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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 歴史家の視点

 ここで歴史家が当時観じた愛媛の県民性を瞥見しよう。
 昭和四八年田中歳雄著『愛媛県の歴史』山川出版社には、愛媛の県民性として、風土の自然条件と歴史的展開によって形成された県民性は、全体として南国らしい陽気さがあり、島国の人らしい素朴さがのこっており、人情に厚く親切・正直であるといえよう。隣県の土佐人ほどの情熱はなく、讃岐人ほど話し上手ではないが、まずまずの好人物であるといえよう。として宮城音弥の瀬戸内式躁うつ型の気質に三類型を加えて東予・中予・南予の多少の相異のあることを述べ、東予人は勤勉で粘り強い事業家タイプの人間が多く、南予人は宵越しの金は使えるかといったような陽気さ・豪気さ・暢気さがあるとし、中予人はそれらの平均的な気質をもっているといえようか。と先に述べた朝日新聞「新人国記」の記述を提示している。
 さらに松山は俳句のメッカといわれている。俳句をひねるという市民は推定一万人くらい。市街の各所に俳句ポストが立ち、俳句同人の会の数も多く、月例句会は各地で頻繁に催され、小・中・高の児童・生徒俳句大会には四、〇〇〇句も応募がある。また句碑も市内に二〇〇基ちかくあるという。
 俳句とともに中予人いや全県民が愛好するものに野球かおる。愛媛県の高校野球のレベルは高く、最近一〇年間の甲子園での全国大会における勝率は、全国一位を占めている。
 県民のなかには、定年退職をした場合、暖かい松山付近に土地を買って、老後を過ごし、貯蓄の金利で道後温泉につかり、俳句をひねり、謡に興じ、お茶を嗜んで、悠々自適できることが、こよなく幸せなこととおもっている人がかなりいる。このような温和な中予人の気質は、漱石のえがく『坊っちゃん』のような江戸ッ子には、我慢のならない間延びを感じさせたものであろう。
 愛媛県は、二百数十年にわたる八藩分立のあと、県制がしかれたので、産業・教育はもとより、人情・風俗・年中行事・方言にまで旧藩域による相違が見られ、些細なことながら、紙障子の紙の寸法さえ違っていた。大正から昭和に入ってようやく県民としての一体感をもつようになったが、なお八藩分立に代わる東・中・南予の三地域の対立意識は根強く、各種団体の人事なども、三つの地域配分を慎重に考慮しないわけにはいかないというのが現状であると。
 昭和五二年同じ山川出版社の『四国の風土と歴史』は、前著と同じ田中歳雄と山本大の共著になっているが、その中の県民性と文化で、四国は本州や九州と海でへだてられた島であるため、県民性について四県を一括して島国根性とか四国の山猿とかいわれているが、中央文化との接触の機会が少なく、孤立的で視野が狭いため、そういったのであろう。これは四国の後進性を指摘した言葉であるが、地理的条件からくる交通の不便が隘路となり、県民性に影響を与えていることは事実である。だが一面、素朴・純真・親切といった美徳もあわせもち、辺地の故に山猿の語が示す蔑視に対して反発する気概ある反骨の資質も醸成されたのである。とし、各県については阿波の優美でひかえ目な性質。伊予の保守伝統重視の性格(もっとも伊予は藩政時代の影響が大きく、東予・中予・南予で異なった気質が見られる。伝統を重んずる気風が強い)。讃岐の話し上手な、少し打算的で投機性をもった性格。土佐の豪気で情熱的な気風は、それぞれ県民性を平均したものといえよう。これは「阿波の着だおれ、土佐の飲みだおれ、伊予の建てだおれ、讃岐のかけ倒れ」のことわざにも象徴的にあらわれている。として元禄年間の『人国記』の各国の記述を引用し、以上のように、それぞれ異なった気質をそなえた四国であるが、一つの島という統一体としての意識に基づいた文化を育成してきたのである。それは共通した上方文化の受容であり、四国遍路の文化であり、流人文化ともいうべきものであった。こうした地域の特質から生まれたのが四国の歴史である、と結んでいる。