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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第三節 昭和前期の三予人

 昭和前期と時代区分を一応しても、この時代の風潮は明治、大正の連続線上でその流れをくむことが多く、また前期をどこまでとするかも明確に切り難い。ここでは太平洋戦争終結直後昭和二五年(一九五〇)ぐらいまでとしたい。この時代の県民気質について主として先人の観た種々の発言を引用して推測するが、大体は全国的に軍国主義への急傾斜の中の生活で、思想や言動が極度に統制されていたのは周知の通りであって、その中からの取捨である。

 昭和初期

 社会的には色々の事が起こっているが、明治初期程の事件ではない。昭和二年(一九二七)には国鉄が松山まで開通し、四月に産業博覧会が開催されている。同四年には梅津寺に水上飛行場開設、同六年九月には満州事変勃発、七年には上海に飛火、同年五・一五事件が起こり社会は騒然としていた。その他当時不況の嵐が吹き県下中等学校の退学者が続出しているし、各企業や公務員、教員等の給料も約一〇%値下げが実施されている。
 昭和八年武知勇記は、『日本の伊予人』に次のように寄稿している。「維新前における伊予の歴史は早く文化にうるおい、文明に浴した。従って二〇○○年の間に文にまたは武に多くの人材を出しており、またこれらの人材が一世に感化した力、後代に遺した徳風がないではない。
 しかし回天の事業を成就して百世の下、なお仰ぐ者をして感奮興起せしめるに足るような名を留めた稀代の怪傑は、おしいかな伊予にはまだ一人もいない。」と。
 武知勇記は後年愛媛一区より衆議院議員に当選し、郵政大臣に就任した郷土の政治家であったが、当時から伊予人は早々文化に浴しつつ、その微温に馴れて一騎当千の気慨が養われていなかったようである。
 こうした中で昭和一〇年国鉄は大洲まで開通、省営バスは松山―佐川間に走るようになった。丁度この頃社会不安の煽りの中で越智郡小西村(現大西町)山之内に新名所明堂のお狸さんという拝所が出現した。それはその拝所の裏にある八岐の山桃に、松山市榎町の八岐榎の狸が帰来して霊験を現したといわれ、当時イヨ大井駅に下車して参詣する人は一日万を超えたという。
 警察は流言取締まりその他に八方手を尽くして鎮圧しようとしたが、事実として現れたというご利益に喜悦する参詣者は陸続として跡をたたず、一時は浜に急造の桟橋を設けたりしたが、拝所へ行く道の両側の売店は三〇〇店を数え、参詣人は五〇万を突破したという(「愛媛及愛媛人」昭和九年一〇月)。
 ほんの一時的なパニック現象ともいえるものであったが、当時の国鉄の込みようは並大抵でなかったのを憶えている人は今日でも多い。農業恐慌による社会不安と、精神的動揺の典型的発露であったと考えられる(なお地元の方の話によると、その拝所の跡は昭和六二年現在も一〇メートル四方のお堂が現存し、参詣者もぼつぼつあるとのことである。)。
 昭和一一年愛媛県文化協会編集になる、『伊予偉人録』の中で、昭和一〇年までに登場した方々の色分けを見ると、県下で七一名が選ばれているが、東予が二二名、中予二六名、南予二三名で、各地区とも政治家、実業家が多いのは大体類似しているが、中予は教育者が多く選ばれているに対し南予にはなく、南予では俳人、歌人が多い。その他篤農家や芸術家は東予のみで、神官が選ばれているのは南予のみである。選者の主観によるとは思われるが、地域の特色を多少現しているとも見えよう。
 これを見ると当時の偉人観は、事業家、政治家、教育者、俳人、歌人に傾き明治・大正期と比べて軍人の地位が落ちている、これは大正期のデモクラシーの影響と考えられるが、この後は軍国傾斜となる。
 昭和一〇年伊予海軍同郷会が誕生している。その目的は県民が切磋琢磨し、相互の向上を図るとともに、海軍思想の普及徹底を計ることであった。伊予人の欠点は結束とねばりに欠けていることで、その点について改めて見直す意味でもあり、伊予は古来幾多の忠臣を輩出し、わが国水軍の発祥地でもあり、加えて日本海海戦の名将秋山真之の故郷であることをふまえ、県出身の海軍士官、士官候補生、海軍兵学校生徒、依託学生が毎月の給料の1/100を会費として拠出しこの会を支えていた。
 前年満州(現中国東北地区)で人質となり銃口を顔につきつけられて拉致されていく途中、日本軍の救援捜索隊の接近に際し「日本人ここに在り」と叫んで自らを犠牲にして多くの同胞を救った、義人村上久米太郎を悼む愛媛県人会も発足している等、次第に軍人尊重の気風が昻まるのを感じる。
 同じ頃、当時県立松山中学校校長であった広島県出身の沼田実は、東予人と南予人について経験をもとに次のような談話を地方誌に載せている。「東予人と南予人は違っていると思う、(藩政時代)愛媛は小藩分立で土地や環境や人びとの心も支配したであろう。先づ善良さは一長一短で何れにも軍配は上るまい。東予人は行動敏捷で理智的、打算的で自己保存に吸々、それに対し南予人は行動が鈍重で人情的、情味に溢れ動く処人情に満ちている。その反面情熱的で熱してくると時々煽動的となる。これに対し東予人は煽動に乗らず利を以て行動する。
 また学生、生徒の頭脳は東予の方がよく、成績はよいが大成するものは少ない。これは頭のききが利にこだわるからである。犯罪の模様をある検事にきいたが、東予では性質の悪い知能犯、例えば詐欺というようなのが多いが、南予の犯罪は大体において色に関係した犯罪と、血を流すような事件が多いという。私か愛媛師範から西条中学に移るとき知人、友人から色々注意を受けたが、行ってみると西条は仕事のしよい処であった。大洲にゆくと生徒はこまちゃくれて大人びた処があって荒削りの大きさというものがない、これではいけぬと思った。それでいて小さい処にはよく気がつく、今治高女にいって思ったのは大洲中学の寄宿舎の方がきれいだったことである。」(「愛媛及愛媛人」昭和一〇月二月)
 おおよそ東予人と南予人の昭和一〇年頃の感触が体験的に述べられていて面白い。この情況は現代にあっても余り変もっていないと考える人も多い。
 またその頃愛媛県師範学校開校六〇周年記念祭である卒業生は、伊予人の特色として旧師に対して恩義を忘れないという気質のあることを二、三の例を引いて語り、本県は教師にとって働き甲斐のある処だから、安心して長く教育のため尽力されるよう後輩を励ましている。当時からこういう意味で好人物が伊予には多かったのではないか。
 昭和一一年『此一戦』の著者水野広徳は、『わしが国さ』で、「伊予では歴史上土居、得能、大森彦一の外殆ど無人の境である。人果たしてなきによるか、将また顕われざるためかと憤然たらざるをえない。由来伊予人は線が細く輪郭が小さいというのが世の定評であるらしい、これを拡大すれば世界における日本人評かもしれない。よく学校時代に教師から、世界における日本猿は日本における四国猿、四国における伊予猿、伊予における松山猿、人前は上手でも知恵がないといわれた。四国が日本から継子扱いにされたことは不思議でない、大衆に知られる有名なものは暁天の星の如く、維新では朝敵の汚名、開化の立ち遅れは致し方なし、おらが国さで名高いものは昔は海賊、今は伊予蜜柑、野球で強い松山商業。」と、いわしめている。
 多少投げやりな点も感じられる、そうした態度に出さしめる何かが愛媛にはあり、日本の中では世界の中の日本のようなある意味で孤立化した立場であったことを表明している。

 昭和中期

 昭和一二年二月二六日に発生した一部軍人の決起事件の陰に発せられた「兵に告ぐ」の名文の草案は、当時陸軍省新聞班、戒厳司令部詰の本県出身白川大将の甥で今治市出身の歩兵小佐大久保弘一であったというが、さすが秋山真之や『肉弾』の桜井忠温、先の水野広徳を生んだ地盤の出身だけあるといわれた。
 同年七月日中戦勃発、多くの出征兵士が県内から送り出された。田園の中に高い幟竿と万国旗のはためく誉れの家をあちこちと散見したものである。婦人会や在郷軍人会は戦地への慰問品の発達や発送に奔走し、県民は全国民とともに節約を旨とする生活を強いられるようになった。
 昭和一四年作家丹羽文雄は『南国抄』に伊予人の気質について、次のように述べている。「気候温和、人情純朴というのが誇張であるならば、こすっからい人間にならうとしても、歴史と風土に抑えられて、思い切った悪党にはなりかねるところである。生活が烈しく動いてゐないのだ。まるで文字を持ってゐない人のやうに野心の宿る場所がない。地理的に大阪が東京よりも近いのだが、大阪はそれ程魅力ではなかった。どうしたものか東京弁が颯爽として、人々の耳を打つ。それを真似ることが見栄でもあった。
 町全体に刺激がなく、刺激にも慣れていないので、大人も刺激の扱いに心得がない風であった。子供が猥褻な唄を唄っていても、慌てもしなければ、こつんとも應えない。刺激に鈍感になってゐるやうに見えるのだった。」とこれは南予吉田町が舞台のようである。
 同一五年には大政翼賛会県支部発足、遂に同一六年一二月八日米国、英国に宣戦布告、太平洋戦争に突入した。この時松山連隊区司令部へ僅か三日の間に七万円の献金が届けられたそうである。愛媛県人の生まじ目さと、時勢への順応の気質が端的に現れているように思う。
 同一七年県の政治・経済・社会すべて戦時一色となり、大日本婦人会県支部も誕生している。
 この間同一六年にはNHK松山放送局が開局、ラジオの電波を発射しはじめ、国鉄も一四年には八幡浜市まで開通している。しかし同一八年頃には次第に敗色が出はじめ四月には東京に初めての空襲があり、戦線が内地にも及んだ感じとなった。同一九年には県下中等学校三年以上の生徒は軍需工場に動員され、海軍予科練兵、少年兵への志願の勧誘も現れるようになった。二〇年一月には米空軍B29が本県を初爆撃以後数度に亘る空襲が各地に行われ、県民は恐怖の中に日々を過ごした。この間同年六月国鉄は宇和島市まで開通した。同年、六、七、八月の間に今治、松山、宇和島の各市は空襲により焦土と化し、こうした中に八月一五日の戦争終結の日を迎えた。

 戦後

 昭和二〇年一〇月には松山市に米軍が進駐し、色々のデマと風評が流れ、ある時は恐怖感、あるいは安堵感等混乱の中に同年九月の暴風雨による米作の被害、同二一年一二月南海大地震発生、道後の湯が止まる等の事態に、県民は不安をつのらせたのである。
 昭和二四年作家獅子文六は、当時一世を風靡した戦後世情の風刺作『てんやわんや』で、南予地方について「冬は暖いし、物資はあるし、桃源郷と云うべき所ぢゃよ。(中略)米でも、魚でも、一向不自由のない所ぢゃ。」「ガツガツする風もなく、戦前の日本人の鷹揚さを失わない來客たちにも、私は感動せずにはゐられなかった。」
 「この付近の漁夫は、今でも非常に迷信深く。タブーを多く持ってゐて、例えば沖に出た時にフカだのサメだのの言語は、固く禁じている。幽霊船や海坊主の存在は、勿論だれも疑う者はない。」
 「町の人々は私を旅の者として扱わず、まるで生え抜きの相生郷の人のやうに、心置きない態度を見せるのである。これは土地の気風が寛濶なためである。」
 「この地方の人が賭けを好むことは、越智の饅頭食いの場合でも知られたが、闘牛の時は特に甚だしいそうである。従って賭けの争ひから喧嘩が起こるのも、闘牛場の付物で、刃物が閃く時さえある。」
 「この付近の人は、たにかにつけて『田舎では、娯楽が乏しいけん……』ということをロにするが、一方ではあらゆるものを娯楽化する豊かな才能を持ってゐる。」
 「この土地では噂というものが、電光より早く伝はるのではあるが―」
 「青年は一体に温和で関東地方のやうに、虚勢を張ることがない代わりに、一度激発したとなると、南国の血は争われぬものがある。純真な代わりに、面子というものに悪く抱泥するのが土地の青年の缺點である」
 「形式的な準備に血道をあげるのは、どうやら土地の風であるらしい。」
 「この土地では人をカツぐということに、非常に興味をもつ風習がある。いつもあのようなトッポ話(早や私も方言に感化された、バカ話の意である)の花が咲き、人々は時間を忘れてそれを愉しむのである。」
 断片的ではあるが当時の南予津島町民の暖く、物の豊かさ、おうようで迷信深く、温和だが激しさを秘めた気質を軽妙に描いていると思う。
 昭和二五年(一九五〇)頃までにはそれまでには思いもよらなかった多くの社会改革が断行され、それらの中に新制の中学、高校、大学が誕生し、公選知事も生まれた。
 昭和二六年五月、その四月に新知事に就任した久松定武は「今でも私を見て土下座して手を合わせて拝んでくれる人がいる。愛媛は未だこうした保守封建思想が残っている」と話している。久松氏はいうまでもなく旧松山藩主の後裔であり、貴族院議員を歴任していた。この言葉のような現実は一部であるかもしれないが、当時の伊予人、あるいは中予人の体質を物語っていよう。
 同年六月『三予人』ふるさと特集号で宇和島の座談会をのせているが、その中で次のような発言がでている。
 Y―松山以東の出身者は、南予人は団結心もつよく辛棒づよいようにいいます、実際はわからないが、
 U―ねばるとか、辛棒づよいという点はわからないが、しかし南予人は郷里に帰るにも不便で仕様ことなく同郷同志が親しくしていることはある。
 H―南予人は東予人に比べて粘りとか根気はないことは確かで、特に海岸地帯に育ったものは勿論すぎるぐらいである。環境の気風が影響している。反対に東予でも他県人の盛んに出入する香川県に近い程肚黒いものが多いようである。
 M―そうですね、人なれして何処に行っても恐れないしぶとい性格のものは南予には少ない。宇和島人は封建性が強いのに積極性がない。
 H―南予人は協同精神に欠けるというが、郷土の偉人のことはよく聞く、そして結束しているように思う。純朴で従順な一面もたしかにある。封建思想がつよいから自然にそうなったのかもわからない。
 N―封建的なのは感心しないが、後輩が先輩に従順で、先輩は後輩の面倒をよく見る点はある。
 Y―お殿様といえば封建遺物である、宇和島出身者の伊達さんを中心とした会合なんか実に奥ゆかしい君臣の美風です(毎月第二火曜日に集会をもち宇和二火会という名称だそうである)。
 H―八幡浜の人は宇和島より活気があるのは、経済力の相異だと思われる。
 Y―さあどうかな宇和島の方が力があるように思うが。
 U―宇和島は問屋に実力がない、八幡浜はどんどん買い集めて阪神にも出している。
 M―その点宇和島は結束に欠ける処だ、八幡浜はすばしこい。
 H―人の網でもぶち切って逃げる。
 U―宇和島の人はぼーっとしているからやられる。
 H―悪がしこいのは八幡浜や今治以東だ。
 以上はある座談会の席上での南予人の発言記録であるが、当時の東予人と南予人のある視点、さらに南予人でも宇和島人と八幡浜人の違いをかなり適確に表現している。当時は大戦後まだ日も浅く、国鉄も昭和二〇年にようやく宇和島まで開通したばかりであり、列車の本数も少なく、国道も整備されていない、いわば南予は隔離された地域であった。そうした中のかなり固着された南予人の気質を物語っている気がする。
 昭和二八年六月頃上記Yは、『日本のおらが県人』に「夢」と題して過ぐる日行われた衆議院議員の選挙に現職有名議員四名が愛媛で落選したことについて、「人格といい、識見といい、政治手腕といい郷土を代表する人物として立派すぎる程の人、全国でも屈指の人物として郷土が誇りとしている人、そういう方々を落選させた。これを思うに政治意識の低下とみるか、さにあらず一にかかって郷土人の偏狭さと短見と、もう一つ義理人情の地に落ちたことによる。また反面利用するだけは利用して、いざ鎌倉という場合一顧も与えようとしないのが郷土人の気質かと思うと歎かわしい。」と語っている。
 同じく二八年九月、別府(大分県)青果市場長Iは、「伊予人の通った跡は草も生えないというが、それは伊予人の勤勉ぶりをおそれて、それを真似ることのできない心底があるからそういうのである。事実僕の知る範囲で伊予人は誰も勤勉であり努力家であり、他面政治性に富み、旺盛な生活力をもっていた。別府市の議会を牛耳っている政友会の市議は、その大多数が伊予の出身者である。」と語っている。しかし同二九年一月、「私学を語る座談会」の中で、日本カーボン副社長であった松山市出身のYは、「故郷のことをいうと誰でも嬉しいものだが、僕は皆ほど喜びが出ない。特に松山にいる連中が因循姑息に思える。一人二人えらい奴が出るとあれは昔こうだった、ああだったと悪口をいったり、その人の欠点を探し廻って得々としている。極端にいって自分と大して違わないのだといいたい雰囲気が嫌いである。」といっている。
 このような伊予人あるいは松山人の偏狭さは当時から感じられ、外から見るものの目についていたらしい。