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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 大正九年反動恐慌

 大正九年反動恐慌

 大戦景気の過熱ムードのもと政財界の間では、大戦終了後の日本経済の行方をめぐって諸説がとびかっていた。大きくは景気楽観説と悲観説に分けちれる。前者は大戦が終了しても復興需要の増大、平和産業部門に対する投資増、個人消費の需要増大などを重視して、大戦終了後もわが国経済に大きな影響はないとみる。悲観説は大戦勃発による輸出増加がわが国経済にブームをもたらしたが、大戦終了となれば、その原動力は消滅しよう。また過大な信用膨脹は、今後収縮運動を起こすであろう。また企業の設備投資の増大は、大量の過剰設備をもたらすであろうといった内容である。大正八年(一九一九)一二月の恐慌前夜、日銀総裁井上準之助は商品・株式投機熱の動きの中で、「反動期に於て如何なる大事が起こって来るかは、殆ど見当の付かぬ所でありまして寒心に堪えませぬ次第であります」と反動恐慌の到来を疑わない発言をしていた。井上の発言は不幸にも的中した。大正九年三月一五日、東京株式市場での株式暴落、四月には大阪にも飛び火した。四月一四日から一か月間、全国株式取引所は休会した。また五月二四日、横浜の茂木商店の機関銀行第七十四銀行が休業し、全国各地で銀行取付け騒ぎを誘発した。大正九年から昭和初頭にかけて、わが国は不況のドス黒い雲におおわれ、晴れ間の見えない時代が続く。そうした中で昭和二年(一九二七)、急速な成長を遂げてきた大事業王国鈴木商店が倒産、経済界に一層の不安を抱かせた。

 恐慌前夜の庶民生活

 さてブーム期における物価の騰貴で一般市民は悩まされていた。大正八年七月二六日付の『愛媛新報』は「市民を脅かす相場、到底遣り切れぬ物価、数字を列べると今更に驚かる、台所遣繰り算段の苦境偲ばる」
と庶民生活の窮状を伝えている。特に月給生活者の場合の方が工場労働者よりも苦しかった。というのも工場労働者の場合、売り手市場にあった。伊予絣の機織女達は、朝七時から五時までの一〇時間労働で月給二
五~三五円を稼いだ。しかも夜業を加えると月の収入は更に増えた。労働時間に差はあるが、大正八年五月の小学校教員小正男三三円九二銭、女子二〇円四銭であった。そのころ、愛媛の専売局では一四~一五歳の
工場労働者が一日五〇銭、熟練工は一日二円の高収入を得、これに対して一六~一七歳の給仕は一日一五銭であった。一般事務の給料が低かったことが数字からうかがえる。「洋服細民」と呼ばれたのもそのような
背景から出ている。大正八年(一九一九)六月、松山市内五人家族の生計費を示したのが表商2-3である。五人家族(夫婦・子供二人・老人一人)の生計費は一か月平均六七円三五銭で、この中には被服費・医療
費・娯楽費は含まれていない。主食である米は、一般家庭では三等米が普通で、一~二等米を常食とする家庭は極めて限られていた。
 大正九年反動恐慌はブームに冷水を浴びせた。卸売物価は急激な下落を示し、生糸・綿糸・製鉄などの産業分野では倒産が目立った。愛媛県でも恐慌時から物価もかつてのような激しい動きをみせなくなった。愛
媛県における年平均物価指数は、表商2-4のように大正八年を一〇〇として大正一〇年八一、翌一一年八二、一三年八六と推移していく(詳細は『愛媛県史資料編社会経済下』商業、大正後期の愛媛県の物価指数参照)。

 大正九年反動恐慌と愛媛経済

 恐慌の波は地方経済にもひしひしと押しよせていた。銀行は株券担保貸付を警戒して、増担保を要求するなどリスクの回避をはかろうとしていた。大正九年三月には、未熟練工・雑役夫の解雇の動きがあらわれた
。その後次第に不況は深刻化していった。全国でも有数の本県の繭の生産量は、大正八年の一五万七、〇〇〇石から翌九年には一五万二、〇〇〇石へと五、〇〇〇石の減少を、また生産価格では、一、七七〇万円か
ら一、〇四三万円と七三〇万円近く減少をみた。生糸相場の暴落が繭生産者に大きく影響していた。繭は農村地域の副業として農家の家計を助けるものであったが、大正九年六月の本県の繭相場は上場で百匁一円一
銭(八幡浜)、大洲では八八銭、宇和島八〇銭と下落傾向にあった。前年度の平均相場に比べて一円三〇銭の安値となっていた。繭相場の下落に加えて農家にとって痛手となったのは、外米輸入と豊作による米価の
下落であった。不況の中、銀行の融資は厳しさを増し、例えば製糸業者に対して、一梱三、五〇〇円の生糸を担保に、一、五〇〇円から一、八〇〇円の融資しかしなかった。このため製糸業者の資金繰りはいよいよ
厳しくなった。しかも生糸は、一梱一、四〇〇円から八〇〇円の相場にまで暴落した。そのため県下の製糸業者は工賃の切り下げ、操業短縮、さらには休業といった事態にまで追いやられた。そして大正九年一二月
には製糸工場一斉休業へと至った。この不況下、大正九年六月、松山市外の竹原(現松山市)に伊予製糸会社が資本金六〇万円で設立されている。同社は、近代的設備を持っての開業であった。不況のため女工志願者も殺到した。だが経営陣の生糸相場回復の期待に反して事態は悪化、早くも無配当を余儀なくされた。その後、本県の繭が他県に移出され、製糸業界は原料不足と原料価格の高騰、他方、生糸相場の下落という三重苦にみまわれ、しかも資金繰りにも悩まされるという苦しみを経験した。
 綿糸・伊予絣の相場も下落していた。伊予絣業者に対して銀行の貸出し条件も厳しくなり、担保一反につき一円五〇銭までしか貸し出しに応じなかった。不況のため織賃は一円二〇銭から五〇~九〇銭にまで引下
がり、職工達は同盟罷業で対抗しようとした。しかし相場下落に伴う賃金カットの流れを阻止できなかった。不況のため伊予絣の滞貨は、松山市・温泉郡・伊予郡合わせて六万反に及んだ。松山の銀行団は、業界救
済のため日本銀行広島支店に一〇〇万円の緊急融資を求めた。大正一〇年(一九二一)には生産制限・操業短縮などもあって製品の払底をみた。業界にも活気が戻ってきたが長くは続かなかった。大正一二年には関東大震災が起こり、京浜地方に送っていた商品二〇万反が火災のため灰となった。加えて伊予絣問屋の倒産は、伊予絣業界に多大な損失をもたらした。
 今治綿糸業界でも不況のため経営はどん底にあった。操業短縮、休業の事態を回避するため阿部光之助・深見寅之助・岡田恒太・八木春樹らは県庁に救済を要請した。また日銀広島支店にも四〇〇~五〇〇万円の
融資を求めた。日銀の資金貸出しが開始され始めるが、市況の回復は望めず、業界は大正一〇年末には操業短縮・賃金カットは避けられなくなっていた。業者の間では職工の解雇を断行、残りの職工に対しては一人当たり機台数を増加させて、手取賃金の低下を防ごうとした。「口と財布は閉じるが利益」、「虚栄の花は散りやすい」、「限りなき流行、限りある儲け」といった節約奨励の標語が、各工場でみられたのもこの時期である。
 今治繊維業のタオル業界は、着実な生産増加を行い不況に強い部門であった。大正八年二六万八、〇〇〇キログラムから同一〇年に四四万五、〇〇〇キログラム、大正一五年に一一七万四、〇〇〇キログラムの生産拡大の推移
を示していた。タオル生産の拡大が不況期にもかかわらず行われた理由として、日本手拭に比べてタオルが吸水性に優れていること。また生活必需品としての商品性格に加えて消耗品であったことである。これが不
況に強い業種にしていた。

 全国有数の絣生地

 大正期、本県の絣生産は全国的に知られていた。大正一三年(一九二四)、全国生産高一、〇四七万余反の五二%を本県で生産していた。絣の県外仕向地は東京・名古屋・大阪などで、これら消費地問屋から絣商
品はさらに他地方へと流通していった。ここで伊予絣生産者から県外消費者へ商品がどのような流通ルートでもたらされたかを、東京との関係で示したのが図商2-3である。一般には産地問屋→消費地問屋→小売
商という経路で商品が流通していた。産地においては仲買の介在もみた。取引は主として見本・実物または銘柄による相対売買形式をとり、代金の決済は現品受渡し日から、三〇日払いの手形方式のものが多く、現金払いの場合、問屋は一〇〇円につき一円の割引を行っていた。
 産地問屋の中で、有力な問屋は東京に駐在員を置いて、東京の取引先から注文を受けさせていた。時には駐在員が、自己の需要予測から本店に出荷を求めることもある。これら有力問屋は三~四店であって、東京
の絣取引の大半は彼らの占めるところであった。他方、資力の弱い産地問屋は、店員を頻繁に東京へ送って得意先廻りをさせて注文を取らせていた。
 産地問屋から商品を仕入れた消費地問屋は、これらを都内の百貨店・小売店に販売していった。その際、支払方法は幾つかのものがある。現金売りを看板とする一流問屋の中にも、長年取引所関係を持つ信用のあ
る小売店や百貨店に対しては掛け売りがみられた。この掛け売りの場合、一〇日・二〇日、月末の三回締切にて三〇日の延払いのものや、六〇日という長期のものもあった。しかし資力の弱い小売店に対しては現金売りが通例であった(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)。

 産地問屋の排除論

 伊予絣の県外需要は大きなものであった。しかし、県外移出に当たっては産地問屋の生産・流通支配が著しかった。生産者は小規模零細な状態で、直接消費地問屋と取引を持つまでに至らず、自然産地問屋に商品
の販売を委ねざるを得なかった。このような生産者の状況について商工省商務局の『内地重要商品取引事情調査(伊予絣)』は、産地問屋の排除を論じている。群小生産者が一丸となって団結し、東京の消費地問屋
との取引が実現すれば、産地問屋に売込みを行う手数と口銭を省略できるであろうと述べている。そのためにも産業組合のような生産者団体の結成がのぞまれるとする。ただ組合を組織する場合の留意点として、従
来産地問屋が生産者に資金の融通をするなど、金融機関としての機能も演じており、組合がこれをどのように肩代わりできるか。調査報告は、そのために低利資金の融資の必要性があるとしている。組合の組織化に
当たって常務執行理事の選任には、経済界の事情に詳しい人物で且つ組合員全体の利益を重視する人物を選ぶこと、また組合には生産者が全員加入すること、また商品はすべて組合に提供して、抜売りにはしらない
よう努力する必要があると指摘している。

表商2-3 松山市内五人家族の生計費(一例)

表商2-3 松山市内五人家族の生計費(一例)


表商2-4 大正後期の愛媛県の物価指数

表商2-4 大正後期の愛媛県の物価指数


図商2-2 愛媛県における米・麦の物価指数

図商2-2 愛媛県における米・麦の物価指数


図商2-3 伊予絣取引図

図商2-3 伊予絣取引図