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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 オーバー・ローン問題

 ガット正式加盟と金融引締め

 昭和三〇年(一九五五)は、戦後ようやくにして一〇年目を迎えた年であり、当年度の経済白書においては、「もはや戦後ではない」と評された時期であった。前年のビキニ被災者久保山愛吉の死亡に関しては、この年の一月上旬に日米間でビキニ被災補償の公文書の交換が行われた。また四月上旬には、日本とタイとの間で特別円交渉が妥結して、七月上旬には調印が行われた。このことは対外的な戦後処理のひとつの重要な出来事であった。
 国内においては、五月中旬に国鉄宇高連絡船紫雲丸が高松沖において霧の中で衝突沈没し、修学旅行中の生徒ら一六八人が死亡する事故が発生した。国鉄にとっては、前年九月の洞爺丸事故に続く不幸な出来事であった。また同年五月の末に、日米間で余剰農産物の協定が締結されていた。
 二年前の昭和二八年に、日本はガット総会で準加盟国の地位を認められていたが、昭和三〇年の後半に入り、九月上旬に日本はガットの正式な加盟国となることが承認された。日本は貿易によって国の発展をはからなければならない立場にあるが、この事によって日本の将来の方向を定める基礎がはっきりと据えられたとみることができる。
 一方では、この年の一月下旬には、財界の政治寄金機関である経済再建懇談会が発足しており、九月には日本商工会議所総会において、保守合同促進が決議されている。戦後の特色として、経済界の意向が日本の政治に強く反映されるようになるのである。また科学技術面では、一一月中旬に日米原子力協定が調印され、一二月中旬には原子力基本法・原子力委員会設置法が公布された。これまで基幹産業のひとつである電力に関しては、もっぱら日本の特色を生かした水力発電と火力発電に頼っていたが、原子力の平和利用の面で先進国にならって、わが国もまた新しい科学技術分野を開拓していくきっかけがこの年にできたのである。
金融面では引締めがさらに強化されて、八月の上旬に日銀の公定歩合が日歩二銭(年率七・三〇%)に引上げられていた。愛媛の金融界においては、一二月には急激な金融情勢の変化に対応する目的をもって伊豫銀行では、経営の合理化を推進するために「経営合理化委員会」が発足していた。

 設備投資ブームと金融制度調査会

 昭和三一年(一九五六)は戦後一一年目であって、ようやくにして経済再建の槌音が高まった節目の年に当たる。前年に引き続いて、原子力研究の分野では一月に原子力委員会が発足し、三月には原子力産業会議が発足し、五月には原子力三法が公布されて科学技術庁が発足した。七月に国防会議が発足した後に、一一月には日米間でウラン貸与協定の調印がなされた。また他方では、南極観測船宗谷が新しい時代を切りひらく目的で出航し、マナスル登山隊が登頂に成功した年でもあったので、国民の気持ちは戦後復興の長かった一〇年間のトンネルからようやく抜け出して、明るい世界に眼を輝かせた年であった。
 このことは、日本経済の歩みに明瞭に現れたところであって、表金3―2に見るように、昭和二六年に生産が戦前水準を回復し、同二八年には消費も戦前水準を上回ったが、輸出及び輸入の貿易面は回復がなお遅れていた。しかし昭和三一年になると、輸入は戦前水準をはるかに上回り、輸出も昭和三〇年から急速に回復して、昭和三三年にはほぼ戦前水準に達した。特に注目しなければならないことは、民間設備投資の分野であって、昭和三〇年では年間八、〇〇〇億円台であったものが、昭和三一年には一挙に一兆三、〇〇〇億円近くにはね上がり、技術革新による近代化が産業界の設備投資の面に画期的に現れた時期となった。このような情勢のなかで、国内の雇用水準も高まり、需要と供給も均衡するようになり、国内均衡が達成されるに至った。戦後の復興期にあっては、需要超過の現象が一般に見られたが、経済の発展期に入ってからは、それとは反対に供給超過の段階に入っていたのであって、この昭和三一年を境目として、経済の基調が大きく変化したと言うことができるのである。
 産業界では技術革新と設備投資がブームの状態を呈し、所得の増加に伴う消費の増加、その結果としての好景気が世相を潤すに至り、マスコミではこの時期を評して、神武景気という用語を流行させた。この年の六月中旬には金融制度調査会設置法が制定されたが、その目的は「金融情勢の推移にかんがみ、金融制度の改善に関する重要事項を調査審議するため」と、「大蔵大臣の諮間に応じた金融制度の改善に関する重要事項を調査審議し、これに関し必要と認めた事項を大蔵大臣に建議する」ことにあった。さらに一二月中旬には、かねてからの懸案であった日本の国際連合加盟が総会において可決されるに至り、日本は八〇番目の加盟国として、晴れて国際連合の席に着くことができた記念すべき年となった。愛媛県ではこの年の一一月に、肱川の洪水によって数多く引き起こされた大洲盆地の被害を防止するために、上流に当たる箇所に鹿野川ダム建設の起工式が行われた。

 オーバー・ローン準備預金制度発足

 昭和三二年(一九五七)には、前年に爆発的に進展した技術革新・生産力の増強・設備投資のエネルギーを背後から支え充填する原動力として、企業の金融機関からの借入れの急激な増加があった。当時は戦後の復興間もない時期であったから、企業の手元に十分な資本蓄積がある筈がない。また資本市場としての役割を分担する証券市場においても、当時にあっては、これら企業の旺盛な資金需要に応える準備は出来ていなかった。勢い企業の資金調達は、銀行からの借入れに向かわざるを得なかった。銀行の貸借対照表(バランス・シート)は見る見るうちに、貸出しが預金を上回るオーバー・ローンとなっていった。本来は預金の範囲内で資金の貸出しを行うとの銀行経営理念があるのだが、そうした考えは、旺盛な貸出し要請の前には自然と崩れていった。預金を上回る貸出しを実行するためには、銀行は資金の不足分を中央銀行である日本銀行からの借入れに依存せざるを得なくなる。日本銀行の民間銀行に対する貸出しは、目に見えて増加していった。日本銀行としては、銀行経営の健全性を重視して、これを守るために伝統的金融政策手段である公定歩合に訴えて、三月中旬には日歩二銭一厘(年率七・六七%)に引き上げ、さらに五月上旬には、日歩二銭三厘(年率八・四〇%)へとこれまでにない高い水準へと引き上げて、景気の過熱に対する警戒の態度を表明した。また日本銀行は公定歩合の操作に頼るだけではなくて、これと併行して他の先進国の例にならって、かねて検討中であった準備預金制度を五月に発足させており、これによって民間銀行の第一線準備を厚くすることを制度化した。準備預金制度は「通貨調節手段としての準備預金制度を確立し、わが国の金融制度の整備をはかるとともに、国民経済の健全な発展に資する」ことを目的として掲げていた。
 このようにして通貨当局の警戒信号は出されたが、産業界の資金需要は、これによって一向に鎮まる気配を見せない。日本銀行に代わって今度は大蔵省が、この年の一一月上旬に、八項目から成る「銀行経営上留意すべき基本的事項」を通達した。すなわち、①オーバー・ローンの改善 ②資産の流動性の向上 ③大口融資の是正 ④資産内容の堅実化 ⑤借用金の計画的減少 ⑥自己資本の充実 ⑦経常収支の余裕ある均衡 ⑧その他の留意事項である。通達はそれぞれの項目について説明がついているが、それらのなかで①から④までについて付記すると、(1)預金の増加をまって貸出等の運用をはかる銀行経営本来の態勢に復帰し、健全経営の基本原則を堅持する必要がある。(2)預金銀行としては、長期資金の供給は極力金融債、社債等の有価証券保有の方法によって行われることが望ましいので、今後は現金、日銀預け金等の支払準備の充実と相まって、預金銀行に相応した資産の流動性の維持向上に努められたい。(3)一企業に対する融資の額は、銀行の自己資本の金額との関係においても、適正な限度に止めることが必要である。(4)オーバー・ローン並びに資産構成の現状に照らし、金融情勢の今後の推移に備えるため、貸出金等資産内容の堅実化をはかることについて、この際、特段の配慮が必要である。なお、この年の四月には、旧台湾銀行の後身である日本貿易信用株式会社と、旧朝鮮銀行の後身に当たる日本不動産銀行がそれぞれ開業した。
 昭和三二年のわが国の金融界は、オーバー・ローン問題をめぐって大揺れに揺れたが、一〇月には五千円札が発行され、一二月には一〇〇円硬貨が発行される等、通貨の分野において次第に合理化の方向が見え始めていた。金融界以外の分野においては、比較的平穏な年であったけれども、愛媛県に限って言えば三月下旬に愛媛県教育委員会が、勤務評定による人事を発令したことが年代史に記録されている。全国的には南極観測隊がオングル島に上陸して、一月二九日に昭和基地を建設したこと、あるいは東海村に、原子の灯がともる等のニュースが世相に明るさを投げかけていた。また国際的には、一月中旬に中ソ共同宣言が発表されて、社会主義諸国の団結が強調されたことがある半面では、三月下旬にヨーロッパ共同市場(EEC)条約がローマで調印される等、世界の各地では地域化の動きがみられていた。この年の一〇月には、ソ連が人工衛星第一号「スプートニク」の打上げに成功し、アメリカがソ連に先を越されたとの感を抱いて、懸命に自国の人工衛星打上げへと力を入れた年であった。

表金3-2 経済復興及び発展の諸指標

表金3-2 経済復興及び発展の諸指標