データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 方面委員制度の進展と変容

 方面委員の活動

 大正一二年、愛媛県に方面委員制度が発足し、翌一三年、松山、今治、宇和島の三市に方面委員が委嘱されて活動を開始した。その後も八幡浜町、宇和町、久万町、波止浜町などに方面委員が委嘱され、県下の方面委員数は昭和二年に一六八名、同七年には二四二名となった。昭和一一年には表2―14のごとく県下六五市町村に四二二名の方面委員が置かれ、同一四年には温泉郡三内村(現川内町)を除き県下全市町村に、一、四八四名の方面委員が誕生した。このうち、女性の方面委員はおよそ二〇名であった。
 方面委員に昭和二年四月の「愛媛県方面委員設置規程改正」(資社経下四一七)によって、(1)一般社会状態を調査しその改善向上を図ること、(2)保護又は指導を要する者及び公私の救助を受けている者について、その実情を精査し適切な方法を講じること、(3)社会施設の適否を調査しその完備に努め、かつ各種社会事業団体との連絡を密にして方面事業の達成に尽力することなど五項目に及ぶ職務を有していた。具体的には、調査、保護、救済、福利、教化、融和、その他戸籍整理の任務をもち、担当区域(方面)の生活状態を精査して自活困難世帯があった場合には「調査カード」(方面カード)に記入し、一通は市町村長を通して県へ提出、一通は手元に保管して活動の資料とした。
 昭和初期の恐慌下で生計の途を絶たれ、方面カード登録者数が増加した松山、今治、宇和島の三市には、昭和五年七月、市の社会課に方面事務取り扱いの専任として方面書記が設置された。同年三月までに今治市方面委員が累積した方面カード数は九三枚で、三月中に新たに「老衰疾病」、「病弱失業」の理由で四枚が追加、三月中に死亡・扶養者発見の理由で削除されたカードは二枚であった。また宇和島市では同じ三月中、貧困、病気、飲酒、「主働者ノ死亡」を理由に一二枚のカードが追加され、削除カードはなかった。しかし、カード登録までには至らない各種の保護救済取り扱い件数はカード数の数倍に及ぶと考えられ、昭和五年度、松山市方面委員二一名による取り扱い件数は九九四件であった。昭和六年五月末における松山市の種別救助員数は、廃疾者四名、老衰者四五名、疾病者五六名、幼弱者三五名であり、こうした人々には精米一人一日二号~三合五勺、雑費として一人一日五銭~一五銭、看護人料一人一日一〇銭~五〇銭、借家賃一か月五〇銭~一円五〇銭が方面委員の世話で給付された。また総山市湯屋組合から寄贈された六〇〇枚の湯券もこうした人々に配分された(「愛媛社会事業」昭和五年六月号、六年八月号)。
 宇和島市方面委員久保盛丸は救護委員や軍人遺家族並びに傷痍軍人世話掛を兼務していたが、彼の「方面委員手帳」には昭和一〇年一一月から翌一二年五月までの活動の様子が控えられている。宇和島市は昭和一〇年一月、方面委員担当区を改正し、市内を六方面に分け、更に一方面を数地区に分けて二一名の方面委員がそれぞれ一つの地区を受け持った。久保は第四方面の藤江、北新町、須賀通り、住吉町の担当であった。昭和一〇年も旱魃と風水害に見舞われた年であったため、方面委員の活動は多忙を極め、一一月には担当区域の調査をして四三名(一二世帯)の困窮児童があることを報告、翌年一月には厳寒時救護者調査を行い、三一世帯を要救護世帯と認定して救護金配分の案を立てている。このほか、同情袋の配布と募金、貧困者死亡に伴う火葬料免除及び葬儀費支給手続、傷病者への診療券配布、児童健康診断の世話、被救護者への救護費支給など種々の活動を行っている。なお、こうした活動はすべて順調に進んだわけではなく、手帳中に「水田委員卜共ニ(被救護家庭を)調査、救護ノ必要ナシ(と判断した。被救護者の)厚顔ニ憤慨シ、直ニ渡辺書記補ヲ招致シテ、一二百限リ救護打切リヲ注意ス」という記載もみられる。
 これらの活動のほかに、方面委員は市町村方面委員会に参加し、日頃の調査を基礎資料として被救護者を選考するとともに、授産施設、公益質屋、職業紹介、教化事業などに関する協議を行い、社会事業の大きな推進力となった。また、方面委員の多くは、大正一一年に創設されていた愛媛県社会事業協会の会員となり、県下各地の方面委員と連絡をとりながら研鑽を積み、社会事業の発展に尽くした。

 方面事業の後援団体

 方面委員の設置が県下に広がっていくのにつれて、その活動を助成するとともに各市町村の社会事業を推進する団体が生まれるようになった。この団体は互福会、助成会、共済会、輔済会、愛隣会などの名称があったが、ともに方面事業後援団体で、今日の市町村社会福祉協議会に相当するものである。これらの団体は各市町村や県の補助金及び会員拠出金、篤志家の寄付金を資金にして、授産場、職業紹介所、母子寮、託児所などの諸施設の整備を進め、これを経営した。昭和一一年九月末には、松山市方面事業後援会、財団法人宇和島市民共済会、八幡浜市互福会、川之石町共存会、宇和町方面委員助成会、吉田町方面委員助成会、岩松町(現津島町)輔済会、大洲町方面事業助成会、財団法人長浜奨善会、内子町方面委員助成会、松前町方面委員助成会、久万町方面委員助成会、波止浜町方面委員助成会、桜井町方面委員助成会、川之江町愛隣会、渓筋村(現野村町)社会事業助成会、田之筋村(現宇和町)方面委員助成会の一七団体があった。
 このうち、松山市方面事業後援会は設立当初は松山市互福会と称され、市長を会長に仰いで篤志家から寄付を募り、既成の救助規定によっては救助し難い困窮者に応急救護の途を開いた(昭和二年「松山市事務報告書」『松山市史料集』第一一巻所収)。また八幡浜市互福会は市制施行前の昭和二年七月五日八幡浜町互福会として設置されたもので、同町に方面委員が設置されるのと同時に組織された。会員は方面委員と町内の篤志家からなり、貧困者の生活扶助や救療及び授産事業を主な活動とした。また「同情週間」を設定して社会事業の啓発を行う一方、「同情袋」を各家庭に配布して寄付を仰ぎ貧困者の救済に充てた。
 方面委員後援団体のうち、宇和島市民共済会の発足とその活動は特に注目すべきものであった。昭和初期の宇和島市は人口五万五千余人を有する県下第二の都市で、製糸、織物、海運、醤油製造などの諸産業が栄えていたが、繊維業界の不振は宇和島市内にも多くの失業者を生じさせた。しかし同市は港湾改修、河川付け替え、水道布設、学校建築などに多額の経費を必要とし、窮民の保護救助事業に多額の市費を充てる余裕はなかった。こうした状況下にあって、同市方面委員の中平常太郎、今井真澄らは既存の同市方面委員後援会の改組と内容の充実を計画、宇和島市長であり同市方面委員後援会長でもあった山村豊次郎と図って、昭和二年一〇月二五日、宇和島市民共済会を発足させた(宇和島市民共済会「創立60周年記念誌」)。この会は同市における窮貧救助、失業保護及び罹災救護など市民の福利増進を図る目的で諸事業を進め(表2―15参照)、「方面委員として其の機能を充分に発揮せしむるため」の後援組織にふさわしい活動がみられた。初代会長中平常太郎、副会長今井真澄はともに本県社会事業の第一人者で、菊池正宏、松本良之助、星野太龍、大内英尾ら一八名の理事もすべて方面委員であった。
 なお、昭和一〇年の『愛媛社会事業』新年号に所収された宇和島市民共済会々則は次のようになっていた。

      宇和島市民共済会々則
        ○組  織
  第一条 本会ヲ宇和島市民共済会ト称シ宇和島市方面委員ノ附帯事業トス
  第二条 本会ノ事務所ヲ宇和島市役所社会課内ニ置ク
        ○目  的
  第三条 本会ハ宇和島市ニ於ケル窮貧救助、失業保護及罹災救護其他市民ノ福利増進ヲ計ルヲ以テ目的トス
  第四条 本会ハ前条ノ目的ヲ達スル為左ノ事業ヲ行フ
     一、救助ニ関スル事業
      (イ)生計療養費補給
         老幼不具廃疾疾病傷害等ニヨリ生計療養ノ途ナキモノニ対シ一定額ノ費用ヲ補給ス
      (ロ)養育費補給
         棄児、迷児ニ対シ適当ノ処置ヲ取ルニ当リ必要アルトキハ其ノ費用ノ全部ヲ給与ス
      (ハ)出産費補給
         出産費ニ窮スルモノニ対シ必要ト認ムルトキハ其ノ費用ノ一部又ハ全部ヲ給与ス
      (二)葬儀費給与
      葬儀費ニ窮スルモノニ対シ必要ト認ムルトキハ其ノ費用ノ一部又ハ全部ヲ給与ス
   二、失業保護ニ関スル事業
    (イ)宿泊及食事
      共同宿泊所ト連絡ヲ執リ失業者ニ対シ宿泊及食事上ノ便宜ヲ計ル
    (ロ)帰郷及就職旅費貸与
      失業者ニシテ帰郷又ハ就職地ニ赴カントスルモ旅費ナキ者ニ対シ実費又ハ一部ヲ貸与ス
    (ハ)企(ママ)業生計費貸与
      失業又ハ転業ニ依リ家計補助ノ必要アリト認ムルトキハ相当ノ資金又ハ生計費ノ一部ヲ貸与ス
    (二)授産事業
      授産事業ヲ起シ失業者又ハ求職者ニ対シ就業ノ便宜ヲ計ル
   三、罹災救護ニ関スル事業
    (イ)宿泊及食事
      罹災者ニ対シ宿泊及食事上ノ便宜ヲ計ル
    (ロ)生計費療養費ノ貸与並ニ補給
      罹災者ニ対シ其ノ生計費療養費ノ一部又ハ全部ヲ貸与並ニ補給ス
    (ハ)義損金品募集
      一般ニ義損金品ヲ募集シテ罹災者ニ交付ス
   四、其他理事会ニ於テ必要ト認ムル事項
      ○経  費
第五条 本会ノ事業ニ要スル資金ハ県及市ヨリ受クル交付金、本会ノ事業ニ賛同セラル篤志家ノ寄附金及其ノ利子並事業ヨリ生スル収入ヲ以テ之二充当スルモノトス
  第六条 本会ノ資金ハ確実ナル金融機関ニ預ケ入レ又ハ有価証券ヲ
      買入レ利殖ヲ図ルモノトス
        ○役  員
  第七条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
      会 長   一名    副会長   一名
      理 事  一八名    幹 事   ニ名
  第八条 会長、副会長及理事ハ方面委員ヲ、幹事ハ社会課職員及有給
      書記ヲ以テ之ニ充ツ
  第九条 本会ニ顧問若干名ヲ置キ会長之ヲ推挙ス
  第一〇条 本会ノ主旨ニ賛同シ一ケ年金拾円以上ヲ寄附シタル者及
      区費ヲ以テ相当寄附シタル者ヲ賛助員トス
        ○職  務(第一一条~第一五条)(省略)
        ○附 則(第一六条~第一八条)(省略)

 宇和島市民共済会の授産事業

 宇和島市民共済会の活動資金は県や市の補助金のほかに会員の拠出金があったが、中平ら方面委員の必死の勧誘にもかかわらず会員数は伸び悩んでいた。このため方面委員が一〇〇円、二〇〇円と大金を持ち寄り、昭和五年には二〇名すべての方面委員が連帯責任で県社会事業協会より五千円、愛媛県農工銀行より一万円を借り入れて活動資金に加えた。これら多額の資金を必要とした理由に、市民共済会が会の設立当初から構想していた授産事業の開始があった。
 大正期以来の方面委員活動を通して金銭による救助の弊害を感じていた中平会長らは、授産場を創設して失業者救済と窮貧者の生活安定を図る必要性を痛感していた。そして、市民共済会の関係者の誰もが、宇和島の風土に適し、既存の企業と競合せず、しかも器械などを使用しないで誰でも手軽に就労できる業種を授産事業に取り入れたいと考えていた。昭和四年の秋、所用で松山に出た中平と今井は高浜桟橋で九州から団扇製造用竹材を積載して丸亀へ航行する船を見、これを機に丸亀よりも原料産地に近い宇和島で団扇を作ることを思い立った。既に昭和四年五月二二日、市内御殿町の民家の二階を借りて「宇和島市民共済会授産場」の看板を掲げ、方面カード登録者中より一五名を選んで宇和島人形(おもいで人形ともいう)を製作販売し、従業員に一日(七時間半の就労)五〇銭の標準賃金を渡していたが、同年秋頃からは団扇製造も事業種目に追加することが計画された。
 昭和五年六月丸亀市から団扇職人森太郎吉を招へいし、彼を講師にして、七月には市内の失業者より一三七人を集めて団扇製造講習会を開催した。二か月に及ぶ講習期間で、骨作り、柄塗り、張立て、仕上げなど団扇製造の各工程に欠かせない技術を習得した従業員が養成された。また、同年七月二九日には理事会が授産場の新築を決議し本格的な授産事業を進めるようになった。この間、販売用の製品も作られるようになり、宇和島の和霊神社にちなんで、「和霊団扇」と命名された団扇が昭和五年七月二三日の和霊大祭当日、同境内で受講生によって売り出された。昭和六年四月、台湾で開かれた愛媛県物産見本市(本県主催)には中平会長も出席し、会長自らが台北、高雄、嘉義など台湾の主要都市を巡って和霊団扇の販路開拓に努めた。この時、中平は宇和島人形六〇〇個、和霊団扇一五万本の注文を取ってきている。前年から計画していた授産場の建設も、愛媛県水産試験場本館の払い下げを受け、昭和六年中にこれを市内妙典寺前に移築して設備を整えた。
 大量注文と設備拡充により、生活困窮者や失業者の中から新規に従業員を受け入れ、授産品の生産拡大が進められた。昭和六年六月からは方面委員で市民共済会副会長に就任していた松本良之助か場長となって日勤するようになり、県や市の補助金に加えて昭和七年度以降は恩賜財団慶福会、岩崎男爵家・住友男爵家・伊達侯爵家などからも補助金を受けた。この間、授産品製造に適さない人のために、行商部を新設して団扇、粉末石鹸、脱脂綿などを販売した。昭和八年度の販売成績は好調で、団扇だけでも七〇万本、二万一、四七五円の売り上げであった。また昭和一〇年度、授産場に約一三〇名が常勤するようになった。
 宇和島市民共済会は授産事業のほかにも、昭和三年八月以来、「貯金奨励内規」を定めて貧困家庭における飲酒、子供の買い喰いなどの是正を行い、節約した金銭を貯蓄にまわす運動や、方面委員であり宇和島市・北宇和郡医師会長でもあった樋口虎若の努力で方面医制度を設け、市民共済会が紹介した傷病者には安い医療費で診療してきた。また、米麦、味噌、醤油を原価で販売する篤志商店制度を設けて、貧困かつ疾病などの理由で共済会から生計療養費(一日五〇銭、一か月限り)を受けている者を援助することなど様々な事業を行っていた。昭和九年一二月一日、宇和島市民共済会は財団法人化し、昭和一三年四月からは市内妙典寺前に更生家屋昭和園を開設、一か月一円の低家賃で住宅を提供した。この年、市内和霊町にも授産場を新設、ここでは下駄の製造を開始した。また昭和一六年四月にも市内大石町に、母子寮とその付属保育所愛児園を発足させた。

 今治と八幡浜の授産事業

 今治市には方面委員後援団体が存在しなかったが、今治市長を会長とする方面委員会が授産場を経営した。昭和八年の夏、綿糸を縦糸としタオル地の裁断屑を横糸として製織したバスマットを見た愛媛県知事一戸二郎が、これを「更生織」と命名し、これにヒントを得た今治市の方面委員会は、この年の一一月、「更生織」を授産品として事業を開始する計画をたて始めた。
 今治市授産場の創立は昭和八年一二月二六日であるが、この日から一か月間、市内大正通りの矢野工場の一棟を借り入れ、失業者救済・職業補導講習会を開催し、翌九年一月二六日からここを授産場として事業を開始した。授産品は「更生織」によるバスマット、帯、敷物類のほか昭和一〇年三月からは藁加工品も加わり、石炭運搬用の莚畚(もっこの意)が作られた。その後、昭和一二年から一四年にかけては衛生薬品部、ミシン縫裁部、軍手軍足部、家庭職業(内職)部、紙撚部の五部門が加えられ、戦時体制下の軍人遺家族の授産事業を中心とするようになった。
 昭和一四年九月末の「今治市授産場要覧」によると、この時の従業員数はミシン縫裁部の四五名を最高に更生織部二五名、藁加工部一六名など六部門で一〇八名が常勤し、約四七〇余名が内職などに携わっていた。これら従業員は方面カード登録の失業者や軍人遺家族で生業扶助を要する者より、方面委員の推薦によって採用されたり、物資動員強化によって失業した人々であった。賃金は開設当初男四○銭~一円、女二八銭~八〇銭であったが(「今治繁昌記)、昭和一四年には男六〇銭~一円二〇銭、女四〇銭から一円となり、就業時間は午前七時から午後五時までとなっていたが、出来高によって賃金が支給される従業員は比較的自由な勤務時間が認められた。また、家庭に乳幼児を有する者には託児料一日四銭五厘を補助して隣接の託児所に入所させた。
 授産に用する経費のうちの一部は他の授産場と同じく、県・市の補助金のほか三井報恩会、恩賜財団慶福会、個人篤志家の寄付によっている。なお、昭和八年度から同一三年度までの就業者、生産額などは表2―16の通りである。
 昭和二年七月五日に結成された八幡浜町の方面委員後援団体である八幡浜町互福会も、その活動を貧困者生活扶助、貧困者救療、貧困者授産の三項目とした。このうち授産事業は昭和五年度に開始された。ここでは授産場として一定の施設を有さず、方面カード登録者の家庭副業としてヒチトー蚕網作成の講習会を開き、受講者が技術を習得した後、彼らが製造した蚕網の販売斡旋を互福会が受け持った。その後、八幡浜町互福会は竹箸製造をも授産種目に加え、これを「互福箸」と名付けて売り出し、昭和一〇年には月販二五万膳に上った。
 このほか、昭和一〇年には、伊予郡郡中町(現伊予市)方面委員会でも「更生織」による授産事業(従業員一〇名)を進め、北宇和郡岩松町(現津島町)方面委員会では、生糸の屑を利用した製糸を業種に選び、一五名の要救護者を対象とする授産事業を行っていた(「愛媛社会事業」昭和一〇年五月号)。
 こうした授産事業が昭和期に入って活発に進められたのは、失業者の救済のほかに、要救護者に対して「濫給ヲ戒メ、努メテ自力更生ノ意気ヲ奮起セシメ、独立自営ノ域ニ導カザルベカラズ」という当時の社会事業推進上の基本的考え方が強く影響し、これに直接関係した方面委員は自らを犠牲にして授産事業の発展に努めた。

 救護委員と方面委員令

 方面委員制度は、岡山県、大阪府など社会事業先進府県の発意で発達してきたもので、大正六年の創始以来全国に普及し、昭和三年の福井県を最後に全道府県に及んだ。昭和三年九月末で全国に一万五、一五五人の方面委員が委嘱され、社会事業の各分野にわたって熱心な活動を行っているが、それでも方面委員未設置の町村は昭和一二年当時で全国に約三千を数えていた。
 昭和四年、「救護法」制定に際して全国的に統一された方面委員制度の実現が関係者の間で唱えられたが、画一化を避ける意図から方面委員を残し、各道府県のあるがままの姿で活用しようとした。すなわち、「救護法」第四条で要救護者の直接的な世話をする救護委員を置くことになったが、既に方面委員を設置している市町村では、方面委員を救護委員にし、方面委員未設置の所でも、新たに委嘱した救護委員は同時に方面委員にも充てるなどの措置をとる所が多かった。本県でも、昭和七年一月一日の「救護法」施行にあわせて「愛媛県方面委員規程」(資社経下四二三)を制定し、「救護委員設置ノ市町村ニ愛媛県方面委員ヲ設置ス」、「方面委員ハ愛媛県救護委員ヲ以テ之ニ充ツ」と規定した。
 救護法施行を前にした昭和六年一一月三〇日から一二月一一日まで、県当局の主催で救護法実施協議会が県下三市九町で開催された。一二月一一日、宇摩郡三島町(現伊予三島市)で開かれた会には、県社会課係官ニ名のほか各町村吏員や方面委員三五名が出席し、「救護法」並びに関係法規の説明と質疑、「救護法施行細則」(資社経下四二二)草案の説明と指示事項、注意事項の後、「救護法」施行後の予算編成、救護施設・医師・薬剤師・産婆・救護委員との連絡方法などについて協議された(「愛媛社会事業」昭和七年一月号)。こうした準備の後、昭和七年一月一日付をもって、松山市(一八名)、今治市(一六名)、宇和島市(二二名)、宇摩郡川之江町(八名)、越智郡桜井町(三名)、同波止浜町(五名)、同菊間町(六名)、温泉郡道後湯之町(四名)、上浮穴郡久万町(五名)、伊予郡松前町(五名)、同郡中町(六名)、喜多郡内子町(五名)、同長浜町(六名)、同大洲村(八名)、同大洲町(五名)、西宇和郡八幡浜町(一五名)、同川之石町(七名)、東宇和郡宇和町(九名)、同田之筋村(四名)、北宇和郡吉田町(四名)、同岩松町(六名)、同明治村(七名)、南宇和郡御荘町(六名)に計一八〇名の救護委員が委嘱され、「本法(救護法)該当ノ者有之候ハバ、之が救護ニ遺憾ナキヲ期セラレ度」との県知事久米成夫の要望に応えて、各委員は活動した(「愛媛社会事業」昭和七年二月号)
 救護(方面)委員の活動中、特筆すべきものは今治市救護院の設立であった。この施設は、元今治商業銀行専務取締役をも務めた馬越文太郎が上京して事業に成功し、郷土の社会事業資金として寄付した一万円を資に建設された。大金を前にした今治市方面委員会では、「救護法」実施に併せて救護院を創設することを計画、昭和八年度から県や市の補助金を受けることが決定したので、市内日吉地区に六七三坪の敷地を購入し、ここに木造平家一五五坪余の施設を建設した。昭和八年九月二二日開院式が挙行され、救護法に基づく救護院として老病者や生活困窮者二三名を収容して救済に当たった。
 救護法の施行後、内務省内では再び方面委員制度の統一問題が浮上した。方面委員制度は地方の任意的な制度であるだけに、各地の実情は区々であり、また複雑であり、救護法の執行を補助する機能として問題があるといわれた。そこで、内務省が法制化の研究を重ね、昭和一一年一一月、勅令をもって「方面委員令」を公布し、一二月から施行した。その規定の特徴は、(1)方面委員の指導精神を明示したこと、(2)職務を明確に規定したこと、(3)道府県を設置主体としたこと、(4)委員の選任は銓衡委員会を経て知事が行うこと、(5)費用は道府県の負担とすることなどであった。
 「救護法」や「方面委員令」の施行は本県でも方面委員設置の町村を増加させ、昭和一四年には一か村を除き県下に広く普及した。しかし、昭和一一年三月の「愛媛県方面委員規程改正」(資社経下四二七)や同一二年一月の「愛媛県方面委員執務規程」(資社経下四二七)では、、方面委員に市町村長の補助機関化し、「救護事務軍事救護事務等ニ付、市町村長ヲ援助スベシ」との方向へ、その性格変更を余儀なくされた。

 県下方面委員大会の動き

「救護法」の実施以後、「方面委員令」のほかには「児童虐待防止法」(昭和八年)、「少年救護法」(同八年 これにより感化法廃止)、「母子保護法」(同一二年)、「軍事扶助法」(同一二年)が公布され、児童保護、母子家庭の扶助、傷病兵及び遺家族の救済などの拡充が図られた。更に昭和一三年には、経済不況の中で経営難に悩む民間社会事業団体の助成を目的に「社会事業法」が制定されるなど、「救護法」による社会事業行政を補足する種々の法制が整えられた。しかし、昭和六年の満州事変勃発・同一二年の日中戦争開始と戦時体制が進行していくなかで、社会事業の様相も変化し、それにつれて方面委員の活動にも変化がみられるようになった。
 愛媛県社会事業協会の会誌「愛媛社会事業」には、県下各地の方面委員の活動を紹介する方面委員制度欄が設けられ、毎月の近況が掲載されている。この記事によると、各市町村方面委員会はほぼ毎月例会を開いて、その方面カード取り扱い事例を報告し、救護米金給付を協議するとともに、公益質屋での低利資金借り入れ状況、職業紹介者数、授産場の事業概況などを報告して、その後の活動計画を検討している。また、年末細民救護方法、失業救済計画、他府県の社会事業視察報告など社会情勢に即応した問題も協議された。しかし、昭和一二年の「軍事扶助法」施行以後は、軍人遺家族の援護、軍人援護事業、銃後後援事業などのほかに、国民精神総動員運動に基づく種々の教化事業も方面活動の重要な要素と考えられるようになった。
 県下の方面委員が一堂に会して、相互の連絡を図るとともに一層の活動を促すことを目的とする愛媛県方面委員大会は、方面委員制度発足以来ほぼ毎年開催された。会場は県下主要市町持ち回りであったが、昭和五年二月一〇日、県立大洲高等女学校で開催された第五回大会には、県下三市一六町村の方面委員と関係者が一〇〇余名参加した。「委員各位の熱心なる研究と経験とにより、漸次取扱事項の範囲が拡大し、一部の救済機関たるに止まらず、警察、学校其の他と協力し進んで防貧方面にも深く意を用ひて、或は福利の増進に或は児童保護に或は地方教化の事に努むる等民心の作興、自治の振興に寄与せらるゝ所極めて大にして、県民一般の斉しく認めて感謝する所であります」との知事告辞の後、失業救済事業や方面委員制度の一般への理解について県当局から指示が与えられた。つづいて、会長から「方面委員制度の機能を十分に発揮するため、方面委員として執務上考慮すべき最も必要なる事項如何」との諮問がなされた。参会した方面委員から種々の答申がなされたが、最終的には宇和島市方面委員中平常太郎を代表とする五名の答申案作成委員が指名され、次のような答中書が承認された。

  一、方面委員の機能を発揮する為には委員の任期を四ヶ年制となすを適当とす、
  二、救助を行ふに当たって単なる物資的救助に流れず、自活力を復活せしめ自助独立心を涵養すること、
  三、方面委員相互の連絡を図るは勿論、各種社会事業団体との連絡提携を密にすること、
  四、細民思想の善導に留意し、人格的接触により教化指導に努むること、
  五、受持地域内に起こる事件につき細大となく常に知悉し得る様努むること(家庭訪問)、
 六、窮民の生ずるは社会制度上の欠陥によること多し、委員は時代思想に後るゝことなく、社会共同責任の観念の下に深き同情を以て事に当たること、
 七、方面委員例会開催を励行すること、
 八、必要なる箇所に委員の新設又は増員を行ふこと、
 九、方面委員助成機関の完備を期すること、

答申書の第六項にみられるように、昭和五年当時は「社会制度上の欠陥」によって窮民が生じることが方面委員の間で認識されているが、こうした考え方は、戦時体制の中で徐々に統制されていくことになった。
 昭和七年と八年の方面委員大会は中止されたが、昭和九年三月一九日、松山市の愛媛青年会館で第七回愛媛県方面委員大会が開かれた。大会では、県当局が出した五件の協議題と県下三市提出の建議案三件について協議されたが、このうち最重要課題とされた県提出の全県下方面委員連盟の組織に関する件も承認された。大会終了後、県当局は連盟設立準備を進め、昭和一〇年三月二〇日愛媛県方面委員連盟委員長猪股博(当時の県学務部長)の名で、支庁長、各市町村長、各警察署長、各新聞社宛に「今般県下各方面委員ノ連絡統制ヲ図り以テ方面事業ノ進展ヲ期スル為、別紙規約之通愛媛県方面委員連盟ヲ結成致スコトト相成候」との文書を発した。「愛媛県方面委員連盟規約」によると、連盟は「県下方面委員相互ノ連絡統制ヲ図リ方面事業ノ進展ヲ期スルヲ以テ目的」とし、社会事業に関する調査研究、方面事業に関する講習・講演・映写会・協議会・印刷物刊行(連盟時報を発行)などを行うとしている(「方面委員関係綴」川之江市立図書館所蔵金生村役場文書)。
 この後、方面委員制度は昭和一一年勅令によって法制化され、同時に救護事務や軍事援護などについて市町村長の補助機関化し、昭和一四年一〇月県下方面委員大会では、次のような諮問と答申が行われた。
     諮 問
  現下ノ時局ニ鑑ミ県民生活ニ対スル精神的指導ノ徹底ヲ図ルノ要アリト認ム、之ガ方策ニ関シ其ノ会ノ意見ヲ諮フ
                                       愛媛県知事 持永義夫
     答 申
  現下ノ時局ニ鑑ミ県民生活ニ対スル精神的指導ノ徹底ヲ図ルヘキ方策ハ素ヨリ多岐多様ナリト雖モ、我等平素ノ体験ニ徴シ特ニ左記事項ノ実施励行ヲ緊要ナリト認ム
  一、一般県民ノ精神指導ニ関スル事項
   イ、一般県民ノ精神的指導ノ徹底ヲ図ルニハ、先ズ県民ニ対シ刻下日常生活二対スル一切ノ不安ヲ芟除シ、更二進ンデ真二正シキ時局認識ヲ得セシムルヲ先決要件トス、之が為ニハ県二於テ今夏稀有ノ旱害二対スル適切妥当ナル対策ヲ速二樹立実施シ、米穀需給ノ円滑ナル運営ヲ期スルト共ニ、県民各層二対シ内外ノ情勢ハ素ヨリ諸般ノ国策ヲ出来得ル限り率直二周知セシメ、県民ヲシテ不退転ノ気魄ヲ以テ安ンジテ興亞聖業ノ達成二協カセシムルノ要アリ、而シテ之が精神指導ノ目標ヲ町内会又八部落会二置キ、益々普及強化ヲ図ルト共二紙芝居、座談会等最モ庶民ニ親シミ易キ方法ヲ以テ周知徹底セシムルヲ可トス
   ロ、方面委員ハ町内会・部落会ノ役員卜相協カシ又ハ各種団体トノ連絡提携ヲ図リしばしば会合ヲ催シ、教育勅語ノ聖旨ヲ奉持シ日本精神ノ自覚涵養二努ムルト共ニ、方面精神ノ昂揚ヲ図り自戒自ラ範ヲ県民ニ示スコト、尚、今秋執行ノ県会議員選挙ニ際シテハ、時局下而モ粛選(選挙粛正)ノ叫バレタル中ニ、多数忌ハシキ選挙違反ヲ出シタルガ如キ悪弊ハ今後率先シテ矯正ニ努ムルコト
  二、軍事援護世帯ノ精神指導ニ関スル事項
   イ、軍事援護世帯ノ精神的指導ハ方面委員ノ重大任務タルヲ以テ、市町村銃後奉公会特ニ軍事援護相談部ノ事業ハ方面委員ヲ推進カトシテ活動セシムルコト
   ロ、婦人方面委員ノ設置増員ヲ促進シ当該方面内各種婦人団体連絡協調ノ楔タラシメ、特ニ婦人中心ノ世帯二対スル家庭強化並ニ母性及児童保護ニ遺憾ナカラシムルコト
  三、方面世帯ノ精神指導ニ関スル事項
   イ、救護ノ要諦ハ精神教化ニアリ金品ノ給与ハ精神教化ノ手段ニ過ギザル点ニ留意シ、総テノ取扱ノ根本ヲ方面世帯員ノ自立向上心ヲ涵養セシムルコトニ重点ヲ置クコト
   ロ、皇恩ノ鴻大無辺ナルト国家ノ恩遇ノ深淵ナルニ深ク留意セシメ、東亞ノ盟主タル日本国民タルノ自覚ヲ得セシムルコト

 「救貧」と「防貧」を主旨として発足した方面委員制度の性格変更に対して、軍事援護は社会事業ではないとする意見は県内にもあった。こうした意見に対して愛媛県社会課社会事業主事村松義朗は『愛媛社会事業』の昭和一四年一月号から一二月号に「時局・方面事業講座」を連載し、戦時下の方面事業を理論づけた。これによると、方面事業の担当分野を規定することは難しいと述べながらも、(1)防貧救済を主な使命としていた時代、(2)軍事援護事業をも当然の職責とする時代、(3)戦時戦後の諸社会対策への参与を任務とする時代、以上三つの段階的発展論を示し、「国家総動員法」下にあっては「一死奉公、笑って護国の鬼と化した同胞の英霊に対する限りなき感謝と、新東亞建設への民族的大使命に対する責任感を、絶へず国民の胸裏に覚甦せしむる事により、思想悪化を防止し摩擦を解消し、以て国民精神総動員の完成に現実的に参与するのも、刻下方面委員にかせられた重大使命の一つであらう」という見解を示した。

表2-13 方面委員数及び関連経費の推移

表2-13 方面委員数及び関連経費の推移


表2-14 昭和11年時、方面委員数

表2-14 昭和11年時、方面委員数


表2-15 宇和島市民共済会の各種救済取り扱い件数(設立時より昭和8年度まで)

表2-15 宇和島市民共済会の各種救済取り扱い件数(設立時より昭和8年度まで)


表2-16 今治市授産場の就業者・生産額などの概況

表2-16 今治市授産場の就業者・生産額などの概況