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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 わが国下水道の発足と普及

 わが国下水道の創設

 わが国では明治維新以前においても、江戸・大坂など大都市では、下水の排除のために溝渠を設けるなどある程度の対策を講じていたが、近代的な下水道が敷設されたのは、明治新政府が成立し、近代産業がその緒に着くとともに、都市人口の増加が始まってからである。東京市(現東京都)においては、明治五年(一八七二)銀座大火の後、街路整備の観点から、両側の溝渠を暗渠式に改良したが、これがわが国近代式下水道の最初とされている。その後明治一〇年、コレラが流行したのが直接の動機となって、本格的下水道敷設の気運が高まり、明治一六年、東京市ではオランダ人技師デレーケの意見を聴き、「神田水道」の敷設に着工した。
 さらに、明治三三年に至り下水道法(旧法)が公布され、大都市における下水道建設が促進された。ちなみに明治年間に着工した都市は東京をはじめ、大阪・仙台・名古屋・広島・神戸・岡山の七市であった。次いで大正年間には、津市ほか九市が、昭和に入って同二〇年までに、川口市ほか三四市が、それぞれ下水道法による認可を受けて着工した。
 しかし戦前の下水道は、財源措置が十分でなく、かつ機能的にも劣悪で、しかも当時の各市の極く一部の地区に限られていたので、ほとんどが公共下水道としての機能を果たしておらず、その多くは戦後、新しい施設に改善された。

 わが国下水道の普及

 第二次世界大戦後、わが国の産業構造は重工業重点に高度成長を続け、人口の都市集中が激しくなった。そのため公共用水域の汚染が進み、農漁業及び公衆衛生上大きな問題となるとともに、低湿地帯及び埋立地への浸水被害が増大したこと、さらには都市のし尿処分の農村依存度が極端に低下したことなどのため、公共下水道の必要性が急速に高まった。
 しかし、昭和二〇年代から三〇年代にかけては、国民の衛生観念の低いことや、多額の建設資金を必要とするため、財政負担の問題などから下水道の全国への普及は遅々として進まなかった。その後四〇年代に入ってから、ようやく公共下水道関連予算額の増大、国費補助の充実などにより、全国普及率が上昇することとなった。すなわち、全国公共下水道事業実施個所数の推移を見ると、
 昭和三五年度末 一四八、四〇年度末 一七二、四五年度末 二四九、五〇年度末 四八六、五五年度末六八二(全国市町村数三、二五六に対して二一%)
と増加した。また整備水準を総人口に対する普及率(処理人口/行政人口)の推移で見ると、
 昭和四〇年度末 八・三% 四五年度末 一五・六% 五〇年度末 二二・八% 五五年度末 二九・五%と向上してきたが、昭和五五年度末の普及率はなお三〇%に達せず、これは同時点の欧米先進国(普及率七二~九七%)に比べて著しく低水準にあり、今後公共団体などの一層の努力が必要とされる。