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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 第一次世界大戦の勃発と金輸出禁止

 第一次大戦直前の国内情勢

 明治先帝の大葬が終わってから既に一年半の年月を経過して、世の中は新しい大正の時代へと踏み出していた。そのころ大正三年(一九一四)三月に、東京の芸術座においては島村抱月・松井須磨子らの演ずる「復活」が初公演されている。こうした舞台芸術の新風をよそにして、貴族院では海軍の軍艦建造費が大幅な削減を受けて予算は不成立に終わり、山本権兵衛内閣は総辞職へと追い込まれるに至った。さらには同じ年の一二月の暮れ近く、第二次大隈重信内閣のもとで、衆議院において陸軍の二箇師団増設費が否決となり、議会は解散となった。当時は大阪において、八月に北浜銀行が休業したことがきっかけとなって、恐慌が大阪から名古屋へと波及していた時期にあった。
 この年の八月一日に欧州ではドイツがロシアに宣戦を布告し、軍事行動を起こしたことによって第一次世界大戦が勃発したが、イギリスとフランスは直ちにドイツに対する戦争を開始した。この開戦は東洋に位置する日本にもたちまちにして影響を及ぼさずにはおかなかった。ドイツの開戦一週間後に、元老大臣会議は日英同盟のよしみによって対独戦参加を決定し、日本は下旬にドイツに対して宣戦布告をして第一次世界大戦に参加した。日本軍は九月に中国山東省竜口に上陸し、一一月にはドイツの東洋艦隊の根拠地である青島を陥落させてここに軍政を施行した。その間一〇月には第一艦隊は南洋ヤルート島に上陸し、同じ月にドイツ領南洋諸島を占領した。このようにして日本は東洋にあるドイツ拠点をいち早くおさえた後は、欧州を主戦場とする第一次世界大戦が進展するいわば圏外に置かれており、むしろ自国の国内情勢と中国との国際関係の大きな変化に対処しなければならなくなっていた。大戦初期の戦勝の余波を受けて力によって事を解決しようとする姿勢が、次第に国の内外において目立ち始めた時期のことであった。

 第一次大戦と金本位制度の動向

 第一次世界大戦が勃発すると同時に、欧州の各国は戦争経済遂行の目的をもって、自国の金が国外へ流出するのを防ぐ手段として、次々に金本位制度を停止する措置をとった。ドイツはロシアに対する宣戦布告と同時に金の兌換を停止し、イギリスとフランスは数日遅れて金輸出禁止あるいは金兌換停止の措置をとり、ロシアもまた、その数日後に同じように金兌換停止の措置をとった。次いで大正六年(一九一七)二月になると、アメリカがドイツと国交を断絶して宣戦を布告するに至り、同国は九月に金輸出を禁止したので、日本はこれにならって金貨幣・金地金の輸出取締令を公布して、事実上の金本位制の停止を行った。大戦は四年余りにわたって続けられたが、大正七年一一月にようやくドイツが降伏して平和が訪れることとなった。戦争が終わり平和の時代となって、各国は次第に金本位制を復活する方法を選んだが、日本の場合は、輸出の不振と輸入の増加、戦後の反動不況の影響下にあって、金本位制を復活するだけの経済基盤は出来上がっていなかった。さらにはその後、大正一二年(一九二三)九月に関東大震災が起こったことによって、災害からの復興に多くの費用を必要とした事情もあったために、他の先進諸外国のように金本位制度を復活する余裕を見出すことはできなかった。しかしながら、大正末期から昭和初期にかけての長い不況の期間から脱出するきっかけをつかみたいとの民間の希望もあって、昭和五年(一九三〇)一月に、一三年ぶりにやっとの思いで金本位制度を復活させたのであったが、世界の経済情勢は既に大きく変化しており、日本の措置はもはや時期遅れとなって、国内ではドル買いが活発となって、わが国の国際収支が危胎にさらされるようになったために、昭和六年一二月に政権の交代によって金本位制度は再び停止となり、その後は日本は金本位制度に復帰することかく今日に至っている。

 大戦好景気と物価高騰

 第一次世界大戦開戦の一年目は戦局の全般的な見通しも未だ明らかではなく、日本の国内では米価の値下がりや繭価の不振があって、政府はその対策に追われており、財界もまた沈滞気味であった。しかしながら大正四年(一九一五)の後半期から軍需景気の浸透によって次第に事業収益は好転し、わが国の国際収支は黒字となり、その後は年を追って国内景気は上昇の一途をたどった。しかし国内景気の好転とは反比例して、国際的には中国との関係は悪化の方向に進むばかりであった。大正四年一月に中国は山東省より日本軍が撤退することを要求していたが、日本政府はこれに対して強硬路線を貫いて、むしろ中国に対して諸々の権益を要求する条項を盛った対華二一か条を提出した。これに対しては、中国の内部において学生を中心として猛烈な反対が起こったが、終局のところ日本は無理矢理にこの要求を受諾させてしまった。また、日本の国内では戦争景気もあって、総選挙後の国会において、かつて否決された二箇師団の増設と軍艦建造などの追加予算案が可決されるに至った。
 一方では戦争による海上運賃の暴騰のために、海運業界・造船業界はこれまでにない好景気に潤うこととなった。この時代は戦争による船成金や造船成金が各地に続出した時期であった。またこれをきっかけとして、輸入代替品の製造工業や鉱山・製鉄・機械等の事業熱がまさに花盛りの時期に入っていた。当時の産業別の企業利益率は、その情況がいかに激しかったかを次の表によって知ることができる。
 次いで国内の好景気と企業利益の増加とあわせて、わが国の国際収支も従来の赤字基調から一八〇度の方向転換を示して、輸出は激増し輸入は減少して貿易収支は巨額の輸出超過となり、それに加えて海運界の活況によって、貿易外収支も未曽有の好況を示すようになり、この状況は次の表によって示されるとおりである。
 次表によって分かるように、わが国は大正四年以来二七億円の正貨を取得することができた。大正三年ごろには、わが国は一一億円余の対外債務国であったが、第一次世界大戦によって二七億円程度の債権国となった。その結果大正五年二月には、わが国は第一回ロシア大蔵省証券五、〇〇〇万円を引受け、同年九月にはさらに第二回ロシア大蔵省証券七、〇〇〇万円の引受けを発表し、また一二月にはイギリス国債一億円の引受契約が成立する等、対外的な余裕を持つことができるようになった。このようにして、好景気に刺戟された国内の事業熱は燎原の火のように拡がって、大正四年以降の事業の新設、拡張はとどめようのない勢いであった。こうした傾向はやがて投機的な思惑を呼んで泡沫会社の濫立する世相となったが、このことはその後の反動恐慌と昭和金融恐慌の遠因となったのである。
 次には国際収支が順調であったために巨額の正貨が流入し、これが国内景気の上昇と相まって日本銀行券の増発を誘致した。また銀行の預金・貸出しについて言えば、大正三年末には一五億円余であった全国普通銀行の預金残高は、大正八年には約五七億円に達しており、また貸出残高も一七億円程度のものから、五六億円ぐらいに達するという著しい信用の膨張を招来したのであった。
 好景気と通貨の膨張は当然の成行きとして物価の上昇をもたらす結果となった。いわゆる軍需インフレの始まりである。このころには米価や繭価も回復しており、好景気は広く農村にも浸透していた。物価の上昇による事業利潤の増大によって財閥が富を蓄積していく反面では、賃金労働者や恩給生活者の生活の困難が増大してきたことも事実であった。日本資本主義の社会の到来はこのような背景において始まった。物価指数によって大戦前後の物価の推移を見ると、この間の事情が明らかとなる。

 第一次大戦中の金融界の動向

 第一次大戦中は、軍需インフレと信用の膨張が全国的にみられた金融事情であったが、すべてがこの状態であった訳ではなかった。金融界では大正四年(一九一五)に貯蓄銀行条例の改正が行われて翌五年一月から施行された。大正五年四月には大蔵省に銀行局が設置されるに至り、愛媛県下では五月には南予において、第二十九銀行が伊豫吉田銀行の債権債務を譲り受けている。中予では伊予鉄道が伊予水力電気と合併して、資本金二〇〇万円の伊予鉄道電気会社が成立した。大正六年はアメリカがドイツに対して宣戦した年であるが、同年九月にわが国は暴利取締令を公布しい銀輸出を禁止し、金貨幣・金地金輸出取締令を公布して事実上の金本位制の停止を行った。そのころ、ロシアには一〇月革命が起こってソビエト政権が成立した。
 同じ年に南予において、二月に楽終株式会社が吉田商業銀行と名称を改めており、越智郡の桜井では漆器職工達が漆器従業員組合を組織した。全国的な戦時下という情勢にありながら、愛媛県下の金融界が大戦中に大きな変動を示さなかったことは、次のような事情によると思われる。すなわち、全国的な好景気と事業会社の濫立は、あくまでも大都会中心の現象であって、その風潮が地方の経済界を洗うまでには至らなかったことである。地方経済は、当時において中央の変化を受け入れるにはあまりにも保守的であり、中央の発展の波に乗るためにはあまりにも伝統的であった。その意味では、時代の大波はあくまでも大海の表面部分であって、海水を構成する深部すなわち地方の経済界、金融界はむしろ時代の発展から取り残された状態で、停滞を続けていた事情にあったと言うことができる。しかしながら、地方といえどもすべてが沈滞していた訳ではなくて、伝統的に根強い分野で着実な前進が動いていたことも認めなければならない。その一例として、今日に至るまで東予の今治に伝えられる「椀舟」の実績がある。

 桜井椀舟行商

 今治市桜井の漆器と切り離すことのできない関係にあるのが「椀舟」である。これは桜井の地を発祥地とした漆器の行商船のことであって、さかのぼれば一、八〇〇年代初期(文化文政時代)ごろに発生したと考えられる。それは地元の特産品である漆器を帆船で輸送して、各地を行商し販売する点に特色を有していた。関係者が船に宿泊しながら、長くは一年の大部分をこれに充当した記録が残っている。桜井は高縄半島の先端部の好位置にあり、天領でもあったので村上水軍の伝統航法を活用して、紀州藩との取引きの便宜を背景として、黒江(和歌山県海南市)産の漆器を九州沿岸において行商し、また佐賀県伊万里、唐津の陶器を阪神方面へ運ぶという仲介業を帆船を使って行ったのであった。明治中期ごろからは取扱商品は桜井漆器が中心となり、近隣の島々とも取引が盛んであった。船は三〇~五〇トンの帆船であり、乗員は七人前後で親方(荷主)船頭、売子というようにそれぞれ専門の分担があり、盛時には四〇隻前後が稼動した。椀舟による行商は、時代の推移による交通機関の変化や、行商品目の変化(衣料品・家具・雑貨等)につれて、次第にその形式を変えてきたが、その伝統的精神は近代的な月賦販売業へと受け継がれた。わが国の割賦販売は、この椀舟行商から発展したと言われる所以である。

表金2-1 平均払込資本金に対する利益率

表金2-1 平均払込資本金に対する利益率


表金2-2 国際収支の概況

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表金2-3 日本銀行券発行高

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表金2-4 卸売物価指数総平均

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