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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 高度経済成長と電気事業

 経済復興と電力事業

 第二次大戦中の空襲によって、電気事業の施設は大都市を中心に大きな損傷を受けたが、水力発電所はほとんど無傷で残り、供給能力を保持していた。他方、需要の方は、戦災などによって大きく減少(二〇年下期は前年同期に比べて三三%減少)した結果、終戦直後は一時的に供給過剰になり、日発では、余剰電力活用のために製塩事業を始める有様であった。しかし、薪炭などの不足に困っていた一般家庭では、電熱器が急速に普及し、また工場等の再開に伴う産業電力、特に石炭不足による電気ボイラーの使用による需要増大もあって、電力はたちまちのうちに供給不足となり、以後、各地で断続的に電力制限が行われた。
 四国においても電力需給のひっ迫は同様であった。大戦中から建設が進められていた高知県の長沢貯水池及び同発電所(住友共電により計画され、既に昭和一四年からダムエ事に着手)、分水第四発電所(これも住友共電の計画を日発が引継いだ)及び愛媛県の第五黒川発電所は、終戦前後にそれぞれ工事は中断され、他方、火力発電所は、戦中戦後の酷使と石炭不足のために出力が低下していた。さらに、電気料金は低物価政策のために抑圧されて修繕費も不足しがちであり、また再編成をめぐる日発と配電の争いも供給力拡充の妨げになっていた。
 しかも、四国の電力系統は他地区に比べて比較的に小規模であるとともに、河川の自然条件などのために渇水の影響が大きく、昭和二〇年代後半の四国電力時代になってからも、昭和二六年度と二七年度の両年度にわたって電力使用制限を余儀なくされた。
 四国における終戦直前から約一〇年間の年間総発受電電力量は、表公3-11に見られるように、終戦後三年間ほどの停滞のあと、昭和二三年(一九四八)に同一九年の実績を上回り、それ以後は着実な伸びを示している。つまり、四国電力発足当時の二〇年代後半は、戦後の経済復興に伴う電力需要増加の時期であり、他方、供給力の拡充は遅れがちであって、平年なみの出水程度では、渇水時の補給用と考えられていた火力設備をフル運転してもなお需給はひっ迫状態であった。
 このような情勢のもと、電力需給緩和のための電源開発が当面の最大課題であり、四国電力をはじめ、住友共同電力、そして昭和二八年の徳島県を手始めに、愛媛県・高知県の県営電力の開発が相次ぎ、四国電力が発足した二六年から五年足らずの間に、四国地区の発電設備出力の合計は、表公3-12に見るように五二・八%増加している。
 この期間の電源開発として注目されるのは、松尾川第一・第二発電所(運転開始二八年一〇月、最大出力は第一が、二万キロワット、第二が二万〇、五〇〇キロワット)である。これについて『四国地方電気事業史』は次のような高い評価を与えている。すなわち、電源開発は単に需給のひっ迫を緩和するだけではなく、四国の産業発展に寄与するために、できるだけ低利の資金で大容量発電所を建設し、低料金で豊富な電力を供給するものでなければならない。そのような方向ヘ一歩踏み出したのがこの発電所であり、「五十年代の伊方原子力発電所の完成になぞらえても不思議ではないような歴史的時代の重みを感じさせてくれる」と。

 水主火従の電源開発方式から火主水従への移行

 電源を何に求めるかということは、発送電技術の進歩とエネルギー資源のあり方によって変わってくる。明治中期にわが国で初めて電気事業がおこされた当時は、市内配電中心で都市近郊の小火力発電が主流であった。明治末期には送電技術の進歩と高落差・高圧力による水力発電の出現で、需要地からはるかに離れた大容量水力発電が可能になった。この趨勢は第一次大戦・満州事変・日中戦争・第二次大戦と、うち続く戦火の中での石炭不足や炭価の値上がりによって拍車がかけられ、昭和二〇年代までは「水主火従」の開発方式つまり発電量の主力とベースロード(基底負荷)は水力に依存し、火力は渇水時の補給用という考え方が一般化した。
 昭和二七年(一九五二)七月公布された電源開発促進法に基づいて設置された電源開発調整審議会も伝統的な「水主火従」方式を指示し、同年九月に発足した電源開発株式会社は、只見川・佐久間ダム・御母衣ダム等の開発に着手している。しかし、昭和二八年に関電の多奈川発電所(最大出力七万五、〇〇〇キロワット)、九電の苅田発電所(最大出力七万五、〇〇〇キロワット)、中電の三重発電所(最大出力六万六、〇〇〇キロワット)に世界銀行からの借款が成立し、ウェスチングハウス社やジェネラルエレクトリック社の高温高圧の新鋭火力発電設備が購入され、三〇年の末から三一年の初めにかけて相次いで運転開始された。またそれに加えて、中東から豊富で安価な石油がどんどんと輸入され始めるに従って、電源開発の主流は徐々に「火主水従」へと移行していった。
 四国でそのさきがけをなしたのは、四国電力の松山発電所(運転開始三三年九月、出力六万六、〇〇〇キロワット。二号機三五年八月、出力七万五、〇〇〇キロワット)である。この発電所は高温高圧の国産発電機(三菱電機製)を採用し、これまでのピーク時の補給用ではなく、発電そのものの経済性向上を目ざしたベースロード用の火力発電所である。瀬戸内地方の地理的条件を生かした全屋外方式によって建設費を軽減し、さらに中央制御方式で人員の最少化をはかっており、当時六万六、〇〇〇キロワット級としては全国一の高能率新鋭火力であった。またこの年には肱川水系の横林発電所(五、〇〇〇キロワット)や仁淀川第三発電所(一万キロワット)も運転を開始し、四国において戦後初めて需給の安定化が実現した。
 以後、阿南発電所(運転開始一号機三八年七月、出力一二万五、〇〇〇キロワット・二号機四四年一月、二二万キロワット)、新西条発電所(運転開始一号機四〇年一一月、出力一五万六、〇〇〇キロワット・二号機四五年六月、二五万キロワット)、坂出発電所(運転開始一号機四六年七月、出力一九万五、〇〇〇キロワット・二号機四七年五月、三五万キロワット・三号機四八年四月、四五万キロワット・四号機四九年五月、三五万キロワット)と大容量の新鋭火力が続々と建設され、表公3-13に見られるように四国電力では昭和四〇年(一九六五)以降、完全に火主水従に移行している。
 なお、この昭和三〇年代、四〇年代に開発された主な水力発電所としては、広野(運転開始三五年五月、出力三万五、〇〇〇キロワット)、平山(運転開始三八年四月、出力四万一、五〇〇キロワット)、蔭平(運転開始四三年五月、出力四万六、五〇〇キロワット)がある。なかでも蔭平は六二・五㍍のアーチダムを持つ揚水式発電所で、そこに使用されている斜流ポンプ水車は、運転開始当時、出力において世界第二位、揚程において世界第一位を誇るものであった。

 電気需要の伸びと需要構造の変化

 四国電力の昭和二六年度から同四五年度までの二〇年間の販売電力量の推移は、図公3-14のとおりである。年平均伸び率は、前半の一〇年間は全国平均を少し下回っていたが、三五年度以降は、年平均一二・八%と全国の伸び率一一・七%を上回っている。これは電灯需要が生活水準の向上と家庭電化ブームを反映して高い伸び率を続けたこと。また産業用電力需要も新しい企業立地や技術革新に伴う設備投資の増大によって着実な伸びを示したことなどによっている。
 電灯需要と電力需要との比率は、昭和二六年度二七%を占めていた電灯が、三五年度には一九%まで低下し、四五年度にはまた二四%に上ってきている。これは三五年度まで電灯需要は、照明用が中心で大きな伸びがなかったのに対し、三五年度以降は、図公3-15に見るように各種の家庭電化機器の普及で需要が伸びたことに基因している。
 また、昭和四〇年前後からビル冷房が急増し、四三年度を境にして冬ピーク型から夏ピーク型へ移ったことも、社会の生活様式の変化を反映して興味あるところである。
 なお、四国電力の愛媛県内の販売電力量は、表公3-14のとおりである。四国全体に対する比率は電灯需要は大体三五%前後でコンスタントであるが、電力需要は石油ショック後の五〇年度の落ち込みが大きい。しかし、これも五〇年代後半には昭和四〇年度の水準にほぼ近いところまで回復してきている。

 送電線の拡充と広域運営の発足

 電気をより高い経済性・安定性・信頼性をもって供給するためには発電に加えて、送配電線の整備が不可欠である。ここではその主たるものとして基幹送電線の拡充と広域運営問題をみてみよう。
 四国では昭和初期に各県を結ぶ環状の送電連絡線が建設され、日発時代に四国縦断の中央幹線の強化や分水線の新設が行われているが、四国電力発足当時は、その回線延長距離や送電圧の低さなどで送電容量は限定されていた。基幹送電線の本格的な整備は、昭和三一年(一九五六)から着手され、一八万七、〇〇〇ボルト用の超高圧送電線が、三三年に四国中幹線(西条~吉野川開閉所)と東幹線(吉野川~国府)、三五年に西幹線(西条~松山)、三六年に香川幹線(吉野川~香川)と相次いで運転開始になり、四国を東西に結ぶ超高圧送電線ができた。この基幹系統はさらに四四年に二回線化及びニルート化され、供給の信頼性は一段と強くなった。
 四国電力の昭和二六年度から四五年度までの送電設備の推移を、電圧別の線路こう長(併架部分を一回線とみて算出した長さ)でみると、図公3-16のように、総こう長は二六%の伸びであるが、その間に高圧送電線化が進んでいるのがよく分かる。
 なお昭和四〇年代に入ってからは、都市中心部での負荷の増大に伴って送電線の地中化か進められ、松山市などで地中ケーブルが運転開始されている。またそれと同時に変電所も、騒音や美観の点から地中化され、昭和四四年度には松山市番町などに地下式変電所が新設されている。
 次に電力の広域運営は、昭和三三年(一九五八)三月末の閣議で、広域運営への移行が了承されたことによって実現に向かった。四国との関連では、まず、昭和三六年八月に、鳴門海峡をはさむ淡路島への送電が開始された。さらに翌三七年一〇月に、四国と本州の電源の総合利用を行って資源の有効利用とコスト節減をはがるため、愛媛県の伊予変電所と広島変電所との間に、海峡連絡線としては世界有数の規模をもつ中四幹線(二二万ボルト)が完成した。前に述べた阿南・新西条などの大容量新鋭火力は、このような広域運営を背景に建設に踏み切ったものである。
 昭和三六年度から四五年度までの電力融通の実績は、図公3-17のとおりである。融通電力の主なものには、事故、異常渇水時の需給応援のための融通(需給調節融通)と、運転経費節減をはかる融通(経済融通)とがあり、その双方で年々かなりの送受電があることが分かる。なお、電力の融通先は中国だけにとどまらず、九州・北陸・東京・東北にも及んでいる。

 県営電気事業の開始と展開

 県営の電気事業は、単なる電力の供給を目的とするものではなく、阿川の総合開発事業の一環として行われている。つまり、それらはいずれも多目的ダムを建設し、治水・農業用水・上水道用水・工業用水等とともに、電力の供給をはかっている。
 県営の電気事業として最初に建設されたのは、銅山川発電所である。伊予三島市・川之江市を中心とする宇摩平野に住む人々にとっては、江戸時代から法皇山脈の向こう側を徳島県へ流れ出る銅山川の利用が悲願であり、遂に昭和一一年(一九三六)一月、徳島県側との間で分水協定が締結され、二四年七月に分水トンネルが貫通した。銅山川発電所は、銅山川に築造された柳瀬ダムから宇摩平野に分水する途中の高落差を利用するもので、第一発電所(最大出力一万〇、七〇〇キロワット)は昭和二八年一〇月、同第二発電所(最大出力二、六〇〇キロワット)は二九年三月に運転を開始した。この発電に利用される水は、年間約一億㌧近くあり、伊予三島・川之江地区の上水道や製紙工場の工業用水として広く利用されている。
 次に、昭和三三年一一月に肱川発電所(最大出力一万〇、四〇〇キロワット)が運転開始された。これは肱川流域全体の治水対策として建設された鹿野川ダムによる洪水調節と、それと一体化された電源開発を目的として建設されたものである。この発電所は昭和四九年度には県営発電所近代化計画の一環として、プログラム運転制御装置の新設を行い随時監視となっている。
 第三番目は、道前道後水利総合開発事業の一翼を荷うものとして建設された道前道後発電所である。「西の愛知用水」とも言われるこの水利事業は、西日本最高峰石鎚山に源を発し、太平洋に注ぐ仁淀川水系割石川の水を面河村笠方でせき止め、四国山脈の分水嶺をトンネル(約八㌔㍍)でくり抜き、瀬戸内側へ導くという大事業であった。発電所の建設は、ダムエ事と並行して施工され、昭和三九年一月、道前道後第一発電所(最高出力三、五〇〇キロワット)、第二発電所(一万一、〇〇〇キロワット)、第三発電所(一万〇、六〇〇キロワット)が同時に運転を開始している。これらの施設は昭和四七年度に近代化され、第一及び第二発電所は無人化され、第三発電所から遠隔制御を行っている。なお、この事業によって、年間約三、〇〇〇万㌧のかんがい用水が道前道後平野をうるおすとともに、帝人松山工場と東レ愛媛工場に日量一〇万六、〇〇〇㌧の工業用水が供給されている。
 最後に、銅山川第三発電所(最高出力一万一、七〇〇キロワット)は昭和五〇年(一九七五)七月に運転開始されている。この発電所は、吉野川水系水資源基本計画による早明浦ダム計画に基づき、宇摩郡新宮村にダムを築いて洪水調節をするとともに、銅山川から伊予三島市、川之江市にかんがい用水と工業用水を分水する途中の高落差を利用して発電を行うものである。ここの施設は、県営発電所では初めて主要機器がすべて地下に設置され、円形の塔におさめられて第一発電所から遠隔制御されている。
 県営発電所全体の昭和五八年度の目標供給電力量は、二億六、六〇〇万キロワット時となっており、発電された電力は住友共同電力と四国電力へ卸売りされている。

表公3-11 四国地区発受電実績の推移

表公3-11 四国地区発受電実績の推移


表公3-12 四国地区発電設備出力の推移

表公3-12 四国地区発電設備出力の推移


表公3-13 四国電力発電設備の推移

表公3-13 四国電力発電設備の推移


図公3-14 販売電力量の推移(四国電力)

図公3-14 販売電力量の推移(四国電力)


図公3-15 主要家庭電気機器普及率の推移

図公3-15 主要家庭電気機器普及率の推移


表公3-14 愛媛県内の販売電力量の推移

表公3-14 愛媛県内の販売電力量の推移


図公3-16 送電線路のこう長と回線延長の推移

図公3-16 送電線路のこう長と回線延長の推移


図公3-17 融通電力の推移

図公3-17 融通電力の推移