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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 日露戦争と軍備の調達

 日露戦争の軍費調達

 明けて明治三七年(一九〇四)一月、緊迫した雰囲気の下で開かれた御前会議において、対露最終案が決定した。翌二月に入り、それまで半年以上に及んだ交渉を打切って、遂に開戦が決定された。ロシア帝国に対する宣戦布告は二月一〇日付で発せられたが、そのなかで「露国は其の清国との明約および列国に対する累次の宣言に拘わらず、依然満州に占拠し、益々其の地歩を強固にして終に之を併合せむとす。若し満州にして露国の領有に帰せむか、韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むべからず」とあり、これが開戦の理由となっている。しかしながら、この度の戦争は一〇年前の戦争の相手国であった清国とは異なり、はるかにこれをしのぐ大陸海軍国である。当然のことであるが、我が国としては大変な犠牲と膨大な軍費を必要とすることは目に見えていた。政府は開戦の直前に東京などの主要な銀行家に対して戦時公債の応募を要請していたが、戦争が始まった一か月後の三月に、大蔵省が第一回国庫債券一億円を発行し、六月には第二回分としてさらに一億円、次いで一〇月に第三回分として八、〇〇〇万円、翌明治三八年の三月に第四回分として一億円、五月には第五回分として一億円を発行して、合計四億八、〇〇〇万円の軍事費を調達した。しかし国内における調達だけでは十分でなかったので、これと併行して明治三七年五月には、第一回六分利付英貨公債一、〇〇〇万ポンドを募集し、一一月には第二回分として一、二〇〇万ポンドを募集発行し、さらには翌明治三八年三月に、四分半利付英貨公債を三、〇〇〇万ポンドを募集し、七月にまた同額を募集した。これら外債四回分を合計すると八、二〇〇万ポンドに達する。高橋是清蔵相の活躍に現された日本の熱意が英国及び米国の理解と協力を得ることができて、これら外債募集を成功裡に収めることができた。また難局非常時に示された国民の一致協力が戦争を支えた大きな力でもあった。
 日露戦争が始まった年の五月、松山歩兵第二十二連隊は高浜港から乗船して満州へと出征した。戦場にあっては第三軍の一翼として旅順港要塞総攻撃に参加し、東鶏冠山北砲台を攻撃している。同連隊はその後の補充を加えると出征は一八回に及んだ。明治三八年一月、日本軍の三回に及ぶ総攻撃の結果、旅順のロシア軍は降伏し、戦局はひとつの山場を越えた。三月には日本軍は奉天を占領し、五月下旬には日本海海戦において大勝利を得たことにより、戦争はようやく終局を迎える。戦争の終結は同時に外交交渉の始まりでもあった。
 明治三八年六月早々に、日本の駐米公使は、米国ルーズベルト大統領に対して日露講和の友誼的斡旋を依頼する。日本側は軍費調達の底が見えていたし、ロシア側は一月に勃発した第一次革命の国内対策に追われていたことが、講和の促進を容易なものとした。八月に入り、米国ポーツマスにおいて講和会議が開催され、九月には調印の運びとなった。この条約において、日本の韓国保護が承認され、南樺太・遼東半島租借権・満鉄等の獲得を内容としており、一一月には批准書が交換されて成立の運びとなった。日本の国内においてはこの条約中に償金の受取りがないことに大変な不満がみなぎるに至り、一部に焼打ち事件が起こった。一方では、再び平和を取り戻した松山において、一時は約六、〇〇〇人に達したロシア人捕虜の何人かは、道後温泉に入湯し、あるいは大街道を散策する姿を見かけるようになった。

表金1-8 愛媛県本店銀行会社の推移

表金1-8 愛媛県本店銀行会社の推移


表金1-9 愛媛県本店普通銀行主要勘定の推移

表金1-9 愛媛県本店普通銀行主要勘定の推移