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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第一節 国民性と県民性―その概念をめぐって―

 県民性の歴史を課題とするについて、その概念を少し確かめておきたい。
 このことばがしきりに用いられるようになったのは昭和四一年頃からである。しかし歴史を考えるに当たり叙述史料を扱うに際してその作者の心理や意識を常に念頭におくべきとか、過去の人びとの思考、感情にそくして史料をよむことの大切さは、昭和三九年発行の堀米庸三著『歴史をみる眼』にも強調されている。これが歴史の心性に外ならないと考えられ、そのような心理や意識・態度・思考・感情の愛媛県における時を軌道とした変遷が、ここにとらえようとする県民性の歴史を形づくるものと考える。
 さて県民性そのものについて昭和四四年発刊の宮城音弥著『日本人の性格』には「日本人の性格は地域により、府県によってかなりの差がある。(中略)このような地域的性格はしばしば『県民性』と称せられるものであるが、むろん県という行政単位で性格が違う訳ではない。(中略)三〇〇年続いた徳川時代には、全国が藩に分かれていたため『県民性』より『藩民性』が著しいことも忘れるべきでないが、地域によって人びとの性格に差のあることは否定できない。」と、地域の歴史的背景の中で育てられた、その地域独自の体質等に根ざした気質を県民性として把握している。
 同じ頃祖父江孝男は『県民性』なる書を公刊し、県民性とは「国民性における地域差」としてその分析を多角的に追求しているが、ここでは県民性は国民性の下位概念として定位されている。そこでしばらくその上位概念とされている国民性について考えてみよう、国語辞典や広辞林には「国民性とは国民一般に共通した性格」とか、 「その国民特有の気質」とか「一国民としての精神的特質」等と記述されている。この中では国民一般とか、特有とかいうことばが使われ、①国民の多くが所有している性質という意味と、②その国民が他の国の人びとと特に異なる独特の性質、という二つの意味を示していて、その特質をもった性格とか気質であるというのである。
 さて心理学的にはこの性格と気質とは多少の差異をもって使用され、前者は形成的、後者は生得的意味、あるいは前者は後者の上位概念として用いられるのが一般である。これに関しては後述することとして、「日本人は何故日本の仕方で生活し」「アメリカ人はどうしてアメリカ風のやり口で行動するか」等各国民は同じ人類であり多くの共通点をもちながら、何故に違った考え方、特有の物の見方、行動の仕方、生活の仕方をするのか。現在国際化の波が全世界に浸透し、多くの国民が共通の意識や考え方を持ちたいと願い、発達した交通とコミュニケーションの手段によって協調の気風が高まってきている中で、常に多くのカルチャーショックを基調とする事件が各方面で報じられているのは、そうしたぬぐいきれない各国民の心性の差の存在を肯定せざるをえないからである。
 日本は明治維新以来欧米各国に追いつけ、追い越せとひたすら疾走してきた筈であり、その実も充分上がっていたはずであるにも係わらず、太平洋戦争後のアメリカニズムの奔流にいかに攪拌されても、混ざりきれない何物かを残しているのも、明らかに国民性の差といわざるをえない。
 従来日本の国民性の研究の多くは、格言や作品・資料を通して包括的に行われてきたが、統計数理研究所では統計的調査によって、ほんとうに一般の日本人が実際どう考え、思い、感じ、行動するかを明らかにし、これがすべての日本人において共通のものであるか、あるいはどの程度の日本人において共通のものであるか(どんな回答の分布をしているか)、また人口学的に、政治的態度別、およびコミュニケーションとの接触の度合等によってどう異なっているか、さらにそれらの感じ方や行動がいろいろの場面でどう関係づけられるか、またそうした諸場面を総合してどんな行動のタイプを示すか、またそれらが時間的に変化するものか、しないものか、そういったことを客観的に素直な行動様式として描き出そうとしている。
 こうした考えの基に調査を蓄積した結果同研究所では日本人の国民性については次のような操作的定義を示している。
 (1) 外国人との比較によって、その相違点を日本人の国民性とする。
 (2) 調査結果のパターンそのものを日本人の国民性とする。
 (3) 日本人の意見が一致した点をもって定義する。
 (4) 日本人の国民性という以上、調査時期にかかわらず不変の性質でなければならないという考えから、調査時によって変化のなかったことを国民性と定義する。
 (5) (4)とは逆で、意見の変化があった場合その動きの程度や、変化の方向から国民性をトレースするという定義もある。
 以上のようであるが、(1)については外国で同時に同じ内容の調査を行い、国内の結果と比較する必要があり、昭和三六年牛島義友らによる西欧と日本人との比較研究はその一例である。(2)はいわゆるモーダル、パーソナリティ(最頻性格)、即ち最も多くの人びとが示す反応様式の集合という考え方で、最頻については3/4(七五%)ないし2/3をその目安とするのは一般的である。(4)(5)は共に時間軸上の定義であり、数度にわたる調査の累積を要する。
 日本人をそれぞれの国民におきかえれば一般の国民性となる訳であるが、同研究所の林知巳夫はそれについて
 (1) 国民の根源的特質たるべきこと
 (2) 国民に共通の特質たるべきこと
 (3) 国民の行動の予測性をもつべきこと
 の三か条をあげているが、(3)は時間軸上のパターンから、将来に対する予見の可能性を条件としているところに特徴があろう。林等はそれを基に典型的日本人のパターンを試みに示している(『日本人の国民性』昭和三六年、『第二日本人の国民性』昭和四五年 至誠堂刊参照)。
 同じ国土で生活を共にするものが、共通の性格を形成するであろうことは予想されるが、同じ国土内でも違った地域に住むものはそれぞれの自然・風土・文化によって地域独特の気質や性格を現すこともまた考えられよう。特にわが国では同一民族という信念をもち、ほぼ同じ言語を用い、今日では交通・マスコミによる画一化の進行が急であるといいながらも、各地域に自然条件・歴史的背景・民俗・生活特有のものがあるため、それらによってそれぞれ独特の住民性を育ててきていると考えられる。
 フォッサ・マグナを境として東北と西南との違い、太平洋側と日本海側との差、寒冷地と温暖地、亜熱帯地とのちがい、さらに三〇〇年の封建制度治下の各藩の統治者の性格や政策によるかなり孤立し、細分化された地域の差、それらが地方民性や「藩民性」を現出しているとも考えられる。特に一県を一藩として支配されていた数県では、「藩民性」がそのまま「県民性」となっていようが、愛媛県のように県下が八藩と二・三の天領に細分治され、それが近代までほとんど変わらないで継続しできた県では、固有の文化が育ちにくいとも考えられる。こういった県は愛媛の他に祖父江は千葉県、滋賀県等も例示している。
 また愛媛では明治の廃藩置県後も約二〇年間県の統廃合が続き、現在の分県体制に入ったのは明治二一年である。従って県民に同県人という意識は生れても当時としては県内の地域交流も少なく、交通も不便でそれまでの細分化された各藩の特色から抜け切れず、県民として等質な意識・態度の形成は容易でなかったであろう。恐らくその状態が大正期を通じても本質的に変わらなかったのではないかと指摘されている。
 しかしそのような地域の差をそのまま内包しつつ、今日やはり同じ県内に住み、同じ風土にひたって共同体としての共通の意識をはぐくみ、その地域なりの自然を讃え、文化を守り、地場産業を育て、新しい産業を創り、交通を発展させ、都市を構築し、多くの情報を処理してある種の共通な態度や行動傾向を形成してきていることも確かである。これを「県民性」として定位したい。