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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 国立銀行紙幣の消却と銀行条例の制定

 国立銀行の私立銀行への転換

 国立銀行条例は明治五年、国立銀行の設立を目的として制定されたが、当初はその設立が思うように進まないこともあって、明治九年に正貨準備の緩和等を内容とした改正が行われた。その後は国立銀行の設立は盛んとなったが、その数が一五三行になると、それ以後の設立は許可されなくなったことは既に述べた。またそれら国立銀行の発行する不換紙幣がちまたに溢れるようになり、その整理を真剣に考えなければならなかった事情が、日本銀行の創立につながったことも既に触れたとおりである。そこで明治一六年(一八八三)五月に、各国立銀行の紙幣を消却することを内容とした国立銀行条例の再改正が行われた。この時期は既に前年に日本銀行が開業しており、やがてその兌換銀行券の発行が予定されていたので、国立銀行を従来の内容のままで存続させる意味は失われていた。従って、条例の再改正によって、各国立銀行は創業時から二〇年内に営業をやめるか、あるいは私立銀行へ転換して存続を続けるかの、いずれかの道を選ばなければならなかった。急変する金融情勢のなかにあって、各国立銀行は経営体制の適応に精力を集中しなければならなくなったが、伊豫と讃岐の国立銀行が予讃同盟銀行会を発足させたのは、条例再改正があってから一週間目のことであった。力を合わせ知恵を出し合って難局を乗り切ろうとの気持ちの現れであったと言えよう。この年の一二月に、第百四十一銀行は資本金を一五万円に増額させて、やがて西条銀行と改称する方向をとった。
 国内経済の不況状態はなおも続いて、明治一七年には農村不況が一段と深刻化し、紡績業では深夜操業が始まっていた。三年前には南予の卯之町で、庄屋清水静十郎らが宇和島から技術指導者を招いて、町内の婦女子に養蚕と製糸を伝習させており、また明治一八年には越智郡桜井の漆器業者が、石川県山中から「ろくろ」師を招いて丸物漆器の製造を開始した。このようにして、明治政府の看板とも言うべき殖産興業のはしりが地方にもみられていたが、金融界では同年の一二月に第五十二銀行が今治に支店を開設していた。その後、明治一九年には同地の矢野七三郎らが中心となって綿ネルエ業を始めている。また同年の三月には、既述の私立郡中銀行が郡中灘町(現伊予市)に設立の認可を受ける等、人々は暗いトンネルの中から脱出する道を模索し始めており、全国的にみてもこの年の下半期より、鉄道事業・紡績業・鉱山業などの新規会社の機運が起こり、不況のなかにも新しい道が見え始めていたことも事実であった。

 銀行条例の制定

 明治初年より銀行類似会社が各地に多数設立され、また明治一二年(一八七九)から国立銀行の設立が制限されたために、その後は私立銀行の設立が続出し、明治一六年末には全国で私立銀行は一九七行、銀行類似会社は六九九社に達した。しかしながら、これら金融機関の組織及び営業について格別の準拠すべき法律は制定されていなかった。明治一七年に大蔵省は、私立銀行及び銀行類似会社の設立について準則を定めたが、それが直ちにこれらの営業を監督規制する効力を持つものではなかった。ところが明治二三年(一八九〇)四月、商法が公布されて一般の商事会社に関する法制が確定されたので、それに伴って銀行業に関する法規も制定されることになった。また国立銀行も期限到来のとき、あるいはそれ以前に普通銀行に転換すべき旨が、明治一六年の国立銀行条例改正によって決まっていたので、その対策としても普通銀行に関する法規を整備しておく必要があった。このような事情から明治二三年八月に銀行条例が公布されたのである。また貯蓄預金業務を営むものについては同時に貯蓄銀行条例が制定された。
 銀行条例は公布の三年後すなわち明治二六年七月から施行され、貯蓄銀行条例の施行も同時であった。
 なお「銀行条例」は全文一一か条から成り、日本銀行・横浜正金銀行・国立銀行等の特殊銀行を除いたすべての普通銀行を規制する法規であって、その要目は次のように分かれる。①証券の割引・為替・預金・貸付けを営業とする店舗はすべて銀行とする(第一条)。②銀行業を営むには地方長官を経て大蔵大臣の認可を受けなければならない(第二条)。③銀行は半年ごとに営業報告書を大蔵大臣に送付し、財産目録・貸借対照表を公告しなければならない。大蔵大臣は銀行の業務及び財産の状況を検査することができる(第三・第四・第八条)。④一人または一会社に対する貸付け及び割引額について制限を設け、その額は払込資本金の十分の一を超えてはならない(第五条)。
 この条例の制定によって、普通銀行の組織営業に対する監督の基準が定まったこととなり、その結果として普通銀行の社会的信用は高まり、明治二六年以降銀行の設立は急激に増加し、預金貸付業務は著しく伸張した。明治二八年二月に貸付け、割引に関する制限規定の削除、営業時間の変更、同三二年三月に条例違反に関する罰則 の付加、同三三年一月に銀行合併に関する規定の追加等の若干の改正はあったが、根本的な変更はなく続けられ、銀行条例は昭和三年(一九二八)一月、銀行法が施行されるまで実に三八年間の長きにわたって普通銀行の法的規範として存続するのであった。なお、特殊銀行については、その根拠法規として、日本銀行条例と横浜正金銀行条例(現在の東京銀行)が併存するのであった。