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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 反動恐慌と関東大震災

 反動恐慌の到来と関東大震災の影響

 「満つれば欠くる世の習い」は単なる諺ではなくて、経済界、通貨と金融の世界においてもまさしく現実そのものであった。動あれば反動ありのたとえのように、第一次世界大戦終了の年、すなわち大正七年(一九一八)一一月にドイツが休戦協定に調印し、大戦が終結したのに伴って一般物価と株価は暴落状況となった。大戦中に急速に膨張した通貨と金融、そして、それらの対局にある物価と株価は、戦争が終わりに近づくにつれて不気味な兆しを見せていたが、戦争終丁と同時にそれらは一挙に表面化して現出した。もっともこの時の暴落は翌年の大正八年四月には早くも反騰を示したが、事態がそれで終わったわけではなくて、これがその後に訪れる大暴落、また反動恐慌の前ぶれであったことが後になって次第に判明した。同年六月には米国は金輸出の解禁を行ったが、わが国の当時の経済情勢が直ちに追随できる体力を備えていなかったことは既述したとおりである。
 反動恐慌はすべて国内事情から起こったものではなかった。第一次世界大戦時の交戦国は、休戦協定の調印後比較的早い時期に戦後の復興と輸出販路の回復に努めたので、わが国の輸入増加と輸出減少が起こり、日本側貿易の逆調・国際収支の悪化、日米為替相場における円の価値の下落からわが国の不況は一層深刻なものとなった。当時は大体において一〇〇円か五〇ドル、すなわち二円が一ドル程度の水準で安定していたが、大正九年(一九二〇)三、四月ごろになると、急激なわが国の支払超過のため一〇〇円か四六ドル程度までに円の価値は下落した。このことによって、これまでとはまさに様変わりの情勢が展開されたのであった。国内物価と貿易の順と逆、そして為替相場(円の対外価値)の関連を一表にしたのが表金2―5である(横浜正金銀行調査による)。
 このような状態は必然的に国内不況・企業収益の減退・労働賃金の引下げ・首切りの続出・失業者の大量発生・労働問題の現出等、いわゆる資本主義の半面の暗さは、実に第一次世界大戦の好況に続く反動によって社会の現実面となって問題化した。不況による企業の整理の進行や政府の救済策も行われたけれども、山が高かっただけに不況の谷底は深いものがあり、人為的な対策も十分な効果を顕わにするまでには至らなかった。
 大正九年(一九二〇)春に大反動が襲来した。三月一五日、かねて投機思惑筋の買方が金融に詰まって一切を投げ出したので、株式市場は大暴落となり取引市場は休場のやむなきに至った。四月早々には大阪の増田ビルブローカーが手形交換の決済不能の状態に陥り、金融界に大きな衝撃を与えたが、さらに翌五月に横浜の貿易商茂木合名会社が破綻して、これに関連して主取引銀行であった第七十四銀行が支払停止を発表し、これが導火線となって、その後、日本各地に銀行の預金取付けや支払停止の状態が発生した。既に四月には日本銀行は財界を救済するために非常貸出しの実施を声明していたが、進行する不況の大勢は止まるところを知らぬかのように深刻さを加え、大正九年の四月から同年の七月末までに、大阪で銀行数二三行、愛知で二五行、神奈川・広島・岐阜で十数行の銀行をはじめとして、二十数府県にわたって銀行取付けに遭遇した銀行数は総計で一六〇行を超えたと記録されている。このように悪化した事態に対応するために、政府と金融界は懸命の努力を試みたけれども、企業や銀行の体質は根本的には変わっていなかったので、貸出金の固定化による資産内容の悪化は依然として改善されないままに推移し、やがて大正一二年(一九二三)の関東大震災に立ち向かわなければならない状態となって、わが国経済界は完全に活動がまひしてしまう程の打撃を受けることになるのであった。
 顧みて愛媛の金融界はどのような状態にあったかと言えば、第一次世界大戦中の好況の影響を受けることが比較的に少なかったと同様に、その反動による戦後恐慌の悪影響を受ける度合いも軽かったと言うことができる。その間には大正八年に株式種生会社は卯之町銀行に組織と名称を変更しており、翌大正九年には第五十二銀行が八幡浜銀行を吸収合併したこと等が目立つ程度であった。愛媛県の対岸の広島県では恐慌の影響を受けたことも手伝って大正九年六月に第六十六銀行、広島銀行ほか県内銀行が大合同して芸備銀行が設立されていた。愛媛県内の銀行が大合同を完成するのは昭和一六年九月の伊豫合同銀行の成立であり、芸備銀行の発足よりなお二一年後のことになる。大正一一年三月には、伊豫農業銀行が松山商業銀行を吸収合併して名称を愛媛銀行に改め、翌大正一二年一月には、卯之町銀行が同行の支店のある大分県大野町の本店銀行である大野成業銀行を買収合併し、次いで同年三月、第五十二銀行が伊豫勝山銀行を買収するなどの事態はあったが、大都会の金融の動揺と比較すると、かなり静かでありまた地味な動きを示したことが県下の金融界の特長であったと言うことができよう。

 戒厳令の布告と支払猶予令等の公布

 大正一二年(一九二三)九月一日の午前一一時五八分、突如としてマグニチュード七・九に達する大地震が関東地方を襲って、至る所で大火災が発生して京浜地区は大変な混乱に陥った。死者は九万人を上回るに至り、行方不明者もまた四万人を超えていた。そうした災害のなかで暴動のデマが広がって、人心は極度の不安状態に陥っていた。九月二日には政府は、治安を維持するために戒厳令を布告して軍隊が出動して治安の維持を図るに至った。このような情勢下で正常な経済活動は全くと言ってよい程に麻痺状態となり、金融の途も途絶したような状態となったので、九月七日には緊急勅令としての支払猶予令が公布されて、被害地帯(東京府・神奈川県・千葉県・埼玉県・静岡県等)に住所を有する債務者は、期限が到来した自己の支払いを三〇日間延期することが認められた。それに続いて九月二七日には、震災に関係ある手形は日本銀行において再割引に応ずること、そして日本銀行が再割引した手形の決済ができないために同行が損失を被った場合には、政府は総額で一億円を限度として、補填に応ずる旨の内容を盛った震災手形割引損失補償令(緊急勅令)が公布された。このことで分かるように、大地震による莫大な人命の損失に加えて、人々の経済生活に伴う物質的損害は量り知ることのできない大きさであった。さらには、大震災の被害は三年前に第一次世界大戦後の反動恐慌に見舞われた後に、経済界がようやく立直りの機運をつかみかけていた矢先の出来事であっただけにショックも大きかった。再度の大きな試練にさらされた日本国民は、これから数年間は災害からの立直りと復興に没頭しなければならなかった。大正一五年(一九二六)一二月二五日、かねて沼津の御用邸において病気ご療養中であった大正天皇は四七歳をもって没せられた。摂政裕仁新王が直ちに践祚して時代は昭和と改元された。新しい時代の始まりの時期に、第三の試練とも言うべき昭和金融恐慌がすぐそこに待ち構えていようなどとは神ならぬ身の知る由もないことであった。

表金2-5 日本為替相場の動向

表金2-5 日本為替相場の動向