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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第一章 概    説①

 民族の移動

民族の移動は人類の歴史と共に古い。旧約聖書の出エジプト記、アーリヤやモンゴルの移動、ゲルマンの大移動、新大陸への移住の大波等。古来、民族の移動により多くの文明が花開いた。
 我が国の場合は、大陸縁辺部の島であり、文明や移住者の受容地として、各方面から渡来者を迎えて民族を形成し文化を発達させてきたといわれる。
 一方、我が国からの海外移住については、一四世紀ころからの恒居倭人・向化倭人があり、一五・六世紀には多数の日本人が東南アジア各地に進出した。しかし、徳川幕府の長年にわたる鎖国政策により、海外進出は中断、日本人町等は消滅した。
 この間ヨーロッパでは国際移住時代を迎え、特に、ナポレオン戦争以後の一世紀間に、新大陸への移住者は六千万人に達した(『わが国民の海外発展本編』)。
 幕末の開国による日本人の新大陸移住は、白人国家への労働力提供という形をとらざるを得ず、我が国の移住と発展は大きく後れをとったのであった。

 戦前の移住の推移

慶応二年(一八六六)に、幕府が海外渡航を解禁してから二年間に、約二五〇人が旅券を発給されており、これが我が国近代移住の幕開けとされている。本県からも別記のとおり、渡辺兵一が慶応二年にスコットランドに、城山静一が明治元年にサンフランシスコに渡航するなど数名の渡航記録が残っている。
 集団移住の最初は、慶応四年のハワイ「元年者」と呼ばれる一五三人の渡航と、同年のグアム島への約四〇人の渡航であった。また明治二年(一八六九)には約二〇人がカリフォルニア州のワカマツ・コロニーに渡航している。しかし、政府は、北海道への移住は奨励したが、海外移住には消極的で、同一六年にオーストラリアに三六人の渡航を許可するまでは、海外からの移民送り出しの要望を拒否していた。
 ハワイからの要望もあり、同一八年に「官約移民」の渡航を許可し、同二七年までに二万九、一三二人を送り出した。これには本県からは第三回に水夫一〇人が渡航しているのみである。ハワイでは、同二六年王朝崩壊、三一年米国による併合等があり、同二八年からは私設移民会社による契約移民さらには自由移民へと変わり、米国本土やカナダへの大量転航もあり、ハワイ・北米が移住の主流であった。しかし、北米では次第に排日運動が高まり、カナダがルミュー協約(同四〇年)で移住を制限、米国とは日米紳士協約(同四一年)により移住を規制した。さらに大正一三年(一九二四)には排日移民法(米国)が施行され、日本人の移住の道は閉ざされた。
 北米への移住が規制されるにつれ、中南米への移住が増加した。明治二四年メキシコに領事館が設置され、同三〇年には榎本武揚が植民地を開設した。ペルーには同三二年に第一回の約七九〇人が渡航した。本県からは、同三六年の第二回に一八三人が渡航してから相当数渡航している。また、ブラジルへの第一回集団移住は、同四一年の笠戸丸による七八一人で、これには本県人二一人も含まれていた。以後ブラジルへは、昭和一六年までに三百余回にわたって移住者を送り続けた。アルゼンチンへの移住は、ブラジルからの移行が始まりとされるが、高賃金や親目的傾向などから、昭和七年ころまでに約四千人の入国があり、本県人も各方面で活躍している。
 アジア・オセアニア各地域への移住については、明治一六年採貝人のオーストラリア渡航を許可、同二一年にマニラ、翌二二年シンガポールに領事館が設置され、南洋各地への移住が進展をみるに至った。
 アジアのうち、旧植民地圏への移住は他地域とは異質のものであった。旧植民地圏が次々に我が領土となり、国内移住に性格を変えたからである。また、これらの地域では、指導的役割を果たす職種の比率も高かった。同地域の移住者の急増ぶりをみると、明治三二年ころ、台湾約三万八千人、朝鮮約一万五千人、中国約三千人が、昭和一五年には、台湾約三二万人、朝鮮約六九万人、満州約一〇六万五千人、樺太約三八万人、東南アジア約三万人となっている。本県でも、東洋拓殖株式会社の「朝鮮移住規則」(『愛媛県史資料編社会経済下』16参照・以下『資料編』という)等が度々県報に載せられている。これらのうち、満州への移住が最も国策移住であった。昭和四年拓務省が設置され、同七年満州開拓入植計画の大綱を作り、同年第一次武装移民を送り出した。以後、満州国とも協力し、開拓計画は着々と整備され実施されていった(『資料編』23~26参照)。
 明治政府の海外移民政策は、前述のごとく総じて消極的であった。ハワイ官約移民の例はあるが、多くは民間移民会社が取り扱ったものである。明治二四年、最初の日本吉佐移民会社(同三〇年東洋移民会社と改称)が設立され、それ以後も多くの移民会社が設立されて各方面への移住を取り扱った。
 政府は同二七年「移民保護規則」を発布、同二九年には「移民保護法」を公布して移民保護と移民取扱人の監督に乗り出すことになった(『資料編』12~14参照)。
 昭和になると移民政策は積極化し、同二年「海外移住組合法」が公布され、日本婦人海外協会も設立された。本県でも愛媛県海外移住組合(『資料編』28・29参照)が設立され移住奨励事業が展開されたので、このころからブラジル移住が急増している。
 しかし、国際関係は悪化の一途をたどり、同一六年六月の「ぶえのすあいれす丸」が戦前最後の移住船となって大戦に突入し、ブラジル・アルゼンチン等も我が国に対して国交断絶した。
 国外への移民とは別に、明治政府は、明治二年「北海道開拓之儀」を発したのをはじめ、北海道への屯田兵・開拓移住を積極的に推進した。本県でも明治四五年間に約一二〇件の訓令・告示等を出しており、特に東予地域が相当数の移住者を送り出している(『資料編』1~6・8・9参照)。

 戦後の移住の推移

近代の海外移住は太平洋戦争により中断、新大陸の在留邦人は、強制収容所送りなど苦難を味わった。そのうえ、敗戦により、旧植民地圏等の移住者は、世界史にもその例をみない総引き揚げとなった。引き揚げ・復員総数(昭和二〇年から同四四年まで)は、六二八万九、七六六人(うち一般引揚者三一八万二、三六三人)に達した。
 戦後の海外移住は、大戦の後遺症もあり、移住再開への道のりは遠かった。同二四年衆議院で可決された「人口問題に関する決議」で移住推進の努力を決議した。諸外国の態度も漸次好転した。米国では、同二四年日系人敵国人扱いを終結、同二七年「新移民法」の実施により、同二八年初の日本人移民が入国した。ブラジルでも、同二七年「日伯通商協定」が調印され、同年に戦後第一回移住者五四人が渡伯、翌年には初の呼び寄せ移住者も渡伯した。中南米諸国との移住協定も、ボリビア(同三一年)、パラグアイ(同三四年)、ブラジル(同三五年)、アルゼンチン(同三六年)(『資料編』34参照)と次々調印された。
 我が国では、昭和二九年外務省に移住局が設置され、「日本海外協会連合」が発足した。さらに、同三八年「海外移住事業団」、同四九年「国際協力事業団」が発足して移住事業等の推進を図っている。本県でも、同二九年に「愛媛県海外協会」(『資料編』31・32参照)が発足、同三四年には「愛媛県拓植農業協同組合連合会」(『資料編』33参照)が組織され、県農地拓植課の指導を受けて、移住の援護促進の努力を続けた。また在留日系人も県人会を組織して、県の補助を受けて受入側としての推進努力を続けてきた。さらに県内では「愛媛県海外移住家族会」(『資料編』35参照)が結成され、移住者との連絡を密にする努力を続けている。
 こうして、同三〇年代には戦後移住の隆盛期を迎え多数の移住者を送り出した。本県では同二八年から同六〇年までに、ブラジル一、二五八人、パラグアイ五二一人、アルゼンチン二四人等を送り出している。しかし、我が国の経済的発達や人口問題の変化等により、同四〇年代から移住者は急減、いわゆる「海外移民時代」は終息した。
 戦後は、我が国の発展に伴い企業進出等も顕著で、海外協力活動等も推進されている。今後は、各地日系人対策と連けい強化が重要視されている。本県では、昭和三二年に久松定武知事が南北米を歴訪、同五二年に白石春樹知事が中南米を歴訪して移住者を激励した。また、各国の愛媛県人会への補助を行い、さらに同五二年からは「海外技術研修員受入事業」を実施、毎年本県出身者の二、三世を受け入れている。
 戦前戦後を通じて日系人は、幾多の苦難を乗り越えてめざましい活躍を続け、各国社会で重要な役割を果たしていることは頼もしいかぎりである。

 漂流民

 鎖国時代にも、近代移民の前史をなすものといわれる漂流民があり、二〇余件の北米方面への漂流民が記録されている。土佐の中浜万次郎や、アメリカ帰化第一号の播州の浜田彦蔵等は特に著名である。
 本県人としては、表1-1に示すとおり、越智郡岩城村の勇吉と民蔵、和気郡興居島の亥之助の三名がいる。このうち、民蔵は前記の浜田彦蔵と同船漂流したものであり、亥之助については『亥之助漂流記』(伊予史談会文庫蔵二種)、勇吉については『常羊亭坐右録第九』(愛媛県立図書館蔵)があり、漂流や外国事情を知ることが出来る。

 明治初年の海外渡航者

 幕府が慶応二年(一八六六)に海外渡航を解禁してから、本県からも各国へ渡航者があった。本県人の海外渡航第一号は宇和島藩の渡辺兵一(出発時には日置兵一)であるといわれる。慶応二年から明治三年(一八七〇)までスコットランドのシャノンリィハウススクールに留学、英国商人コロウルに随従したものである。彼は成績優秀で奨学金を受けていたといわれ、帰国後士分に取り立てられた。印章(旅券)は、明治二年の第一五番、外国官知事伊達中納言名で下付追給されている(『資料編』38参照)。
 米国方面では、宇和島藩士城山静一が、明治元年に扇屋久次郎の手代の通訳としてサンフランシスコに滞在しており、ハワイ「元年者」の救済上申書を提出したりしている(ハワイの項参照)。表1-2は、幕末から明治四年までの海外渡航者(一名は北海道)の一覧表である。修学や視察が多く、明治二年には、早くも外国船の水夫がみえる。

 各地域の出移住者状況

 出移住者数については、各地域・都道府県で大きな差異がある。図1-1は明治三二年から昭和二〇年までの地域別・都道府県別の出移住者の状況である。まず、地域別にみると、中国二五・九%、九州二五・七%、沖縄一一%、近畿一〇・六%、中部八・八%、東北七%、関東四%、四国三・六%、北海道三・四%の順となっている。中国・九州の西日本が出移住者卓越地域で、中国・九州・沖縄で六二・六%を占めている。東日本は北海道移住が多かったためもあるのか、概して少数送り出し地域となっている。四国は県数も少ないが域内の格差も大で、少数送り出し地域になっている。
 次に都道府県別にみると、広島一四・八%、沖縄一一%、熊本一〇・四%、福岡七・八%、山口六・九%、和歌山四・七%、福島四%、北海道三・四%、岡山三・二%がベスト一○県となっており、やはり西日本に出移住者卓越県が集中している。反対に奈良四七位・京都四三位の近畿、栃木四六位・埼玉四五位・千葉四一位の関東に出移住者少数地域が集中している。東日本でも福島七位、新潟一一位と突出しており、移住受入地の北海道も入植者の再移住等も含めて相当数を送り出している。また移住送り出し県として有名な和歌山は、移住先が米国に集中しており、全体としては六位となっている。なお、九州の宮崎四一位、大分三一位、中国の島根三五位、鳥取三〇位のごとく、卓越地域にも少数県があるのも興味がある。
 四国では、高知が一・四%で一六位、愛媛県は一・三%で一七位となっており、卓越県と比べると大きな格差があることが分かる。

 本県人の移住と海外旅行数

 明治時代の移住や旅行先は、大きく分けて北米・中南米・アジアの韓国と清国・南洋・北海道がある。
 表1-3は、そのうち北米(米国本土・ハワイ)とアジア(韓国と清国)への旅行数と、国内ではあるが北海道への移住数を合計したものである。明治三四年(一部同二〇年)から同四二年までを郡別・年度別に単純合計したもので、各地域の人口比も度外視したものであるが、移動の概況を知ることが出来るものと思う。
 行先別では韓・清国が四五・六%、北海道が二八・四%、米国・ハワイが二二・五%となっている。
 まず、米国・ハワイ方面では、移住卓越地域といわれる南予が多く、西宇和郡二九・一%、東宇和郡一二・六%等四郡で五〇・五%で、東予の二〇・六%に比べると格段に多くなっている。次に韓・清国方面をみると東予が四五・五%で南予の三五・七%より多くなっている。さらに北海道移住についてみると、東予が実に八八・二%を占めて南予は四・三%にすぎない。これを総合してみると、東予が五〇%と最も多く、中予一八・四%、南予三〇・六%であり、この時期に関していえば、北海道に多数が移住しているため、東予の移動数が最多になっている。郡別にみると、宇摩郡は北米方面が少ないが、北海道で三四・六%を占めているため全体で一七・二%と一位になっている。次いで北米二九・一%、韓・清国一七・三%の西宇和郡が続いている。一方、上浮穴郡と南宇和郡は各方面とも送り出し数が少なくなっている。
 次に、表1-4は明治三三年より同四二年までの海外移住者数である。この時期にはハワイが最も多く五五七人、米国は八六人となってい
る。同三三年は自由移民となった年、三九・四〇年の増加は日露戦争後の余剰労働者の流出、四一年以後は日米紳士協約による減少である。ペルーの同三六年の一九五人(他資料では一八三人)は第二回航海の時の本県最初の移住者である。ブラジルの同四一年の二一名は笠戸丸による第一回の移住者である。フィリピンへの七〇人は、前年政府が自由渡航を許可しこの年全国で一、六〇〇余名が渡航した一部である。

 戦後の移住数と出移住者地域

 敗戦による復員者・引揚者が約六二九万人にのぼり、人口過剰となった我が国では、国内の開拓と共に海外移住も積極的に推進したことは既述のとおりである。
 戦後の海外移住は、全国的に送り出し数をみると、一位が沖縄で、以下千葉、福岡、北海道、熊本、長崎となっている。戦前上位であった県のうち広島は一二位、和歌山は四五位と減少している。四国では高知七位、本県は一四位である(米国を含まない統計・以下同じ)。
 本県では昭和二八年から始まるが、『資料編』43に示すとおり同三〇年代が最盛期であった。同三三年一九七人、同三四年三六六人、同三五年四二三人、同三六年二一三人と多数を送り出したが、同三七年以後は毎年一〇人前後と急減し再び増加することはなかった。出移住者地域も戦前とは変化がみられ、戦前最少数郡であった上浮穴郡が最多の三八一人を送り出し、以下東宇和郡・松山市・北宇和郡・宇和島市が百人を超え、戦前多数を送り出した西宇和郡は二一人にすぎない。県下の市町村のうち、多数の移住者を送り出している次の二町について紹介する。

 久万町

 上浮穴郡久万町は面積一六五・一k㎡、人口一万四、二九一人、内農家数二、〇七二、農地一、二七五町九反で一戸平均六反二畝(昭和三五年調査)である。同町では県等の指導を受けて移住推進策をとり、移住推進協議会を設置、昭和三四年には「久万町海外移住者奨励条例」を施行するなど奨励策をすすめた。このため同町からは、表1-5の示すとおり、同三六年までに三八家族一七一人がブラジル・パラグアイに移住した。移住者は全戸農業で、農地所有状況は平均四反九畝となっている。次に携行資金を表1-6によってみると、同町の場合、全国平均より相当に高額を携行している(渡部鬼子雄氏資料提供)。

 野村町

 東宇和郡野村町は面積一八六・九二k㎡、人口二万八五〇人、内農家数二、七四八、農地一、八三七町二反で一戸平均六反七畝(昭和三五年調)である。同町は同三五年度、集団移住促進市町村に指定され、同年一月には海外移住推進協議会を設置した。説明会等により、移住地選定、携行資金、財政整理等の世話をした。また資金援助として移住一家族当り二万円、単身の場合五千円を補助することとした。これらの努力により同町からは、表1-7に示すとおり同三六年までに二九家族一三五人がブラジル・パラグアイに移住している。
 これらの努力はその後も続けられ、同三七年度には、集団移住促進市町村として前記両町を含む七ケ町村が、移住推進市町村として一二市町村が指定されて推進努力が続けられた。しかし社会的変化により移住が激減したことは前述のとおりである。そして、同四一年には、農業拓植協会による「海外移住不振の潜在的要因に関する考察・後藤連一」等という調査が野村町を対象に実施されている。

 移民に関する新聞記事

海外で発行された最初の日本語新聞は、明治一九年(一八八六)サンフランシスコで発行された「東雲雑誌」であるといわれる。本県出身者のうちにも邦字紙発行に活躍した人々がいる。別記のとおりブラジルで最初の邦字新聞を発行した星名謙一郎は、それ以前にハワイでも新聞発行に携わっていた。その他ハワイの芝染太郎、ブラジルの三浦鑿等も新聞人であった。現代でも米国シアトルの窪田竹光は「北米報知」の発行を昭和二一年以来続けている。
 移民史の資料として、これらの現地紙が貴重なことはいうまでもないが、我が国内の全国紙・地方紙等も貴重な資料を提供してくれるのである。
 ここでは、本県の地方紙「愛媛新報」の明治四一年一月から七月までと、同四二年一月の記事を表1-8に抄録した。
 この年は、移民史のうえからみると別記のとおり大きな変化の年であった。すなわち、同四〇年には米国大統領の転航禁止令、カナダのルミュー協約による移民制限があり、同四一年には日米紳士協約による規制があって北米移住が困難となった。それに対して南米では同三六年に本県からも一八三人が初めてペルーに渡航し、同四一年には最初のブラジル移住者が笠戸丸で渡航した年である。
 移民関係の記事五五件中、排日問題や北米紹介を中心とする北米関係記事が三五件を占め、従来の北米移住主流の傾向が強く出ている。次が東洋拓植株式会社法公付前(八月二七日公布)であり、政府もすすめている朝鮮満州関係が一二件ほどである。南米については、ブラジルへの最初の移住(本県人も二一人含まれている)の記事はあるものの関係記事はほとんどみられない。ブラジルへの積極的な移住奨励は昭和になってからということである。

 在外本県人からの送金

 我が国の移住は「出稼ぎ」の形態で始まり、労働期間を定めた契約移民がほとんどであった。外交史料館の史料にも、当初は「……出稼一件……」と題するものがみられる。
 移住先で得た金を故郷に送金し、また金を蓄えて故郷に錦を飾ることを目的としていた。それは全国的傾向で、例えば、和歌山県の「アメリカ村」等はその傾向の象徴であった。それが、時代のくだるにつれて諸種の理由により定着化が進み、永住者が増加したのである。
 本県でも故郷への送金があり、成功して帰郷する者、故郷の学校や寺社等に多額の寄付をする者もあった。昭和六年の「県政事務引継書」に次の記事がある。
  本県耕地面積八十万一千五百九十町歩ニシテ府県平均十一万九千六四町歩ニ達セズ道府県中第二三位ニアリ然ルニ職業別ハ之ニ反シ総戸数二七万一千戸中農業戸数ハ実ニ五割一歩ヲ占メ居レリ右ノ関係上由来本県人ハ常ニ海外ニ発展セムトスル希望ヲ持スル者少ナカラズ一方海外移住組合ノ組織成リ年々渡航者ノ増加ヲ見ツヽアル状況ナリ現在ニ於ケル海外在留者二、四七五人ニ及ヒ相当ノ成功ヲ為シ居ル者又少ナカラズ……
 本県の場合の在外本県人からの送金の記録は、昭和期のものが残っている。表1-9は昭和三年・同五年・同一四年・同一五年の送金額である。

表1-1 愛媛県関係漂流者

表1-1 愛媛県関係漂流者


表1-2 幕末・明治初年海外渡航者・北海道開拓出願者

表1-2 幕末・明治初年海外渡航者・北海道開拓出願者


図1-1 都道府県別出移住者(明治32年~昭和20年)

図1-1 都道府県別出移住者(明治32年~昭和20年)


表1-3 愛媛県人海外旅行・北海道移住者数(明治20年~同42年)

表1-3 愛媛県人海外旅行・北海道移住者数(明治20年~同42年)


表1-4 年度別・行先別海外移民数一覧(明治33年~明治42年)

表1-4 年度別・行先別海外移民数一覧(明治33年~明治42年)


図1-2 久万町・野村町の位置

図1-2 久万町・野村町の位置


表1-5 上浮穴郡久万町移住者一覧(昭和30年~同36年)

表1-5 上浮穴郡久万町移住者一覧(昭和30年~同36年)


久万町海外移住者奨励条例

久万町海外移住者奨励条例


表1-6 渡航時携行金別分析表(全国と久万町)

表1-6 渡航時携行金別分析表(全国と久万町)


表1-7 東宇和郡野村町移住者一覧(昭和30~同36年)

表1-7 東宇和郡野村町移住者一覧(昭和30~同36年)