データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

五 経 済 意 識

 経済意識といえばかなり幅広い内容をもっており、生産活動に関する意識から、人びとの日常消費生活そのものまで関係がある。
 さて江戸時代には庶民に対して生かさず殺さずの考えのもとに、働くことを中心として専ら消費は抑制して節倹を旨とし、つつましやかな生活をすることが基本であるという政策がとられた。これは国民支配の上で働くことが善であり、価値高いものであることを強調したものであった。維新を迎え明治国家は国力の充実、富国強兵策を進めるために、さらに民衆の勤労精神、勤労意欲をあふったのであるが、この勤労観は長く日本人の中に生き続けたのである。

 商品経済

 維新による廃藩置県の実施から商業の制約がとかれ、貨幣制度も整って産業の基盤は次第に整備されてきた。伊予のように多くの藩に分配された体制であった地域では、統一によって集権的支配体制とたったため、各領主の規制がゆるやかになってくると、他の同じような状況におかれた地方でも同様であるが、商品経済が盛んになるという特徴がある。しかし愛媛では東予、中予、南予それぞれ特色があり、土地生産力の差と相まって種々の格差を生じている。特に南予では水田が少ないこともあって商品生産への傾注が大で、商品が各地で産出された。さらにまた中予と共に、明治初期及び中期にも百姓一揆が多かったのも経済的においつめられた姿の一つのあらわれと見られよう。
 元々伊予人は商売気がつよく、よその国でかせぐという商売根性があったという。砥部焼の販路拡大策、伊予絣の東北地方まで商圏拡大、今治地方桜井の椀舟商法から分割払商法の案出、北前船による塩の積み出し等すべて舟による行商が主体とせられ、〝伊予の商人の通った跡にペンペン草も生えぬ〟、といわれた位活発であったらしい。このように江戸時代から伊予の商人はしたたかに生きてきた。

 殖産興業

 また維新後は全国的に殖産興業策が展開されたが、愛媛県の事情は明治二一年(一八八八)頃工業生産高の割合が他県に比してやや多いという統計であった。しかしこれは別子銅山の銅産出によるものが含まれていたためで、他の面では必ずしも他県程ではなかった。その中で生糸は維新後士族(旧藩士)がかかわって全県的に増産を励もうとした様子であるが、これが必ずしも順調にのびていなかった。特に当時は重点産業としてほとんど江戸時代からの在来産業、伝統産業が多く、しかもそれらは民間の手によって零細に続けられてきたものが多く、いま一つ殖産興業に貢献できなかった模様で、つまりは経済意識の面でも保守傾向かつよく、生産性の向上が望めなかった。これに対して農業の面では土地生産力の向上に努力し、農業人口の増加はほとんどなかったにもかかわらず、米の生産高は明治一一年から同二一年の一〇年間に八〇%も増加しているのである。
 この農業生産性向上の原因の一つに、愛媛の地主制の進行(小作率の高さ)を指摘する人もいる。地主制は古いイメージでは余り芳しくないが、一つの農業生産システィムと考えれば、返って生産力を高める原因となっていると解釈出来る。特に生産力の高い東予で地主制が多かったのはそのことを裏付けしていると見られる。

 消費生活

 次に明治当初頃の庶民の消費生活がどうであったかを知りたいが、残念ながらそのような庶民レベルでのデータは残りにくくてうかがうすべがない。ただ食糧の状況について維新当時米食は市街地の一部や、大地主等上層階級の人びと及び病人に限られ、農村では純麦飯あるいは一~二分の米と八~九分の麦飯、山村は麦、粟、稗、甘藷、とうもろこし等に僅かに米を混用したもの、島や沿海地方は甘藷、麦の単用、または一~二分の米麦を混ぜたものが常食であった。
 明治一一年の大蔵省による人民常食調べによると、伊予国では平坦村落の民は米麦を併食し、海岸及び島しょは、麦と甘藷に雑魚を常食として米穀は甚だ稀であるとしている。また山間僻地にいたっては、玉蜀黍を常食として甘藷、稗、粟、木実割並びに橡の類、樫の実、栗を入れて補助とし、米穀もっとも稀なりとあるから、大体その当時も維新前後と大同小異であって今日から見れば非常に質素な常食を用いていたことがわかる。
 西南戦争後の産業興隆に伴い、米の消費も漸増し、さらに日清、日露戦争後は一層全国的に工業が活況を呈し、庶民の生活も向上し米穀の消費も多くなった。第一次世界大戦後頃から経済的に成長し、米の単用あるいは混用の量もさらに増加し細民にして米飯を食するものが一般化してきた。
 明治二二年の調査で、愛媛の県外移出入の統計によると、米の産出約七四万石のうち約一一%が移出、一%が移入で差引約六七万石が県内で消費されている。当時人口約九一万人とすると、一人当たり年〇・七四石となる。また麦は生産約五八万石で移入を主とし、移出との差約一・五万石とされているので、その消費は約六〇万石、一人当たり約〇・六五石となる。したがって米と麦との比は五、四対四、六となり、大体米麦半々となるが、これによると一般庶民も明治中期以後はかなり米食が進んでいるものと見られる。
 米食の状況のみで庶民生活を推測するのは冒険ではあるが、他にデータがなく致し方ないが、当時愛媛の農産物の主要部分は県内で消費されていたと見られる。
 ところが明治三一年七月には県の布達として「細民の生活実況調査につき指令」なるものが出され、「刻下金融逼迫物価騰貴ノ折柄地方細民生計上ノ実況取調方……」「一家挙テ他ノ救助二依リ生活スルモノ……」「一家中一人或ハ数人又ハ幾部ノ救助を受ケ漸ク生活スルモノ……何戸、何人」等を見ると、日清戦争後生活がかなり苦しい庶民がいたことがうかがえる。
 しかし日露戦争後については、その戦捷の原因は教育普及の効に帰すもの多きを快事として、さらに国家主義忠君愛国の思想養成につき留意すべきことを通達したり、戦後伝染病予防について注意の告諭が明治三七年頃に出されているのを見るのみである。
 大正元年(一九一二)には勤倹貯蓄についての知事告諭で「県下ノ人文漸ク発達シ産業教育其ノ他諸般ノ事項逐年振興ノ機運二向ヒ之ヲ他府県二比スルモ敢テ遜色ナキ勢ヲ呈セリト雖独リ勤倹貯蓄ノ気風二至リテハ一籌ヲ輸セサルヲ得サルハ甚遺憾トスル所ナリ」として県下の奢侈の浸潤の傾向から、料理店や芸妓が増加している実情をのべ、「近年射倖心ノ勃興著シク勤倹力行ノ美風ハ漸ク傷ハレントシ徒二一攫千金ヲ夢ミ経験二乏シキ農民ニシテ投機取引二与リ為二産ヲ破ルモノ尠シトセス…」として純朴なる美風の地に落ちたことをうれい。県民一同敬悼謹慎の誠意を先帝陛下の聖徳に酬いる意味において尽すべきことを望んでいる。
 大正三年八月二三日ドイツとの宣戦布告、第一次世界大戦に突入したが、日本は余り大きな犠牲もなく、返って海外輸出の激増で産業は活況を呈し、経済界も上昇した。そのため県民も好景気に流されたらしく、大正六年五月には「時局に際し経済上注意の件」という訓令が出ている。「今次欧洲戦争二際会シ我国二於ケル海外輸出ノ激増二伴ヒ…経済界ノ活気ヲ帯フルニ至レルハ最モ喜フヘキ現象タリ、然レトモ一時ノ好況ニ狃レテ自ラ奢侈ニ流レ遂二将来ノ長計ヲ忘却スルカ如キコトアランカ、之レ寧ロ禍根ヲ胎スルモノニシテ誠二寒心二堪ヘス、……」列国は干才を交へつつ戦争後について準備を怠っていない、よく中外の情況を見て勤倹力行に励むべしという趣旨である。貯蓄を奨励し質素倹約の美風をまた一層鼓吹し、地方有志の率先垂範を薦め、貯蓄については副業の普及と奨励も付加し、特に郵便貯金をすすめ、その制度の改善と趣旨徹底を果たそうとしている等さすがに官庁の施策である。

 米騒動

 大正七年(一九一八)四月には物価の調節に関する訓令を出して、時局による経済界の変調と、そのために起こる物価の高騰が庶民生活に困難をもたらすことをうれい、特に米価の暴騰についての配慮をうながしている。ところが同じ日に、米騒動に関する告諭(その1)で欧州大戦による経済界の変調に、一般物価が高騰し日常必需品が値上がりし、中流以下の生活は困難を来している。「県民亦思ヲ茲二致シ奢侈ヲ誡メ射倖ヲ慎ミ生業二励精シ政府ノ施設卜相俟テ物価ノ平準ヲ維持スルノ覚悟ナカル可カラズ」(県史社会経済資料下)とし、晩近の米価の暴騰は供給者が将来の高価を見越して、売惜しみをしている為であるとして戒めている。
 米騒動についてはさらに八月に告諭(その2)を出しその暴騰を来したのは主として在米高の減少を予想して、将来の不足を把憂した結果であろうが、農商務省の調査によると全国で一、六七〇余万石の貯蔵があるから平静に対処するよう諭している。
 こうした告諭と同じ日時に、行政当局に対しては二つの訓令が出され、民心の安定を得させるよう勉むべきことを示している。当時かなり米騒動の気配のあったことを物語っていよう。
 大正七年六月二七日の愛媛新報記事では、米穀仲買人が買い煽りをして暴利をむさぼっているのではないかと記事が出ており、八月八日には「益々猛烈な殺人相場松山は日本一の高相場」とある。まだまだ上がると先を見越して買えば儲かるので盛んに買いたつる勢だから……小売白米はこの勢につられて奔騰し、自今の成行はどこまで上がるのやら殆ど底止する所をしらぬ塩梅であると書かれている。八月一三日―米屋の大恐慌、戸を鎖して休業、―市内の米屋は何れも戸を閉ざし家財をまとめ暴民殺到せんと一大不安の裡にあり。八月一四日、海南新聞では、政府は米騒動関係の新聞記事を禁止、一四日に伊予郡郡中町内にて騒動勃発、一五日松山にも飛火、何れも新聞には報道されなかった。(八月一七日以後、煽動的記事を慎しむという条件で、政府は記事さしとめを解禁した。)
 八月一九日には右の事が報ぜられ、二二連隊の出動が報ぜられている。同二三日宇和島で日本酒類醸造会社が焼打されている。同二五日に今治で盆踊りの集徒が米穀屋襲撃の暴徒となろうとする形勢が見え、事前に発覚鎮圧されている。
 九月五日、「子供に米価について語るな、卑屈陰うつの結果を将来するかもしれないので家庭で注意してもらいたい。無邪気な子供まで米の値段をあれこれいうようになったことは教職に従事するものの深く考慮すべき問題だと思います。この一時的暴騰が中学生以上は別として、小学生の頭脳まで刺激するに至った事は教育上悲しむべき現象で、小学生時代はなるべく鷹揚な心理状態を持続すべきものであります。」と当時としてはこのような経済問題は身近で切実な問題でありながら、子供にとってはその話中に引き込むことは、卑屈で陰うつな心を起させる結果になると考えられていた。

 正札販売

 このような米価の高騰に伴い各種商品の価格もつり上がったものと考えられ、商品販売に関する正札販売についての所報が、大正一三年五月松山商工会議所から出されている。当時正札販売が充分徹底していなかったことを物語っている。「必竟商品の陳列をするのは当業者の参考に見せるというのではなく、その目的はお客様に見てもらい、買ってもらうが為であって、正札を付け定価を入れ、また商品の特質である点の説明をつけおくということは、極めて必要なことである。従って正札もなく定価も説明もつけないで、ぶっきら棒に品物ばかり並べておくということは、お客様に対し頗る不親切、不忠義な致し方といわねばならない」と注意している。
 正札をつけるということは、取りも直さず品物に対する信用をまし、品物の価値を充分に了解させ、購買意欲を促進させる。すなわちその陳列品は所謂「物をいう商品」となるのであって、お客様に便利と安心を与え、非常に親切な感じを与えたことになると、一般消費者意識の向上を促していると共に、消費者の方にもそれを受けてたつ意識の昻まりがあったからこの挙に出られたものと想像できる。