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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 電力の国家統制・管理時代と戦後の再編成

 四国における電力統合と四国電気事業統制協議会

 愛媛県で伊予鉄道電気が県下の電気事業を統合した昭和初期には、四国の他県でも整理統合が進み、徳島県では三重合同電気(昭和五年合同電気と改称し、一二年に東邦電力に合併)、香川県では四国水力電気(昭和五年高松電灯を合併)、高知県では高知県営電気と土佐電気がほぼ独占的な地位を固めていた。しかし、これらの電気事業者は、それぞれ独立して電力の供給を行っており、相互間の送電上の連絡はまったくなかった。従って、これを連絡送電線で結んで相互の電力の融通をはかり、既存設備の有効利用と新規設備の重複投資を回避し、電力供給の安定性と合理性を高めることが次の課題として生じてきたのは、いわば自然のなりゆきであった。
 そのための協議の音頭をとったのは、四国水力電気社長寒川恒貞であり、昭和三年(一九二八)五月に初めて会合が琴平町でもたれた。当初、参加者は上述の四国の五大電力会社だけであったが、住友系の土佐吉野川水電の需要電力が大きいこと、同社の送電線が愛媛・高知の両県にまたがっていること、高籔発電所(出力八、八〇〇キロワット)の完成によって大きな余剰電力を持つに至ったことなどから、最終的には同社の参加によって、昭和六年一二月、図公3-13に見られるような環状の連絡送電線を持つ取り決めが結ばれた。
 この四国地方における電力統制の取り決めは、電気事業者の自主的統制であり、その内容も経営の根幹にかかわる生産及び販売の統制ではなく、合理化を目ざした調整的なものであるが、全国的な電力統制の気運が醸成される中で、その一こまを示すものとして、重要な意味をもっていた。

 経済統制の進展と電力の国家管理

 第一次世界大戦以来の電力不足時代にスタートした各社の設備拡張計画は、大正末期から昭和初期に次々と完成し、大正二年(一九一三)における全国の発電出力六〇万キロワットが、昭和三年には三八二万キロワットに達した。他方、昭和二年三月に生じた金融恐慌から経済界はだんだんと不況色を強め、電力は著しい供給過剰になった。ここに大需要地を中心に激しい競争が展開され、電気事業者自体が何らかの形で自主統制をする必要に迫られると同時に、電力に対する国の統制が必要であるという世論をひき起こすもとになった。 このような情勢の推移の中、昭和六年(一九三一)四月、事業統制を目的とする電気事業法の根本的改正が行われた。この新事業法は、主務大臣に電気事業者に対する統制命令権を与えることによって、電気事業に対するこれまでの自由政策から統制政策への転換を示した点が注目される。特に料金その他の供給条件の認可制をとり、公益上必要なときは、それらの事項について命令を出すことができることや、電気工作物の施設の変更・共用・電気の流用、工事期間の伸縮を命令することができることなどによって、政府の統制は経営の根幹部分にかかわることになった。
 この時代においては世界恐慌に対処するため、各国は政府の経済に対する介入を深めていたが、わが国では、さらに満州事変(昭和六年九月勃発)をきっかけにその介入が加速され、戦時経済的統制色が強くなった。電気事業に対する国の施策も同様であり、特に日中戦争がおきるに及んで、国策遂行という見地から電力国家管理論が急速に力を持ち、昭和一三年(一九三八)四月、電気事業者の反対を押し切って電力管理法と日本発送電株式会社法を制定、翌一四年四月に日本発送電が発足した。
 続いて同一五年九月、電力国策要綱(一二年一二月閣議決定)に基づいて、政府は国家管理を配電部門にまで拡大し、全国約四〇〇余りの配電事業者を地域的に統合する案の実施にかかった。これに対しても電気事業者のみならず財界からも猛烈な反対があったが、結局昭和一六年八月、国家総動員法による配電統制令が公布され、同一七年四月に九つの配電会社が設立され、ここに電力の国家管理がほぼ完成することになった。
 日本発送電は、四国では土佐電気を除く大手四社と四国中央電力(土佐吉野川水電は昭和九年に四国中央電力と改称、昭和一八年に住友共同電力と改称された)及び渡川水電の主要電力設備の出資を受け、自社も電源を開発して各電気事業者に電力の卸売を行った。最初、四国には新居浜出張所が設けられ、初代所長には四国中央電力の常務取締役荘栄次郎が日発入社のうえ就任した。その後、昭和一七年四月、全国に九支店が発足し、新居浜出張所は新居浜支店となり、同一九年八月に四国支店と改称されている。
 他方、四国配電は当初日発の支店にあった新居浜市に本店、徳島市・高知市・松山市・及び多度津町(二〇年六月に高松市へ移り、戦災を受けて同年八月また多度津町へ戻った)に支店を置いたが、本店は同一九年五月に、当時の監督官庁であった軍需省四国軍監部のあった松山市に移っている。新会社が発足当時、各社から引き継いだ人員は、伊予鉄電一、六九二名、東邦電力四〇〇名、四国水力電気六五三名、高知県営電気六三四名、土佐電気三二一名で合計三、七〇〇名であった。

 電気事業の再編成と四国電力の設立

 昭和二二年(一九四七)一二月の過度経済力集中排除法の制定により、実質的に戦時中の統制形態を持続していた日発と九配電会社は、翌二三年二月に同法の指定を受け、ここに戦後の電力業界の骨格を決めることになる電気事業の再編成問題がおきた。
 再編成については、大別すると日発の「全国発送配電一社化案」と、各配電会社の「地区別九ブロック会社案」に分かれ、両者の意見は最初から真向から対立し、大きな政治問題となった。四国においても日発と四配の論争はもとより、配電事業公営化に向けて愛媛・徳島・高知の各県がその全国組織に参加し、さらに住友共電は、戦時中に強制出資させられた施設の返還に依拠する四国電気事業二分割案を唱えるなど議論がにぎわった。
 政府は昭和二三年四月に電気事業民主化委員会、翌二四年一一月に電気事業再編成審議会を設置し、再編成案の取りまとめを図った。しかし、いずれの委員会の答申も連合軍総司令部(GHQ)の承認が得られず、結局、参考意見として出されていた九地区別ブロック会社を主張する松永案をベースに総司令部の承認を得、同二五年四月の第七国会に提出した。ところが、この法案は会期切迫ということで審議末了になり、その後も政財界で紛糾が続き、このような情勢に重大な関心を持った総司令部は、同年一一月にマッカーサー元帥から吉田首相宛の再編成に関する書簡を呈するに至った。ここにいわゆるポッダム政令によって、一一月二四日電気事業再編成令と公益事業令が公布され、現在のような九地区に分かれた民営による発送配電一貫の電力会社が出現することになった。
 四国地区では、目発及び四配から出資並びに資産の譲渡を受けた四国電力株式会社が、昭和二六年五月一日に資本金四億円で発足することになったが、その本社所在地をどこにするかは、再編成問題が起きた最初の段階から注目の的であった。愛媛県と四配は松山市を主張し、他の三県と日発・住友共電などは高松市を主張した。持株会社整理委員会から再編成に関する職権を委任されていた公益事業委員会は、最初、本社所在地を松山市として指令案を作成したが、聴聞会等の意見を参考にして、最終的には地理的に便利で、官庁や金融機関の出先の集中している高松市に所在地を決めて、決定指令を各社に通達した。
 発足時の四国電力の概要は、次のとおりである。
 資本金四億円(四配の資本金三億四、○○○万円に、日発からの六、〇〇〇万円を加えた) 発電設備六七か所(うち八か所は火力)、出力二八万八、九八二キロワット(うち八万〇、七七五キロワットは火力) 送電線こう長一、九八一キロ㍍(こう長とは併架部分を一回線とみて算出した長さ) 配電線路こう長一万八、九〇二㌔㍍ 一般電灯二九〇万三、〇〇〇灯 大口電灯一万六、〇〇〇キロワット 電力四〇万四、〇〇〇キロワット 従業員数六、八一九名
 なお、社長には東邦電力専務取締役今日発理事などを歴任した宮川竹馬が就任した。

図公3-13 四国電気事業統制送電連絡線路図

図公3-13 四国電気事業統制送電連絡線路図