データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 戦争統制経済と金融界の反応

 対米英宣戦布告

 昭和一六年(一九四一)一二月八日(月曜日)午前七時四九分、東京は雲一つない寒い初冬の朝を迎えた。いつもながらの一日が始まるかと思う間もなく、ラジオは臨時ニュースをもって日本軍が未明に一八三機の海軍機をもってハワイを空襲し、また陸軍はマレー半島に上陸したことを伝えた。米国及び英国に対して現実に宣戦が布告されたのであった。およそ青天の霹靂と言うのはこのことだったろうか。日本国民に愕然とした衝撃を与えた太平洋戦争の開始は、数か月前から周到に準備された上でのことであって、九月上旬の御前会議に引続いて、一〇月上旬には連合艦隊に対して作戦準備が下命され、一一月下旬にはハワイ作戦の機動部隊が秘かに集結していた南千島のヒトカップ湾を出港した。これらと並行して外交交渉は進められていたけれども、その結果は到底日本側を満足させるものではなく、一二月一日には御前会議は最終的に対米英蘭開戦を決定していた。関係者間の張りつめた緊張は、一二月八日の戦闘状態突入によって一挙に爆発したが、そのことによって、日本国民はもちろんのこと世界全体が戦争一色に塗りつぶされてしまった。今にして振り返って思うならば、大正一〇年(一九二一)のワシントン軍縮会議の調印に始まり、昭和六年(一九三一)の満州事変の勃発によって表面化した軍国主義の行動は、さらに一〇年後の行きつくべき到達点が、この年の対米英蘭宣戦布告であったと言うことができるかも知れない。それから三年八か月余り、日本国は旧帝国憲法の下における自らの行動の是非について、その判断を世界に問うこととなった。日本国民は、この国がとった行動に対してこれまで以上の協力を求められ、いささかなりともこれに反する言動は非国民扱いされるという、いわば選択の余地のない統制下に置かれる事態へと入った。また軍事行動に関して言えば、華々しい戦果は最初の六か月間であって、昭和一七年六月にミッドウェー海戦において、日本側が四隻の空母を喪失するという大きな打撃を受けた後は、戦局は一転して攻勢から守勢へと向かわざるを得なくなった。あたかも窮鼠が猫をかむ思いで開始した乾坤一擲の大戦争であったが、その後は終始日本側の思惑とは異なる進展となり、やがて言語に絶する犠牲を払った上で、昭和二〇年八月に終戦を迎えることになった。昭和一六年から同二〇年にかけての日本経済を支えた金融は、そうした戦争の遂行という目標の一点に絞られて運営されていくのであった。

 開戦二年目と戦局の分かれ道

 明治維新以来、わが国は富国強兵と殖産興業の大道をひた走りに走り続けて、資源の獲得と市場の確保のためには、武力に訴えることをも辞さない道を選んだが、国の内外に対しては、その際に絶えず戦争の不拡大を唱えながらも、現実はそれとは正反対に拡大の一途をたどらざるを得なくなり、遂には太平洋戦争の泥沼へと突入してしまう結果となった。昭和一六年(一九四一)一二月の開戦当時に関門海底トンネルが貫通していたことと、戦艦「大和」が完成していたことが、戦争の遂行に自信と希望を持たせたのかも知れないが、やがてそれが過信であり、また幻想に過ぎなかったことが判明するに至るには、約四年に近い歳月と数百万人に達する尊い犠牲を払った後のことであった。開戦二年目の昭和一七年六月のミッドウェー海戦の敗退が、この大戦の戦局の分かれ道であったことは、後世の歴史家が等しく指摘するところであり、同年の八月には伸び切った南方戦線の最先端に位置するガダルカナル島に米軍が上陸して、同島の攻防をめぐって三次にわたる海戦が行われ、日本軍の守備隊が壊滅するという事態を迎えて、大本営は同年末にガダルカナル島の撤退を発表するに至った。このことは同時に、米国軍の大規模な反撃が始まる端緒ともなった。それから実に三年に近い年月の間は、戦線の至る所において血と汗と涙の死闘が繰り広げられ、それはただに前線の将兵のことばかりではなくて、やがては非戦闘員である一般民間人をも巻き込んでの激しい戦闘となったのであった。それらはつい四十数年前の出来事であり、決して歴史の底にうずもれてしまうような事柄ではなくて、現在において絶えず平和の尊さを教える厳粛な歴史的事実であったことを改めて心に刻むのである。
 さてこれらの出来事を日本国の金融に限ってみるならば、昭和一六年の開戦に伴って、わが国は一二月の末近く対米ドル基準を離脱した。ここにおいて日本国通貨は国際通貨とのつながりを絶って孤立した存在として戦争に臨むことになる。米国・英国及び和蘭を相手とした戦争を支えて、ともかくも通貨価値を維持し得たのは、国策に立脚した当局の厳しい指導や統制と、これに従った一億国民の忠誠心以外の何ものでもなかった。日本国民には、それ以外の道を選択することは許されていなかったからである。昭和一七年の二月には、日本銀行条例に代わって新しく日本銀行法が公布され三月から施行となった。改正の中心点は旧来の兌換銀行券という名称を新しく日本銀行券と改めたことである。また同じく二月に戦時金融公庫法と南方開発金融公庫法が公布されたが、この二金融公庫に対しては、元利金の政府支払保証付の債券発行が認められ、これによって、それぞれの必要とする資金を調達することができた。一般の民間金融機関と在来の政府系金融機関の他に、新しくこのような政府系の金融公庫を必要としたことは、当時の金融の中心に、あるいはむしろ金融の前面に戦争の遂行という大命題が横たわり、金融の目的が戦時経済と戦時金融の支障のない運営のために、ひたすら役割を分担することにおいて金融機関の意義が認められるという時代的な背景があった。金融機関は戦争遂行の資金面を担当する機関としてのみ、その存在理由があるに過ぎなくなった。この年は戦局が日本側に不利化していく峠道になる時であったが、産業界では銑鉄の生産高がこれまでに例を見ない最高の水準に達しており、前線を支える軍事補給に没頭した日本経済の頂上点を示す、ひとつの証明であったと言うことができよう。

 開戦三年目と金融界の動向

 戦争三年目を迎えた昭和一八年(一九四三)二月上旬には、ガダルカナル島からの徹退が開始されるが、実際に徹退できたのは一万人余りであって、同島には戦死者餓死者合わせて二万五、○○○人の遺体が残されていた。四月には山本連合艦隊司令長官が、戦線視察する旨の連絡電文を米国側が傍受したために、米軍機の待ち受けに遭って、同長官の搭乗機が撃墜されて長官が戦死する事態が発生した。五月になると北方アリューシャン列島の最前線に当たるアツツ島を占拠した日本軍守備隊が、米軍の奪回作戦のため「われ攻勢に転ず」の大本営あて電文を最後にして全滅するに至る。このような悲報相次ぐなかで六月から七月にかけて、国内では学徒戦時動員確立の要綱が決定され、引き続いて女子学徒動員も決定した。国民総動員体制は勉学中の学生に対しても勉学の継続を認めないものとなった。第一回の学徒兵が入隊したいわゆる神宮外苑で行われた学徒出陣式はこの年の一二月の出来事であった。
 一方では、わが国の産業界においては二月に軍需会社法が施行となり、この年に紡績業は一〇社の大紡績会社に統合されていた。官庁や工場では、内地に対する敵機の襲来に備えて人口の疎開方針が決まっていた。金融界では、三月に第一銀行と三井銀行の両銀行が合併して、帝国銀行という新しい銀行が設立された。五月には「普通銀行等の貯蓄銀行業務又は信託業務の兼営等に関する法律」が施行となり、普通銀行の兼営等が認められるようになった。また八月には、内国為替集中決済制度が実施されて、内国為替決済の組織づくりが出来上がった。こうした中央における金融情勢の推移のなかで、愛媛県の金融界では無尽業界に大きな変化が進行していた。三月に愛媛県下の無尽会社五社、すなわち常盤無尽会社・東豫無尽会社・今治無尽会社・南謀無尽会社・松山無尽会社の五社が大合同して愛媛無尽会社が成立したことであった。現在、松山に本店を持つ愛媛相互銀行の前身がこの愛媛無尽会社である。戦争がいくつかの業界に合同や統合の気運を促進したことは否定できないことであった。

 開戦四年目と戦時通貨の状態

 開戦後四年目に当たる昭和一九年(一九四四)は前年にも増して悲惨な年であった。軍事情勢は急速に悪化しており、二月のマーシャル群島のクエゼリン・ルオット両島の日本軍守備隊の全滅に始まり、七月にはサイパン島において守備隊が全滅したのに加えて、住民側にも一万人の犠牲者を出した。八月にはテニアン島の日本守備隊が全滅して、一〇月には米軍がフィリピンのレイテ島に上陸した。レイテ沖の海戦では連合艦隊はその主力を失うに至った。刻々と押し迫る米軍の進攻に対して、日本は八月に台湾における徴兵制を実施することとなったのは、こうした切迫した情勢の下においてであった。
 顧みれば昭和一三年(一九三八)の五月、前年に日本と中国の間で蘆溝橋事件が起こって両国は戦争状態にあったが、臨時通貨法という法律が定められて、粗末な材料で貨幣が造られるようにたった。当時大正一一年から使用されていた五〇銭銀貨は、この年に政府紙幣となってしまった。戦争が長引くにつれて、貨幣の材料は次第に悪くなり目方は軽くなっていった。太平洋戦争の末期ごろには貨幣の材料にする金属はほとんどなくなってしまった。昭和一八年から造られた一銭アルミニウム貨幣は目方が〇・五五グラムとなり、水面にたやすく浮かべることができた程であった。日本の貨幣の歴史のなかで最も軽い貨幣であったと言われる。
 昭和一九年七月、サイパン島の日本軍が全滅してからは、日本の本土が米軍機の空襲にさらされるようになった。同年一一月には貨幣用の金属材料がなくなってきたために、十銭と五銭が日本銀行券となった。貨幣の材料として金属が使えなくなることを予想して、造幣局では昭和一九年の初めごろから「金属を使わない貨幣」の研究を始めており、昭和二〇年三月には「せともの貨幣」を造ることに成功した。せとものづくりで有名な瀬戸・京都・有田のせともの工場を利用して、一〇銭・五銭・一銭のせともの貨幣を造ったが、一、五〇〇万枚程造った時に戦争が終わり、せともの貨幣は発行されることかく終わり、製造されたところでくだかれてしまった経緯があった。
 米軍は、かねてから台湾を攻略した上で日本本土へ向かう作戦をたてていたが、昭和一九年(一九四四)一〇月の上旬になり、ニミッツ提督は、それでは米国軍の犠牲が大きくなりすぎると判断して作戦を変更して、沖縄諸島へ攻撃目標を定め、太平洋上における米軍の全勢力をこれに投ずることを決定した。ここにおいて沖縄の運命は決まったと言うことができるし、また実際に、その数日後に米軍機動部隊が沖縄を大空襲するに至った。また一一月には、マリアナ基地のB29爆撃機が東京を初空襲している。この年も終わりに近い一二月の中旬に、伊豫合同銀行は、伊豫相互貯蓄銀行を合併して名実ともに愛媛県における唯一つの本店銀行となった。

 太平洋戦争の終結 
 
 昭和二〇年(一九四五)は太平洋戦争の終末へ向けての長く、且つ苦しい日々の連続であった。このころになると戦争は、前線の将兵の間においてだけ行われるものではなくて、後方のすべての非戦闘員、すなわち老若男女をも巻きこんだものであることが、誰の目にも明らかとなった。三月上旬には、B29爆撃機による東京の夜間大空襲があり、前線では同じころに南方洋上の硫黄島の日本軍が全滅するに至った。米軍の次の攻撃目標は沖縄本島である。日本側は沖縄戦を本土防衛の最後の防波堤として重視し、他の補給を一切停止し全力を挙げて沖縄防衛に協力する体制をとるが、当時既に制海権と制空権を失っており、補給の道も絶えだえとなり、残された手段として航空機と爆弾と人間が一体となって敵陣に突入する、いわゆる特攻作戦までとらざるを得なくなっていた。その作戦さえも航空機の補給はつかず、ましてや人員の補充が間に合わないので、戦力は急速に衰える状態に立ち至った。一方では米軍は、陸軍部隊・海軍部隊・補給部隊・後方部隊すべてを合計して五五万人の大軍を投入しての、西太平洋における総力をあげての集中攻撃であった。四月一日、米軍の沖縄本島上陸に始まり、同島を救援すべく水上特攻に赴いた戦艦大和は、沖縄をはるかに望む東支那海洋上で、米軍機によって撃沈されてしまった。圧倒的優位をもってする米軍の攻撃の前には、日本側は徒らに犠牲を重ねていくばかりであった。沖縄戦は、一般に「鉄の暴風」という言葉で表現されるように誠に苛酷であったが、この戦争は一般の民間人をも巻き込んだものであっただけに、悲惨なものであり、今日の平和と思いあわせて日本国民の記憶に深くかつ長くとどめられるべき出来事として残る。沖縄における戦争は三か月近く続けられたが、六月下旬には「今や刀折れ、矢尽き、軍の運命は且夕に迫る」との牛島司令官の言葉のとおり数日後には、日本軍の組織的抵抗は終わっていた。郷土部隊である歩兵第二十二連隊は、この戦闘において同島南部において全滅の悲運に遭遇した。
 この年の七月、日本はソ連に対して和平の斡旋依頼をするが、ソ連はかねて含むところがあってのことか、日本側の申し出に対して拒否の意志を表明した。それどころか、八月の上旬には、かねて同年二月のヤルタ会談におけるソ連の参戦の密約に従って、日本と戦闘状態に入ることを通告してきた。日本側の驚きはいかばかりであったろうか。さらには八月六日の午前八時一五分、米軍機によって原子爆弾が広島市に投下されて一〇万人に近い犠牲者を出した。さらに三日後の八月九日には、長崎に同じ原子爆弾が投下されてこれまた多くの犠牲者を出した。このような事態に立至って、天皇はこのままでは日本民族の滅亡を招きかねないとの深い憂慮と決断の上で、ポツダム宣言を受諾する旨を連合国に回答することを命じ、戦争を終結する旨の詔勅を八月一五日にラジオ放送を通じて日本国民に告げた。この終戦の詔勅が放送される一か月前の七月下旬には、B29数十機によって松山が夜間空襲を受けて中心部はほとんど焼失していた。焼野原にひびく終戦の放送であった。また松山空襲の際には、二百数十人の犠牲者を出していた。この空襲によって伊豫合同銀行本店は、わずかに大金庫室だけを残して全建物を焼失してしまっていた。終戦の詔勅があった時は、焼跡にバラック建の急造の建物の中で同行の営業が行われていたのであった。
 さて時期はややさかのぼるが、終戦の年の昭和二〇年二月中旬、米軍が硫黄島に上陸を開始する数日前に、内地では銀行法等特例法と外資金庫法が公布された。このいずれもが戦争の遂行に伴う国内と国外の資金需要に応えるためのものであり、特に後者の外資金庫の資本金五、〇〇〇万円は、その全額を政府が出資するというものであった。さらに続いて、米軍が沖縄に上陸した後に中部戦線において、日本軍と激しい戦闘を演じていた五月に、内地では当時有力であった九つの貯蓄銀行、すなわち不動貯蓄・安田貯蓄・内国貯蓄・東京貯蓄・第一相互貯蓄・大阪貯蓄・日本相互貯蓄・攝津貯蓄・日本貯蓄が新しく大合併して、日本貯蓄銀行(協和銀行の前身)を設立していた。その公称の資本金は七、五〇〇万円であった。このことは、それまでに金融界において普通銀行が発達し、また郵便貯金が躍進していた情勢のなかで、貯蓄銀行が戦争下の資金吸収機関としての役割を再認識するということとともに、一面では社会政策的な意義を持つものでもあった。そのようにして、太平洋戦争が開始された昭和一六年末には、貯蓄銀行は全国で六九行存在したが、戦争が終了する昭和二〇年末になると、貯蓄銀行の数はわずか四行に減少していた。
 昭和二〇年八月一五日の終戦の詔勅は、日本国民のそれまでのすべての努力と犠牲に対して終止符を打つこととなった。人々は長かった戦争がやっと終わったという安堵感と同時に、これからは国民がひとりひとり自らに課せられた犠牲と重荷を担って、廃墟と化した国土の中から立ち上がることを求められていた。それは古い日本の価値観がその使命を終えて、新しい日本の価値観が誕生するという歴史的な意義を持った転換期でもあった。しかし、それらのことが十分に分かるようになるまでには、なおしばらくの年月が必要とされていた。何故ならば当時生き残った人々は、敗戦という現実のなかで呆然自失いわば虚脱状態にありながらも、たちまちにして食糧難とインフレのなかで、如何にして今日一日を生きていくか、また家族を養っていくかに精一杯であり、そのことが日本国民の最大の課題となっていたからであった。

表金2-9 愛媛県普通銀行主要勘定の推移

表金2-9 愛媛県普通銀行主要勘定の推移


図金2-1 松山手形交換所交換高の推移

図金2-1 松山手形交換所交換高の推移