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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 維新前後の各藩

 慶応三年(一八六七)一二月に王政復古の詔書が渙発され、徳川二六五年、鎌倉時代から六八二年の武家政治(封建体制)が崩壊し、同四年(明治元年)新政府は五か条の御誓文を公布して天皇親政・公儀与論・開国親和・欧米文化摂取等の基本政策を公にして、三権分立による中央集権制度の確立に及んだ。明治四年(一八七一)廃藩置県にいたるまで伊予では、親藩松山藩をめぐる新勢力との葛藤での一時的反逆呼ばわりや、土佐藩兵による無血開城等の事件と、宇和島藩の藩主伊達宗城の指導力と人格性による藩論の統一と、洋学の普及に伴う進歩的行動は対照的であったようである。
 慶応三年一月にイギリスの軍艦が宇和島に来港、その時の通訳アーネスト・サトウの記述によると、「藩主及び子女は少しも私たちを恐れる気色がなく、ヨーロッパの淑女と同じくらいの気安さで気持よく話をした」としるされている。その上宇和島の庶民の温かさ、人情の温かさがわかるといわれているところを見ると、宇和島地方の人びとの当時の気心が想像できるが、そのような気風の背後にある藩主の指導力は見逃せない。
 その他の藩についても大同小異であるが、今治藩は親藩でありながら維新時に反幕的立場のもとに行動をし、大洲藩は南予諸藩の影響もあって反幕行動をとり、宮中守護の任に当たるなどして一部は官軍の中枢に入っている等、混乱の中でまちまちの行動に出たことがうかがえる。
 しかし藩政時代親藩として多くの恩恵に浴していた松山・今治・西条藩等は、維新によって逆転の憂き目に遭い、新政府からは冷遇され、中央への参画も少なかったのは当然かもしれないが、外様であった宇和島藩さえも他藩に比べてはるかに進歩的であったというものの、その思想的展開が遅く、つまり維新時に幕藩体制の存続維持の希望が強かったため、新時代の激動から残され、その対応に立ち遅れた。幕末に指導的意識を持っていた藩主伊達宗城はその頭脳が逆に作用して、明治維新になって薩長の政府と相容れない結果となったらしい。
 その他維新前から見られていたように一般に和やかな県民性格は、反面情熱性の喪失として引き込み思案的行動にでることが多かったようである。
 このような情勢の中で廃藩置県時元の八藩はそれぞれ八県に、次に東、中予の五県は松山県に、大洲以南の四県は宇和島県の二県に分県される。明治五年には松山県は石鉄県に、宇和島県は神山県に改称、さらに翌年には伊予国を一県に統合し愛媛県と命名されている。その名称は古典、古事記上巻からきていることをみると、王政復古の大号令を神武創業にまでさかのぼって生かそうとした意向がうかがえる。
 その後明治九年には香川県を合併して広域県としたが、同二一年香川県の分置によって初めて今日の政治体制となっている。
 こうした制度が住民に与えた不安と動揺は計り知れないものがあったと想像される。従って前述のように当時の県民には一定の共通性格を見ることは難しいのではないか。
 そのような背景の中で、一応愛媛県全体の動向を二、三の観点から眺めて見よう。