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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 八藩の知行制と村

 松山藩の知行制と村
 松平松山藩は、松平定行が、寛永一二年(一六三五)桑名から一五万石の大名として松山に入封することによって成立する。初期の上級家臣としては、奥平貞朝二、五〇〇石、長沼之春二、五〇〇石、奥平貞由一、八〇〇石・遠山景朝一、八〇〇石・菅正勝一、五〇〇石(以上家老)、岡田五左衛門一、五〇〇石・山本権兵衛一、五〇〇石(以上番頭)らがいるが、これら上級家臣の知行状をみれば、松山藩の大よその知行制を知ることができよう。寛永一八年山本権兵衛宛定行の知行状をあげると次の通りである(広島市・山本茂夫氏蔵)。
 高千五百石遣置候、物成蔵米を以請取可被申候、仍如件
  寛永拾八
     霜月三日 (黒印)(定行)
            山本権兵衛尉とのへ
この内容は、①知行地が与えられるのではなく、高千五百石(石高)が与えられていること、②高千五百石の物成は、藩が決定した年貢率(免)によって、蔵米で請取ること、となっている。つまり松山藩の知行制は、蔵米知行であったのである。藩初より上級家臣が蔵米知行であったのであるから、すべての知行取の家臣は、江戸時代蔵米知行であったと考えてよい。換言すれば、藩によって決定された支給率によって蔵米を支給されたのであるから、江戸時代すべての知行取の家臣は、全く村とは関係がなかったのである。したがって松山藩の地方は、郡奉行―代官―大庄屋―庄屋という組織によって、全領内一律に支配されていたのである。

 今治藩の知行制と村

 松平今治藩は、松平定房(松山藩主定行の弟)が寛永一二年今治三万石の大名に取り立てられて成立する(のち三万五千石)。藩初最多の知行取の家臣は千石取の久松長政で、寛文六年(一六六六)知行取百石以上の家臣が八二人いた。元禄六年(一六九三)鈴木甚之丞宛定陣(三代藩主)の知行状は次の通りである(今治城蔵)。
 高百石宛行之訖、全可令領納者也
  元禄六年
     五月朔日 定陣(花押)
           鈴木甚之丞とのへ
この内容は、①知行地が与えられるのではなく、高百石(石高)が与えられていること、②高百石の物成は「領納」すること、となっている。「領納」せしむといっても知行地は記されていないから、藩が決定した支給率によって蔵米で受け取る以外に方法がない、と考えられる。したがって、この知行状は、前述の松山藩の知行状の表現と若干異なるが、内容においては同じものであったといえよう。つまり今治藩の知行制は、藩初から松山藩と同様に蔵米知行であったのである。

 西条藩の知行制と村

 松平西条藩は、和歌山藩主徳川頼宣の次男頼純が、寛文一〇年(一六七〇)西条藩主(三万石)となり、伊予国において最もおそく成立した藩である。頼宣は、すでに寛文八年紀伊国において、五万石を分知されていたから、西条藩領三万石との差二万石は、和歌山藩領において与えられていたが、元禄一一年(一六九八)から御蔵米二万俵と振り替えられた。しかしこの二万俵については、和歌山藩の財政とかかわって、宝永六年(一七〇九)より三万俵、寛保三年(一七四三)より二万俵、明和元年(一七六四)より一万五千俵、安永三年(一七七四)より二万俵、寛政三年(一七九一)より一万俵、同四年より二万俵というように増減した。
 また二代頼致・五代頼淳(和歌山徳川家より)・一〇代頼英の弟茂承は、のも和歌山徳川家をつぎ、六代頼謙は和歌山徳川家より西条松平家をついだように、両家の間には相互に交流があった。さらに文化七年(一八一〇)「御家中官禄人名帳」によると、二八人の和歌山藩士が西条藩士(うち家老一人)となっているように、多くの藩士が和歌山藩から送りこまれ、紀州知百石予州知二十五石 浅井弥六右衛門、五百石予州知七百石 菅沼政七のように両藩から家禄が支給されていた。このように西条藩と宗藩である和歌山藩との間には、経済的人的に濃密な関係があった。したがって西条藩の知行制は、和歌山藩の知行制の影響をうけたことであろうが、その実態については知行状などが残存していないので不詳である。
 ただ断片的な史料であるが、「当村(下島山村)ハ新右衛門(家老)の給所」(『西条誌』)、「享保四年八月旗奉行被仰付、依之御切米ヲ地方弐百石二被成」(「西条藩士根元録」)、「文政六年正月十一日出精相勤候付格別之思召を以御切米を地方百五拾石被仰付之」とあり、他方で、「宝永二年西条二而弥五左衛門(二百石取)病死酉物成者同名五郎右衛門二被下之」、「安永九年予州知弐百石之当物成被下」、「文政七年父寛右衛門(百五十石取)病死ニ付、当暮知行物成其子二被下候」(以上同上史料)とある。前者では地方知行を示し、後者では事実上の蔵米知行を示しているようである。おそらく西条藩の知行制は、地方知行の形式をとりながら、実際には蔵米知行であったのだろう。

 小松藩の知行制と村

 一柳小松藩は、寛永一三年(一六三六)一一月一柳直頼が父直盛(西条藩主六万八千石余)の遺領のうち周敷郡・新居郡のうちにおいて一万石を相続することによって成立した。小松藩において知行取(給人)というのは、六〇石以上を支給された家臣をいい、嘉永四年(一八五一)には二三人おり、同六年には、喜多川伊織が最多の四〇〇石で以下喜多川達之助一五〇石と続き、その他の者はすべて一二○石以下であった。天明二年の、「八拾石 高四百石 四ツ成 半知」によると、事実上の蔵米知行であり、物成は原則的には知行高の四ツ成(四〇%)であった。寛政六年(一七九四)支給方法を述べた触書に、
 一、是迄渡来候通之月々渡米、八九月分より五月分迄惣高引除置、十月分より六月迄ハ前月末々ニ村より直着、
  七月分より九月分迄者前月末々ニ於御会所相渡候事
と十月より六月までは、「村より直着」で、七月より九月までは、会所で受け取っているから、地方知行の形式を残しながら、実際には蔵米知行であったようである。

 宇和島藩の知行制と村

 伊達宇和島藩は、大坂冬の陣の功で、慶長一九年(一六一四)一二月秀宗が一〇万石を拝領し領主となることによって成立した。翌元和元年入封した秀宗は知行取の家臣に対して直ちに知行割を行った。元和六年一二月付二宮次右衛門・桜田玄蕃頭宛秀宗書状によると、知行地において「川成」(洪水で荒地となる)となったところは、知行地の農民の夫役を徴収して堤防を築いて起返し(開墾)、再度川成にならないようにせよ、それをおこたった給人は処罰せよと命じた。続いて元和七年七月付桑折左衛門・桜田玄蕃頭宛秀宗書状によると、第五条で「給人衆百姓悪しく召仕、知行荒所不成様可申付事」と給人に対し知行地を荒さないように命じている。つまり給人は、知行地が荒廃しないように、常に目配りをしなければならなかったのである。
 しかし元和七年七月付桑折左衛門・桜田玄蕃宛秀宗書状によると、秀宗は、両者に領内村々の仕置などを申し付けているから、知行地に対する行政権・裁判権は、蔵入地の場合と同様に藩(秀宗)にあり、しかも「若於違背輩」は、「其過軽重無機遣殺害申付者也」と藩主の権力の絶対性を示している。事実入封と同時に設置した郡奉行・浦奉行を通して、全領内を一律に支配したであろうことが窺えるのである。
 全知行取の家臣の知行地所持状態を、「天和二年六月改之御家中知行高名寄井村割付牒」を整理してみると、知行地は、分散相給で支給され、しかも知行地の村には必ず蔵入地が存在するから、給人の知行地に対する支配は、事実上できない状態にあったといえよう。しかも村免(村平均免)が設定されて年貢が賦課されているから、給人には知行地の免の決定権はなかった。このような分散相給による知行割が、七千石の桑折氏ら一部上級家臣を除いて、藩初から全知行取の家臣に行われていたことは、寛永一一年九月付中山喜太夫宛秀宗知行状で明らかである。つまり給人は、知行地から藩の決定した免によって年貢を徴収する、などの権限を知行地に対して所持していたに過ぎなかったといえよう。
 次に藩初家臣中最多の七千石の知行地を支給されていた桑折氏の知行地支配についてみることにしよう。御一門桑折左衛門(中務)は、政宗が初代藩主秀宗に後見として付けた人物である。彼は元和九年隠居して子の但馬に家督をゆずり、二年後の寛永二年(一六二五)八月死去した。七千石の知行地は、川原淵組(現北宇和郡広見町と松野町の大部分)にあり、川後森城跡に代官を配し、知行地の支配と土佐に対する警備にあたらせた。彼は必要に応じて知行地に出かけていた。
 桑折氏が仙台から宇和島に移る時、須藤内記・森岡五郎助らの知行取の家臣一七騎が従い、宇和島にはいった後、須藤氏は二五〇石(郡奉行)、森岡氏は一八〇石というように、それぞれ桑折氏の知行地で給地が支給された。森岡五郎助は、川後森城跡のある松丸村に隣接している延野々村で一八〇石が支給され、「延野々村二在宅仕罷在候」(享保八年「御家中由緒書」)と給地延野々村に居住していた。須藤内記の場合は、藩の郡奉行に任命されていたから、城下町に居住していただろうが、藩の役職にない多くの家臣は、森岡氏のように給地に居住していたものと思われる。
 寛永一二年(一六三五)子の但馬は、家禄七千石のうち六千石が召し上げられ、千石となる。おそらくこの時、一七騎の者をはじめ桑折氏の家臣の多くは牢人となったと思われる。牢人となった一八〇石取の森岡五郎助は、のち秀宗に四人分五石で召出され、宇和島城下に移住して奉公しているから、牢人となった多くの者は、藩の下級家臣として召し出され、給地を離れ、宇和島城下に移住したようである。つまりこれを契機に陪臣の給地居住はなくなり、すべての家臣および陪臣は、宇和島城下に居住することとなった。
 この意味で寛永一二年は、家臣団の城下集住が完成する年でもあった。そして同一四年知行地の割替えが行われ、続いて伊達氏による最初の検地が、正保二年(一六四五)から四年にかけて全領内に実施され、それを契機にして、「同年(正保二年)御入部以来御家来知行被下候面々ハ地方にて被下候処、今年限二相成、明三年より作毛之豊凶に拘ず御米にて被下候様御改事、右ハ岡谷兵太夫・桧垣助三郎両人二御領分総検地被仰付候処、地方ニテ被下候テハ御家来モ難渋有之、上ニモ御損毛多有之二付地方取被相止、然共其形ヲ存シ、御米ハ其割付之地(知)行所より知行取衆江直納二致候事卜相成」(「伊達家御歴代事記」)と知行制が改革され、正保三年から藩が決定した免による年貢(例えば寛文二年知行高の四割)が、知行地より給人へ直接納入されることとなった。すなわち地方知行の形骸化がすすむこととなり、以後版籍奉還まで、原則的にはこのような知行制が存続した。
 なお明暦三年(一六五七)宇和島藩より、伊達宗純が分藩して成立した吉田藩(三万石)の知行制は、明暦四年七月二一日「従遠江守様御譲御給人衆知行所」をはじめとする諸史料で明らかなように、宇和島藩の知行制を踏襲したものであった。すなわち、知行地は分散相給で支給され、しかも知行地の村には必ず蔵入地が存在しているから、給人は知行地から、藩が決定した免によって年貢を徴収するなどの権限を、知行地に対して行使するに過ぎなかった。

 大洲藩の知行制と村

 加藤大洲藩は、元和三年(一六一七)加藤貞泰が、米子六万石から大洲六万石に転封することによって成立する。加藤氏の知行制については、知行状などが残存してなく、不明な点が多い。「古来ヨリ代々大竹村定覚帳」(大洲市・有友家蔵)に、
  御蔵分之村々四歩壱歩覚
 一、高三百五拾三石八斗五升四合   大竹村内
  八十六石七斗弐升八合 如法寺役二引
  残而弐百六拾七石壱斗弐升六合 役高
  四歩壱歩利共
    米七石五斗弐升三合弐勺四才
  四歩利共
    豆拾弐石五斗壱升壱合壱勺八才
 右之通四歩壱歩当暮より給知並二可差出候、当正月より以後在々諸役日用賃可遣候間、林田助兵衛吉岡又市差紙次第二夫役可相勤候、給知村々前々より勤来役儀を給知並二可相勤者也
  延宝七年巳卯月朔日   会所より
とあり、延宝七年(一六七九)藩領には、「御蔵分」(蔵入地)と「給知村」(知行地)があった。そして蔵入地である大竹村では、知行地並に四歩一歩を延宝七年から提出するようになった。すなわち延宝七年から蔵入地と知行地が同じように取り扱われるようになったのである。また「温故集」巻之四に、 
 同御代(三代泰恒)初御家中知行四つならしに仰付られ候由、其以前は、
 御代々村々にて領地下置れ、地方物成にて候由承伝ふ
 同御代天和元年辛酉御家中御倹約仰付られ、物成一つ八分に仰付られ候、是より御家中甚困窮に及候、其節支配蔵並新蔵仰付られ、手前納相止候よし
と延宝二年泰恒が、三代藩主になると、次々と知行制の改革を断行したようである。すなわち、第一に、藩主に就任すると直ちに、給人が知行地から徴収する年貢の率(免)を一律に四つ(四割)とした。第二に、続いて天和元年(一六八一)の不作を契機に、年貢の率を一つ八分にするとともに、手前納(知行地の農民が給人へ年貢を直接納入)を中止して事実上の蔵米知行とした。
「大洲藩元文目録」に
   覚(元文元年)
 地方知行無高下
 一、高百石二付物成三拾石五斗 取箇
とあるから、知行地は与えられていたようであるが、藩が物成(年貢)の率を三〇・五%と決定し、おそらく藩庫で支給するという事実上の蔵米知行であった。そして以後このような知行制が続いたようである。
 なお大洲藩の支藩である新谷藩(一万石、元和九年分知されたが、内紛が続き、実際に知行地と家臣が確定し、陣屋が建設されるのは、初代直泰の寛永末である)の知行制は、おそらく大洲藩の知行制が、踏襲されたものと考えられる。
 以上伊予国八藩の知行制は、宇和島藩などのように、形骸化しながらも、一貫して地方知行制を実施した、南伊予国の外様の諸藩と、松山藩などのように、藩初より蔵米知行を実施した、東伊予国・中伊予国の家門・譜代の諸藩に大別することができる。前者の場合には、藩の地方支配組織を中心にしながらも、全給人が農村支配にかかわったが、後者の場合には、藩の地方支配組織によって一律に農村支配を行ったのであり、給人は直接的には農村支配に関与しなかった。なお西条藩のような場合は特例と考えてよかろう。