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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 戦前・戦中期の立地政策

 戦前及び戦中期における地域開発政策は、明治にまでさかのぼる北海道・東北の開発政策と第二次大戦の戦時体制下の国土計画の構想に代表される。
 北海道開発は、明治二年(一八六九)、蝦夷地が北海道と改称され、開拓使が設置されたことにより始まるが、初期の目的は、国防と移住士族による原野の開拓といった士族授産であった。その後、わが国の人口及び食糧問題の解決、産業への原料供給、運輸施設の整備等へ目的が移ったが、国策的色彩の強いものであった。
 東北開発も明治初期の一般殖産や華士族授産に始まる。しかし、本格的に展開されたのは、昭和六年(一九三一)の災害・冷害を契機として、昭和九年、官制の東北振興調査会が設置され、その提案に基づいて、昭和一一年、東北興業株式会社と東北振興電力株式会社が設立され、肥料・鉱産物・水産等の分野で殖産事業が行われた以降である。このように戦前の地域開発は、北海道及び東北地方といった特定地域の振興政策であり、全国的な視野に立った工業立地政策ではなかった。
 昭和一〇年代に入り、日本経済が戦時経済体制へ移行するに従い、地域政策でも国防上からの視点が重要視されるようになった。昭和一五年(一九四〇)に閣議決定された国土計画設定要綱では、「日満支ヲ通ズル国防国家態勢ノ強化ヲ図ルヲ目標トシテ国土計画」を制定し、「国土ノ総合的保全利用開発ノ計画ヲ樹立シ、一貫セル指導方針ノ下二時局下諸般ノ政策ノ統制的推進ヲ図ラントス」とうたわれた。(『資料新全国総合開発計画』第一一章「わが国地域開発政策の推移」参照。)
 戦前及び戦中期の愛媛県下においては、国や全県的視野に立っての工業立地政策は存在せず、工業立地や工場誘致は個々の企業と各市町村の直接の交渉のもとに行われた。以下では、戦前における工業立地の事例として、新居浜大築港と住友関連企業の立地、西条市の倉敷絹織(後の倉敷レイヨン)工場の誘致、松前町の日本レイヨン工場誘致の失敗と東洋絹織(後の東洋レーヨン)工場の誘致、宇和島市の近江帆布工場の誘致について述べ、戦時中における事例として、松山港建設と共同石油の貯油所及び丸善石油の石油製精工場の誘致について述べる。