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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 新居浜大築港

 大築港の動機

 新居浜町(現新居浜市)は、江戸時代から住友、特に別子銅山と密接不可分の関係をもっていた。ところが、その別子銅山の存続について大きな問題が生じた。昭和二年(一九二七)七月、住友合資会社から別子鉱業所が独立し、住友別子鉱山株式会社となった披露の席上、突然、事業地新居浜の最高責任者である鷲尾勘解治が、「別子銅山の鉱石は残り一七年分しかない」という鉱量調査の結果を発表したからである。この発表は、当時の新居浜町長白石誉二郎をはじめ町当局者に大きな動揺を与え、住友銅山終了後の新居浜の生きる道を考える動機を与えた。
 これに対して鷲尾は、住友銅山終末後の地方後栄策として次のような提案を行った。一、築港により新居浜港を改修して大型船舶の出入を可能ならしめること。一、沿岸埋立による工場敷地を獲得すること。一、化学工業の拡張を図ること。一、機械工業を起こすこと。一、大都市計画を樹立すること。一、市民に企業者と共存共栄の思想を涵養すること。
 鷲尾がこのような提案をしたのは、住友銅山の鉱石、なかでも硫黄分を多く含んだ硫化鉱を利用する肥料製造工業の拡張と、鉱山会社の機械課を母体とする機械製造工業を念頭に置いていたからである。また新居浜が工業都市として発展するためには、まず道路、港湾といった産業基盤を整備した後に、都市計画が必要であると考えたからである。
 鷲尾は、新居浜港の築港を彼の言う地方後栄策の第一要件とし、一部には住友内部で強い反対意見もあったが、昭和四年六月二十四日、愛媛県に新居浜築港計画を出願した。
       
 町会の意見

 住友鉱山の出願に対して愛媛県は、新居浜町の意見を求めてきたので、新居浜町会は同年七月六日に次のような「新居浜町答申書」を愛媛県に答申して事業の進行に賛意を表明した。

 「本町は地勢上海陸連絡の使命を完うすべく大港湾を設備し以て運輸交通の要衝となるべき事と、強固なる基礎を有する大工業の発達により諸般の産業又自ら進展するに至らしむる事とは、〔町是〕の二大眼目にして百年の大計ここに存するを疑わず。今回住友別子鉱山株式会社が出願したる築港計画の要旨は、本町を一大工業地帯化するを目的とし、これに伴う築港を設備し、一面公益に資せんとするものにして、同会社が抱持せる自家の事業と地方の福利とを調和せしめんとする根本方針に基づきたるものなれば、如上の町是と合致するものにして、その規模の広大実に国家的事業に属す。従ってその速成せられん事を切望す。蓋し漁業組合との関係は会社に於いて既に直接に交渉を開始せるを以て、円満解決の速やかならんことを欲して止まざるものなり。」

 第一次築港計画の内容

 『新居浜市史』によると、第一次築港計画の内容については、昭和四年七月、鷲尾が新居浜漁業組合代表と懇談の席上、図面をもって次のように説明している。

 「現在埋立中(肥料製造所北側八万坪)の続きを御代島まで延ばし、約二万四千坪埋め立てて港の西側を塞ぐ。金子川口の電気分鋼所西北部を揚地の各々一部切り取り新居橋の処まで浚渫。
 西原、中須賀地先で約七万四千坪とその東の入川口筋に六五間残して向新田高須地先で一一万二千坪埋立。尻無川口堀割西側より七〇間向側を御代島に向かって防波堤八〇〇間突出す。防波堤東側菊本海岸地先において約一〇万坪埋立。
 御代島白石鼻より一〇〇間の防波堤突出し港口を一六五間とする。御代島前で約一万坪埋立。
 港内浚渫は図の如く、浚渫深干潮水面下三〇~三五尺、公有水面使用は護岸を去る五〇~二〇間。
 港外西側で約五万坪、その西一〇〇間幅の入川を残し西谷まで約一一万坪埋立。
 以上埋立七区合計四八万坪。なお右は大体の計画で全部一度に施行するのでなく、防波堤は迅速に着手、その他は事業の必要に応じて着工、港外西端二区は銅山尾鉱の捨場として自然に埋める。
 右設計によって竣成した暁には、新居浜が四国第一の港となり、高松、今治港湾の如きはこの港の規模に比べてきわめて小さいものとなると、しかしてもし会社だけ必要の港湾であれば、現在の防波堤を少し補足すれば十分であるが、末期に及んだ銅山経営が終末を告げた後の対策として、新居浜町全体を包括した地方全般が利用できる港とするのである。」              (鷲尾常務口述)

 計画の実施と漁業者の反応

 住友別子鉱山株式会社は、大築港計画を発表する以前に、惣開港改修工事に着手し、昭和二年(一九二七)年、新居浜肥料製造所(住友化学の前身)の北側に海面八万余坪の埋立と、惣開港内浚渫を計画した。昭和三年七月、住友は公有水面の埋立について、漁業権にかかおるので新居浜漁業組合に同意を求めた。この埋立は、直接的には窒素製造工場新設の用地造成を目的としていたが、住友は、これが新居浜大築港につながるものであることをかなり明確に示唆していた。新居浜漁業組合は、これは単なる漁業権の問題ではなく、新居浜の将来にかかわる重大問題であるとして、まず新居浜町の態度が決定されることを希望した。この後の経過を当時の新居浜町長白石誉二郎は、昭和七年六月二八日、「築港防波堤が近く起工されんとするに至るまで」『新居浜市史』において、次のように説明している。

 「斯くて七月一六日町会に於いては地方発展を満場一致を持って其の事業の実現を期待し、一に漁業組合の同意を希望することとなり其の翌々日、本問題に関する漁業組合総代会の席上に町長及び町議会議員の代表者谷口、青野の両氏も参会して公有水面埋立に関する町の意見を吐露し其賛同を求めた。一時は突然案件として多少の衝動を与えたようであったが僅かに数十分間にして頗る透徹したる諒解の下に明朗なる回答があった。
 曰く地方発展のためには漁業者自家の利害を超越して漁場の一部を提供し公有水面埋立に同意する既に斯く決心する以上は敢えて代償を要求せぬ唯だ併しながら将来事業発展して人を要する場合は同能力のものならば漁業者の子弟を優先的に考慮してもらいたいそして之を文書に遺してもらいたい。」

 漁業組合がこのように決議した背景には、新居浜における住友と漁業者との密接な関係があった。新居浜町内における漁業世帯四〇〇戸のうち、住友関係会社に雇用されているものは既に二三〇人にのぼっていた。また、衰退傾向にある漁業からの過剰人口の就職先として、住友関連会社が期待されていた。さらに、新居浜地方の漁価が比較的高価に保てるのは、住友の事業地であることによると考えられていた。
 昭和四年の大築港計画においても、基本的にはこの関係は変わらなかった。四八万余坪の埋立によって前回とは比較にならない広範囲の漁業権を放棄することになるため、漁民の中には死活問題を訴えるものもあった。これに対して白石町長・町会議員・漁業組合役員らが積極的に補償問題で動き、町自体も漁業振興資金や漁業救済資金の積み立て、漁業組合基本財産の確保などの措置をとった。その結果、昭和四年一〇月の漁業組合総会において満場一致で無条件同意が決議され、会社は、組合に対して四万円を寄附して謝意を表した。
 新居浜大築港計画は、これより先の昭和四年九月に愛媛県からの事業認可を受けていたが、当時の経済不況のため着工はかなり遅れ、会社で再度の計画変更の結果、昭和八年五月に着工した。計画の概要は、一、総工費一〇〇〇万円、二、防波堤九一〇m(東七〇九、西二〇一)、三、浚渫土量六〇〇立方m、四、海面埋立一六〇平方mであった。
 着工以来五年を経て昭和一三年(一九三八)三月、この大工事は完成し、新居浜港の基礎が確立された。新居浜港は、単なる運搬港から大工業港へと港の面目を一新し、造成された工業用地には、昭和九年ごろからの戦時体制の波に乗り、各種工場の新増設が行われた。
 昭和九年二月、住友肥料製造所が住友化学工業と改称、同年六月、非鉄金属製錬業である住友アルミニウム製錬が設立され、同年一一月、住友別子鉱山新居浜製作所が住友機械製作所(現住友重機工業)として発足した。また、同年には、愛媛県下では初めての化学繊維工場である倉敷絹織の新居浜工場が、大江地先の埋立地に誘致された。(この工場は、戦時中に廃止され、のちに新居浜化学工業となった。)惣開地先埋立地の機械工場も拡大され、昭和一一年五月、菊本地先埋立地にアルミ製錬工場や電力供給のための火力発電所などが建設された。
         
 第二次築港計画

 大築港と呼ばれる第一次築港工事の完成後、臨港諸工業の新設拡張によって、新たに港湾を拡張し整備する必要性が生じてきた。このため昭和一六年(一九四一)二月、主として本港区の西側を対象とする第二次築港計画がたてられ、昭和一六年四月、住友鉱業株式会社名で公有水面埋立、防波堤築造、港内浚渫が愛媛県に出願され、昭和一七年八月に許可された。しかし、この改修工事は、着工後戦局の激化のために、一部が埋立てられただけで中止され、終戦を迎えることとなった。

図用1-1 新居浜港修築計画図

図用1-1 新居浜港修築計画図


図用1-2 新居浜港第二次築港計画図(昭和17年)

図用1-2 新居浜港第二次築港計画図(昭和17年)