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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

四 村落構成と農業経営

 今治藩の村落構成

 東伊予国今治藩領では、福島正則が、入封後直ちに、いわゆる太閤検地を実施し(天正一五年~)、現実耕作者を検地帳に名請し貢租負担者とした。その後領主の交替を経て、寛永一二年(一六三五)譜代大名松平定房が三万石の大名として今治にはいり、以後子孫が版籍奉還まで世襲した。定房は入封の翌年寛永一三年から同一四年にかけて検地を実施した。現存する四八か村の検地帳を分析すると、何らかの隷属関係をもつ、内附・分附・下人の肩書を付す名請人のいる村は、三二か村で、①今治城下町の近隣諸村には、ほとんど存在しない、②山村(鈍川上木地・同下木地・龍岡木地など)には、僅少ながら存在する、③中間地帯(戦国時代末期在地小領主が城砦をかまえていた地域)には、多く存在する、という分布の地域的傾向を指摘することができる。それは、おそらく、①の地域では、城下町の成立および発展との関係、②の地域では、例えばそのような肩書をもつ名請人が全然存在しなかった鈍川木地では、耕地は大郡分山畑であり、寛永一八年の検地帳によると二三軒の屋敷中二一軒の屋敷は二〇歩以下のほぼ似かよった大きさであり、最大の屋敷でも約一畝歩で、しかも一軒のみであることは、経済的に卓越した農民がいなかったこと、③の地域では、戦国時代の争乱および秀吉の四国征伐で、城砦は落ち、在地小領主は被官を連れて帰農した。その時在地小領主・被官武士の身分関係が、そのまま村落に持ちこまれ、在地小領主が百姓となると、被官武士は被官百姓となったこと、またこの地域は、城下町からある程度離れ、城下町経済に直接影響されなかったこと、などの理由によるものであろう。
 いずれにせよ、このような内附・分附・下人の肩書を持つ名請人の記載が、中間地帯で一般的にみられたことは、寛永一三、一四年頃、この地域(今治藩領)においては、本百姓の一般的形成が十分でなかったことを示している。
 下って貞享三年(一六八六)より元禄二年(一六八九)までの地平均検地帳の存在している五五か村を検討すると、内附・分附の記載されている村は九か村で、下人の記載は、どの村にも全くなくなっているから、今治藩領では、貞享三年頃本百姓(封建小農)が一般的に形成され、近世村落が確立したといえよう。

 宇和島藩の村落構成

 南伊予国宇和島藩領ではどうであろうか。天正一五年(一五八七)小早川隆景が筑前に転封したのち、南伊予国大洲には戸田勝隆が入封した。勝隆は入封直後、七月一四日付の「条々」を発布して、風早郡から検地を開始し(天正一五年「風早郡忽那島長師村御検地帳」)、宇和郡では、翌一六年検地を実施している(相前後して浅野長政も宇和郡にはいる)。
 宇和郡河内村の天正一六年、正保四年(一六四七)の検地帳および寛文一三年(一六七三)の下札帳(名寄帳)を整理して百姓高所持構成を示すと、表1-3のようになる。この表より、第一に、屋敷が三三軒・四八軒・五六軒と増加すること、第二に、名請人が九八人・八〇人・六〇人と減少すること、を指摘することができる。第一の屋敷の増加は、分家と下人の解放によるものであり、第二の名請人の減少は、主として検地帳と下札帳(以下名寄帳と表記)の性格の相違によるものである(検地帳には、年貢負担者を名請し、名寄帳には、年貢納入者を名請した)。本百姓の一般的形成期である寛文・延宝期には、検地帳の名請人数と名寄帳の名請人数がほぼ一致するから、河内村の寛文一三年の名請人六〇人は、もしこの年の検地帳があれば、その名請人とほぼ一致したことが推測される。しかも名請人六〇人は、屋敷数五六軒とほぼ一致するから、寛文一三年河内村の農民構成は、実態を示していたと考えてよかろう。しかも寛文一三年の百姓高所持構成は、七反以上の所持者が実に八〇%を占めているし、この年、庄屋下人三人が本百姓として解放されたから、寛文一三年河内村では、本百姓を中心に村落が構成されていたといえよう。
 宇和郡田苗真土村でも同様に、寛文一二年一町歩以上の所持者が、全高持百姓の五七・四%、五反以上の所持者が八六・七%を占めていた。
 宇和島藩領の寛文一二年本百姓・半百姓・四半百姓・庄屋別百姓構成を「弌野截牒」より示すと、表1-4のようになる。里方と浦方では若干の相違があるが、全高持百姓数に対する本百姓数の比率が、五九・三%、半百姓以上では、実に八八・七%を占めており、寛文期宇和島藩領においては、本百姓の一般的形成が実現されていた。

 近世村落成立期の農業経営

 それでは本百姓の一般的形成期の農業経営は、どのようなものであったろうか。今治藩領越智郡八町村についてみることにしよう。八町村(現今治市八町)は、今治平野の中央、蒼社川下流に位置し、今治城下町近郊村の一つである(条里制の遺構あり)。同村の貞享五年(一六八八)「畝高人別帳」を整理すると、表1-5のようになる。
 この表より、第一に、子供・兄弟の別家(分家)が一〇軒あるが、彼らは、本家の家族数に包含され、一人前の家としては認められていない。したがって別家の者は、主として本家の農業経営(地主手作)の労働力提供者である。第二に、農家二六軒中一三軒では、下男下女を雇傭している。下男下女は、おそらく年季奉公人であろう。第三に、牛馬各一匹以上を所持する農家が、全農家二六軒の六二%にあたる一六軒、牛半匹(共有)以上を所持する農家が八五%にあたる二二軒ある。第四に、一町歩以上の土地所持者が、全農民二六人の九二%にあたる二四人いる。第五に、庄屋孫右衛門は、下男(主として年季奉公人)一五人、(うち四人は女房と共に)、下女一人・下男の女子五人を雇傭し、牛二匹・馬二匹を使用して農業経営にあたっている(家守が管理)。などがわかる。つまり、本百姓の一般的形成期の農業経営は、主として地主手作経営であったのである。

表1-3 河内村土地所持階層別構成

表1-3 河内村土地所持階層別構成


表1-4 宇和島藩の百姓構成

表1-4 宇和島藩の百姓構成


図1-3 旧八町村付近(現 今治市八町)

図1-3 旧八町村付近(現 今治市八町)


表1-5 貞享5年八町村土地牛馬所持及び家族構成 1

表1-5 貞享5年八町村土地牛馬所持及び家族構成 1


表1-5 貞享5年八町村土地牛馬所持及び家族構成 2

表1-5 貞享5年八町村土地牛馬所持及び家族構成 2