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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 畝高の乖離と有畝・有高

 有畝・有高の成立

 有畝・有高とは、検地帳の畝高に対して現実の畝高のことをいう。江戸時代における貢租は、検地帳に記載された村高に賦課された。そのため、不正確な検地は、問題外であるが、検地が正確であったとしても、検地は度々は行われないから、その間の災害、精農、惰農、入畝・引高売買など、すなわち自然的・社会的原因によって、検地帳の畝高と現実の畝高との間に乖離がおこり、貢租が不公平になるという矛盾が生じた。
 その解決策としては、領主の側からいえば、その都度検地をすればよい。しかし現実に度々検地をすることは、精農政策に矛盾し、費用がかかり、そのうえ農民にも不人気で、なかなかできない。事実幕府や藩が、江戸時代、全幕領や全藩領に検地を実施したのは、せいぜい一、二回程度であった。
 農民の側からいえば、検地はいやだが、そうかといって、長期間検地をしなければ、乖離が生じ、貢租の不公平が発生し、村内農民間に不満が増大してくるから、村単位で何か打開策を講じなければならなくなる。たとえば、検地帳の外に、農民によって村の現実の畝高(有畝・有高)を把握した土地台帳を作成する、というようにである。
 また地主の立場からいえば、質入、書入、売買をしたり、小作に出すような場合、有利な条件を確保するうえからも、有畝・有高を把握していることが必要であった。特に地主小作関係の展開の中で、地主が有利な条件で小作料を徴収しようとすると、検地帳の畝高より現実の畝高(有畝・有高)に小作料を課すことを考え、現実の畝高を記した小作帳を作成するようになる。
 以上のように、領主側からは、畝高といえば、検地帳の畝高しかないから、有畝・有高という呼称は、発生のしようがない。つまり、有畝・有高というのは、検地帳の畝高とは別の現実の畝高の呼称であるから、農民間で私的に呼称されたもので、基本的には、石高制にもとづく村請制の矛盾から発生したものであった。農民が検地帳の畝高を「御公畝」と呼称し、有畝・有高と対応させたのは、まさにそのことを象徴的に示しているといえよう。

 有畝・有高による土地評価

 松山藩において、最も早く有畝・有高に気付き、その打開策を考えたのは、代官林源太兵衛であった。彼は、延宝末すでに、「高は其地位より低く、畝は御定より広き上田計持候者、凶年にも作徳有之、右に反し、田は其地位より高く、畝は御定より狭き田地ばかり之上、しかも田の厄介田ばかり持候者は、豊年にも曽て作徳無之、凶作にも作徳有之者は、あて作にして、其身は業を勤めず、遊民となり、奢侈の病発して他の害大なり」(『松山叢談』)と、上田とは地位の高い田をいうのではなく、検地帳の田畑の地位より、現実の田畑の地位が高く、検地帳の田畑の面積より、現実の田畑の面積の方が広い田のことであるといっている。つまり上田とは「作徳」の多い田、すなわち地主取分の多い田のことである。その反対の田が「厄介田」といわれ、作徳のない田のことである。したがって、「上田」を所持する農民は、凶作時にも作徳が残るから富裕となり、田畑を集積し、集積した田畑は小作に出して農業に従事せず、「遊民」すなわち寄生地主化するという。延宝末頃、松山藩では、文禄検地以後検地がなく、検地帳の畝高と現実の畝高との間に乖離が相当進んでおり、彼のいう「上田」を多く所持し、有畝・有高で小作に出し、寄生地主化していた農民が、彼の目には、「遊民」と映ったのであろう。つまり彼は、害毒を流す寄生地主を成立させ、村落(地主手作の村落)を崩壊(農民層分化)させている元凶が、検地帳の畝高と現実の畝高の乖離(有畝・有高)にあるとみたのである。そして地主手作を中心とする村落を再建するには、元凶の乖離をなくし、貢租を公平公正にすることであり、それには、地ならし→割地を実施する以外に方法がない、というのである。その意見が藩に採用されるところとなり、ただちに彼は代官に登用され、松山藩の土地改革である、地ならし→割地の推進者となった。なお林源太兵衛の「上田」、「厄介田」という考え方の基準、すなわち田の良し悪しを判断する基準は、地位の高低によるのではなく、有畝・有高から生ずる作徳の多寡にあるとする、この考え方は、後世の地方巧者である田中丘隅らの判断の基準と全く同じで、林源太兵衛は、そのような判断の基準で土地を評価した最初の人ではなかろうか。

 松山藩の有畝・有高

 有畝・有高の実態を松山藩からみることにしよう。伊予郡北河原村塩屋(現松前町北川原)における天明六年三月付甚兵衛宛宇兵衛の「永代売渡申新田之事」(戒田栄「新田地主の所得に就て」引用史料)によると、新田二筆の高の合計は、三石六斗七升五合、定米(小作料、すなわち年貢と地主取分の計)の合計は、三石五斗七升二合で、高の九九・二%、「物成口米入用」の合計は、二石九升四合で、高の五七%、徳米(地主取分)の合計は、一石四斗七升八合で、高の四〇・二%、定米の四一・四%、「物成口米入用共」の七〇・六%にあたった。その他に「有畝米入用定米」、すなわち有畝分の小作米が六斗二升三合あるから、実際の地主取分は、新田二筆の徳米一石四斗七升八合と「有畝米入用定米」六斗二升三合の合計二石一斗一合となり、「物成口米入用共」より多かった。(一〇〇・三%)つまり売買証文には、「有畝米入用定米」が必ず記され、その額の多寡が、売買価格に直接影響したのである。

 西条藩の有畝・有高

 次に西条藩領新居郡松神子村庄屋小野家文書より、有畝・有高をみることにしよう。松神子村は、新居浜平野にあり、『西条誌』によると、各種の園芸作物が栽培され、また瀬戸内海に面し、享保頃から塩田経営が盛んとなった村である。村高は慶安元年(一六四八)三八八石余、元禄一三年(一七〇〇)三九五石余、享保一三年(一七二八)五三一石余、安永七年(一七七八)五四七石余と漸次増加し、約一・四倍となる。同様に耕地は慶安元年四四町歩余から文化元年(一八〇四)六六町歩余と約一・五倍にふえている。家数は慶安元年七二軒(高持のみと推定)、元禄一六年一三三軒、安永九年二二六軒、明治四年(一八七一)二三八軒と漸次増加し、約一・八倍となっている。被官百姓(家来)が享保年間にいなくなるいっぽう、豪農小野家は(貞享三年沢津村庄屋小野家から分家した孫兵衛が松神子村に住し、庄屋となる。享保一八年二二石余を所持)、持高を安永年間一一〇石余、天保七年(一八三六)一五八石余(天保一二年村外での持高を加えると四二五石余)と増加し、天保一二年には、村高の半数に近い二六二石余を、五人の百姓で所持し、他方で小百姓・水呑百姓層が増加するなど、農民層の分化が激しく行われた村である(岡光夫『近世農業経営の展開』)。
 このような社会背景の中で、小野家は、享保期から土地集積をはじめ、以後大土地所持者となる。そして小野家の所蔵する「本物売証文」・「売買証文」・「質入証文」・「小作証文」に宛畝・有畝などが登場してくる。つまり有畝・有高の発生は、地主小作関係の展開、農民層分化の進展と表裏の関係にあったといえるのである。
 有畝・有高について、小野家文書の「本物売証文」・「売買証文」・「質地証文」・「小作証文」などからみると次のようなことがわかる。
 第一に、小野家文書で、現存している「本物売証文」・「売買証文」・「質地証文」・「小作証文」などは、小野家が土地集積をはじめる享保四年(一七一九)以降のものであり、「宛畝」が記載された最初のものは、享保一二年の証文「売渡申本物書物之事」であり、同じく「有畝」が記載された最初のものは、元文五年(一七四〇)の証文「売渡申新田之事」である。なお当時の同一売買証文の中で、有畝・宛畝が混用されているから、有畝と宛畝は、同じ意味で使用されていたと考えられる。なお小野家の所蔵する土地売買に関する証文についてみると、享保一二年(一七二七)の「売渡申本物書物之事」から、宝暦八年(一七五八)の「本物売三年切証文」までの売買証文は、主として本物売の形式のものであったが〔本物売と表題されたが、年利一割八分から二割の利足がつき、しかも「本物売三年切」というように、実は年季売で、いわゆる本物返(本銭返)ではなかった〕、宝暦一〇年代から「売渡申田地証文之事」(宝暦一三年)のように「売買証文」の形式へと変わり、田畑の売買がさらに促進されていった。
 第二に、宝暦頃から、「売買証文」や「質地証文」に、検地帳の畝高のほかに、有畝(宛畝)・宛米(有高)・年貢・加地子などを詳細に記した、「覚」・「小帳」・「売附田畑改小帳」・「添へ帳」・「売渡証文二相添申田地畝高改帳」・「証文二相添候小帳」・「田畑売渡添帳」・「田地売渡シ添へ帳」・「仕出シ」・「付出シ帳」・「田畑仕出シ帳」・「証文添田畑仕出シ小帳」・「小附写」などと表題された一紙・綴および「田畑竿改帳」と表題された地主の検地帳が添付されるようになった。そして売買証文の本文には、「但有畝宛米別紙小帳添候通」・「但宛畝宛米委細別紙小帳相添申候」・「宛米宛畝御成米之儀者委細別紙小帳ニ記」などのように但書をして、別に詳細な添付物のあることを告知する場合もあった。このことは、土地の売買価格が、検地帳の畝高および年貢によって決定されるのではなく、検地帳の畝高および年貢と、地主の検地によって把握された有畝(宛畝)・有高(宛米)および加地子米との比較によって決定されていたことの証左である。宝暦一三年(一七六三)土地売買に際し、加地子の少ない土地を評して、「不益成買物」といっているのは、まさにそのことであった。そして安永八年(一七七九)「売渡申田地書物(検地畝・筆者)(前有畝・筆者)(現有畝・筆者)之事」に、本畝五畝一二歩、元畝六畝六歩、宛畝八畝と併記しているように、地主は、田畑の畝数の変化に応じて、有畝をその都度訂正していったのである。
 第三に、宝暦六年(一七五六)の小作証文「本物宛り証文之事」に、一筆ごとに畝高・有畝・宛米が記されたあと、「此分ハ定宛二私方へ宛リ申候、依之秋下リ之御断申出間敷候」と、この小作料は「定宛」であると記され、豊凶にかかわらず固定されていた。すなわち小作料の徴収には、貢租徴収方法と同様に、検見による方法と、定免による方法とがあった。それでは高および年貢に対して宛米(有高)および地主取分はどのくらいであったろうか。安永三年(一七七四)小野家の所持高(村内・村外)三〇四石八斗三升六合に対して、宛米は四三八石八斗一升六合で、所持高の一・四倍強であった。年貢のわかる隠居分についてみると、所持高一〇五石三斗六升に対し、宛米が一六八石九斗四升七合(所持高の一・六倍強)で、うち年貢が六九石七升二合で、宛米の四一%であった。この比率でみると、安永三年の小野家の取分は、二五八石九斗余となる。寛政三年(一七九一)から天保一三年(一八四二)までの「下作免米仕出帳」によると、およそ宛米の一割程度が毎年減免されているから(岡光夫「地主と小作人」)、計算通り地主取分があったのではなかったが、一割程度の減免分を差し引いても、地主取分か年貢と同じくらいとなり、いかに地主取分が多かったかがわかろう。
 なおつけ加えておくならば、小野家には、「種子貸覚帳」があり、文化三年(一八〇六)には、種子籾八石七斗が八一人の小作人に、種子大豆四石九斗四升が三四人の小作人にそれぞれ貸し出されており、収穫期の一〇月に三割の利足をつけて支払う約束となっていた(岡光夫「地主と小作」)。領主の種子籾貸の方法と同じである。そして種子籾および利足のことが、安永八年(一七七九)松神子村庄屋彦之丞(小野氏)宛宇高村勘左衛門の売買証文に、
   天滿口畝三反五畝
   本田高弐石七斗五升 但御種子り(利)なし
とあり、同九年一二月付彦之丞宛松神子村平三郎の売買証文に、「免一分二厘六毛種子利」と記載されていることは、種子籾の貸借の有無が、売買価格に影響したからであろう。
 以上のように、西条藩において、地主は、享保頃から売買証文に検地帳の畝高の外に有畝・有高を記載するようになり、さらに宝暦頃からは、所持地を検地して、有畝・有高で土地を把握し、検見あるいは定免によって高額地代(小作料)を徴収するようになった。また、種子籾・種子大豆などを小作人に貸与し、小作料未進の小作人に対しては、未進分に利足をつけて徴収し、小作地を取り上げ、鍬下年期(年貢免除期間)の新田を小作に出し、宛米(小作料)を徴収したりした。このように享保頃から宝暦期にかけて、事実上の地主的土地所有が成立しており、農村構造は、まさに大きく変質しつつあったのである。