データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

2 塩生産と村

 西条藩の塩田

 近世の塩業は、揚浜形態から入浜形態へとその生産様式を変えることによって、立地条件のよい瀬戸内海地域に集中することとなる。しかも塩業は農業より一そう労働集約型産業であり、多くの労働力を吸収できたので、周辺農村に大きな影響を与えたといえよう。
 近世伊予国における塩業は、瀬戸内海に面した東伊予国を中心に発達した。西条藩領の主たる塩田には、新居郡垣生・松神子両村の地先に開発された垣生・松神子塩田(以下垣生塩田と略記)と垣生・郷・松神子・阿嶋四か村の地先に開発された多喜浜塩田とがあった。垣生塩田は、慶長一三年(一六〇八)頃開発されたこの地方で最も古い塩田で、前浜(一一区・二〇町歩)と弁財天浜(九区・一六町歩)からなっていた。多喜浜塩田は、享保八年(一七二三)着工の古浜(一一区・一〇町四反余、のち一〇町六反)、同一八年着工の東分(一七区・二五町三反余)、宝暦九年着工の西分(一二区・一四町四反余、のち四区・六町七反余)、文政六年(一八二三)藩直営で着工の北浜(一七区・四〇町六反)、慶応元年(一八六五)着工の三喜浜(四〇町余)の五浜からなっていた。その総面積は、およそ一五九町余であった。

 塩田と生活

 これらの塩田が、その村および周辺農村の農民生活にどのような影響を与えたであろうか。宝暦九年(一七五九)一二月垣生・松神子両村の浜師総代の「口上書」に、「右浜ハ浜主より外大勢之渡世にも相成居申場所二付、……老人又ハ幼少之もの共迄も、向々ニ相応之業を相務、四辺をも仕、其上灰亦ハ越シ柄等ハ田畑江取入候二付、立毛も宣生立村之潤二相成」とあり、垣生塩田が両村の農民にとって、渡世上、農業生産上に大きな影響力をもっていた。
 文化一二年(一八一五)二月垣生村浜師惣代三人が連名で、「私共至而小身之者二而、少々宛リ地等仕、作間はたらくニハ塩浜仕成候而、其口過二罷成而居申候処、近年浜方不景気二付、下地困窮」と述べており、小作人層の作間はたらく、一〇人分銀一貫二〇〇匁、外に日用一五〇人此賃二一〇匁、〆一貫四一〇匁)、⑤一軒前一か年飯料(米二五石程)、⑥一軒前一か年分味噌・油(味噌一〇〇貫目代銀一五〇匁・油七升代銀二一匁)、⑦一か年分莚(凡三〇〇枚、此代銀一〇〇匁)、⑧ねば土・入替砂(一か年一軒分入用代銀一四〇目程)、⑨塩浜諸普請(竈家一軒・坪屋一軒・塩蔵一軒・浜稼小屋一軒・浜師共居小屋一軒、右五軒分一〇か年程に屋根替入用、凡銀一貫目程、其外小繕は年々少々づゝ)。すなわち、一軒前(一町三反程度)の塩田に必要な仕事の種類、量、労賃、必要な莚・味噌・油・飯米などが書き出されており、特に一軒前の塩田において、労働に従事できる者が、常傭一〇人、日用一五〇人、合計一六〇人で、農民らはこれらの仕事に、本業または農間余業として従事することができた。

 塩業労働

 塩業労働に従事するものを、一般的に浜子と呼び、その労働には、採鹹の仕事(海水から鹹水をつくる作業)と煎熬の仕事(鹹水を煮つめて塩をつくる作業)とがあり、職名で分けると、製塩場の総責任者の大工(年間雇傭)のもとに、採鹹の仕事に従事する、頭・副頭・配荷(以上半年常雇)・夏人・夏寄子(以上臨時雇)、当銀・浜寄・沼井踏・跡浜曳(以上日雇)や、煎熬の仕事に従事する、釜大工(昼釜焚)、夜釜焚(以上一か年立釜中常雇)などがおり、その他に、石炭の取入・用水取扱・石炭殼捨・塩運搬などに従事する「トハ追」と呼ばれる者がいた。つまり本業として雇傭される者はごくわずかで、大部分の者は、臨時雇か日雇であり、主としてこの労働に、農間余業として農民が参加できたのである。

 浜子の出身地

 延享二年(一七四五)多喜浜塩田の東分(一七浜)と古浜(一一浜)に雇傭されていた浜子の出身地別人数を整理すると表1-14のようになる。すなわち西条藩領を中心に、松山藩領・今治藩領・小松藩領・幕領の諸村(東伊予国)から働きに来ている。特に地元である現新居浜市域の諸村の者が、全浜子の五九%にあたる一五八人を占めており、隣接諸村の農民にとって恰好な働き場所となっていた。

 一軒前の雇傭労働

 一軒前(一浜)の雇傭労働の例を小野家の塩田でみることにしよう。大土地所持者小野家は、幕末多喜浜塩田の古浜で四軒分、東分で同じく四軒分の計八軒分を所持する塩田地主でもあった。その一つである東分一七番浜における文政七年(一八二四)の雇傭労働は次の通りである。浜子は、「給銀取」、「当銀日雇」、「職人」、「泥土入替」、「石炭殻積捨」に分けられていた。給銀取は、二六人で、そのうち煎熬作業に従事する定雇の者四人と日雇の者二十数人からなっていた。彼らの賃銀の合計は銭三貫六九一匁であった。当銀日雇(日給で労賃が支払われた者)の者は五八人で、主として採鹹労働に従事していた。その出身地は、郷村の者二二人(うち白浜一六人・楠崎六人)、阿嶋村の者一二人、喜多浜の者一一人など、ほとんど隣接村の農民であった。職人(生産用具の製作や補修に従事)には、樽屋(四人)・大工(三人)・鋳掛屋(一人)・かごや(二人)・かじや(一人)などがおり、その他に泥土入替の労働に従事する者三人、石炭殻積捨の労働に従事する者二人がいた。

 其他の仕事

 このほかにも塩の生産および販売に直接間接に関係した者がいたことはいうまでもない。燃料の松葉の採取・運搬にかかわった者もその一例である。明和六年(一七六九)古浜一一軒分の松葉購入代金は、総額銀五七貫七九一匁余、一浜平均五貫余であった。そして文化四年(一八〇七)に石炭の利用がはじまるまで、毎年およそこの程度の購入代金を要した。この松葉の使用量は、二〇万把で、その供給山林面積七六町歩余といわれるから、単純に計算しても、垣生塩田・多喜浜塩田に供給するに必要な面積は、実に五、六千町歩となる(岡光夫『村落産業の史的構造』)。
 さらに塩の運搬・行商にたずさわった者まで加えると、塩の生産および流通にかかわって生活した農民は、非常な数にのぼったといえるのであり、塩業は多くの農民が農間余業として従事できる最大の産業であったといえよう。しかし他方で塩田地主を生み出し、農村を分解させずにはおかなかった。すでに述べたように、松神子村における農民層の両極分化の原因の一つはまさにそれであり、一方で小野家のような豪農を生み出し、他方で多数の水呑層を生み出し、近世農村構造を大きく変質させたのである。

表1-14 延享2年多喜浜東分・同古浜の浜子出身地(1)

表1-14 延享2年多喜浜東分・同古浜の浜子出身地(1)


表1-14 延享2年多喜浜東分・同古浜の浜子出身地(2)

表1-14 延享2年多喜浜東分・同古浜の浜子出身地(2)