データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

七 躍進期

 郵政統轄機関の整備

 県内郵便施設は、松山・宇和島・今治が戦災に遭うなど第二次世界大戦により、大きな被害を受けた。終戦後その再建が急務とされたので、市街地の復興と歩調を合わせ、昭和二〇年(一九四五)九月にはいち早く松山逓信局内に設けられた復興隊を中心として、郵便施設の復旧に取り組んだ。一方戦後の混乱期を通じて、郵政統轄機関の整備への努力が続けられた。
 終戦時の松山逓信局は、松山経済専門学校に借家住まいであったが、学徒復帰に伴い庁舎明け渡しのやむなきに至り、翌二一年一月、市外大可賀の丸善石油株式会社の倉庫を借りて移転した。しかし庁舎狭あいのため、市内各地に分散執務したので事務能率は低下した。続いて同年六月八日、松山市二番町の仮庁舎(のちの郵政弘済会の建物。現NTT四国総支社の東方二〇〇㍍)に移り、さらに翌二二年八月一八日、ようやく自前の本建築庁舎が落成し移転した。その場所は当時の二番町五四番地(現在は町名変更により一番町四丁目三番地)で、県庁前、元日赤病院跡で、現在のNTT四国総支社がある所である。
 その後昭和二四年六月一日法律第六号をもって、郵政省設置法並びに電気通信省設置法が施行(逓信省は廃止)された。それに伴って松山逓信局は、郵政・電気通信部門に二分され、松山郵政局・松山郵政監察局が誕生した。松山郵政局の業務は、四国の郵便・郵便為替・郵便貯金・簡易生命保険・郵便年金等の各事業と、これに付帯する業務の管理に関することであった。なお組織機構は、七部(人事・資材・建築・郵務・貯金・保険・経理)二〇課であった。
 庁舎は四国電気通信局(分離により同日誕生した)と同居していたが、次第に狭あいとなったため、昭和二六年一月一六日、国鉄駅前松山市宮田町字掛金二九一番地の一(現在の宮田町八-五)に新築された庁舎(写真公1-9)に移転した。その後昭和四二年六月二〇日、同じ場所に松山郵政局・松山郵政監察局・四国電波管理局の総合庁舎が完成した。
 さらに昭和四七年(一九七二)七月一日、「地方郵政監察局及び地方郵政局の名称及び管轄区域に関する政令」の一部改正により、四国郵政局・四国郵政監察局と改称され現在に至っている。

 昭和二〇・三〇年代の郵便物取扱数

 昭和一二・一三年及び二〇年代三〇年代の県内引受郵便物数の推移を表公1-7に示した(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)。戦前のピークは昭和二年(一九二七)の六、八八二万通(表公1-6。県民一人当たり六二・六通)であったが、その後漸減し昭和一三年には、三、九五四万通(一人当たり三四・一通)にまで大きく減少した。なおその後、昭和二一年まで、戦争のため県内郵便関係の統計資料作成は中断された。しかし全国並びに四国の統計数値などからみて、終戦後の昭和二一年の県内郵便取扱数は、昭和一二年の約六〇%程度であったと推定されている。
 昭和二二年以降県内郵便の再建に懸命の努力が行われたが、同二六年ごろまではその回復ははかばかしいものではなかった。しかし三〇年代に入ると、急速な増加に転じ引受通常郵便物数(普通通常・特殊通常の計)は、昭和三〇年度五、二五一万通、同三五年度六、一三九万通、三九年度七、三〇一万通と戦前ピークの水準を超えた。
        
 郵便局の増設

 このように、郵便取扱数は戦後の混乱期を過ぎ、昭和二六年ごろになるとようやく回復に向かい、昭和三〇年代末には戦前の水準を超えるに至った。それに伴って、郵便局の増築・新設など整備が必要となってきた。
 ところで、当時郵便局のうちで大部分を占めたのは特定局(昭和三〇年度全体の八五%)であった(表公1-8参照)。これは長く三等郵便局と呼ばれ、地方の名望家が局舎を提供し、自ら局長となって請負経営を行ってきた。その後昭和一六年(一九四一)二月、郵便局の等級制を廃止したことによって、それまでの一・二等局は普通郵便局、三等局は特定郵便局と呼ばれるようになった。そして特定局は、郵便物の集配業務や貯金・保険業務を行う集配局と、専ら窓口業務のみを行う無集配局に分かれた。なお無集配局はおおむね規模の小さい局である。
 しかし郵便体制の充実を図るためには、さらに山間僻地にまで郵便窓口を広げる必要が認められた。そのため昭和二四年六月、郵政省の設置とともに新たに簡易郵便局を設けて、郵便局施設の補充をすることによって、窓口機関の拡大を進めることとした。表公1-8に示したとおり、県内においても簡易郵便局(簡易局)は、昭和二四年度に一五か所新設され、以後年々増加して五七年度末には八五に達した。戦後、県内郵便局は、昭和二二年の二六七から同五七年には三九五と増加したが、その多くは簡易局の増設によるものである。
 簡易郵便局は当初、市町村などの地方自治体や公共団体などに業務を委託し、辺ぴな地方にまで窓口機関を普及しようとしたものであるが、地元の設置要望は極めて強かった。そのため四五年五月、簡易郵便局法の改正を行って、受託者の資格を十分な社会的信用を有し、かつ業務遂行能力を持つ個人にまで拡大した。

 郵便業務の近代化

 昭和三〇年代以降、日本経済の高度成長に伴って、取扱郵便物数は飛躍的に増大した。これは第三次産業、特に流通産業の拡大によるダイレクト・メールの急増が大きな要因となった。これに対して、郵便局施設や人手の増加には制約があり、その対応のため業務の機械化・近代化を推進することが必要となってきた。
 そのため集配作業については、自転車をはじめ自動二輪車、軽自動四輪車などの利用によって機械化を進めた。さらに昭和四〇年代に入ると、局内作業の機械化が順次進められた。その一つとしてまず「自動取揃押印機」を採用した。これは切手の形状と刷色による検知機構で、切手の位置によって郵便物を取りそろえて押印し、さらに切手の色によって普通扱いと速達などに分類するものである。次に自動読取区分機(五〇または一〇〇方面に区分する)が開発されたが、その実用化の前提として、昭和四三年(一九六八)七月一日全国に郵便番号制を実施した。これによって区分機は実用の段階に入り(昭和四四年一一月一四日松山中央郵便局に設置。その後松山西郵便局に移設)、一分間に三六〇通という人力のおよそ七倍のスピードで処理することが可能になった。これら一連の機械化により、郵便業務の近代化は大きく進展した。

 最近の郵便物取扱数

 昭和四〇年代以降の、県内内国郵便物総引受数(小包郵便を含む)の推移(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)を見ると、昭和四〇年代は高度成長の波に乗って年々増加した。すなわち同四〇年度の九、六三二万通(個)から四五年度一億一、一七三万通(個)、四九年度一億三、六三八万通(個)に達した。その後漸減したが、五四年度には増加し一億四、一六五万通(個)とたった。五五・五六年度は若干減少したが、五七年度は再び大きく増加し、一億四、八八二万通(個)と過去最高を記録した。
 郵便物の増減は、社会・経済情勢の動向や郵便料金改訂の影響を受ける。具体的には電話の発達による減少、ダイレクト・メールによる増加が考えられる。また昭和五一・五六年度はそれぞれ前年比七・二%、六・〇%減少したが、これは郵便料金の改訂が大きく影響したものとみられる。また郵便種類別に同五七年度と五〇年度を比較すると、第一種(封書)・第三種(新聞・雑誌など)・第四種(通信教育・学術刊行物など)などは、減少ないしわずかな増加にとどまっているが、第二種(はがきなど)は、一三八%と比較的伸びが大きい。
 また小包郵便物は、昭和四五年度の二二七万個をピークにその後は漸減傾向をたどり、昭和五七年度は一一六万個で、四五年度に比べてその五一・三%とほぼ半減した。これは近年急発展を続ける民間宅配便の影響が大きいものと考えられる。

表公1-7 昭和20・30年代の引受郵便物数

表公1-7 昭和20・30年代の引受郵便物数


表公1-8 郵便局数の推移

表公1-8 郵便局数の推移