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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第五節 アジア地域への移住

 朝鮮

 朝鮮半島と日本との関係は、歴史年表によると、西歴二三九年に倭の耶馬台国女王卑弥呼が、使者を帯方郡に派遣している。「古事記」によれば、応神天皇(第一五代)の一六年(西紀二八五)二月、百済国から賢人の王仁と阿直岐が論語一〇巻と千字文一巻をわが朝廷に貢進している。
 朝鮮半島は三世紀初期には、高句麗・楽浪と馬韓・辰韓・弁朝など所謂三韓があった。五世紀には新羅・百済・任那と高句麗になった。高句麗の南下に対抗する百済の要請に応じて、大和朝廷は出兵し、任那に日本府を置いたが、五六二年に新羅に滅ぼされた。満州の輯安県の好太王碑によると、三九一年に日本が朝鮮出兵している事がわかる。
 弓月君・阿知使主・高向玄理・南渕諸安・僧旻・曇徴など南鮮から日本に帰化した人材が多い。
 降って秀吉の時代には、文禄の役(一五九二)・慶長の役(一五九七)の朝鮮に派兵し、伊予の諸藩主も出征している。大津(大洲)七万石の藤堂高虎も慶長二年六月一七日大津を出発、金山出石寺に武運長久を祈り、七月八日釜山に上陸し、唐島湾で殊勲を樹てた。八月九日高虎は秀吉より感状を賜っている。このとき朝鮮より俘虜一千余人を大津に留置した。朝鮮の碩学姜コウ一族を大津城に幽閉した。慶長三年の夏、姜コウは出石寺の僧快慶に会い、僧の求めに応じて詩を書いている。後姜コウは伏見に移され同五年帰国している。その間に藤原惺窩と親しくなり詩文がある。日本滞在中のことを書いた『看羊録』『幽囚中の記』には、当時の日本の様子を描き出しており、長浜の人びとが大へん親切にもてなした記事がある。出石寺の鐘は高虎が朝鮮から分捕って帰ったものである(『長浜町誌』六四~六五頁)。
 明治四三年八月二二日に日韓併合の調印がなされた。これより先に、明治一四年に越智郡の魚島や宇摩郡二名の漁民は南鮮の漁場を開拓している。『愛媛県民の韓国水域への通漁(出稼ぎ)と移住』については、『愛媛県史・社会経済2農林水産篇』の四三九~四四六頁に記述されている。

 朝鮮で活躍した愛媛の人びと

 愛媛県出身者で朝鮮で活躍した人に次のような人がある。
 ①押川方義(一八四九~一九二八)は松山藩士橋本昌之の三男で押方方至の養嗣子となる。明治四年(一八七一)上京、大学南校に学び、翌年洗礼を受け、仙台に東北学院を創立し院長となる。明治二八年朝鮮教化のため海外教育会を起こし京城学堂を設立し、伊藤・桂内閣の朝鮮経営を助けた。大正六年憲政会より衆議院議員に当選した。
 ②宇和島市出身の松浦鎮次郎(一八七二~一九四五)は、大正一三年文部次官、昭和二年京城大学総長となった。同四年には九大総長に就任した。同一五年一月米内光政内閣の文部大臣に抜擢された方である。
 ③松山市出身の安部能成(一八八三~一九六六)教授は明治四二年東大哲学科卒、大正一二年ドイツに留学した。大正一五年帰国し京城大学教授となり、同大学文学部長を経て、昭和一五年第一高等学校々長となる。昭和二一年幣原内閣の文部大臣となり、同四一年学習院長在職中に病死した。
 ④松山市出身の川島義之大将(一八七八~一九四五)は朝鮮の第一九師団長、第三師団長、朝鮮軍司令官となり、昭和一五~一八年には、朝鮮国民精神作興連盟総裁として京城にあり、終戦直後九月八日死去した。
 ⑤教育界では愛媛師範広島高師出の島田牛稚視学官。京城大学出で京城女子師範学校教授で、終戦後帰国し大洲高校・宇和東高校長となった長浜の兵頭正。大邱や全羅南道で教職に就き帰国後土居丹原新居浜西の高校長を歴任した村上一男は父親清一郎も旅順朝鮮で教職。国会議員になった故湯山勇、愛大教授になった相馬正胤(千葉県出身)川本建三らも若い頃は朝鮮で教鞭をとっていた。
 久米出身で総督府図書館長の荻山秀雄は終戦後県立図書館長を勤めた。上灘出身で愛師卒で京城師範付属教官の上田槌五郎は単式授業で一世を風扉した。長男京城大学医学部卒。
 愛媛ホトトギス会長で俳誌「柿」の主宰の村上杏史(一九〇七‐)は東洋大学を出ると京城日報学芸部に入り木浦新報に転した。松山市出身の歌原蒼苔は明治四一年大邱府に農園を営み大邱図書館長も勤めた。
 ⑥実業界では明治四〇年に大洲の多田順三郎(一八八一~一九六四)が三五歳で朝鮮に渡り、多田工務店を創立し工事請負業で成功した。養嗣子(福居)不二歳があとを継いだ。京城の多田工務店をたよりに、多くの県人が朝鮮に進出した。愛媛の視察団や開拓団慰問隊が京城通過の際は常に歓待を受けた。大洲出身の事業家で政治家の高山長幸(一八六七~一九三七)は昭和七年東洋拓植総裁となり、朝鮮満蒙の開拓事業に尽力した。松山の村上斎月の長男村上温太郎は東大卒で朝鮮銀行頭取で活躍した。新谷の平塚義和は水原高農卒であり、弟の重恒は早大卒で中鉱業に勤めていた。八幡浜市で婦人科を開業している萩森寿は京城大学医学部の第一回卒である。
 京城の愛媛人会長の松本伊織は伊予三島出身で全羅南道の知事を勤めた。県人会の幹事長の奥島盛三郎は上灘出身で文登興業を経営していた。昭和一九年一二月の県人会名簿をみると一九五名あり、飛行士の松山の藤田武明の名もある。ソウルオリンピック会場になる蚕室里に大正初期に養蚕を大規模にしていたのは天神村出身の山岡房太郎父子である。

 満州開拓団

 満州事変の余燻が治まらず、治安不良の昭和七年九月一日、第一次武装移民試験移民の募集が行われた。選出地域は東北の第二師団(仙台)・第八師団(弘前)・第一四師団(宇都宮)管内の在郷軍人の三五歳以下の身体強健・品行方正・思想堅実・困苦欠乏に堪え得る者が選ばれた。佳木斯の弥栄村、第二次が、千振村、第三次が瑞穂村で、二万町歩の土地を確保した。当時の満州開拓の指導者は日本国民高等学校長の加藤完治・関東軍参謀の石原莞爾と満州吉林鉄道守備隊教官長の東宮鉄男大尉が三本柱であり、拓務省第一次武装移民団長は山崎芳雄である。弥栄村は当初四九二名であったが一〇年後の昭和一七年三月現在総人口は一、四四六名になった。うち当初の団員は二九一名に減ったのは、戦死一四、病死九、退団者一九七名のためである。但し退団者は昭和七・八年のみで以後は退団者はなく、三回に亘り入植補充を行っている。驚くのは第二世の増加で一〇年間に六百余名が出生している。これら第一次武装移民の例である。
 昭和一一年(康徳三年)広田内閣の時、七大国策の一つとして「二十ヶ年百万戸計画」の満州開拓政策を決定した。この数字の基礎は、当時台湾が邦人五〇万に対して本島人が五〇〇万であったのに因る。すなわち満州は二〇か年先に人口が五、〇〇〇万人になる。その際邦人は一〇%いれば満州国を動かすことができると考えたのである。一つは国防上、満州で食糧が生産されれば、それだけ関東軍の食糧調達に役立つと思った。一つは当時内地の不況対策と過剰人口の口減らしの分村計画をしたのである。北満に日本人が入植することにより、ソ連に対する圧力となり、満州の治安は確立されて行く筈であった。
 ところが昭和一六年一二月八日、米英に宣戦布告し、当初は戦果があがったが、日本は戦線が広すぎ、燃料や物資兵器の欠乏で、二〇年八月惨めな敗戦となった。
 終戦当時の開拓団の数は、開拓団九二八団で二四万二千余人、義勇隊一〇二隊で二万三千余人、報国農場七四か所で四千九百余人、合計二七万余人であった。
 昭和二〇年一〇月末の現地調査では、集団開拓団員一三万一千余人、集合開拓団三万五千五百余人、義勇隊開拓団三万四千八百余人、青少年義勇隊二万三千七百人、合計二二万五千五百人で、この時までに約二〇%が死亡している。門脇朝秀編『祖国はるか-満ソ国境に落ちた紙凧-』七頁による。
 そもそも満州開拓移民の話は、日露戦争後に満鉄沿線の行政権を日本に移譲されたとき、初代満鉄総裁の後藤新平は、五〇万人の日本人を移住させると云った。明治四二年の第二五議会に外相の言明があったが実現しなかった。大正三年から同六年に満鉄守備隊の除隊者による開拓移民を誠みたが、農業未熟練と組織不足で大半は失敗であった。
 昭和四年一〇月二九日のニューヨーク市ウォール街の株式暴落による恐慌は日本にも影響した。大正八年米騒動の時は一石五〇円に暴騰したが、昭和四年には二五円であった。昭和五年には二〇円、同六年には一七円三〇銭に下がった。繭をはじめ農産物は暴落し、村の小学校教師の給料を村で払えなくなった時代である。農村経済更生、救農土木工事を行ったが、昭和四年には日本の失業者二九万、同六年には四一万人と増加した。満州開拓移民は日本の不況対策克服のためでもあった。

 愛媛県関係の開拓団

 愛媛県としては昭和一〇年の策四次移民計画による城子河および哈達河に数家族と、翌一一年の第五次移民計画による朝湯屯および黒台に数家族送り出しだのが最初である。
 本県の開拓団は表の如く第六次より第一四次に及んでいる。
 第六次黒馬劉四国村と、第七次の東黒馬劉予土阿村と、第八次の作木台開拓団の三つは、他県人と一緒の四国混成開拓団であった。
 西宇和郡伊方町出身者の漁業移民荘河(安東省)伊方開拓団は、日本が無条件降伏したとき、海岸に中共軍が上陸したにも拘らず、佐々木五九雄団長の適切な処置と、元満州の屯長の息子を伊方農学校に留学させるなど、日満親善を行っていたお蔭で、五〇家族一七〇人が命拾いして無事帰国した。異民族でも至誠と人類愛が通じた実例で美談とされている。

 諾敏河の愛媛村

 愛媛県人だけでまとまった開拓団は、第九次諾敏河愛媛村開拓団が最初である。その後の開拓団はすべて市町村単位でまとまった分村の形をとる集団開拓団である。
 愛媛村の団長は喜多郡御祓村(昭和二九年五十崎町に合併)出身の西沢香寿美(一九〇八~)で、天神村駐在の県農会技手であった。彼は宇和農卒で、家は素封家の長男、父は御祓村長をつとめ生活は安定していた。彼は村の経済更生、分村計画を立て、人に満州行きをすすめながら、自分が行かんのじゃ、男じゃないと腹を決めたのが昭和一三年である。彼は村長議長と相談したあと歯科医の大野貞男等の意見を尋ねた。大野も賛成し、やがて彼も愛媛村で村民の治療につくすことになった。副団長の朝光芳明は伊予市森の出身で久万町の青年学校の教員で、農家の二男であり、県の翼賛壮年団の藤谷隆太郎の推せんによる名コンビであった。
 西沢と朝光は昭和一三年一〇月茨城県内原の満蒙開拓幹部訓練所にそろって入所した。一〇か月の訓練を受け、翌一四年満州のハルビン幹部訓練所と第六次黒馬劉四国村で実地訓練を受けた。翌年昭和一五年二月一一日紀元節の朝、西沢団長、朝光副団長の先遣隊二三人の県人が、愛媛村に入植した。先遣隊の中には三好治(今治市河南)、大野芳太郎(五十崎町宿間)、大空福磨(八幡浜市千丈)、鹿島智夫(宇和海村嘉島)、伊藤逸雄(松野町富岡)、松田獅夫(八幡浜市日土)等がいた。昭和一五年五月魚成村の分村建設を夢みた青年たち、兵頭久一、九鬼繁光、細川文吾、朝川藤吉、河野米治、加藤卯三郎、伊井宗一郎、河原好夫の八人が補充先遣隊として愛媛村建設隊に加った。
 愛媛村は海倫駅から東方七五キロメートルにあり、晴天ならトラックで三時間か四時間で行けるが、雨のときは泥濘のため馬や徒歩で二日がかりであった。面積五万町歩、うち水田三〇〇町歩、畑地三、〇〇〇町歩、あとは山林。集落は高さ二間幅一間の土塀をめぐらし、東西二〇〇間、南北三〇〇間で四角形を呈していた。塀の中に個人住宅、共同宿舎、浴場、食堂、倉庫、学校、幹部宿舎があった。門には守衛が立っていた。

 愛媛村に関する資料

 ①先遣隊で愛媛村に入植した宇和島市嘉島出身で、現在松山市居相に住む鹿島智夫著の『愛媛村開拓の先駆者たち』B5判七一頁が、松山市古川町の西沢香寿美材木店内の拓友会から昭和四二年一月発行されている。西沢会長の序文がよい。「民族の大陸大移動!!何と云ふ壮大厳粛な現実であったろうか。満州の開拓は民族協和と日本民族の発展と云ふ歴史的大事業であった。そして私共は僅か三年間に其の理想実現の基礎を確立した。其の功績は先遣隊の努力と物事に対する考え方(開拓精神)に依る処が頗る多い。敗戦に依り勇途空しく且つ多数の拓友、家族を失った事は痛恨の極みであり想い出す度に胸がいたむ。但し茲に一先遣隊員として起居を共にした鹿島君が当時の想い出を記録して呉れた。此の貴重な体験と精神を後世に伝えることは極めて有意義な事と信ずる。漁撈の傍ら情熱を傾注された同君に深甚の謝意を表する次第である」とある。―入植式から52南部落への移行までトピック的に名文で体験を述べており、開拓団の生活を浮彫りにしている。
 ②三根生幸也著『赤い夕陽-愛媛の元満州開拓団記録-』愛媛新聞社発行、昭和四八年五月。B6判二五三頁は愛媛新聞に百回にわたり連載された記事を一冊の本にまとめたものである。第一章国策を信じて、愛媛村開拓の胎動、不況の農村、五百万の大量移民、四国の混成開拓団、愛媛村の誕生、伊方の分村、青少年義勇軍の誕生、創設期の義勇軍、初の郷土中隊、少年の日記手紙から、第二陣岡田中隊、勤労奉仕の青年団 第二章満蒙をひらく 愛媛村のその後、戦時色の教科書、大陸の花嫁養成、郷土中隊のその後、岡田中隊のその後、少年の日記から、郷土中隊の第三陣、転業者の開拓団、食糧増産隊の渡満、終末期の義勇軍、指導者の義成機関 第三章流亡の果てに 自刃した開拓団長、県人二百人が眠る撫順、南へ逃げる学徒たち、思いとどまる玉砕、井戸に投身する若妻、祖国を恋うる遺書、幸運だった宇和島郷、南満州にいた開拓団、故郷の山河目の前に、引揚げ孤児のために、ある満州開拓民の戦後、以上のような章節で詳細に資料を示して書かれている。トピックといい、着眼点といい、写真といい、まことに適切ですばらしい。今は亡き知人の氏名をみたり、敗戦時の悲惨な記事を読むと胸のつまる思いがする。三根生記者の献身的努力で、長く忘れられた人々の氏名が紙面に残ることにより、犠牲者の霊も慰められたと信ずる。
 ③西沢香寿美団長の宅(松山市古川町)に、昭和五五年一〇月に調べた「元諾敏河愛媛開拓団の団員名簿」がある。氏名と住所を誌す。①西沢香寿美団長 ②副団長朝光芳明-伊予市森 ③高橋正雄教師-秋田県横手市根岸町 ④相馬正敏-青森市三内字沢部 ⑤鹿島智夫-松山市居相町 ⑥河原東一-城川町魚成 ⑦市川智恵子-野村町本町 ⑧矢野久一-城川町魚成 ⑨九鬼繁光-城川町魚成 ⑩大森(大野)芳太郎-五十崎町平岡 ⑪大空福麿-八幡浜市千丈 ⑫成瀬勝実-東京都荒川区東尾久 ⑬松田(宍田)獅夫-八幡浜市日吉防川 ⑭宗次豊-伊予三島市朝日 ⑮高津徳松-川之江市川之江町 ⑯曽我部晋平-松山市持田町 ⑰続木宗一-土居町野田 ⑱川口正一-新居浜市坂井 ⑲星田豊-新居浜市西連寺 ⑳中内勝輝-伊予三島市上柏赤之井西 (21)岸田芳清-東予市国安 (22)宮内広一-川之江市金田町平山 (23)古川秀人-宇和島市祝森 (24)古川邦博-同上 (25)伊藤逸雄-松野町富岡 (26)松根義秀-津島町北灘 (27)武野勇-土居町北野 (28)藤原正雄-伊予三島市金砂町 (29)矢野正直-川之江市金田町 (30)二宮剣一-城川町土居 (31)宮内茂-内子町(32)大野善太郎-五十崎町宿間 (33)村上亀太郎-長浜町白滝 (34)丸山達弥-五十崎町重松 (35)土居邦広-五十崎町北表北浦 (36)稲荷孝-松山市西野町 (37)山田ミヤ子-中国撫順市露天区列山街 以上生存者 行方不明者-池田綱行・吉川敏夫・藤原清・石岡勝・白石照一・山下照美・鎌倉茂正・加藤ミヤ・三好治・矢野ツヤ子・中田千秋・吉川高一・逝去者-西出武夫・清水正一・田中時一・武野糸二郎・池田常男
 名簿には電話番号まであったが、省略した。この名簿により昔の愛媛村の拓友が連絡されることを期待する。

 愛媛県関係の青少年義勇軍

 満豪開拓青少年義勇軍が誕生したのは、昭和一三年三月である。昭和一二年七月に日中戦争が勃発したため、移民適齢期の青壮年が続々召集された。その青壮年の代わりに満一四歳の高等小学校を卒業した者から一八歳の少年を対象とした。初年度の一三年に全国で三万人を満州へ送り出す計画であった。本県からは昭和一三年一月から五月末までに一九三人が入隊している。本県出身の少年は表2-45の如く第一次および第二次義勇隊は混合中隊である。
 昭和一五年からは本県出身者のみで表2-44の如く中隊を編成した。開拓団や義勇軍で渡満する人々は、茨城県の内原訓練所(加藤完治所長)で数か月間研修した。愛媛県の修練所としては周桑郡庄内村の県立農事修練道場、長浜町上須戒の青年道場(梶谷永五郎場長)、内子町五城の長岡山の山腹に昭和一七年一二月設置した「県立女子拓植訓練所」は全国六か所の一つ。中井三蔵・中井モトエの所長夫妻が、大陸の花嫁を養成した。中井モトエは昭和一三年一〇月、大妻コタカ団長の率いる四一名の女子指導者満州視察団のメンバーの一人であった。

 満州開拓青年愛媛義勇隊の資料

 愛媛県の青年義勇隊に関する資料は西沢香寿美団長宅にもあるが、活字になっているものは、前述の『赤い夕陽』の中にもある。単行本としては昭和五七年五月青野広志編集「凍土に果てた青春」第五次満州開拓青年義勇隊若田中隊の歩み、がある。A5版三三二頁で今治市立花一丁目一二の加藤幸男方、若拓会事務局発行で、巻末に若拓会の会員名簿と満州開拓に関する参考文献が列挙されている。
 波方町出身で岡田中隊の隊員であった桧垣通夫編集の「ハラバの狼」A5版二一四頁昭和五八年八月発行には、岡田中隊の隊員名簿があり、写真入りで隊員の体験記がある。巻末に門田中隊拓友会編の「朔北に君の子を焼く」などの参考文献が列挙している。

 満支で活躍した愛媛県の人びと

開拓団や義勇軍の人々のほか、満州の五族協和、大陸発展のため貢献した民間人は多い。資料不足であるが、終戦後引揚者で活躍した人びとを列挙する。

 官界政界

 ①菅太郎(一九〇四~一九八〇)松山市出身で彼の父は日露戦争で戦死している。東大法学部政治科卒で内務省警保局に入り、三年間ベルリン駐在、昭和一二年から一五年に満州国の国務院の中枢幹部で、内務大臣のような重要な仕事をしていた。戦後第一区より衆議院議員に当選五回、経済企画庁政務次官にもなった。
 ②宮内弥は伊予市の出身で松高東大卒で、満州国蓋平県の副知事を勤めていた。蓋平は南満の奏天と大連の中間の大石橋の南で、満鉄の沿線で豊穣の地である。
 ③野村馬(一九〇六~八〇)伊予郡松前町岡田に生まる。松高東大法学部政治学科卒、当初巡査、昭和一二年県庁に入り昭和一三年には職業課長で満州移民担当、実務は五島貞雄主事が行う。五島の熱弁は有名で、彼の話で感激し義勇隊に入り、開拓に参加した若者が多い。野村は昭和一六年に新京の義勇隊訓練本部管理科長となり戦後引揚げた。昭和二一年県庁に復帰、昭和四四年一月副知事を最後に県庁を去り、愛媛放送の初代社長となる。
 ④毛利松平(一九一三~一九八五)は慶應義塾大学政治学科卒業後、満鉄の撫順炭坑労政課長で終戦。衆議院に当選連続五回、三木派。外務次官、環境庁長官就任。彼は少年時代から政治家を夢み、豪放磊落、在満中のエピソードも多い。柔道六段。

 実業界

 ①坪内寿夫(一九一四~)松前町出身、弓削商船卒 昭和八年満鉄入社、昭和二〇年ソ連抑留、同二三年帰国し映画館経営に成功、同二八年来島どっく社長、同五三年佐世保重工業社長、奥道後ホテルを経営し多方面に活躍している。引揚者で成功している例。
 ②長坂親和(一九〇八~)松山市出身で早大専門部卒、昭和一〇年満鉄鉄道部に就職、参謀本部海軍省中華民国在上海日本大使館の嘱託など歴任、終戦後一番町に親和観光産業を起こし、南町にパレス、内子町に四国一のゴルフ場を経営し、二人の息子があとを継ぎ活況を呈している。
 ③西沢香寿美(一九〇八~)五十崎町御祓出身、満州開拓愛媛村の団長、昭和一九年現地召集、終戦は北支保定で迎えた。帰国後西沢製材所を起こし、古川町に一万二、〇〇〇坪の敷地を有し、マンションを建てている。大陸仕込みの先見性と度胸で成功している。
 ④青木明(一九一七~)五十崎町古田出身、日大専門部修。昭和一七年北満嫩江の隅田商会(本社大連、日満合弁、社長新谷出身隈田清実)へ入社、満州自動車製造㈱専売工場経営、昭和二〇年召集、敗戦でソ連抑留、同二三年帰国、松山に履物の青木本店を萱町に移転、同四四年中央通に新築移転、同四八年御宝町に青木ビル建築し、商売はもちろんライオンズクラブ、同郷会等に奉仕している。名著「商人讃歌」(昭和六一年二月)に詳しい。
 ⑤富永歓市(一九一一~)昭和九年隅田商会に入社、北満の黒河で砂金採掘に従事、倒産後は終戦まで北安で製材業で成功した。敗戦帰国後大洲の柚ノ木で熊手などの竹細工工業を営み、多方面に活躍している。
 ⑥宮岡要(一九一三~)五十崎町平岡出身 昭和一二年ハルピンの森川商店に就職、同郷の井口重雄らと大いに活躍、終戦後無事帰国。町会議長、農協組合長、刷子工業代表取締役などに活躍している。

 教育界

 愛大教授になられた永井浩三博士は奉天の浪速高女で七年勤めていた。宮本義男博士は昭和一八年に満州国師道大学教授であった。松山商大学長に親子がなった伊藤恒夫教授(一九一二~)は京大哲学科卒、卒業と同時に大連高商教授に就職、応召シベリア抑留、帰国後松山経専教授となる。三好憲之(一九一四~)は新京第一中学に五年間勧めていた。高野山大学学長となった今治出身の中野義昭(一八九一~一九七七)も長く北京にいた。彼は東大文学部印度哲学科卒、昭和八年天津中日密教研究会講師を振出しに、満鉄天津事務所・興亜院華北連絡部、中国仏教学院教授、戦時中は北京大学文学院教授、文学博士であった。
 興居島出身で東大教授宮本武之輔工学博士は満州の松花江や北支の黄河の治水について貢献した。松山市長の中村時雄も昭和一八年北京大学農学院を卒業した。源氏物語の研究で有名な重松信弘博士愛大教授も満州建国大学教授であった。

 医師界

 清水五郎(一九〇四~)は大洲中学四修松高東大医学部卒、医博。満鉄の撫順病院の内科部長で終戦を迎えた。引揚後大洲市志保町で内科医開業中である。
 松山市三番町の森外科院長の森健一は長浜町出身、奉天の満州医科大学の卒業である。九州大学医学部卒で三津浜出身の乗松和政(一八九六~一九四五)は奉天の日赤の産婦人科医長であった。開業したら患者が殺到し健康を害して倒れた。

 愛媛開拓団への慰問奉仕隊

 満州の開拓団員差激励し、少しでも勤労奉仕をし、旅順の戦蹟を見学する視察団は早くから挙行された。昭和九年度の愛媛県教育視察団は、八月三〇日の夜ハルピンの南の双城駅近くで匪賊に襲われ、和泉小の池田有実、清水小の田中清一、志川小の佐伯令の三訓導が犠牡になった。このとき人質を救った村上久米太郎の「日本人ここにあり」は軍国美談とされた。今女の片山教諭も背に銃弾を受けた。
 満州建設勤労奉仕隊は昭和一五年が第一回で渡部順農事試験場長が中隊長で三四名の名が昭和一七年九月一五日の愛媛合同新聞に載っている。同紙に昭和一六・一七年度の奉仕隊の氏名と職業が詳細に誌されている。昭和一五年の教学奉仕隊の班長には西村喜代一視学、井上頼明・貫井不可止・伊達万貴夫・渡辺雄登三の名がある。昭和一六年には桧垣俊蔵、昭和一七年には佐伯秀雄の名が見える。昭和一六年の満鮮教育視察団一行三三名の団長は篠崎覚一郎、副団長水原重光、団員に奥田芳行・中原成人の名が見え、ガリ版刷の二二日間旅行日誌が保存されている。
 敗戦後西沢香寿美団長らは昭和四九年一月一三日、護国神社境内に、国のため旧満州へ渡り再び祖国の地を踏むことかく散華されし愛媛の開拓者の霊を慰さむるため、「拓魂」の碑を建立した。また昭和五六年六月には、上海北京経由で、西沢団長「赤い夕陽」の著者三根生幸也ら一行一三名が、諾敏村の昔の愛媛村を訪ね写真帳をつくっている。
 中島町出身の岡田明人中隊長は昭和六二年六月、元隊員の二四名をつれて、嫩江の元入植地を訪ね、昔を偲び美しい印刷の報告書を岡田中隊拓友会から出している。

 南洋に活躍した愛媛の人びと

 タイ(シャム)で活躍した大洲出身の政尾藤吉については、「大洲市誌」に詳しい。比島の大阪貿易㈱の沿革をみると、大洲市柚木出身の松井一族が中心で、彼をたよりに多くの愛媛県人が渡航している。人名など詳細は「愛媛県史概説下巻」の第五章移民に誌されている。

表2-44 満州の開拓団(愛媛県関係のみ)

表2-44 満州の開拓団(愛媛県関係のみ)


表2-45 愛媛県関係義勇隊開拓団

表2-45 愛媛県関係義勇隊開拓団


表2-46 郷土部隊の義勇隊

表2-46 郷土部隊の義勇隊