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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 ブラジルへの移住①

 日・伯の交流史

近代における、我が国とブラジルの交流は、北米の場合より後れて始まったようである。明治一五年(一八八二)エドアルド・カラード公使(清国駐在)が日本に立ち寄り条約締結交渉をしている。同二二年には軍艦「バルローブ」号が横浜に寄港、大武和三郎(後の日葡辞典著者)が便乗渡伯。
 同二三年に法令によりアジア人の入国を禁止したが、同二五年一〇月五日には支那及び日本人の自由入国を許可した。
 同二七年根本正代議士が視察のため渡航し、ブラジルが移住適地であることを報告した。同年、ブラジルの会社と吉佐移民会社の間に日本移民輸送契約を結んだが、条約未締結のため解消した。
 同二八年日伯間に修好通商航海条約が締結された。
 同三〇年、吉佐移民会社は伯国政府と日本移民輸送契約を結び、一、五〇〇名を輸送するため傭船もしたが、コーヒー暴落のため、出航四日前に傭主側から出帆差止めとなった。
 同三五年三月日本外務省は、ブラジルへの移民の渡航を認可しないよう各府県に通牒を発した。
 同三八年、杉村濬弁理公使の「伯国サンパウロ州珈琲耕地事情調査報告書」により、水野龍(高知)が渡泊。
 同四〇年水野龍は再渡航し聖州政府との間に、三ヶ年間に三、〇〇〇人の日本移民を導入することの正式調印を行った。
 同四一年四月二八日、笠戸丸が第一回の移民七九一人を乗せて神戸を出航、六月一八日サントス港に入港した。この第一回移民には、愛媛県人六家族二一人が新天地を目指して渡航している。
 大正三年(一九一四)サンパウロ州政府は、来年からの日本移民渡航費補助の中止を宣言。同年サンパウロに総領事館開設。また、同年コチア植民地に日本人最初の入植者があった。
 同五年星名謙一郎(愛媛県人)が週刊紙「南米」を発刊。最初の邦字新聞である。同年「日伯新聞」も発刊。この「日伯新聞」は同八年に三浦鑿(松山出身説もある)により買収された。また、同年星名等の世話で、日本移民が最初の野球試合を実施、チームをつくるため「ブラジル日本人青年会」が結成された。
 同六年、ブラジル移民組合取扱いの移民が渡航、補助移民が再開された。
 同年星名謙一郎がソロカバナ線サント・アナスタシオ駅にバイベン(梅弁)植民地を創設。星名は、また、ソロカバナ線アルバレス・マッシャード駅にブレジョン植民地を小笠原尚衛の財政的援助により共同で創設した。
 同八年ミナス州ウベラーバに邦人最初の農業協同組合「日伯産業組合」が創設された。
 同一〇年サンパウロ州の日本移民への渡航費補助が再び中止された。
 同一一年「聖州義塾」の設立宣言がなされた。開塾は同一四年。この義塾には、村井保固(愛媛県人)が多大の援助を与えている。
 同一三年在ブラジル日本人同仁会が維持会員をもって設立。古谷重綱(愛媛県人)は、その一二・一三代の理事長として活躍した。
 昭和三年(一九二八)バストス移住地・チエテ移住地等創設。後に本県俵津村の集団移住者の入植地である。同年南米拓植株式会社が設立、トメアッスー植民地等一〇〇万余町歩の開拓事業であり、その創立発起人二〇人中に村井保固がいた。同四年アマゾン川流域に日本人の組織的入植はじまる。
 同五年ブラジルに革命、ジェツーリオ・ヴァルガス政権を握る。日本移民激減する。同六年新政府は、移民入国制限令を実施したが、日本移民に限り数を定めて入国を許可した。この移民減少に対し、本県でも、同六年一月一六日付学務部長より市町村長等に「移植民奨励に関する件」として、南米移民は従前通りとの通牒を発している(「愛媛社会事業」昭和六・二・一)。
 同七年総領事館の調査によると、日系人総数一三万二、六八九人(戸数は二万三、五〇七戸)であり、その九割は農業従事者である。
 同九年外国移民二分制限法が公布された。これにより、日本移民の入国数は五〇年間に一二万四、四五七人として年間二、四八九人の割あてとなる。同年「在伯日本人文化協会」が結成された。同会長は古谷重綱。
 同一一年四月サンパウロ日本病院起工式が行われた(同一四年完成)。この病院の建設委員会委員長は古谷重綱であり、委員の中には本県出身の中矢熊太郎・三浦鑿が含まれていた。
 同年帝国教育会は在外日本人教育関係者表彰を実施したが、被表彰者三一人中にプロミッソン駅アンチニヤ小学校教師小田カズミ(上浮穴郡浮穴村一四三)が含まれていた。
 同一五年紀元二千六百年記念第一一回明治神宮体育大会にブラジルから陸上競技選手六人が参加した。この選手の内に愛媛県出身の松原宗高が加わっていた。
 同一七年国交断絶となり、日・独・伊人の資産凍結令が出る。交換船で外交官等も帰国。サンパウロ市のコンデ街から一〇日の期限で日本人立退令が出た。同一八年には、日・独・伊人にサンパウロ州海岸部からの立退命令が出た。また、日本人の拘留される者が多かった。同二〇年ブラジルが日本に宣戦布告した。同年臣道連盟が発足活動を開始する。
 同二一年臣連特攻隊による暗殺相次ぎ野村忠三郎も射殺された。古谷重綱も襲われたが難を逃れる。政府は勝組六〇〇人に日本敗戦を説得するも失敗する。その後も勝組・負組の対立続く。
 同二七年大使館・総領事館が再開。日伯通商協定調印。戦後第一回移民として一七家族五四人がアマゾンに渡航した。同二八年には戦後初の呼寄せ移民五一人がサントスに上陸した。
 同二九年日本において日本海外移住協会連合会が設立された。
 同三〇年コチア産業組合は連邦政府と、コチア青年移民(いわゆるコチア青年)導入特許契約を結ぶ。九月にはコチア青年第一陣一〇九人が移住。以後一六年間に二、五〇八人が移住した。同年バストス日系市長第一号が当選、同三一年には日系初の州税務裁判所判事に任命される。また、日本企業の進出も活発となる。
 同三二年久松定武愛媛県知事が北米・南米視察旅行の途次六月一四日から七月三日までブラジル各地を訪問。本県人事業(一色鉄工所・小山農場等)、開拓地(クリチバ・パウリ)等を視察、各地の県人会に出席して懇談激励した。
 同三三年日系人口は四〇万四、六三〇人である。この年三笠宮臨席のもとに日本移民五〇年祭が挙行された。
 同三四年集団花嫁一二人が初めてブラジルへ渡航した。この花嫁の出身県は、山形、埼玉、静岡(二人)、福井、岐阜、鳥取、山口(二人)、香川、愛媛、宮崎であった。引卒責任者は神野ヒサコ(愛媛県人・元全国農業協同組合婦人部会長)であった。乗船アメリカ丸は三月一日に神戸港出航、四月二三日にサントスに到着。現地邦字紙に「花嫁さっそう上陸!感激の対面うれしはずかし集団結婚」と大きく報道された。神野はコチア組合での合同結婚式をすませ、四五日間で支所約七〇か所を訪問して帰国した(日本農業新聞記事・『虹よ永遠に』神野ヒサ子著による)。
 同三五年「移住及び植民に関する日本国とブラジル合衆国との間の協定」が調印される。
 同三九年日系人初の州長官として森本アントニオがサンパウロ州労働長官に就任。
 同年総領事館の調査による日系人口は、五四万六、九六三人で、サンパウロ州に四一万五、〇〇〇人が集中している。
 同四〇年移住白書によると戦後一三年間の移住者は、四万六、四〇一人となっている。また、我が国の企業進出も盛んでこのころまでに四一件に達している。
 同四二年皇太子御夫妻ブラジル御訪問。同年六月一三日古谷重綱死去、コロニア最高の勲二等旭日重光章が贈られる。同四三年には日本移民六〇年祭を挙行する。
 同四七年日系二世等の政界進出はめざましく、地方選挙の結果、市長一三人、副市長一四人、市議一三七人を占めた。
 同四八年総領事館によると日系人口は五四万五九〇人(日本国籍者一二万七、四〇〇人)となっている。
 同五二年四月白石春樹愛媛県知事が南米在住愛媛県人会の招きにより中南米諸国を歴訪の途次ブラジルを訪問した。

 各県からの移住者送出し状況

 新大陸への移住は、明治時代と大正以後とで移住先が大きく変化する。明治初期から北米を主な移住先としていた我が国の移住は、米国の排日運動でかげりをみせ始め、明治後期にはペルー移住が始まった。また、ブラジルが移住適地との視察報告の影響等もあって、明治四一年日米紳士協約により米国本土・ハワイへの道を閉ざされたのを機にブラジル移住が開始された。同年笠戸丸が第一回移住者を運んで以後、ブラジルは、新大陸としては主要移住先となり、時期による消長はあるものの、移住者は逐年増加していった。時期的にみると、大正二年が六、九四七人、同七年が、九五六人と多く、大正一三年米国の排日移民法が施行されてからは増加し、政府の奨励策もあって、昭和三年から同九年までは、ブラジルの革命の影響で同六年に減少をみた以外、毎年一万人を超え、昭和八年には約二万三、二〇〇人を送出している。
 次に各県からの送出しについては、図2-5に、移住開始から昭和三七年までの、送出し数上位一五県と下位一五県を地域別にグラフに示してある。これによると、西日本が卓越しており、東日本は北海道四位、福島県六位を除いて少数送出し地域であることが分かる。出移住者の最卓越地域は九州で熊本県一位、福岡県二位である。それに沖縄の三位も加えると、九州地方で約三二%を送り出している。続いて中国地方で広島県五位、山口県七位、岡山県九位と一〇位以内に三県が入り一二%を送出している。また送出し少数地域は各地域に分布しているが、特に中部・関東地方に少数県が多い。四国では、高知県一〇位、愛媛県一四位となっており、本県からは約五、〇〇〇人で二・二%を送出している。

 本県の移住者送出し状況

 表2-25は、本県からの戦前の年度別送出し数である。移住時期については、明治期約六五人、大正約七〇〇人、昭和約二、九四〇人と昭和期が多くなっている。送出し数は全国的傾向とおおむね一致しており、県の奨励や昭和二年に海外移住組合が設立されたこともあって、昭和二・三年、同七~九年がピークになっている。別記の俵津会の人々の渡伯も同八年ころからのことである。
 表2-26は、戦前における地域別の送出し数を示している。松山市を含む旧温泉郡が八一四人を送出し二一・九%を占めて最多数、次いで北宇和郡が五三五人で、一四・四%となっている。三地域別にみると、中予が四〇・八%で最も多く、南予が三四・六%、東予が二二%である。ブラジルの場合も越智郡の九・二%を除いて、宇摩郡五%、新居郡五・四%、周桑郡二・四%と少数になっている。
 戦後のブラジル移住は昭和二八年から始まった。県の指導のもとに愛媛県海外協会が結成され、また昭和三四年には愛媛県拓植農業協同組合連合会も発足し、活発な移住者援護事業を行った。表2-26の戦後の部によると、東予二〇・一%、中予三三%、南予三七・六%とやはり南予が多い。旧郡区域別にみると、東宇和郡が一七・八%と最多で、温泉郡の一六・一%がこれに次ぐ。南予では西宇和郡の二・七%と少ないのが戦前と異なる特色である。また、戦前に移住数が少なかった上浮穴郡が一五一人で一二%を送出しているのも戦後の特色といえる。
 なお、ブラジル移住者送出し数の詳細については、『愛媛県史資料編社会経済下』の表四二・表四三を参照されたい。

 在伯愛媛県人会

 戦後の県人会の結成準備会は昭和二八年五月一七日、ペンソン旭のサロンにおいて、鈴木力(中外新聞記者・日系初の女性弁護士鈴木みどりの父)の世話で開かれた。県人会の発会式は同年六月七日同所において挙行された。役員は、会長中矢一郎、副会長田中義数、会計沖永保四郎、会計監事大政忠義・中矢勝一、常任書記鈴木力、顧問小山清行であった。なお、同三七年の役員は会計までは同じで、常任常務理事大政忠義、会計監査中矢勝一・曽我義明、理事中矢末吉・中村栄・藤山孫一・清家徳一・田本吉丸となっている。会の目的は会員の親睦、県庁・郷土との連絡を密にすること、在伯県人会名簿を作成することなどである。県人会では同三二年ころより県の補助を得て、新移住者の受け入れ事務の世話を実施している。
 なお、県人会の調査による、同三七年ころの在伯本県人の所在、出身地、職業等は表2-27・28・29のとおりである。

 初期の契約移民-笠戸丸移民等

 皇国殖民合資会社の代表水野龍(高知県)は、明治三八年、東洋汽船南米航路第一船により、移民事情視察に渡泊した。同三九年に帰国したが、同四〇年に再渡航し、サンパウロ州政府と日本人移民導入の契約をした。契約の内容を抄録すると次のとおりである。
  一 農事労働に適する者三人乃至十人より成る家族を構成したる者三千人。
  二 年齢一二歳以上四五歳までの者を労働に適する者と認む。
  三 石工、大工又は鍛冶工の如き農業者に非ざるものも移民総数の五分までは許す。
  四 明治四一年より毎年一千人を年々送致すること。
  五 州政府は移民に対し、左の船賃補助をなすこと。
    一二歳以上のもの     一〇磅
    七歳乃至一二歳のもの    五磅
    三歳乃至七歳のもの     二磅一〇志
    三歳以下          なし
  六 移民は珈琲耕地又は殖民地に就地せしむ。之がため政府は中央線に沿ふて数ヶ所の殖民地を設定すべきこと。(以下略)
   (『在伯日本移植民二五周年記念鑑』より転載)
 水野は早速移住者を募集、第一回の笠戸丸(約六千t・元バルチック艦隊の病院船カザリン号)は、明治四一年四月二八日午後五時五〇分神戸港を出航、最初の契約家族移民団一七五家族七八一人を乗せ、六月一八日午前九時半無事サントスに入港した。翌一九日上陸、サンパウロ州立移民収容所プラタフォルマに送られた。
 六月二七日、沖縄県人の半数がカナーン耕地、残りはフロレス耕地に汽車で送られたのをはじめに、次々と出発、七月六日愛媛・山口の一五家族が、ソブラード耕地に送り出されたのが最後の耕配であった。
 耕配地でのコーヒー採取等の労働は、労働条件への不満、コロニヤ(移民長屋)の不備、言語、仕事不馴等から紛争・逃亡が相次ぎ、特にズゥモンド耕地・フロレス耕地では集団退耕移転者が多かった。
 水野は経営不振から、同郷の竹村与右衛門に権利を譲り、竹村殖民商館取扱いとして第二回以後の移住者を送り出すこととした。こうして、第二回九〇九人は同四三年、第三回一、四三二人は同四五年に渡泊した。
 表2-30は、第一回から第三回までの本県からの移住者の氏名・出身地等の詳細である。出身別では不明者を除いて、喜多郡が二三人と最も多く、伊予郡九人・温泉郡八人(追加分を加えると一九人)等となっており、中予に集中しているのが特色である。その後の推移については、第一回渡航者のうち七人が帰国している。
 耕地からの退耕については、第一回入耕者のうち、同四一年末の調査では四〇六人(五一・九%)が残留、愛媛県人等の入植したソブラード耕地では五〇人中四五人(九〇%)が残留している。第二回移民については、入耕後八ヶ月の同四四年三月の調査によると、九〇六人中六八一人(七五・二%)が残留、退耕者は第一回より減少している。本県人入植のサンジヨアキン・リベロイ耕地では、二四人中一九人(七九・二%)が残留している。

 笠戸丸渡航の本県人

 笠戸丸による第一回渡伯者のその後は、二五周年までに、帰国者七人、死者七人在伯者七人となっている。また、『かさと丸』(日本移民五十年祭委員会)によると、五〇年を経て昭和三三年には、中村たかの、橋本重左衛門、池田栄太郎、池田ミヤノ、宮田稔、芳我トミエの六人が生存していて五〇年祭に表彰された。さらに『笠戸丸より六十年』(在伯県人会連合会)によると、昭和四四年には、池田ミヤノ(パラナ州アサイ市)、宮田稔(リオ州イタグアイ)、芳賀トミ(サンパウロ市インディアナポリス)、中村たかの(渡航時橋本たかの・サンパウロ市ガマ・ロッパ街)の四人が生存している。同四一年「在伯県人会連合会」が結成(愛媛県人田中義数が第一会計理事となっている)され、この連合会で、在伯第一回移民訪日団を送る計画が実施に移された。同四二年に実施されたこの訪日団には本県人として、宮田稔・中村たかのが申込んだが、実際には中村たかのが参加し、政府から勲六等端宝章が贈られた。
 表2-31は、第一回渡伯者のうち、宮田稔の波乱と苦難のすえ成功を得た略伝を紹介したものである。

 昭和初期の在伯県人

 明治四一年(一九〇八)第一回移住者二一人が渡伯してから、本県からも引続いて渡航者があった。その数は明治期六五人、大正期約七〇〇人、昭和は七年までに約一、六五〇人である。
 聖州新聞社は、移民二五周年(昭和八年)を記念して『在伯日本移植民二五周年記念鑑』を刊行した。
 この記念鑑から県人の状況を見ると、氏名の重複や氏名不詳のものもあるが四三〇家族(氏名不詳を含む)を載せてある。全体としてみると農業関係者が大部分であるが、各沿線の状況を概観してみたい。
 都市部ではサンパウロ市一三家族、サントス市三家族、リオデジャネイロ市三家族と比較的少数であり農業以外の職業が多い。ただし、サンパウロ市郊外になると二三家族全員が農業に従事している。このうちロマノポリス植民地は、イタリア人経営で二一家族八九人の小規模なものであるが、ほとんど日本人による開拓で、本県人五家族が含まれている。最初の日本式木炭焼で知られている。
 ジュキア沿線では全体で一八家族、その内セッテバラス植民地に本県人八家族三七人が入植、セントラル沿線には六家族、その内東山農場に三家族が入植してブラジル式水田耕作をしている。
 パウリスタ沿線には五四家族が入植、教師二人、洋服店二人等八人以外はすべて農業関係者である。ボアソルテ植民地に六家族四四人が入植農業に従事している。
 ノロエステ沿線には一五二家族が入植しており、本県人の集中地域である。歯科医・薬剤士・理髪業・大工・バール等一六人以外は農業関係に従事している。主な入植地は、パナイ植民地に八家族三〇人、バラマンサ植民地に一〇家族六三人、アンチニヨ植民地に一八家族一〇六人、第一・第二アリアンサ植民地に一二家族五〇人等である。
 ソロカバナ沿線には八家族が入植しており集中地区の一つといえる。この沿線には、本県人星名謙一郎の創始したブレイジョン植民地・梅弁植民地のあることは別記のとおりである。職業としては教員・大工等一〇人以外はここでも農業従事である。ここには漁業が一人いる。
 アララクアラ沿線には一一家族が入植している。

 本県人入植の植民地

 明治四二年になると、独立小農生活を目指す者が現れ、耕主から借地したり、請負耕作をするようになった。さらに、同四四年には長崎県人三家族が最初の入植者として、第一モンソン植民地入りした。米作を試みて失敗したり、コーヒー栽培請負業を始める者も出た。同四五年に平野運平が、四〇家族のコロノを使って始めたのが最初といわれる。大正初期になると、日本人として、独自に植民地を創設する者も出たが、星名謙一郎(愛媛県人)は、その最も早い一人とされており、コチア植民地(鈴木貞次郎)、平野植民地(平野運平)の創設も同じ頃であった。

 ブレジョン植民地

 大正六年(一九一七)星名謙一郎の創設。ソロカバナ線終点から五〇粁奥のブレジョンに二、八〇〇域の土地を区画して、一アルケール六〇ミルの価格で売出した。小笠原尚衛(北海道)の財政的援助を得ていたが、その後手を引き、星野単独経営となった。星名は昭和二年、アルバレス・マシャード駅で狙撃されて即死した。
 昭和七年ころには、入植者三八四家族、二、一〇九人、所有地二、六八八域、コーヒー一八二万五、六〇〇本ほか各農作物。本県人は九家族五〇人が入植している。

 梅弁植民地

 星名謙一郎の創設。大正六年、ソロカバナ線インヂァーナ駅から七二粁の奥地に開かれた植民地、最初は棉花・雑穀を作り、その後はコーヒー(七一万二、七〇〇本)を栽培。昭和七年ころには、八五家族、五一一人、所有地七五八域、本県人は四家族三〇人が入植、内一人が洋服業となっている。

 第一モンソン植民地

 ソロカバナ線のセルケイラ・セザール駅の奥二一粁にある。明治四二年連邦政府の創設。同線沿線邦人植民地発祥の地で、同四四年初入植。邦人の土地購入の嚆矢でもあった。ほとんどが棉花栽培を業としており、昭和七年ころには、本県人四家族二三人が入植しており、平田満(喜多郡南久米村)が最大の土地所有者(一〇六域)であり、同地産業組合の理事長である。当時、四三家族二五七人で所有地二一七域である。

コチア植民地 

サンパウロ市の南西二五粁の所から扇形に展開する、約三〇粁平方に及ぶ開拓地である。最寄駅は西北一〇粁にソロカバナ線のコチア駅がある。大正三年ころ鈴木貞次郎がコチア川に沿った土地を借地したのが最初であるといわれる。邦人集団植民地の雄であり、産業組合、学校、連合青年会等がある。昭和七年ころ、一六四家族九一〇人、所有地三六二域で、馬鈴薯七万七、七一〇俵を産しサンパウロ市の市場を左右する発展ぶりである。本県人は二家族一三人が入植しているが、高知県人六一家族が集中的に入植している。
 コチア産業組合は、昭和二年にサンパウロ州において、八三人の日本人農業者によって設立された。当初は、馬鈴薯の協同販売による利益確保を目的として「有限責任株式会社コチアバタタ生産者産業組合」として発足、その後「コチア産業組合」と改称、同四〇年には組合員一万一、八八一人、出資金約四二一コントス、組合員はサンパウロ市を中心に半径一、〇〇〇粁の地域に広がる。組合員は日系人六〇%、ブラジル人三八%を始め二六力国人で構成されている。
 コチア産業組合は移住事業を開始、農村青年を三年間に一、五〇〇人導入し、契約期間終了後は自営農民として独立させる計画をたてた。この計画は昭和三〇年に実現し単独青年移住の道が開けた。いわゆる「コチア青年」の導入は同三三年までに完了、引き続いて第二回の一、五〇〇入導入計画を実現した。同三四年には既述のように集団花嫁も一二人渡伯した。さらに単身以外に、夫婦、家族移住も実現し、これらの業務については、全国拓植農業協同組合連合会と海外移住事業団等が協力している。同三〇年から同四〇年までのコチア産業組合移住者の各県からの送出数を見ると、鹿児島県が最多の一九八人、本県は七二人で一〇位であるが、戦前と異なり全国各地域から万遍なく送り出しているのが特色である。
 (『コチア産業組合移住者取扱要領』全国拓植農業協同組合)

 バストス植民地

 ソロカバナ線ランシヤリヤ駅から東北へ二七粁、幅・長さ共に約一九粁、面積一万二、九三二域(三万二、〇〇〇余町歩)の、ブラジル拓植組合最初の巨大植民地。第一回入植は昭和四年六月六日。市街地は移住地中央高燥地にあり、公共施設、住宅、商業区域に分けられている。街路は幅二〇米長さ一〇粁ある。昭和七年ころ、五九一家族、三、一四〇人、所有地四、九一九域、コーヒー株数一二八万一、六五〇本、地主が多く四九三人いる。本県人が最も集中しており、二四家族一一九人が入植しており在伯者の五・六%にあたる。

 チエテ植民地

 ノロエステ沿線のチエテ川に近く、ブラジル拓植組合が昭和四年に売買契約を結んで創設四万七、五三〇域の巨大移住地である。ルッサンビーラ駅・バクリー駅等四駅とチエテ川を隔てて相対している。ルッサンビーラ駅付近の渡場が唯一の交通手段であったが、チエテ橋が完成して便利になった。昭和七年ころには、二二八家族、一、一五〇人、所有地二、三〇〇域、コーヒー三一万五、九〇〇本である。本県人は四家族一八人が入植、内二人は商業と理髪業である。このチエテには、同九年から一一年にかけて東宇和郡俵津村から二八家族一五四人が入植、その他の入植者もあり、同一三年の調査では五三家族が在留していた。
 (『在伯日本移植民二五周年記念鑑』による。)

 俵津会の人々

 東宇和郡俵津村(現明浜町俵津)は、東西四粁、南北三粁、東は玉津村、西は狩江、北は宇和に接する入口約三、〇〇〇余の農漁村であった。養蚕が盛んで、村には俵津織物会社、俵津製糸株式会社があり、盛業時には村外からも求人するほどであった。それが昭和初期からの不況の影響で、特に製糸業が不景気で昭和一二年には俵津製糸株式会社が閉鎖するに至った。一方、昭和初期からは南米移住が積極的に推進され、同二年には県海外移住組合も結成されて、村々では移民募集の行事が盛んに実施された。
 不景気に当面していた村人はブラジルに活躍の新天地を求めることになり、まず、同八年に六家族三三人が渡伯してバストス植民地に入植して、渡伯熱が盛んとなった。昭和九年には二五家族一二七人、同一一年には三家族二一人が渡伯してチエテ植民地に入植した。昭和九年の渡伯時には、四月一二日の出発式には一戸二郎県知事代理として同夫人が臨席して激励の言葉をのべたのであった。
 当時の俵津村の記録として「昭和九年伯国移住一件書類」(酒井徳氏・市川留義氏資料提供)が保存されている。表3-32は、同九年渡伯者のうち二〇人分の二回にわたる財産調査の記録である。大部分が家屋敷を所有し貸金のある者もあるが、土地所有に関しては、同五年の農業調査による俵津村の田畑所有平均田一反一畝、畑五反に比しても、狭少であったことが分かる。また、渡伯にあたっては開拓設備資金を借入れるが、二二人が県移住組合から一人一、〇〇〇円を借入れており、次のとおり連帯保証書を提出している。

   開拓設備資金貸借契約書ニ附帯スル連帯保証書
   吾等下記二十二名ハ貴組合開拓設備資金貸付規程第一条第一項但書ニ依リ集団移民ノ故ヲ以テ特ニ各人金壱千円合計二万二千円貸付ヲ受ケ候処之カ貸借契約上ノ義務履行ニ付テハ相互ニ連帯ノ債務ナルコトヲ保証候也
   九年四月一日                             宇都宮紋次郎(以下連名略)
  愛媛県海外移住組合   理事長  瀬谷 薫殿

 この資料には構成家族・通信文・説明会・神戸移民教養所入所要覧等多くの資料が含まれている。
 俵津会の人々は、同一二年には一五家族がチエテを離れて、ノロエステ線アグアペイの英人耕地に転住するなど、各地に分散し多くの困難を乗り越えて奮闘した。
 渡伯後半世紀を経た同五三年、俵津会では『ブラジル愛媛俵津移民四十五年史』を編集している。出発当時の貴重な写真類や半世紀にわたる多くの人々の回顧録、俵津会の人々の現況等を豊富に収録したまことに貴重な移住史料である。
 表2-33は、俵津会の移住時から半世紀を経た現代までの推移を、二世の結婚相手、家族、職業等を一覧表にしたものである。俵津会の二世三世が、地球の裏側ブラジルに根を降ろし着々と繁栄している頼もしい有様が読み取れる。俵津会は今も故郷との連絡も密にしており、町長等の訪伯・在伯者の帰郷等のこともあり、同五七年には俵津公民館に移住記念の「拓魂」の碑を建設している。(『資料編社会経済下』口絵参照)

 ブラジルの本県人

 明治四一年以来、本県から約五、〇〇〇人が渡伯した。この人々の氏名等については、戦前のものとして「在伯愛媛県人名簿」や「俵津会の人々」その他の項で記述して来た。ここではその後の状況等も含めて本県人名簿等の紹介をしたい。

 星名謙一郎

 ハワイ・米国テキサスの項、またブラジルの項でも記述してきたが、テキサスの米作以後、アルゼンチンを経て明治末ころ渡伯したといわれる。ブラジルでは、リオデジャネイロ州の山県農場で米作に従事、大正四年ころサンパウロ州に転住した。同五年最初の邦字紙である週刊「南米」を発刊。また在留邦人最初の野球試合の世話をした。さらに同六年(創始は同四年ともいわれる)バイベン植民地・ブレジョン植民を売出し、これも邦人としては早い植民地創設であった。大正一五年一二月一三日、ソロカバナ線アルバレスマッシャード駅頭で一ブラジル人に射殺され、移住先駆者としての波乱に満ちた生涯を終えた。

 古谷重綱

 明治九年宇和郡明間村(現東宇和郡宇和町)に生まれる。アルゼンチン等の特命全権公使を最後に昭和三年に辞任。渡伯して大農場を経営。これは第一農場四九アルケールス二分(一アルケールスは二町五反)、第二農園は三一アルケールスの広大な農場で、コーヒー栽培及養蚕業を経営するものであった。この農場の資全協力者中に村井保固(二万円)・佐々木長治(三、〇〇〇円)等の本県人も含まれていた。古谷は農場経営と共に社会事業にも尽力している。すなわち、同仁会理事長(一二代・一三代)、佐伯日本人文化協会長(同九年)、日本病院建設委員会委員長(同一一年)、サンパウロ教育普及会長、サンパウロ大学講師等と多彩である。敗戦後は認識派の立場で在留者を指導、同二一年臣連特攻隊に襲われたが難を逃れたこともあった。同四二年死去、勲二等旭日重光章を贈られた。

 村井保固の移住者援助

 米国の項でその偉大な業績は既述のとおりであるが、彼の援助の手はブラジルにまで及んでいる(福永郁雄氏資料提供)。
○その主なものは、古谷重綱の農場に二万円を投資している。
○聖州義塾援助 小林美登利(福島県)の義塾を援助、大正一一年一、〇〇〇ドル、昭和二年一万ドルを援助、同五年三万円を寄付し、義塾では二百町歩を購入、村井植民地と命名。昭和八年の塾生は男子三五人、女子二人、葡語夜間生二五人、日本語通学生七人であった。
○日本力行会援助 力行会のアリアンサ合宿所建設のために二万円を寄付した。

 県人名紹介の図書等

 『百科事典』(愛媛新聞社)等に菊池恵次郎(現八幡浜市出身・後の冨士フイルム重役)が紹介されている。彼はブラジル開拓の父上塚周平の上塚植民地が資金難のとき援助した。
 『愛媛県移民史』(村上節太郎)には次の図書に紹介されている人々の活躍を紹介している。すなわち、『皇紀二千六百年記念在伯同胞発展録』・『ブラジル・パラナ洲邦人移植民発展史』(昭和二四年・池田重二)・『ドレスパラス移住地開拓二十周年史』(昭和二七年・池田重二)・『サンパウロ市及び近郊邦人発展史』(昭和二九年・池田重二)・『バストス二十五年史』(昭和三〇年・水野昌之)・『ブラジル日本移民人国記』(昭和三四年・池田重二)等がそれである。
 県人紹介図書としては、ほかにも『在伯日本人先駆者伝』(昭和三〇年・パウリスタ新聞社)・『ブラジル大観』(西本哲朗・昭和三二年)も多数の県人を紹介している。さらに『南北米だより』(久松定武氏)にも、昭和三二年久松県知事訪伯時の歓迎会の出席者名簿が次の通り載せられている。すなわち、サンパウロ市一七七人、アサイ市一七人、ウライ市三三人、プレシデンテ・プルデンテ市二一人、ロンドリーナ市二四人である。
 なお、この度の県史編さんに当たり、在伯県人会に資料提供を依頼したところ、プレシデンテ・プルデンテ市の佐藤福繁氏(会長)から多くの回顧録等をお送りいただいた。(中矢秀一、藤崎忠一、藤崎重信、伊藤清一郎、亀岡吉春、岡本千代子、西野弥平、板東好太郎、木原喜久男、西山仁一、丹ふみ子、音地実明、川平貞雄、金子勝美)
 在伯者名簿については、在伯愛媛県人会作成の『在伯愛媛県人会々員名簿』(同三七年)、愛媛県が同四五年と同五五年に作成した『海外移住者県人名簿』がある。

    ○アマゾンのトメアス植民地
 トメアス アマゾン川の河口に近いベレン(パラ)市から、アマゾン川の支流のアカラ・ピケー川を南に溯ること一八〇キロメートルのジャングルの中に、トメアスの植民地を開拓したのは、昭和四年(一九二九)四月である。その前年に南米拓植KKが創立され、社長は福原八郎が選ばれた。実質的には武藤山治を社長とする鐘渕紡績会社をその背景とした。南米拓植KKの創立発起人の中には南予出身の村井保固の名もある。トメアスを植民地の港兼本部とし、アカラ流域六〇万町歩、モンテ・アレグレ四〇万町を獲得する計画で、パラ州知事と契約している。
 ベレンからトメアス植民地への交通は、一八tの船で一二時間を要するが、テコテコと称する四人乗りの小型飛行機をチャーターすれば、約三〇分で行ける。
 移民入植 先発隊が昭和四年(一九二九)四月に入植して間もなく、第一回のアマゾン移民四三家族一八九名が、モンテビデオ丸にて同年九月にベレン港に着いている。第二回が三五家族一八六名、以降第二一回までで累計三五二家族が入植した。当初は生産する品は安く、購入品は高く、自給も困難である上に、風土病が蔓延し、多難な時代であった。昭和一三年三月の調査によると、入植者三五二家族二、一〇四名中、退耕者二七六家族一、六〇三名で、残存者九八家族四八三名であった。
 大戦中のアカラ植民地 昭和一七年一月二八日、対日国交断絶となり、日本人は敵国人として、アカラ植民地へは州の憲兵が派遣された。家宅捜査を受け、文書は没収され、三人以上の集会は禁じられ、ベレン市内の日本人は伯人暴徒に襲われた。ベレンの事務所も被害を蒙り、日本人は着のみ着のままで、移民収容所に移された。アカラ産業組合の活動は停止状態となり、販売購買も州の経営に移された。敗戦後アカラ農民同志会、組合役員の刷新一元化で苦難を乗り越えた。
 黒胡椒栽培に成功 トメヤスの農産物で、昭和二二年(一九四七)の事業報告によれば、米、野菜に次いで、黒胡椒すなわちピメンタ・ド・レイノは第三位である。その後、昭和二五年(一九五〇)には需要の増加、価格の上昇、インド産に劣らぬ製品の成功により、黒胡椒成金家が生まれた。
 戦前の黒胡椒の生産地はインドをはじめジャワ・スマトラ・マレーシアなど東南アジアであった。年産合計一〇万tを出していたが、第二次世界大戦で、栽培が半減した。それに対して、アマゾンのトメアス地方には昭和八年(一九三三)南米拓植KKの臼井牧之助が、シンガポール港で南洋種胡椒苗二〇本を入手した。そしてブラジルのアサヒザール直営農事試験場を経て、加藤友治・斉藤円治の育成により普及した。換金作物の黒胡椒栽培の成功により、トメアス地方は黒ダイヤ村といわれ、南米でもユニークな日本人の豊かな植民地であった。
 戦後愛媛県人二家族トメアス入植 戦後昭和二八年(一九五三)六月二五日、戦後初めて新移民二八家族を載せて、アメリカ丸は神戸を出帆した。昭和三一年度(一九五六)までに九回に亘って入植し、トメアス植民地に定住者は実に一三五家族七四四名に達した。戦後入植した一七〇家族に対しては、夫々約二〇町歩の土地を無料で分譲され、独立の地盤を確保した。トメアス地方はアマゾン上流の瘠地地帯と異なり、三角洲の砂質壌土で肥沃である。トメアスの植民地の成功しているのを知り、サンパウロ・マラニヨン等の諸州より転住した家族も一七あった。
 昭和三〇年(一九五五)入植した松山市小野出身の中田吟十郎の家族は夫婦と長男の三人、宇摩郡土居町下天満出身の岸俊蔵の家族は、夫婦と息子三人娘一人の六人であり、昭和三五年(一九六〇)六月一五日村上節太郎はトメアス植民地を訪ね面接した。中田氏の場合は夫人がちょうどマラリアの風土病にかかり、長男はベレン市で勤めており、本人独りが米作に働いていた。岸氏の場合は労力が豊富なので、黒胡椒の栽培も成績がよく、住宅の新築に取りかかっていた。六年後の昭和四一年(一九六六)に武智利博が、やはり岸俊蔵と中田吟十郎を訪ねた。共に二〇ヘクタールの土地を有効に利用し、成功していると報告している。武智利博はトメアスの今治出身の矢野氏(入植八年目)をも訪ねている。(昭和四一年一二月一〇日報告)

図2-4 南アメリカの国々

図2-4 南アメリカの国々


図2-5 ブラジル出移民卓越・少数地域表(1908年~1962年)

図2-5 ブラジル出移民卓越・少数地域表(1908年~1962年)


表2-25 年度別ブラジル移住数(全国・愛媛県)

表2-25 年度別ブラジル移住数(全国・愛媛県)


表2-26 郡市別ブラジル移住数{戦前(明治41年~昭和14年)・戦後(昭和27年~同59年)}

表2-26 郡市別ブラジル移住数{戦前(明治41年~昭和14年)・戦後(昭和27年~同59年)}


表2-27 本県人分布表

表2-27 本県人分布表


表2-28 出身郡別家族数

表2-28 出身郡別家族数


表2-29 本県人職種別人数

表2-29 本県人職種別人数


表2-30 初期愛媛県人ブラジル移民氏名表(明治41年~同45年)

表2-30 初期愛媛県人ブラジル移民氏名表(明治41年~同45年)


表2-31 宮田 稔歴(ブラジル第一回渡航者)

表2-31 宮田 稔歴(ブラジル第一回渡航者)


図2-6 俵津の位置

図2-6 俵津の位置