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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 農間余業と村①

 農間余業の成立

 農間余業とは、本業(農業)に対する呼称である。元禄・享保期に地主小作関係が成立し、収穫米は領主・地主・小作人の三者で分配されたが、小作人はそれのみでは生活がなりたたない場合が多かった。他方、綿・藺草・藍など、集約性が高く、利益の多い商品作物の栽培が普及し、それを原料として加工業がおこる、また塩・瓦などの農村手工業がおこる、さらに流通経済が拡大し商業が盛んとなる、などによって小作人の労働力を加工業・農村手工業・商業などにも吸収することができるようになり、ここに農間余業が社会的に成立する。
 また農間余業が成立・展開する時期、すなわち享保期前後は幕府および藩が財政的に困窮し、それを打開するため産業を振興する時期でもあった。たとえば、松山藩では、寛文期の牡蠣・白魚・茶の栽培のあとをうけて、四代定直(延宝二―享保五)以後、さらに塩・紙・白木綿・伊予縞・蝋・瓦などの国産が漸次開発され、商品として生産を増大していった。宇和島藩・今治藩でも同様に国産奨励を推進した。このような状況の中で、小作人層は、生活を維持し、貢租納入を補うため、本業よりむしろ収入の多い余業に精を出すようになる。

 宇和島藩の農間余業

 宇和島藩では、享和三年(一八〇三)一一月付御代官宛小梁川主膳・多都味清守申達に「近来無縁鉢之者多……且又所方本意取失、百姓ヲ致諸役等を相勤候事を厭、無縁二成、我儘二相働候者、本業ヲ怠、商業等二相掛」と農民が本業である農業に従事することを「厭」い、わざと水呑百姓となり、商業(余業)に励む有様であった、と述べている。
                                
 松山藩の農間余業

 松山藩では天保一一年(一八四〇)九月の触によると、町方で「高はた(機)木綿織方流行」と、流行していた高機による木綿織が村方に伝播して、主として婦人らの間で手間賃稼ぎとして織られていたが、さらに「為渡世一家打掛織方致候者も有之」と、本業として家族総出で木綿織に従事する家まででるしまつであった、という。特に小作人層では、小作による農業に比し収入が多いとみえて、ますます盛んになっていったらしく、一か月後の触にも同様に、木綿織の流行が町方のみでなく農村にもおよんでおり、「娘子供二至迄、高機織を習わせ、百姓之手業ヲ疎二致候向も可有之、男子分之者も手作ヲ減」と、農業から綿織業へと本業を移している農民のいたことが述べられている。水呑町では木綿織が許可されてぃたから、近隣諸村の農民は、それを逆手にとって、「借家住居又者転宅抔相願来候」と、水呑町に移転して堂々と木綿織に従事する者もあらわれ、また「自然為はたらく一家打掛」り、「此節二至候而ハ追々令増長、農業之時節二而も密々致織方、男子之儀も次第と作場ヲ小メ、高機世話筋二打掛、又者織方致候も有之、稀二者縞糸抔中買様之事二而、当時之利潤二奔リ候者も有之」と、専業たる農業を縮小あるいは捨てて、木綿織業を専業として「利潤」を追求する農民が増加する始末であった。このような状況は、他の諸藩でも同じであり、むしろ東伊予国・中伊予国の平野・島しょ部では、もっと早くから農間余業が盛んであった。

 永常の余作奨励

 農学者大蔵永常は、天保一五年(一八四四)に著した『広益国産考』のなかで、「御年貢を作りたる米にてはかりつめては、あまり残るものにはあらじ、高多く持ちたる農民は、兼ての備へあれども、わずか持ちたる者、又水のみの者は、田畑に作るより余作を心がくべし」、「いずれ農家にては、余作をして定作の外に利を得ることをせざれば、立行きがたきもの也」、「小作をする水呑百姓は、稲斗つくりては、徳分なくして作り損になるものなり、稲にて作徳なくても、麦・薬種にて徳分あるもの也」と述べている。すなわち小作をしなければ生活できない小高持百姓および水呑百姓は、稲作のみでは徳分がないから、商品作物をつくり、その加工(余作)を心がけるべきである、というのである。たとえば、松神子村における明和五年(一七六八)から嘉永四年(一八五一)までの作物の作付状態をみると、米(早稲・中稲・晩稲)・麦・黍・粟・大豆・高きび・ひえ・芋・唐芋・瓜・茄子・木綿・煙草・いちび・ごま・あいなど、実に多種多様な作物が栽培され、しかも作付面積が変化しているのは、商品作物の市場価格と関係したものと思われる。

 農間余業の禁止

 このように小作人層である小高持百姓および水呑百姓が、商業もふくめた幅広い余業を本業より重視するようになると、封建農村の基盤は崩れることになるから、幕府および藩としては放置しておく訳にはいかなくなる。そこで幕府は、安永六年(一七七七)に触を出し、専業にたいして「余業」というとらえ方をはじめておこない、百姓の専業は農業であり、「奉公人」、「商向」は余業であると規定し、余業に利益を求めて「走る」百姓を、本業を「取失」った農民としてきびしく批判し、「一途」に農業に精を出すよう命じた。
 宇和島藩の農 宇和島藩は、享和三年(一八〇三)一一月付代官宛申達で、「本業ヲ怠り、商業等二相掛、農事ヲ怠間余業の禁止 躰ものも在之候而ハ、甚以心得違之事二候」と、本業を怠り商業などに従事することは、全く心得違いだと断定し、「全体百姓之義ハ……万民之食過も生出大業」と百姓は万民の食糧を生産する最も重要な仕事であるにもかかわらず、近来は「本意ヲ取失、銀銭加平日之居成等豊成もの」と、本意を忘れて生活を豊かにすることのみに走るような時世となっている、まことになげかわしいことで、「農事を怠り候段、第一天道にも不叶事二候得者、……百姓之義者至而大切成事と心得、聊も余二目を不付、農事一遍二志、御田地をも作上、御年貢等大切二致、家督等取失之義ハ深く恥成事と心得候様、庄屋役人者不及申、百姓迄も能々相弁候様、直々教諭可有之と存候」と、大事な農事を怠ることは、天道にも合わないことであり、いささかも他の仕事のことを考えず、家督(田畑)を失うことは恥と考え、農業専一に心掛け、年貢を皆済するように申達した。

 松山藩の農間余業の禁止

 松山藩は、天保一一年(一八四〇)「百姓の本業ヲ取失」、「農業二怠、本業を失候儀有之」、「商業二馴、一郷之風俗ヲも猥候基」であり、そのことは、農民の気持ちを「職人・町人之心持」と同様にさせることとなり、「一大事之事二有之候」と、農業をおろそかにする農民の風潮に、藩は危機感すらいだいていた。ついに同一三年正月「当夏於郷中男子分高機織方并手伝一切不相成」「何様右はたらく之儀者於郡方害障不少候ニ付、水呑町之外ハ来正月(天保一三年)より一円差留候間、其段村役人共より端々迄急度可申聞候」と、農村での木綿織を禁止した。禁止を徹底するために、「織方不致候共、高機所持之向者、追而吟味之上咎方可申付候間、正月中(天保一三年)ニ取揃、宅へも差置申間敷、尚又当時迄無給・無縁之者百姓宗門数之向、水呑町江住居致候者数々有候処、此度境借宅又ハ縁類江同居抔致、高機織方致候而者、是以害障相成候儀二付、村役人共心ヲ添、水呑町江罷出候儀者、遂吟味差留可申候」と、木綿織はしていなくても、高機を所持するだけで咎められるから、高機は処理し家に置かないように、また無給・無縁らで、水呑町に移転し、木綿織に従事している者は、村役人が出かけて調査し、やめさせるように、という厳しいものであった。しかし同一四年藩は、「百姓家二而余業茂致候者ハ勿論、農家一通リニ而も身分不相応之家作」と不相応な家作の禁止を触れた法令(以上『松山市史料集』六)の中で、農民を「百姓家二而余業茂致候者」すなわち兼業農家と「農家一通り」の農家すなわち専業農家に分けていることは、現実には余業との兼業農家が多く、もはやそれを無視できない状況にあり、農業一途に励めといいつつ、余業を黙認せざるを得なかったのであろう。

 農間余業の実態

 西条藩新居郡松神子村では、「当村分塩浜ヲ少々ツゝ仕成、男女小供迄仕成塩焼立、船手売、荷内売仕候、素麺ヲも少々ツゝ仕立荷内売仕候、瓜之儀も相応之地二而少々ツゝ作り立荷内売仕候」(「風土記御用二付書上帳」)、「松神子村百姓共之内、五拾軒程以前より作間之はたらく二素麺仕来リ候」(弘化二年「御用方留帳」)と、塩田労働、塩・素麺・瓜の行商など作間の稼ぎのことを述べており、また明和八年(一七七一)「難儀人改帳」に、小百姓四六人・水呑百姓二四人、計七〇人が記され、彼らは主として山稼ぎ・日雇・奉公に従事していた(表1-15)。
 松山藩和気郡新浜村では、天保四年(一八三三)「村方之儀者農業計二無御座、大半塩浜稼塩売事等ヲ以、日々飯料等相調取渡付居申候」(『松山市史料集』五)と塩田労働に従事していた。
 幕領宇摩郡川之江村では、文化三年(一八〇六)「男者売買猟師渡海之運賃積、或ハ在方へ寵拾商……又他領他国村より茶薪売買二仕、日雇賃持抔……女ハ布木綿薪等樵申候」(「役用記」)と、作間稼ぎとして、男は商売、猟師、運送業、日雇などに従事し、女ははた織、薪取などに従事していた。文政八年(一八二五)「村々様子大概書」で、伊予国幕領四七か村の農間余業をみると、色々あるが、山の仕事・海の仕事・商の仕事・鉱山の仕事・布木綿織の仕事・交通運送の仕事に大別でき、村高が、一人当たり一石ないし一石五斗以上の村では農間余業が記されていないから、農間余業は、一人当たりの平均所持高と深くかかわっていたといえよう。

 農間余業と人口

 人口との関係において、もう少し具体的に農間余業をみるところにしよう。瀬戸内海の海辺部に位置する松山藩領野間郡浜村(瓦)および西条藩領新居郡松神子村(塩田)の人口・家数変遷は、表1-16、表1-17のように、その指数は、浜村で享保一〇年(一七二五)を一〇〇とすると、安政四年(一八五七)一六九、松神子村で、元禄一六年(一七〇三)を一〇〇とすると、安永九年(一七八〇)一六九・九で、その増加の大きいことがわかる。豊後水道に面する宇和島藩領宇和郡においても、「別而浦手之義者人高余計相増候」と浦手の人口増加が顕著であったと指摘している。事実たとえば宇和郡三浦村の戸口変遷は表1-18のようである。
 次に島しょ部である松山藩領越智郡大三島の諸村、大下島の大下村、岡村島の岡村、生名島の生名村、岩城島の岩城村の人口変遷および大洲藩領のち幕領(大洲藩預かり)となった風早郡中島小浜村の人口変遷は、表1-19、表1-20のようになり、伊予国の人口変遷表1-21と比較すると、島しょ部村落の人口増加が最も顕著であったことがわかる。
 つまり伊予国における人口変遷の中で、海辺部諸村の増加が大きく、さらに島しょ部諸村の増加が顕著であったのである。しかも時代的には、宝暦頃からの増加が目立ち、その増加は、主として水呑層の増加によるものであった。
 近世わが国の人口が、停滞を続けていたなかで、なぜこのように海辺部諸村、さらに島しょ部諸村において、人口増加が顕著であったのだろうか。第一に、瀬戸内海島しょ村落ないしその周辺地域において、商業的農業の展開および手工業の発展がみられたこと、たとえば伊予国において塩業・瓦生産・綿作などがそれである。これらには多くの労働力を必要とし、そのうえたとえば綿作では、繰綿・打綿・糸つむぎ・木綿織などの加工業を発達させ、多くの労働力を吸収することを可能にした。第二に、農業生産の増大、手工業の発展、流通経済の拡大によって、瀬戸内海の海上交通が発達し、それに関連して働き場所が多くなった。第三に、大阪および瀬戸内海地域の諸都市をひかえ、多くの出稼ぎを可能にした。などが考えられる。ここでは塩田、綿の加工業、出稼ぎについてみよう。

 塩 田

 延享二年(一七四五)多喜浜東分と古浜の二八浜において雇傭された浜子は、表1-14のように、東分が一五六人、古浜が一一三人で、その出身地は郡別にいえば、多喜浜が属する新居郡の外、宇摩郡・桑村郡・周布郡・越智郡におよび、藩別にいえば、多喜浜が属する西条藩領の外、今治藩領・松山藩領・小松藩領・幕領におよんだ。多喜浜にはこの外に、当時西分があり、その後北浜・三喜浜ができるから、多喜浜東分と古浜の浜子数から計算して、慶応期には総計七〇〇人余の浜子がいたことが考えられる。

 綿の加工業

 嘉永二年(一八四九)幕領宇摩郡川之江村大庄屋の「役用記」に、
  一、実綿壱本 目方拾弐貫四百目 此手間 老人女童共
   繰人   八人
   綿打人  弐人半
   よりもミ 五人
   黒口取  弐人
  〆拾七人余
 右之通聊実綿壱本二付拾七人余稼方渡世二相成、其余綿実七貫匁程出来候処、大坂表積登シ申候二付、船稼共為ニも相調可申候故、数千本実綿二御座候時者、村方小前一同第一ばんの稼二付、何分買入方相調不申而者、来春之処取渡相調不申、大二心痛仕候、此段御憐察被為成下度奉存候、以上
 とあり、実綿一本を繰綿・篠巻に加工するには、一七人半の雇傭労働を要した。したがって数千本の実綿があり、それを繰綿・篠巻にする時は、「小前一同第一ばんの稼ぎ」であったことはいうまでもなかろう。このように綿加工には多くの労働力を要したから、農民にとって綿加工は、副業として、あるいは農間余業として、重要な収入源であった。大蔵永常が、『広益国産考』で、農産物に加工することを奨励しているのは、まさにこの点にあったといえるのである。

 出稼ぎ

 松山藩領越智郡岩城村は一島一村で、良港があり、海上交通の要地で、本陣が置かれ、松山藩主が参勤交代の時立ち寄るのをはじめ、幕府船、大名船なども入港する藩際港でもあった。
 文化一三年(一八一六)正月および翌二月付庄屋組頭の願書によると、岩城港は、中瀬戸航路の要地で、幕府船、大名船・商船が寄港するようになったので、宝暦年中波戸を築いて港湾の整備をするとともに、造船所・修理場を設けたので、大坂・兵庫・近国などから造船および船の修理の依頼があり、船大工を数十人雇うまでになった。その結果、船宿・商店などが多くなり、また仲仕・日雇などの仕事が増加し、渡世が容易になったと。
 しかもこのような藩際港があるということは、商業的農業および加工業が盛んとなる。たとえば天保一四年(一八四三)一一月から翌一五年一一月までの間に、岩城港で積み込み、大坂に運送し売却した木綿織は、表1-22の通り二万八、二〇〇反、代銀一八三貫四九四匁であったことを考えると、集荷した木綿織が含まれていたとしても、雇傭を増大させたことは間違いなかろう。
 他方、寛政六年(一七九四)庄屋・組頭の願書によると、岩城村は「人数多キ村方故、作方計リ二而ハ渡世相調不申」と、人口多く農業のみでは渡世できず、「凡三四百人も船方稼二罷出居申候」と、三、四百人の「船方稼ぎ」の者がいたという。事実天保一五年(一八四四)には船方稼ぎ(他領)の者二二六人を数えた。なぜこのように多くの船方稼ぎの者がいたのだろうか。それは岩城村出身の船頭が、「其人之業前船二乗候事功者成故、船主より賃銀ヲ余計出し雇申候」(寛政六年「庄屋組頭願書」)と、操船技術に優れ、「沖船頭仕候者共ハ、別而叮嚀二相勤候付」と、誠実に勤務するので、大坂の船主らに「他所者よりハ岩城村之者ヲ船主茂自然望二奉存候」(同上)と、望まれ、沖船頭として活躍したからである。たとえば寛政六年庄屋・組頭の願書によると、大坂大和田屋長兵衛船(四〇〇石積)沖船頭甚次郎、同(四五〇石積)沖船頭善六、大坂淡路屋与右衛門船(四五〇石積)沖船頭利右衛門、大坂大津屋七右衛門船(二五〇石積)沖船頭幸助、同(三〇〇石積)沖船頭吉蔵、大坂豊後屋五兵衛船(三五〇石積)沖船頭清太郎の六人がいた。有能な多くの沖船頭がいると、「船ヲ任」せられていた沖船頭は、岩城村の者を自分の船に、船子・水主などとして雇傭するから、沖船頭をはじめとして、船方稼ぎで渡世する者が多くなったのである。
 このような出稼ぎは、岩城村の特例ではなく、瀬戸内海島しょ村落において一般的にみられた現象であった。松山藩領越智島(越智郡に所属する島々)の村々および同藩領風早郡中島畑里村の出稼ぎ状況を示すと、表I-23、表1-24のようになる。越智島の村々では、他頭(国)への出稼ぎが多く、なかでも日雇稼ぎ・船稼ぎが多かった。また大工稼ぎのように職人の出稼ぎが目につく。領内への出稼ぎでは日雇稼ぎが多かった。中島畑里村の出稼ぎ(領外・領内)では、木挽・大工が多く、しかも同村の職人数を示す表1-25と比較してみると、職人の大部分が出稼ぎをしていたことになる。
 特に安政六年(一八五九)松山藩領越智郡大三島甘崎村(村高一四七石余、家数二六六軒・人口一、二三九人)の出稼ぎ状況を詳細に示すと、表1-26の通りである。出稼ぎが一二○人〔他領(国)稼ぎが一一四人、領内(村外)稼ぎが六人〕で、人口の九・七%を占め、およそ二軒に一軒の割合で出稼ぎをしていた勘定となる。しかも出稼ぎの約半数にあたる五八人が世帯主(家数=世帯主の二三%)であった。また安政六年同島の盛村(村高三三五石余・家数二二一軒・人口七三九人)では、他領(国)稼ぎが二一人、台村(村高一五一石余、家数九八軒・人口五〇〇人)では、他領(国)稼ぎが五五人いた。
 このように幕末瀬戸内海の伊予国島しょ村落において、水呑および小百姓層は、大工・木挽・桶師などの職人、船稼ぎ、日雇などとして盛んに出稼ぎをしていた。もちろん好んで出稼ぎをしたのではなく、「人数多キ村方故、作方計リニ而ハ渡世相調不申、何レも難澁仕、無拠他所へ働二罷出候より外仕方も無御座」(寛政六年「庄屋組頭願書」)と、農業のみでは生活ができず、仕方なく出稼ぎをしていたのであり、文化一三年(一八一六)「岩城村庄屋組頭願書」によると、岩城港への入船が多くなり、日雇その他の仕事が増え、「他所働二罷出候者も相減シ、村方大二潤色二罷成、御百姓共者作間ニさゑんとの等作り、村方一同足元慥二罷成」と、出稼ぎの減少したことをよろこんでいる。このように出稼ぎは苦しいが、出稼ぎすらない村に比較すると、出稼ぎできたことは、生活を成り立たせる上で大きな役割をはたしたことだろうし、このことが人口を増加させた背景の一つであったことは確かであろう。大三島井之口村の藤井此蔵が、大工として中国地方などに出稼ぎをして財をなしたことを考えると(『藤井此蔵一生記』)、出稼ぎが、瀬戸内海伊予国島しょ農民にとって、渡世上いかに重要であったかがわかろう。

表1-15 明和8年松神子小百姓・水呑百姓余業

表1-15 明和8年松神子小百姓・水呑百姓余業


表1-16 野間郡浜村人口変遷

表1-16 野間郡浜村人口変遷


表1-17 新居郡松神子村家数変遷

表1-17 新居郡松神子村家数変遷


表1-18 宇和郡三浦村戸口変遷

表1-18 宇和郡三浦村戸口変遷


表1-19 越智島人口変遷

表1-19 越智島人口変遷


表1-20 風早郡中島小浜村戸口変遷

表1-20 風早郡中島小浜村戸口変遷


表1-21 伊予国の人口変遷

表1-21 伊予国の人口変遷


表1-22 岩城村木綿織売買状況(大坂)

表1-22 岩城村木綿織売買状況(大坂)


表1-23 天保15年越智島出稼状況

表1-23 天保15年越智島出稼状況


表1-24 中島畑里村出稼職人数

表1-24 中島畑里村出稼職人数