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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 戦後の経済復興と金融機関の再建整備

 金融緊急措置令・食糧緊急措置令施行

 昭和二一年(一九四六)一月、天皇は詔書を発して自らがもはや神ではなくてひとりの人間であることと、国民との関係は信頼によって結ばれることを発表された。同時にマッカーサー元帥は日本国民に対して声明を発表し「日本の大衆にとってはいまや自ら統治する権利があり、またすべて自らなすべきことをなさればならぬとの事実に目覚めることが必要である」と告げた。当時の世相としてインフレと食糧不足と精神的混乱のさなかにあって、国民がこの宣言をどのように受けとめたかは詳ではないけれども、少なくともここに新しい時代が到来したことだけは明らかであった。
 さて国民の身辺に荒れ狂っていた食糧不足とインフレに対処するためには、金融対策の措置と食糧対策の措置が緊急に必要とされていた。この年の二月一七日には、金融緊急措置令・食糧緊急措置令・日銀券預入令が同時に施行された。これらの法令の施行は、いずれも事態の緊迫した情勢に対処することを迫られたものであった。
 まずは金融緊急措置令によって「二月一七日現在における金融機関の預貯金の支払いを、原則として停止し、以後の払出しを制限する」こととなった。また「日本銀行券預入令」においては、拾円券(その後五円券も含まれた)以上の日銀券を三月三日以降通用力を喪失させるとともに、三月七日限りで金融機関に預入れさせ、これに代わる新券(旧券に証紙を貼付したものを含む)を二月二五日以降発行し、三月七日までに一定金額を限り旧券と引き換えることとした。さらには具体的取扱いとして、①二月一七日現在をもって、すべての金融機関の既存預金を全部封鎖する ②流通中の通貨の強制通用力を失効して、新たに新円を発行し一人当たり一〇〇円だけを新円と交換し、その他は三月七日までに金融機関に預入れさせ、封鎖する ③新円による給料の支払いは月五〇〇円までとし、残りは封鎖する(昭和二二年一月には五〇〇円から七〇〇円に引き上げられた)。なお、この金融緊急措置令によって封鎖された愛媛県下の預金高は総額で一三億〇、六〇〇万円と発表された。ちなみに当時、白米一〇㎏は三円五七銭、食パン一斤が三八銭であって、米の生産者公定価格は六〇㎏が終戦時一五〇円であったが、翌年昭和二一年すなわち金融緊急措置令が施行となった年には五〇〇円に暴騰していた。
 当時旧円と新円の切換え事務のために、すべての金融機関の職員は忙殺されていた。約半年を経過した昭和二一年の八月になると、金融緊急措置令の施行規則改正が行われたが、その内容は、①第一封鎖預金は、一世帯につき各人四、〇〇〇円の割合で計算した合計額(ただし最高は三万二、〇〇〇円)、または一世帯一万五、〇〇〇円の、いずれか多い方とする ②法人預金は一口一万五、〇〇〇円以下を第一封鎖預金とし、大部分を第二封鎖預金とする ③第二封鎖預金は原則として凍結する。当時の世相はどのようであったかと言えば、インフレーションが昂進し、通貨不安が一般化していて、換物思想がすべてにゆき渡っていた。隠退蔵物資は一部において倉庫に積まれてあり、統制品の闇流しによって浮利を追う風潮は絶えることがなかった。サラリーマン等の一定額収入者の生活の苦難が続くなかで、また一般的には物資不足が続くなかで現物を持つ人々の力は強まっていた。持てる者と持たざる者の地位の社会的格差は一段と進行しており、社会の各階層において従来の地位に実質的な変化が生じつつあった。物資のなかでも生活の基本となる食糧を生産する人々の立場は最も強かった。都会の人々がリュックを背負い札束を懐にして、農村へ山村へあるいは漁村へと食糧の買い出しに向かう姿は日常のことであった。買い出し者の札束と言えば、自らの所有物であった家財衣類を売却して手に入れたものがほとんどであった。いわゆる売り食い生活、あるいは竹の子生活(着物を一枚一枚と皮をはぐようにしてはずしてゆくこと)が当時の流行語となった。当時、農村・山村・漁村の人々はこれら都会の人々の生活のための苦闘とは別の世界に置かれていた。生産者の立場にある人々の所得の増大は居ながらにして行われていて、その結果として、これらの村々は画期的な好景気に湧く状態となった。愛媛県においても同様であって、県下における通貨の大部分が元来消費性向の低い農漁山村の階層のもとに滞留することとなった。預金封鎖にみられたような通貨不安の気運も手伝って、これら資金が金融機関の預金となることは少なかったので、勢い現金として退蔵される結果となり、いわゆるタンス預金という言葉が一般に用いられるに至った。この年の一一月には、県下の新円流通高は一〇億円であったが、そのうちの六割ないし七割は農漁山村の人々の保有するものであったと言われる。また当時の一般自由預金残高は二億一、九〇〇円と発表されている。一〇月に三越が松山市に支店を開設するころ、金融機関再建整備法が公布となり、一二月には横浜正金銀行が閉鎖機関に指定されて、第二会社に当たる東京銀行が設立されていた。占領政策の下にあって、戦争終結直後の混乱は次第に収拾の方向に進んでいた。その際に、米国から提供された占領地救済費(GARIOA)及び占領地経済復興援助費(EROA)の支出によって、日本の戦後の復興がともかくも前進したことは、日本国民として記憶しておかなければならないことであったろう。

 復興金融公庫法と傾斜生産

 国が破れて山河のみが残った日本国の戦後の復興に際しては、政治面においては昭和二一年(一九四六)一一月、日本国憲法が公布され(施行は昭和二二年五月三日)、これと相前後して行政面と産業面においても連合軍の占領下でいくつかの試みが実行された。八月には経済安定本部と物価庁が設置され、一〇月には、臨時物資需給調整法の公布と同時に復興金融公庫法が公布されていた。そうした準備を整えた上で、一二月下旬には、経済復興の原動力として、石炭生産等に重点を置いた傾斜生産方式が閣議において決定された。当時は石炭がいわゆる「黒いダイヤ」として重要視され、その生産を増強するために人と物と資金が石炭産業に集中して傾倒されたのであった。こうした政策金融は、やがて後において復金融資として問題を引き起こすこととなった。
 また一一月には財産税法が公布されるに至って、従来資産家と目された人々は財産の大部分を税金として納付しなければならなくなった。納税の義務を履行するためには、所有する不動産や家宝をもあえて売り払って資金を調達しなければならない。その一方では、当時の食糧事情によって農山漁村の人々はこれまでになく富裕な身分になっていて、その反対に戦前・戦中を通じて日本の社会の上層部の地位を保持していた資産家の多くは、こうした法律制度の変更によって、一転して経済的に困難な状態へと追い込まれて行った。また一〇月には第二次農地改革の諸法令が公布されて、不在地主階級は自己が所有する土地を手離さざるを得ない羽目となり、ここに在来の地主階級の没落、小作農の台頭というわが国の旧来の社会制度の地殼変動が進行していた。表面の戦後の復興の裏面では、こうした社会的悲劇が数多く見られたのであった。日本国民は長くかつ厳しかった戦争の後に、さらにこうした試練をも甘受して自らの足で立ち上がることを求められていた。

 財閥解体の指令と資金融通準則実施

 戦後三年目に入った昭和二二年(一九四七)は、日本経済がなお引き続く苦難のうちに戦後の混乱の収拾と復興をはからなければならない年であった。日本国憲法はこの年の五月三日に実施となったが、新憲法の制定は主権が国民に存することを宣言しており、これからの日本国の将来を方向づけたものであった。さらに産業界では前年末の閣議決定に従って、年初来石炭を中心とする傾斜生産方式が始まっており、この年の六月の経済危機突破緊急対策要綱の発表のなかにおいて、傾斜生産の一層の強化が強調されていた。その一方では四月に独占禁止法が公布されて、七月には公正取引委員会が発足しており、また総司令部が三井物産と三菱商事の解体を指令する等、日本の古い経済体制に対しては徹底した厳しい変革を要求していた。しかしその半面では同じ年の八月には、総司令部は日本に対する借款五億ドルを許可し、これをもってわが国は輸出入回転基金の設定を発表していた。その後に、制限つきではあったが、総司令部は民間貿易の再開を許可していた。
 国内の金融面では前年の一二月、閉鎖機関に指定された横浜正金銀行の第二会社としての東京銀行が昭和二二年早々に発足し、この年の一月に人類初めての原子爆弾の被害を受けた広島市にいち早く支店を開設した。また三月には、金融機関資金融通準則が実施されて、銀行は自主的中し合わせによって、①貸出しの増加を一般自由預金の増加の五〇%以内にとどめて、日銀借入れへの依存を認めない ②貸出しに当たっては「産業資金貸出し優先順位表」が設定され、すべての産業を業種甲・乙・丙に分類し、この順位によって重点産業に対して優先的に融資を行うこととした。さらに一一月中旬になると、農業協同組合法が公布されて農業金融の制度面の整備が進み、一二月には過度経済力集中排除法が公布されて、財閥の復活の排除に備えた。同じく一二月には当分の間、金融機関の金利の最高限度を定める目的で臨時金利調整法が施行されたが、この法律はその後、長い間効力を持ち続けており、四〇年後に金利自由化の時代を迎えることになる。このようにして戦後の経済復興の面において次第に新しい経済体制の芽生えが各方面に現れていた。
 愛媛県においては、この年の七月上旬に四国建物無尽株式会社が設立された。この会社は昭和二四年(一九四九)一〇月にその名称を東邦建物無尽株式会社と変更し、さらに昭和三三年(一九五八)四月には、株式会社東邦相互銀行となって今日に至っている。また国際金融界においては、昭和二二年の三月に国際通貨基金(IMF)が業務を開始しており、六月にはマーシャル米国務長官が、援助プランの構想を発表するなどの出来事があり、やがて、この計画の実施によって、世界は戦勝国であると戦敗国であるとを問わず、戦後の復興に相互に協力するための骨組みが出来上がりつつあった時期に当たっていた。