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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 国民所得倍増計画

 貿易為替自由化と所得倍増政策発表

 昭和三五年(一九六〇)は、前年から引き続いた岩戸景気のなかで新しい年が始まった。前年の三井鉱山の指名解雇は、この年の一月下旬に労働組合の無期限ストにまで発展していた。五月中旬には、国会の会期末が迫るにつれて法律案の成立を急ぐ政府と自民党は、警官隊を導入して、衆議院で新しい日米安全保障条約と会期の延長を自民党単独で強行採決した。それ以後、国会は空白状態となっていたが、デモ隊は連日国会を包囲してかん声をあげた。このような事態を目前にして憤慨した右翼集団が、国会周辺でデモ隊を襲撃する手段に訴え、これに挑発された全学連が国会構内へ入らんとし、これを阻止しようとする警官隊と衝突して大混乱を呈したなかで、女子学生樺美智子が死亡するという事態が発生した。新しい安保条約はその後自然成立となったが、折柄日本を訪問予定であったアイゼンハワー米大統領の訪日延期の通知等もあって、岸信介首相は六月二三日に辞任の意向を表明した。
 次いで七月一九日に「寛容と忍耐」をかかげて発足した池田勇人内閣は、六月下旬に政府が発表した貿易為替の自由化計画と、七月早々に実施された自由円勘定の創設を受け継いで、九月上旬には、自民党として一〇年間に国民所得を倍増する政策を公表した。自民党総裁を兼ねる池田首相は、この政策によって日本経済と日本国民に対して、将来の目標を示し希望の燈火を点じたのであった。七月の自由円勘定の創設は、わが国の為替制度面に円為替を導入し、それと同時に非居住者(外国人)に対して、交換可能の円勘定すなわち非居住者自由円勘定の設置を認めたことであった。
 さて三井鉱山、三池鉱業所の争議は、応援の労組員を含めて労働者側か一万八、〇〇〇名を動員し、これに対して会社側は各地より集まった警察官一万二、〇〇〇名の支援を受けて、双方が対峙したまま緊迫した情勢にまで発展していた。池田内閣で新任早々の石田労働大臣の奔走によって、一二月二日に至り二八二日ぶりにさしもの三池争議も、ようやく解決の段階にまで漕ぎつけることができた。九月上旬には、白黒のテレビと併せてカラー・テレビの放送が始まっていたが、一般の家庭の人々がこれを楽しむに至るまでには、若干の歳月を必要とする状態であった。経済白書は、昭和三五年度を評して黄金の一、九六〇年代と述べたが、それは所得倍増計画に魅せられて、経済面に明るい展望が開けたことを当時の情勢としては、まばゆいばかりに感じとったことを表現したものであったろう。この年の八月下旬には景気の鎮静を見てとって、日本銀行は公定歩合を日歩一銭九厘(年率六・九四%)に引き下げた。このようにして金融界は、池田首相の持論である低金利政策と一致する方向へと歩を進めていた。また国際面ではそれから一一年後に、世界を震駭させる存在となった石油輸出国機構(OPEC)が、この年の九月にイラクのバグダッドで世界から注目されることもかく、ひっそりと結成されていた。