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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

5 愛媛の社会福祉

 社会福祉概念の歴史的変化

 「社会」・「福祉」という文字は古代・中世・近世を通して文書上には現れてこない。「社会」は宋の朱熹・呂祖謙共著の『近思録』に初見されるが、我が国では明治時代に福地源一郎がSocietyの訳語として用いたものである。「福祉」の福及び祉はともに「さいわい」の意で日本固有の言葉である。福祉の語は、戦前の社会においても法律用語や日常用語に現れるが、それは今日の社会福祉の意味で用いているのではなく、福利厚生的意味で使われている。我が国で福祉あるいは社会福祉の用語が一般化するのは第二次世界大戦後のことである。戦前、愛媛県下で福祉の語を用いたものは昭和一一年九月の「愛媛県盲人福祉協会設立趣意書」が最初であり、明治三四年七月の「愛媛慈恵会設立趣意書」(資社経下五一三)には「福趾(ママ)」の語が用いられている。
 「社会福祉」という語は「日本国憲法」第二五条にみられるが、その解釈や分野は、時代社会や経済的条件の相違、あるいは援助の手を差しのべる者とそれを受ける者の相違によって異なっている。昭和二五年の「社会保障制度に関する勧告」、同二六年公布の「社会福祉事業法」、このほか昭和三九年度『厚生白書』、同五四年の『新経済社会七ヵ年計画』などに見られるように、社会福祉の概念は、生活困難者に対する公的援助を基調としながらも、その内容はその時期のニーズに即応して変化している。また、広義の社会福祉として、全国民を対象とする社会保障、医療、公衆衛生、教育、住宅、完全雇用など生活に関連するすべての公共的分野を社会福祉の分野とする立場がある反面、要保護者のみを対象とする特別な金銭給付、医療、教育、住宅、授産などを提供する保護的事業を社会福祉と考える立場もある。
 我が国では、昭和二五年の社会保障制度審議会「社会保障制度に関する勧告」にみられる概念「社会福祉とは、国家扶助の適用をうけている者、身体障害者、児童、その他援護育成を要する者が、自立してその能力を発揮できるよう必要な生活指導、更生補導その他の援護育成を行うこと」と受けとめ、「社会福祉事業法」に規定された内容(第三章八〇八ページ参照)に基づく種々の活動が進められている。愛媛県内では、県及び各市町村の社会福祉行政担当者はいうまでもなく、現在二、七七六名の民生委員(昭和六一年一二月)や社会福祉事業関係者、ボランティア、コミュニティー活動関係者などを中心にして広範な活動が推進されている。
 他人の生活困難に対する援助は、大正期から第二次世界大戦終了後しばらくは「社会事業」という語を用いて推進されてきた。我が国の社会事業成立の契機は大正七年の米騒動であり、思想的には大正デモクラシーを媒介として「正常な一般生活の水準より脱落背離し、またそのおそれのある不特定の個人または家族に対し、その回復保全を目的として」(昭和二五年社会事業研究所見解『国史大辞典7』所収)、国・地方公共団体あるいは個人が種々の対策を立てて保護事業を進めてきた。社会事業の発展は、立場を替えてみると社会政策の未熟さにもつながるが、大正一〇年には内務大臣を会長とする社会事業調査会が発足して、社会政策と救済事業を包括的に論議されるようになってきたことは大きな進歩であった。しかし、この時期の社会事業では、家族制度と隣保相扶が強調されたことが特色で、国家責任による保護事業は限定されていた。昭和一〇年代の戦時体制下では、軍事援護事業の中に社会事業が吸収され、いわゆる戦時厚生事業が展開された。愛媛県では、大正一〇年に設けられ社会事業行政推進の中枢であった社会課が兵事厚生課に改組されたのは昭和一七年であった。
 「社会事業」の用語が用いられる大正期以前の社会では、貧困や病気に悩む生活困窮者を個人や自治体が「恤救」したり「賑給」した。これらの言葉には「めぐむ・ほどこす」という意があるため、この時期の社会福祉事業は「慈善事業」もしくは「慈善救済事業」などと呼ばれている。慈善事業を推進することは道徳的にもすばらしいことであるが、それが貧窮者に対する憐れみや熱心な信仰心から発したものである場合には、社会が一体となって取り組む今日の社会福祉とは異なり、救済を受ける人々が何を必要としているかを把握しない「施し」に終わってしまう傾向があった。愛媛県下で、久万凶荒予備組合・愛媛慈恵会・宇和島済美婦人会など明治期に発足して今日もなお活発な社会福祉活動を行っている団体は、その関係者が単に慈善事業の域にとどまることなく、常に本県の社会福祉の先駆的役割を担って来た。
 社会福祉の概念を過去にさかのぼって述べてきたが、近世以前の社会には自然発生的な結や舫などの相互扶助がみられていた。血縁・地縁・同じ職業・同じ信仰をもつ者の間では同類意識や共属の感情があるために、他人の苦痛は同時に自分の苦痛と感じられる傾向が強く、冠婚葬祭や田植え・屋根の葺替などには相互に手助けし合う伝統が育っていた。こうした村落内の相互扶助は県内にも数多く残っており、地方により、ユイ・イイ・コウロク・モヤイなどと呼ばれている。古代律令制下の地方行政における隣保組織としての五保、江戸時代における五人組制度などは徴税と治安維持に重点を置いた連帯責任の単位であったが、結の伝統に基づく相互扶助的一面も有していた。