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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 愛媛県水道の創設

 県内水道の発足

 愛媛県の近代水道の発足は全国的にみてかなり遅れた。わが国の水道は既に述べたとおり、大正一四年末には全国にかなり普及しており上水道事業所数は一〇六、対人口普及率は二〇・五%に達した。しかし同年立方㍍、しかも浄水施設無しという有り様で、上水道・簡易水道はともに敷設されていなかった。このように県内設置が遅れたのは、明治・大正期比較的飲料水に恵まれていたこと、産業の飛躍的発展や人口の急増があまりみられなかったことなどによるものであろう。
 さて県内で最初に敷設された水道は、大正一五年(一九二六)九月完成の宇和島市上水道であり、大正期に敷設された県内唯一の本格的上水道であった。昭和に入るとまず三津浜町(現松山市)において、昭和六年(一九三一)三月設置された。これらはいずれも海岸部に位置しており、海水浸透などのため飲料水の水質が不良であったため、県内では比較的早い時期に建設されたものである。次いで道後湯之町(現松山市)に昭和一〇年一二月完成し、翌一一年三月には今治市・八幡浜市においても完工した。この五市町の上水道が戦前に完成したものである。なお松山市においても昭和初期より上水道敷設を計画したが、財源不足、水源地地元住民との話し合い難航、戦争突入などのため、完成は戦後に持ち越された。以下に戦前に建設された県内創設期上水道の主要なものにつき、その経過をみることとする。

 宇和島市上水道の創設

 宇和島市は明治から大正にかけて飲料水に恵まれず、井戸はあるが下水処理が不完全なため、その停滞による土地の汚泥化から水質の汚染が甚だしく、腸チフスなど伝染病が毎年のように流行した。このような状況から住民は水質の良い遠くの共同井戸から水を運搬したり、あるいは水桶で飲料水を買うなど(大正一二年ごろ一荷五銭)飲料水には甚だしく困窮する状態が続いた。そのため大正四年町制時代において既に町当局では上水道の必要性を認めて、調査を始め敷設の計画立案を進めたが、当時、町村は上水道敷設の国庫補助対象にならなかったため、実現に至らなかった。
 その後大正九年(一九二〇)夏、宇和島地方はコレラの大流行に見舞われたため、上水道敷設の要望が強まり、翌一の県内水道敷設状況は、わずかに専用水道二か所、計画一日最大給水量一、二〇〇○年、市制施行を機にその気運が高まったが、水源地の問題で地元の反対があり、急速な進展はみられなかった。しかし新しく発足した市当局は、基本的事業の第一歩を上水道敷設としていたため、大正一一年三月東京イリス商会のドイツ人ザーラー技師を招いて実地調査を行い、同年一〇月市役所内に上水道調査事務局を設置して、具体案の作成に当たった。続いて翌一二年二月市議会は水源調査費を議決し、同年六月二五日市議会に「上水道敷設に関する実施計画議案」を上程し、即日可決された(『愛媛県史資料編社会経済下』公益、宇和島上水道敷設のため起債議決参照)。これが宇和島市水道事業の基本方針となったのである。
 この議決に基づき、直ちに内務大臣に水道敷設認可を申請し、翌一三年六月認可を得た。続いて話し合いを重ねていた水源地関係住民との水利補償問題も解決したので、翌大正一四年六月起工し、一五年九月完成した(写真公2-1)。これが県下で最初、四国では高松市に次いで二番目に完成した上水道である。宇和島市創設水道の規模は次のとおりであった。
 〈給水区域〉旧宇和島町、旧丸穂村・八幡村 〈計画給水人口〉四万五、〇〇〇人 〈一日最大給水量〉五、六二六立方㍍〈水源〉宇和島市柿原地区の須賀川支流正し川の渓谷 〈工事費〉八九万八、八四三円
この水道は市民を多年の悪疫から守り、火災の損害を防止するものとして市民から歓迎された。施設としては浄水場(写真公2-1参照)の敷地が狭かったため、最新のろ過方式を採用し、薬品沈でん池二、急速ろ過池八、配水池二を築造し、市街地まで径一八インチ(四五〇㍉㍍)の鋳鉄管を幹線として敷設するなど、当時の小都市水道としては優れたものであった(注 昭和五一年三月、新柿原浄水場の完成により、この旧浄水場は須賀川ダムの湖底に水没された)。
 その後、宇和島上水道は、
 第一次拡張事業 昭和二八年三月着工三二年六月完成、工事費四、四一三万円
 第二次拡張事業 昭和三四年四月着工三七年三月完成、工事費一億三、〇七九万円
 第三次拡張事業 昭和四八年四月着工五一年三月完成、工事費四六億四、五〇四万円
によって施設の拡張充実に努め、昭和五六年度末の規模(『一九八四年水道年鑑』による)は
 〈計画給水人口〉六万五、九五〇人〈現在給水人口〉六万一、六一〇人〈普及率〉八五・四%〈一日計画最大給水量〉三万六、三二〇立方㍍〈一日平均給水量〉二万二、八四四立方㍍となっている。

 三津地区の創設水道

 昭和一五年(一九四〇)八月三津浜町が、また同一九年四月道後湯之町が松山市に合併されたが、当時この二町には既に水道が敷設されており、合併と同時に松山市が引き継いだ。従って松山市創設水道の完成は昭和三六年(一部通水は二八年)であるが、市の水道経営は昭和一五年八月から行っていたわけである。さて、三津地区は海岸部に位置し、州の広がりの上に伸展した町で、地下六㍍以下は「へどろ層」と言われる地質の関係上、古くから飲料水は極めて劣悪であった。このため住民は良好な井戸水を求めて遠路を運搬するか、あるいは「水屋」と言われる井戸水販売人から購入するしか方法が無く、日常生活に非常な不便を来し、あまつさえ腸チフス、赤痢などの伝染病が絶えず発生する状態であった。なお三津の「水屋」は記録によると明治初年から見られたようで、清浄な水を入れた桶を天びん棒に担ぎ、あるいは大八車やリヤカーに積んで販売した。水は、藩政時代の公用のお茶屋井戸(現三津浜小学校内)や江のロの辻井戸(写真公2-2。現住吉町四丁目)などから汲み上げていた。水の値段は半荷二~三銭、一荷五~六銭(一荷は三斗五升、約六三㍑。『松山の水道のあゆみ』より)であったと言われる。しかし「水屋」から買水できるのは一部の裕福な家庭に限られた。
 そのため、早くも大正五年(一九一六)には、町内有志による民営三津浜簡易水道が敷設され町内に給水した。水源は旧女子師範学校(現須賀町四丁目白楊会館)の東側の田の中に井戸を掘り、電力で楊水した。
しかしこれは極めて小規模なもので、導管も木管を使うなど施設が劣悪であったため、十分な成果を上げることはできなかった。
 このように上水道の設置は町民にとって長年の念願であったが、昭和に入ってようやくその機運が実ることとなった。昭和四年(一九二九)一〇月一日開会された町議会で上水道敷設計画案が可決され、同月一八日事業認可の申請を行った。そして翌五年三月認可を得て直ちに着工し、昭和六年三月末完成、給水を始めた。その後、古三津地区へも拡張し、翌七年三月一七日落成、竣工式をあげた。総工費は四〇万八、〇〇〇円で三津浜町内全域に給水した。給水人口は二万八、〇〇〇人、一日最大給水量は四、二〇〇立方㍍であった。その後この上水道は、昭和一五年八月三津浜町が松山市に合併されたのに伴い、松山市に引き継がれた。

 道後地区の創設水道

 道後は古くから温泉を中心に発展した地域で、旅館・飲食店などが多量の水を必要とした。しかし道後は地下がすぐ岩盤で井戸を掘っても湧水が少なく、しかも水質が不良で飲料水に適する井戸は少なかった。そのため大正のころより水道敷設の要望があったが、技術面並びに財政面などから実現には至らなかった。ところが昭和九年(一九三四)地域は空前の日照りが続き、さらには火災が相次いだため、飲料水の確保並びに消防水利の面からも上水道の必要性が高まった。そのため道後湯之町では、昭和九年三月、上水道の敷設計画をたて、同年六月愛媛県知事に認可を申請した。そして同年一一月認可されたので、一二月一日着工した。事業概要は
 〈給水人口〉八、〇〇〇人〈一日最大給水量〉一、二〇〇立方㍍〈水源〉元石手川本流跡の伏流水(道後湯之町神輿休)〈配水管延長〉 一万三、三二〇㍍
であった。工事は昭和一〇年一二月末完了し、翌一一年一月六日から給水した(写真公2-4)。その後一九年四月、道後湯之町が松山市に合併されたのに伴い、この上水道も松山市に移管経営されることとなった。