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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 昭和の金融恐慌と銀行法の制定施行

 今治商業銀行の休業と日銀特別融資

 震災手形は総額で四億三、〇〇〇万円余に達したが、その後の整理が都合よく進まないために、大正一四年(一九二五)末には、なお二億七、○○○万円が未整理のまま残されていた。こうした「震災手形」の処理問題は大きな政治問題となっていたが、たまたま昭和二年(一九二七)三月一五日、東京市(現東京都)の旧第二十七国立銀行以来の長い伝統を有する渡辺銀行が、手形の交換尻のやりくりがつかなくなって支払停止をしたことが口火を切って、各地でいっせいに銀行の動揺が著しくなり、東京市だけでも六行の銀行が休業となり、支払停止をした預金の総額は二億円に及んだ。それまでに、日本の各地において銀行の経営は悪化しており、絶えず取付けの危険は存在していたが、愛媛県の今治では、前年の大正一五年(一九二六)七月、帝国商業銀行の今治支店が取付けに遭って支払いを停止しており、さらに昭和二年の一月には今治商業銀行が取付けにあって、同行の本支店がいっせいに休業となった。しかし業務再開のための関係者の奔走が実を結んで、同年の八月には四〇〇万円の日本銀行特別融資を受けることができて再び正常な営業に戻った。この他には県内において大正一五年二月には、南予において信義社が宇和島銀行に合併されており、また同年三月には伊豫貯蓄銀行が伊豫相互貯蓄銀行と名称を変更し、さらに同年の一二月には大洲銀行と喜多銀行が合併する等、次第に愛媛の金融界にも厳しい情勢が進行し始めていた。
 このような雰囲気のなかで昭和二年三月、渡辺銀行が休業したことをきっかけとして昭和の金融恐慌は勃発したが、同月末には震災手形損失補償公債法、善後処理法及び銀行法が公布されて(昭和三年一月から施行、従来の銀行条例は廃止となる)、預金の取付けもようやく下火となり財界もほっと一息つくことができたが、翌四月に入るとさらに追い討ちをかけるかのように、第一次世界大戦後の最大の成金であった鈴木商店が破産の状態に陥り、その結果は同商店と取引関係にあった台湾銀行が預金の取付けを受ける事態に発展した。政府はこれに対応すべく台湾銀行を救済するための緊急勅令を用意したが、これが国会において否決されるに及んで万策尽きて台湾銀行は四月中旬遂に内地及び海外支店の休業を発表して、その歴史に終止符を打つに至った。この事態に続いて、各地において支払いを停止する銀行が続出するに至り、金融恐慌はそのクライマックスに達した。大正九年の戦後反動恐慌から昭和二年の金融恐慌に至る間に休業した銀行の数は、表金2―6によって示されるとおりであった。
 このような金融情勢の下において、政府は四月二二日に緊急勅令をもって三週間のモラトリアム(支払停止)を実施し、次いで八月には銀行の合同の促進を地方長官に通達し、これが機縁となってその後、日本全国において銀行の合同の動きが活発となった。ちなみに昭和元年末に一、四二〇行の数に達した普通銀行は、昭和四年末になると八八一行に激減していたが、このことは、この昭和金融恐慌がいかに深刻なものであったかを想像するに十分なものがあった。
 さて、再び愛媛県に戻って、県下の金融情勢をみると、広島県の芸備銀行が東予の今治に派出所を開店したのは、まさにこの時期においてであった。これまでに芸備銀行の営業圏が尾道から島づたいに次第に四国に近づいていたが、遂に今治へ上陸したことの現れであった。この事態を受けとめた愛媛県側の銀行は、県内の銀行の合同を進めようとしていた矢先の出来事であり、これを重大な脅威として受け取ったことは、当時の情勢下においてやむを得ないことであった。

 芸備銀行今治派出所の撤退

 芸備銀行今治派出所は昭和二年(一九二七)一一月一日に開店したが、たちまちにして愛媛県の金融界こぞっての猛烈な反対のために、開店後わずか一か月にして、一一月末をもって閉鎖し撤退するのやむなきに至った。当時の状況を『広島銀行史』によってみると、次のとおりである。
 「㈱芸備銀行尾道支店所属今治派出所の設置は、我中国と愛媛県の産業界の連絡を一層親密に、且つ円滑ならしめんとの重大なる使命を帯びて本年五月開設準備に掛ったが、時恰も今治商業銀行臨時休業中で、其出行に差支えあり………との理由を以て愛媛県当局および松山市の金融業者から一時中止方を申込まれ、我行にては其の意を認用し一時差控える事としたが、爾後八月に至り今治商業銀行も復活し、財界も常調に安定して先月の懸念全く一掃されることに到ったので、本行は本月一日開設を為したる次第なり。我派出所の出務は愛媛県下に散在せる他銀行の派出所又は出張所と何等異なる処なきに拘らず、愛媛県当局は其の間に径庭あるものと錯認し、開店後間もなく停止命令を主務省に提出した。茲に於てか当行は主務省に対し、派出所に対する法規上に就き数次商量重ねたるも到底見解の一致等を勤出するに到らず、結局閉鎖の止むなきに到りたれば遺憾乍ら本日限り之を撤廃、請う其の意を諒とされんことを。開店後日尚浅きに拘らず予期以上の成績を納め得たるは、産業界の一重に御同情に依るものであって、高脂に胆荷せんとす。派出所は既に廃止したるも金融界には国境なし。今治と尾之道は一葦帯水の地であり、海上近く二時間を以て往復を為し得べく、且つ金歩の低廉なるは断じて他の営業者の追従を許さず。此の点は各位の認知されたる処たるべく、去るに臨み大声一笑、深甚の御同情と御鞭撻の愛顧を賜はらむことを。茲に閉店に際し感謝の意を述べ敬意を表す。株式会社芸備銀行尾道支店」

 芸備銀行の愛媛への最初の進出に際しての無念の撤退は、その一年後に同行が東予地域において、愛媛県内の三銀行を合併することによって新しい展開をみることとなったが、これについては以下において述べる。

 銀行法施行の時代的背景とその意義

 銀行法は昭和二年(一九二七)三月三〇日に公布され、翌年の一月一日から施行された法律であり、わが国の普通銀行を規制するものであった。それまでは明治二六年(一八九三)施行の銀行条例があったが、同条例の施行後二十数年を経て日本の普通銀行は急速な発展を遂げたが、その半面では経営の不健全な小銀行が多数存続していて、金融界はとかく不安と動揺に陥りがちな状態にあった。特に第一次世界大戦後間もなく勃発した大正九年(一九二〇)の反動恐慌やその後の慢性的不況のなかで、その動揺はますます激しくなったので、政府は銀行の合同を促進して銀行経営の健全化をはかったが、必ずしもその効果を十分にあげることはできなかった。当時の銀行経営の欠点として指摘されている最も重要な事実は、いわゆる「機関銀行の弊害」であった。それは銀行の経営者自身が他の事業に直接の関係を持ち、ややもすれば銀行を自己の事業の機関として利用する、いわば銀行を私物化することであった。すなわち銀行は事業の資金導入機関の役割を持ち、また銀行の貸出しが特定の企業に偏っていたために、企業の盛衰と銀行の業績が密接に結びつく傾向をもった。第一次大戦後の慢性的不況のなかで中小企業ひ経営が悪化すると、それと結びついている中小機関銀行の破綻したことも当然の成り行きであり、その行きつくところが昭和の金融恐慌であったとみることができるのである。
 新しく施行された「銀行法」の条文の中で注目すべきは第三条であり、銀行の資本金を一〇〇万円(東京・大阪に本支店を有する銀行は二〇〇万円)として最低の資本金を定めて、その企業形態を株式会社に限定したことである。その結果、当時の普通銀行の約半数が無資格の銀行となってしまった。しかしそれらが定められた五年間の猶予期間のうちに増資して資格を確保する道は残されたが、このことは事実上困難な場合が多かったから、各銀行は勢い他の銀行と合併しなければならなかった。従って銀行法の制定によって、中小銀行は半ば強制的に合併の道を選ばざるを得なくなり、不健全な中小銀行を整理する上では大きな役割を果たしたと言うことができる。さらに同法の第一三条では銀行の常務役員の兼職を原則的に禁止しており、もしも他の会社の常務に就任する時は、主務大臣の認可を必要とすると規定しており、また第一二条では銀行の内部監査を強化し、施行細則で監査書の内容を詳細に規定したが、このことはこれまでの機関銀行の弊害を除去し、資金運用の偏向を防止して銀行経営の健全化を図る意図であったと思われる。なおこの銀行法は、その後数回にわたって技術的・調整的な改正を経て、昭和五六年(一九八一)六月、新しい銀行法が公布されるまで五三年の長い期間にわたって法的効果を持ち続けたのであった。
 さて金融恐慌の翌年に当たる昭和三年(一九二八)は愛媛県の金融界においても、銀行の合同に関していくつかの動きが見られた年となった。前年の銀行法の公布によって愛媛県には普通銀行三二行のうちで一六行の無資格銀行が生じており、銀行の合同は解決を迫られる課題となった。昭和三年二月には卯之町銀行が多田銀行を吸収合併したが、次いで五月に入り県下の九銀行すなわち愛媛銀行・西条銀行・今出銀行・伊豫三島銀行・第二十九銀行・大野銀行・三津浜銀行・宇和島銀行・仲田銀行の大合同が、政府の方針に従って進められたけれども容易にまとまるまでに至らなかった。宇和島銀行は当初から不参加の意向であったし、また愛媛銀行は既に三月に銀行合同会議から脱退していた。一方では九月になると、八幡浜商業銀行が漸成銀行を合併し、一一月には大洲銀行が新谷銀行を合併した。このようにして手近かな所で地域ごとに銀行合同の実があがっていく傍らにおいて、芸備銀行は愛媛県内の三銀行すなわち前述の愛媛銀行・西条銀行及び伊豫三島銀行を合併したのであった。このことによって芸備銀行は、かねての念願であった愛媛県への進出の足場を築くことに成功した。

表金1-6 休業銀行調

表金1-6 休業銀行調