して、同年三月に工場を創設した。これが株式会社興業舎(初期には興修社とも呼ばれた)である。明治二〇年末現在の資本金一、五〇〇円、職工数三〇人の規模であった。営業収入は二、一七八円に対して営業支出は二、一二一円であった。
和歌山から連れてきた職工達が興業舎を去っていったため、会社の生産に大きな支障をもたらしたが、矢野七三郎は、その困難を克服し、着実に事業の拡大をはかっていった。彼は新工場を建て、織機四三台を備
えて、綿ネル生産の拡大にのり出そうとした矢先き、明治二二年一〇月二四日夜、侵入した強盗との格闘のすえ、無念の死を遂げることになった。享年三四才であった。彼の偉業は、そのまま柳瀬義富が継承してい
くことになる。
興業舎は、その後も発展を遂げ、昭和一〇年代には資本金一〇〇万円、豊田式力織機四七七台を装備し、染晒工場・裁縫工場をそれぞれ有し、従業員六〇〇名によって各種綿ネル、綿布の生産を行うまでになっていた。
矢野七三郎の綿ネル生産は、今治の産業に刺激を与えていった。村上熊太郎は明治二〇年に村上織布工場を設立、明治二五年には高橋元太郎が高橋職工場を創立し、同年には岡田恒太が岡田職工場を創設している
。翌二六年には、村上時次郎が昌栄舎を設立、この年にはまた伊予織布株式会社や今岡周吉工場なども設立されている。明治二九年には阿部平助が、一族と共同出資して阿部合名会社(資本金五万円)を設立した。同社は明治三三年に各地の分工場を大手町に集めて大工場を建設して総合化をはかり、同時に最新型の蒸気機関・力織機を設置し、近代化を実現した。こうした近代的工場に刺激されて、今治の綿ネルエ揚では機械化の波が明治末年から大正期にかけてみられた。その意味では、この時期を今治の産業革命としてとらえることもできよう。
矢野七三郎の今治における綿ネル生産を嚆矢として、これに触発されながら綿ネル製造業の勃興をみる。矢野七三郎自身は、今治綿工業の発展をみることなく無念の死を遂げるが、彼の残した事業は、後の人々に
よって受け継がれていった。矢野七三郎は、まさに今治の綿工業を全国有数の地位にまで発展させたパイオニア的存在として、明治期実業人の一人として特筆されよう。