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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

五 経済安定九原則の実施

 経済安定九原則

 戦後四年目を迎えた昭和二三年(一九四八)は、折柄進行中であった極東国際軍事裁判においてようやくのことで判決が下りた年であり、また国内の社会面では、全逓の地域スト・東宝争議・学生の授業料値上げ反対スト・電源スト等、民主化の行き過ぎに伴っていくつかの出来事があったが、これらは最終的には占領軍総司令部の中止命令をもって、ともかくも収拾されるという占領下における時代的な特長を持った一年間であった。
 次に国内の経済面においては、当時の日本経済は前年から引き続いて、インフレ的様相を濃くしていた時期であった。昭和二一年に六〇㎏五〇〇円であった米価は、同二二年には一、七五〇円となり、さらに同二三年には三、七〇〇円と騰貴していた。日本銀行は四月下旬に公定歩合を日歩一銭二厘(年率四・三八%)とし、さらに七月上旬には日歩一銭四厘(年率五・一一%)へ引き上げて、金融の面からするインフレ対策に乗り出していた。このような事情を背景として、総司令部は一二月中旬に日本政府に対して、米国政府の指令による「経済安定九原則」なるものを発表した。その目的は財政・金融面から通貨の膨張を抑制し、インフレの根源を断ち切ること、生産及び供給の面からは物資の供給を最大限に確保して、インフレの進展を抑制することにあった。ここに言う九原則の内容は次のようなものであった。

  ① 歳出の削減と歳入の増加により、できるだけ速やかに予算の真の均衡をはかる。
  ② 徴税組織を改善して、脱税行為に対しては強力な措置を講ずる。
  ③ 融資を日本経済の復興に寄与するものだけに厳重に制限する。
  ④ 賃金安定策の確立。
  ⑤ 物価統制計画の拡大強化。
  ⑥ 外国貿易管理の運営改善と外国為替管理の強化。
  ⑦ 特に輸出を最大限に増大するため、物資の割当と配給制を改善する。
  ⑧ 全重要国産原材料ならびに製品の生産増強。
  ⑨ 米供出計画の能率向上など食糧集荷の改善。

 一般的には確かにインフレ抑制のための金融引締めであったが、ひとり復興金融公庫だけは戦後の復興という大義名分を得て融資を進めており、また社会の各方面でみられた民主化騒動は愛媛の金融界にも及んでいて、この年の九月下旬には伊豫合同銀行では平山徳雄頭取が退陣し、専務の末光千代太郎が頭取に昇格した。なお、日本を取り巻く極東においては、一九四三年一一月のカイロ宣言に基づいて、同年八月から九月にかけて、日本の隣国に当たる朝鮮半島において、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の二国が独立し成立していた。

 日本経済安定策と金融

 戦後五年目に入った昭和二四年(一九四九)は、これまでの年と同じく色々な出来事の多い年となった。経済的には前年の経済安定九原則の詰めを見届けるため、二月にはドッジ公使が来日し、四月には一米ドル=三六〇円の単一為替相場が設定され、一二月には外国為替及び外国貿易管理法が公布される等のことがあった。他方、社会面では前年のスト頻発に続いて、この年になると列車転覆事件が相次いで勃発し(五月九日早朝浅海―北条間列車転覆を含め三鷹事件・松川事件等)、文化学術の分野では一一月に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞があり、国内では松山商科大学と愛媛大学の発足等新制大学の設立があった。また例年日本を訪れる台風がこの年の六月にデラ台風として南予を襲い、折柄出漁中の日振島漁民に二三五人の犠牲者を出していた。舞鶴ではソ連からの引揚げ再開の第一船興安丸が入港する等、明暗さまざまの多難な一年であった。
 経済と金融面をやや詳しく順を追って説明すると、二月上旬に総司令部の求めに応じて来日したドッジ公使(シカゴ銀行頭取)は、来日一か月後の三月上旬に次のような内容の経済安定策、いわゆるドッジ・ラインを勧告した。すなわち、①超均衡予算の編成 ②単一為替相場の設定 ③復興金融公庫融資の停止 ④財政補給金の廃止などである。さらに四月中旬には超均衡予算と補給金の廃止の二点を強調して、いわば竹馬の二本の足を切って、両足を大地につけて再建に立ち上がるようにとの表現を使った。これに基づいて四月二三日、一ドル=三六〇円の単一為替相場の設定が発表され二日後には早速に実施となった。六月には日本銀行法の一部が改正されて、日本銀行政策委員会が設けられ、一方では、前月に公布された国民金融公庫法に基づいて国民金融公庫が営業を開始していた。さらには産業界において独占禁止法の改正公布があり、これまでの制限が一部緩和されるようになった。このようにして金融面の改革が進む一方では、かねて準備が進んでいた外国為替及び外国貿易管理法が、一二月一日に一ドル=三六〇円の基本線に基づいて公布され、これまで連合軍司令部の手によって管理されたわが国の外貨管理権が、戦後初めて日本の外国為替管理委員会に移管されることとなった。

 物資不足時代と戦後の貨幣発行事情

 ドッジ・ラインと呼ばれたデフレ政策が浸透することによって、日本経済の財政の赤字はなくなり、物価は横ばいとなり、さしものインフレも収束するに至った。そして一ドル=三六〇円の為替相場が決まることによって、日本経済は、この一本の為替相場を通して、国際経済社会の仲間入りを果たすことができた。この時期に貨幣は五円黄銅貨が孔あきとなり、昭和二一年に発行された拾円日本銀行券が貨幣に代わることになった。昭和二六年一〇月からは、宇治の平等院鳳凰堂を模様にした一〇円青銅貨幣がつくられ始めて、この貨幣が現在流通している一〇円銅貨につながることになる。
 なおこの年の一〇月一日には、中国大陸において中華人民共和国の成立が宣布された。前年八月一五日の大韓民国の樹立宣言といい、まだ九月九日の朝鮮民主主義人民共和国の成立といい、この年の中国人民共和国の成立を加えて、日本のすぐ隣国との緊密なつながりのある地域において、いずれも新しい国々の誕生が見られた時期であり、一二月に日本で発行された千円券の聖徳太子の肖像は、時代を浮彫りにしたものであり、やがて日本とこれらの国々との国交正常化が日本外交の大きな課題となって登場するきっかけをつくることとなった。またこの年の三月には、社団法人愛媛県信用保証協会が松山市に設立され、県下の中小企業金融の円滑化に一役を担うこととなった。