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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第一節 藩民性から県民性へ

 徳川三〇〇年の間伊予の各地を支配した各藩の政治体制が、それぞれの特色によって藩民の性格形成にあずかったことはいうまでもない。それはそれぞれの藩の政策や藩主の性格、藩の規模や藩士の行動、住民相互の醸し出す雰囲気、城下のたたずまい、あるいは住民生業の種類やその状況、その他諸々の働きかけや日常の生活が陰に陽に影響している。またそれらが時間的経過とともに伝統を形成してさらに住民の性格形成要因となったはずである。
 しかし上述のように伊予の国は八藩と天領に細分治され、それらが地勢の複雑さも手伝い、交通の不便さもあって各藩の交流も僅少、その上東予、中予では親藩大名が主流で、それらは幕府の意向によって転封され、いわば渡り経営者的性格があり藩治に特色が出されなかった、その他も小藩で意識の固定がなく、こういったことから一国としての統一した藩民性は育たなかったともいわれている。
 しかし他面親藩治下では幕府からかなり優遇され、豊かな生活を可能にして住民に穏やかな気風を生んだとも解されている。景浦勉著『伊予文化史』によれば、寛永年間松山城下の風景として「久松氏入城の頃は住民も少なく、風俗も頗る素朴であった。士族の婦女子がその家の主人の馬を門前で洗う姿を見るのが常」といった平和で穏やかな情景が町で見られたらしい。
 大石慎三郎は伊予人の気質形成について、次のような指摘をしている。「伊予は徳川三〇〇年の頭としっぽを他藩に占領されてはいるか(頭は土佐の長宗我部、九州大友の進攻、シッポは幕末での長州及び土佐藩の進駐をさしている)、その間は非常に平穏な時代が続いた。その上自然に恵まれ気候温暖で災害も少なく、生産力も高く生活もゆたかであっただけでなく、藩政時代の次の特色が考えられる。それは八藩と天領による細分治で、それには上述のような欠点も考えられるが、八藩中四藩(今治・松山・大洲・宇和島)は立派な天主閣をもっていたということ、城や天主閣は権力や圧政の象徴と見られることも多いが、城下住民の心の古里、誇りの源となる。それが人びとの精神を安定させ、その積み上げが伊予人の多くを平和で穏やかな気性に作り上げた原因の一つとなっている。」 (『近世伊予文化史』 昭和六〇年)
 この伊予人の平和愛好気質は、例えば近世の百姓一揆にも現れている。伊予はその件数は多く全国第三位であるが、これはその研究が進んでいる証拠ともなる訳で、その要求するところは役所の能率化を求める等で生活のゆきづまった結果からでなく、かえって豊かさの防衛であったと思われるふしがある。また伊予は俳諧が盛んで俳人が多かったのも生活に余裕があり、気分が落ちついていて、対象を俳句という形に定着させる心のゆとりがあったとされている。
 伊予の俳諧はすでに貞門の時期にかなり盛んであったのではないかともいかれているが、特に中予で俳人が多く、松山が俳句のメッカと一般にいられるようになった背景には、風土の温和さや、平穏の生活の外に藩主や、藩の重臣、例えば松山では松平定直、奥平弾正等が積極的な俳句愛好家であったことも考えられる等、藩士の行動が気風形成に大きな役割を担っていた証拠である。
 また伊予では八藩にそれぞれ藩校をつくっているが、その創立年度は南予外様大名の藩下に早く、中・東予の親藩が遅れている。その目的とするところはもともと藩の武士の教育という解釈も間違いではないが、大きな藩で一つの藩校では周囲への波及効果も少ないと思われるけれども、八藩にそれぞれ存在したということは、庶民教育を目的とする処が大きかったことを物語っていよう。また伊予は紙の生産が多く、その利用による識字能力、計算能力の向上も合わせて江戸時代の伊予文化の高さを推定することができよう。
 なお藩校における学問の内容については、松山・今治・西条藩では幕府の意向もあって朱子学が重用され、例えば小松藩では朱子学の大家近藤篤山の教化の影響で庄屋、町年寄に私利私欲のいましめがきいて、農民騒動がなかったともいわれているとか、南予大洲では陽明学を中心とした中江藤樹の薫陶が庶民に及んだ等、こうした藩校が明治以後の愛媛の中等教育文化の基となったといわれる。
 また宇和島藩では歴代藩主の意向もあって早くから洋学の導入があり、医学や砲術等で他藩の先鞭をつけていた。その奥には国学の浸透もあり、いわば和魂洋才の風潮を育成し、それが宇和島地方民の進取の気象を作る一助となった。宇和島は革新文化都市といわれたりもしたのは藩侯の施政の影響とみられている。
 以上は近代県民性を語る上で、その形成の根源と考えられる近世幕藩体制下の伊予人の諸相を瞥見した訳であって、明治以降の県民気質を語る糸口である。これによって全体として伊予人は温和で余り変化を好まないおだやかな気質であるが、藩の体制その他から各藩にはかなり違った性格が見られていたことが想像せられる。したがって伊予では〝藩民性〟がすなわち。〝県民性〟という移行は、直接には考えられなかった訳である。
 ここで少し翻って近代以前に伊予人はどう見られていたかを古い『人国記』によって垣間見よう。

 『人国記』に見る伊予人

 元禄年間に刊行されたとみられる『人国記』によると、伊予の国人については「伊予ノ国ノ風俗、大形半分半分二分レ、東部七八郡ハ気質柔ニテ、実儀強キ形儀ナリ。夫ヨリ西部ハ都テ気強ク、実ハ少ク見ユルナリ。古ヨリ是ノ国ニハ海賊満々テ、往来ノ舟ヲナヤマス由聞及ブニ違ハズ、今モ猶徒党ヲ立テ、一身ヲ立ツル族多シ。誠二関東ノ強盗、是ノ国ノ海賊同ジ業ニテ武士ノ風俗一段手強シトイヘドモ、武士道吟味之無キ故、危キコトノミ多キ風俗ナリ。末代モ人ノ気質二替リハ有間敷モノナリ」と書かれ、伊予人は海賊と同族で関東の強盗と同じく手強いと断じ、まさに平将門、藤原純友時代の継続のような記述であるが、四国の他の国についても大同小異で、余りよくは書かれていない。しかも人の気質は末代まで変わらない筈であると考え、今もそうであろうと水軍(海賊)時代の連続を元禄時代に感じているところに問題がある。
 上記『人国記』について、日本大学の長谷川貢は、昭和三四年、日本文化科学社刊「教育心理」一一月号の中に、「人国記に見る―県民性」と題して風土心理学的検討を行っている。その内容を少し引用して当時の愛媛への視点を探って見よう。
 『人国記』には旧本と新本があるらしく、旧本は四五〇年の前室町時代の作でその著者は不明といわれるが、一説には北条時頼が執権職を長時に譲ったあと、旅僧となって諸国を巡歴しその際に書き綴ったものというのであるが、全国六六か国二島について、住民の個性を記録し、進んでそのような郷土的個性を作り出すに至った諸因縁を推究しようとしている。(前記の『人国記』は旧本ではないかと考える)
 しかし最近の研究によると、この書物の中には応仁以後の史実と見るべきものが書かねているので、時頼の作ではあるまいということにもなっている。しかしこれだけの内容がまとめられているところを見ると、著者はよほど世故にたけ、人情に通じた人であったに違いあるまい。しかも政治、軍事の実際にっいて大いに興味と熱意を持って海内を周遊し、したしく民情を検察した人でなくてはなるまいと推定されている。
 現在の県民性が数世紀以前のそれを踏襲しているとは必ずしもいえないが、ある程度はそれを継承していようし、又現在との比較にも意味があろう。
 新本『人国記』は元禄一四年(一七〇一)の発行で、著者は関祖衡という。彼は旧本『人国記』の郷土性の記述を要約し、その郷土性のよって来る所は、多くはその国の風土や文化にある旨を付加した。それゆえ新本は旧本の単なる覆刻ではない。いわば軍事的、政治的目的から収録された郷土性の記録を、全く風土心理学的な個性心理学書にまで改造したのであって、殆ど新著であるといってもよい程の改造であるという。
 この『人国記』は木版本僅か一〇七ページに過ぎず、もし今日の活版本にすれば一小冊子となってしまうぐらいの容量ではあるが、その内容を江戸初期頃までに成立した心理学書の一種と見れば、まことに珍重に値すると思うと述べ、本書がわが国各州のお国かたぎをのべている点から見るといわゆる個性心理を取扱ったことになり、人の心意生活に関係するものとして風土を問題としている点からみると、風土心理学的著述である。しかもそれがドイツのヘルバルトが心理学教科書を出版した一八一六年より、一世紀以上も前であるということはわが国の誇りの一つであると見てよいとしている。
 さて『人国記』によると、個性分析の観点としてよく〝実義あり〟とか、〝実あり〟〝真あり〟等を用いているが、〝実義〟というのが一つの主要な観点になっているようである。今それらの観点を表にして四国四県を位置づけてみよう(その他の県は省略する。)。
 表中〝善型〟というのは、たとえば道義でいえば実義あり、健気あり、義理を知る、道理ありなどの類を示し、〝悪型〟というのはその反対を指している。
 これで見ると愛媛は高知・徳島とともに道徳型では道義の善型に類別され、〝実のある〟部類である。しかし余り覇気がなくて依存心が強く、党をつくることが多いと、この中には熊本や、佐賀、和歌山なども入っている。また気質では温和型で、おとなしく、それも和歌山と同類となっている。

図2-1 伊予八藩分布図(幕末)

図2-1 伊予八藩分布図(幕末)


表2-1 『人国記』に用いられた個性観察の観点の種類

表2-1 『人国記』に用いられた個性観察の観点の種類