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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第六節 村の地域性

 愛媛県をよく東伊予国・中伊予国・南伊予国に分け、その特質やちがいについて色々ということがある。この三分割論はいつからいわれ出したものだろうか。近世伊予国の農村を書き終えてみると、近世においては、この三分割論よりも、島しょ部、平野部、山間部という三分割論の方が、説得力があるように思えてならない。
 近世初期、四国山脈と、それに連なる小山脈の山麓地域においては、東伊予国・中伊予国・南伊予国の別なく、名本・一領具足と呼ばれる旧在地小領主層に出自をもつ連中を中心に村が形成され、その後も人口は停滞し、社会は分解せず、さらに人々の生活様式・生産様式などにおいて、極めて多くの類似性をみることができた。
 その対極として、内海の島しょ部においては、たとえば、中伊予国で松山藩領の中島と東伊予国で今治藩領の越智島とを比較すると、近世後期、人口は激増し、村落は分解し、さらに人々の生活様式・生産様式などにおいて、相違性よりも類似性の方がはるかに多く、瀬戸内海伊予国の島しょ部として一括した方がよいように思われる。平野部においても同様である。
 このように見てくると、近世においては、東伊予国・中伊予国・南伊予国という三分割論には、無理があり、必ずしも当を得たものではないといえよう。さらに加えて、三分割論は、藩領を無視した分け方であるから、領国経済の成立する藩においてはもちろんのこと、成立しない非領国藩においても、藩領が単位となっている江戸時代において、藩領を無視したこのような分割論が展開されるはずがなかろう。
 おそらく、この伊予国三分割論は、古代の道前、道後のわけ方が下敷となって、さらに石鎚連峰から佐田岬半島を結ぶ北側、即ち瀬戸内の白砂遠浅・温暖寡雨に対して、南側のリアス式海岸・温暖多湿というように、自然的環境が異なり、また幕末維新期における瀬戸内諸藩(家門・譜代)の佐幕的立場に対する宇和海諸藩(外様)、わけても宇和島藩の維新推進的立場と政治的立場が相違したこと、などが加わって、いわゆる南伊予国が、自然的社会的に独自な地域を形成していると考えられ、明治以後になっていわれだした論ではなかろうか。
 なお「人国記」には、「伊予の国の風俗、大形半分々々に分れ、東郡七、八郡は気質柔らかにして、実儀強き形儀なり。それより西はすべて気強く、実は少なく見ゆるなり。」と記し、「新人国記」には、「当国の風俗は、大形半分々々に別れ、東七、八郡は気質柔らかにして、実義強く、西郡は都て気強く、却って実は少なく見ゆるなり。」と記す(『人国記・新人国記』(岩波文庫)。伊予国二分割論である。