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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 わが国及び愛媛県における電気事業の創設

 わが国初期の電気事業創設

 わが国において実験室の外で初めて電灯がともされたのは、明治一一年(一八七八)であると言われている。つまり、同年三月二五日、東京虎の門の工部大学校(東京大学工学部の前身)における中央電信局開業式の晩さん会で、エアトン教授の指導のもとにアーク灯がともされたのが、それである。
 しかし、一般大衆が初めて電灯を見だのは四年後の明治一五年一一月に、東京銀座大倉組前に点灯された二、〇○○燭光の大アーク灯であり、写真公3-6に見られるように、毎夜大勢の見物人が集まったと言われている。続いて明治一六年四月に京都祇園、一七年五月には大阪道頓堀、さらに同年六月上野駅等に、次々と電灯がともされている。これらの多くは宣伝を兼ねた試験的なものであったが、電灯による照明がまだ実用化されていない段階で、企業化を見こしたこのような企画があったことは特筆に値する。このような民間の積極的な活動が、電気事業をそれ以後民営として発展させた原動力のひとつになったと考えられる。
 電気事業としてわが国で最初に企業化されたのは東京電灯会社で、明治一九年七月営業を開始。翌二〇年一月、鹿鳴館における白熱電灯の点灯によって実際の電気供給を始めた。しかし、それらはいずれも移動式発電機を使用して電気を供給したもので、本格的な架空電線による電気の供給は、明治二〇年一一月、第二電灯局(明治初期には発電所を電灯局と呼んでいた)の完成を期に始まっている。このような東京電灯の開業が刺激になって、各地に電気事業がおこされ、明治二一年に神戸電灯会社、二二年に大阪電灯会社・京都電灯会社・名古屋電灯会社などが相次いで創設され、明治二五年(一八九二)末には、全国で早くも一一の会社が開業。さらに同年五月には、京都市がわが国最初の営業用水力発電所である蹴上発電所を完成し送電を始めている。

 愛媛における電気事業創設

 京都の蹴上発電所の成功に着目し、愛媛に同種の発電所を建設しようと図ったのは、伊予鉄道の創立者小林信近であった。彼はわが国にまだ水力発電所が二、三か所しかなかった明治二五・六年ごろから、いろいろと調査研究を重ね、競願者の出現や資金応募者不足など紆余曲折の末、明治三四年(一九〇一)一二月にやっと伊予水力電気株式会社の設立にこぎつけた。社長は仲田伝之□(長に公)(じょう)、専務取締役小林信近であり、資本金の半分を出資して設立を支援した京都の才賀藤吉は監査役となった。そして翌三五年四月に湯山発電所を起工し、三六年一月に松山と三津浜に点灯、同年四月に道後湯之町に点灯するに至っている。
 同社は開業以来順調に発展し、明治三六年五月、取付電灯数三、〇○○個であったものが、三八年四月六、〇〇〇個、四二年五月には一万個に達している。他方、動力用も松山紡績への供給などによって四二年には三〇〇馬力の供給をするようになった。また四三年八月には、愛媛で最初の電気扇の販売を行ったと言われている。
 伊予水電の危機は、大正元年(一九一二)九月、才賀商会が不渡手形を出して破たんした時から始まった。才賀は明治四一年以来二代目の社長として伊予水電に君臨していたので、その余波をまともに受けて会社の信用は地に落ち、大正元年下半期は無配当、大正二年上半期は三万円の赤字に追い込まれ、同年九月整理委員長であった井上要が社長、新野伊三郎が専務に就任した。また、この大正二年は松山電気軌道株式会社が、その余剰電力をもって電灯事業を始めた年でもある。同社はもともと伊予鉄道に対抗するために設立されたものであるが、同年二月から伊予水電の供給地域であった三津浜方面をはじめとして各地域の顧客に働きかけ、短時間のうちに総取付数の約一割を獲得するに至っている。伊予水電はこのダブルパンチを受けて大正初頭は悪戦苦闘の時代であった。
 なお、明治末期には愛媛で他に有力な電気事業がおこされている。一つは東予地方、他は南予地方を供給地域とするものである。
 まず、東予地方では明治三九年(一九〇六)九月今治電気会社が設立され、事業は極めて順調に発展したが、新しい電源を西条の加茂川に求めようとして、地元での水力発電事業の企業化計画と衡突。県知事伊沢多喜男等の調停によって両者の合併となり、同四四年一〇月愛媛水力電気株式会社が誕生した。また南予地方では明治三九年、宇和島電灯株式会社設立の企画がきっかけとなって、宇和島町以外に東・西・北の宇和三郡の有志が発起人となり、四三年七月に宇和水電株式会社を設立、四五年四月野村発電所の完成とともに営業を開始した。このようにして明治の末には、東予に愛媛水電、中予に伊予水電、南予に宇和水電がそれぞれ誕生し、愛媛県全体に電気の光が広がりつつあった。

 住友における電気の生い立ち

 愛媛における電気の歴史をひもとく場合、住友による別子銅山関係の電気の生い立ちを無視することはできない。別子においては、全国の鉱山にさきがけたダイナマイトの使用、蒸気機関の輸入、最新式削岩機の使用、専用鉄道の敷設など銅鉱業の近代科学化が進められていたが、電気については足尾の古河銅山が一足早く、既に明治二三年(一八九〇)に、四〇〇馬力の自家用水力発電を始めている。これに対して別子最初の発電計画は落シ水力発電所の建設で、明治三二年二月申請。間もなく許可を受けていたが、同年八月の大山津波で計画は水に流されている。工業用としては明治三三年九月、四坂島に出力一七・五キロワットの火力発電所が施設され、カーバイトの製造に使用。翌三四年六月には、石油発動機を使用して別子採鉱課の機械工場に電灯がともされている。
 また、少しさかのぼって同年三月、別子銅山の基盤確立のため吉野川上流の高籔発電所建設に係わる河水引用願が、住友吉左衛門代理の鈴木馬左也と別子山村村長渡辺友次郎の連名で出されているが、高知県当局との折衝が進まず、その計画とはまったく別個に急きょ端出場工場内に火力発電所を建設することになり、翌三五年(一九〇二)五月住友最初の本格的な発電所として完成した。出力は九〇キロワットであったが、同年七月端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
 その後、落シ水力発電所、端出場火力の増強、新居浜火力など、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも四、〇〇〇キロワットに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような情勢であった。ここで浮上してきたのが、当時のわが国では先端をいく約六〇〇㍍の高度差をもつ高水圧の端出場三、〇〇〇キロワット水力発電所の建設である。この計画は明治四三年一〇月に認可され、工事は同四五年五月に竣工、七月から本格的な使用が始められている。
 この発電所の完成によって住友の新居浜における電気供給の基盤が確立され、従来のように供給不足による使用制限等の悩みは、ひとまず解消するに至った。住友は電力事情のこのような好転によって、懸案の肥料製造の実現化を進め、大正二年、新居浜に肥料製造工場(住友化学工業株式会社の前身)が創設された。また同年から、新居浜町・金子村・角野村・中萩村(ともに現新居浜市)及び別子山村に所在する同社の事務所、社宅、その他の建物に電灯がつけられた。さらに大正四年には、開削された大堅抗に昇降機捲揚機が施設され、第四通洞の開通に伴う抗内電車線の延長とともに、別子銅山採鉱の大動脈が完成した。