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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 国際収支の改善策

 日米貿易経済合同委員会の発足

 昭和三六年(一九六一)は、日本が貿易為替の自由化の基本方針に則って、その歩みを早めた年であった。国内では一月下旬に公定歩合が一段と引き下げられて、日歩一銭八厘(年率六・五七%)となった。低金利の状態が一般化するようになると、再び銀行借入れが活発となってオーバー・ローンが頭をもたげてくる。三月中旬に通産省は、政府の既定方針に従って、四月一日より自由化する重工業関係品目三〇〇を発表した。六月になると金融制度調査会が政府の諮問を受けて、オーバー・ローン問題について審議を始めた。オーバー・ローンなるものが「市中銀行の貸出し、有価証券などの全運用資産が預金と自己資本などの合計を超過し、その差額を常時中央銀行の貸出しに依存して補いをつける状態である」と定義されたのはこの時期においてであった。
 四月中旬にはライシャワー駐日米大使が着任したが、他方では八月中旬に東京で開催されたソ連初の工業見本市のためにソ連のミコヤン副首相が来日した。同副首相は、日ソ貿易増大のために大阪方面へも訪問の足を伸ばした。金融界のオーバー・ローンが話題になるころ、今度は日本の国際収支悪化が問題となってきた。九月下旬には閣議において、金融引締め・設備投資抑制などの国際収支改善対策が決定された。金融引締めの政策は景気の後退を招来するとの予想も手伝って、一〇月上旬には東京株式市場が開所以来の大暴落を示した。公定歩合は既に七月下旬に日歩一銭九厘(年率六・九四%)に引き上げられていたが、九月下旬に入るとさらに日歩二銭(年率七・三〇%)へと引き上げられた。
 日本と米国との緊密な関係は、戦後の日本の政治及び外交の基本路線であったが、六月下旬の池田・ケネディ共同声明において、日米貿易経済合同・教育文化・科学の三委員会の設置が合意されていたのを受けて、一一月初めに三日間の日程で、紅葉の箱根において第一回日米貿易経済合同委員会が開催され、両国の閣僚がそれぞれに夫人同伴で参加した。遠来の客をもてなすにふさわしい日本の自然と、関係者の至れり尽くせりの心づくしの歓待に米国側は深い感銘を受けながら、日米両国の親善と協力関係をより確かなものとした。この年の五月には韓国において、軍部がクーデターを起こして新しい政権が樹立し、七月には朴正煕が同国の最高会議議長に就任した。

 伊豫銀行創立二〇周年経営基本方針

 昭和三六年(一九六一)九月に伊豫銀行は、創立二〇周年を記念して頭取末光千代太郎名をもって同行の「経営基本方針」を発表した。その内容は次のとおりである。

 ① 伊豫銀行の経営の基本精神を地域社会への奉仕におく。
 ② 伊豫銀行発展のための経営態度として、堅実経営を堅持する。
 ③ 近代的経営に適するように、組織を整備し、合理的な運営を図る。
 ④ 人事に関しては、人材の養成と登用に重点をおく。
 ⑤ 事務の合理化と機械化を促進する。

 昭和三七年の公定歩合の引下げ

 昭和三七年(一九六二)は、わが国の国内情勢は比較的に平穏な一年であった。金融引締めと設備投資の抑制は前年より引き続いて行われていたが、その状態もこの年の後半に入って景気の落着きが見られるようになってくると、一〇月に公定歩合は従来の日歩二銭から一銭九厘(年率六・九四%)に引き下げられ、さらに一一月には、日歩一銭八厘(年率六・五七%)へと引き下げられた。このころになると全国総合開発計画が発表されるに至り、地方はいかにして中央の政策に関連づけて、換言すれば国家予算の項目に地方の開発を位置づけて、地域の発展をはかるかに知恵をしぼるようになった。
 眼を対外的に向けると、一月には戦後、米国から提供を受けたガリオア(占領地救済)資金及びエロア(経済復興)資金を、今後一五年間にわたって総額四億九、〇〇〇万ドルを分割返済する旨の協定に調印がなされ、また同じ月にタイ国との間では、特別円問題に関してその残高の処理に関して、日タイ新協定の調印が行われた。一方では一〇月に政府は、輸入自由化品目に二三〇品目を追加しており、この時点における日本の輸入自由化率は八八%となった。一一月には日本と未だ国交のない中華人民共和国との間で、民間人である高崎達之助と中国側の寥承志との間に「日中長期総合貿易に関する覚え書」の調印がなされ、その後、L・T・貿易と略称されて両国の間には細々としたものではあったが、貿易が行われる道がつけられた。その中国においては二年前に、ソ連より中国の経済建設のために派遣されていたソ連専門家一、〇〇〇人を引き揚げるとの通告を受けた後のことであり、中国としては自力更生をはかると同時に、ソ連以外の国との間に経済交流を求める必要を識者は感じていたものと思われる。
 また同じころに、米国とキューバの国際関係が緊迫化していた。二年前にはキューバは米国の資産を接収し、一年前には米国がキューバとの国交を断絶した状態にあったが、この年になるとソ連の対キューバ武器援助が始まっていた。一〇月下旬にソ連のキューバのミサイル基地建設の動きが米国側に察知されるに及んで、米国は国防上からして由々しい事態であると受け取り、もしキューバがミサイル基地建設を強行するならば、その阻止のための実力行使をも辞さない態度で臨み、同国に対して海上封鎖の宣言を行った。ソ連は米ソの正面衝突となることを懸念して、キューバよりミサイルを撤去する旨の態度を表明し、前年に日本を訪問したミコヤン第一副首相をキューバに派遣してソ連側の事情説明を行わせた。緊張下にあった国際情勢の好転が確かめられるに至って、米国は一一月にはキューバに対する海上封鎖を解除し、世界の危機はともかくも回避された。
 また国際金融の分野では、一〇月にIMFの一般借入れ取決め(GAB)六〇億ドルが成立したが、この取決めには日本も参加しており、国際的な役割分担の一翼を担うに至った。国内では愛媛に眼を転ずると、この年は松山市においては観光ブームの状態を迎えていて、市内の料亭及び旅館は大賑わいとなり、浴場の奥道後温泉利用の申請が相次いで起こった。やがてホテルの新・増設へと向かうのであった。