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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 高度経済成長期の社会福祉

 社会福祉施策の推移

 昭和三〇年ころから始まった日本経済の拡大は、同三五年からの国民所得倍増計画により、高度成長へと移行し国民生活も豊かになった。経済界の活況や個人所得の増加は、累進課税制度を採用している我が国では、国や地方公共団体の税収も増加し、この時期、顕著になってきた新しい福祉要請に対しても予算措置が講じられることになった。
 昭和三〇年代、国民生活の安定化に伴い生活保護率は徐々に低下し、昭和二六年度に四・〇%であった世帯保護率は、同三六年度は二・六%となり、その後も低下している。しかし高度成長期には、人口の都市集中から過疎・過密の問題、家族形態と機能の変化、生活環境の激変などがみられ、これらの諸問題の中で、精神薄弱者、老人、母子家庭など、昭和二〇年代にはまだ法的措置が十分には講じられていなかった人々に対しても、積極的な福祉施策がとられることになった。すなわち、昭和三五年三月に「精神薄弱者福祉法」、同三八年七月に「老人福祉法」、同三九年七月には「母子福祉法」が制定され、昭和二〇年代の福祉三法と併せて、福祉六法の時代へと発展した。また高度経済成長期、国家財政の豊かさから、資金貸し付け制度や年金制度も拡充され、昭和三〇年には、低所得世帯や身体障害者世帯に対する世帯更生資金貸し付け制度を開始し(世帯更生運動の本格化)、また「国民年金法」制定に伴う老齢福祉年金・障害福祉年金・母子福祉年金・準母子福祉年金などの福祉年金制度も昭和三五年一一月から実施された。
 昭和二〇年代末から三〇年代の初めにかけて、本県は赤字財政に苦しんでいたが、神武景気を経て昭和三三年度は黒字に転じた。このころ県内企業の設備投資も活発化し、昭和三四年二月から、久松知事は、港湾・工業用水・道路などの産業基盤の総合開発、住宅・生活環境・厚生福祉施設などの生活基盤の整備を中心とした「生産福祉県政」を推進した。こうした中で、昭和三五年の県民一人当たりの実質所得額は一〇年前の一・九倍に伸び、電気製品などの耐久消費財も普及するようになった(昭和三七年八月「県民生活白書」)。
 「精神薄弱者福祉法」など国の福祉諸法令の制定に伴って、本県でも昭和三七年三月二七日「愛媛県精神薄弱者福祉法施行細則」、同三八年一二月二七日「愛媛県老人福祉法施行細則」(資社経下四五〇~四五四)、同四〇年三月二六日「愛媛県母子福祉法施行細則」が公布され、高度成長の中で多様化してきた福祉要請に対応した。また「社会福祉法人の助成に関する条例」(昭和三二年七月、資社経下四四七)、「愛媛県青少年保護条例」(昭和四二年一〇月、資社経下四五四)も制定され、社会福祉法人への補助金・貸し付け金の制度を整える一方、青少年の健全育成にも力を入れた。
 本県の老年人口比率(総人口に占める六五歳以上人口の割合)は昭和三五年に七%を超え(七・二%)、本県の人口高齢化はこの頃より顕著になった。こうした状況のもと、愛媛県民生部は県社会福祉協議会と一体となって、県老人クラブ連合会結成(昭和三五年三月二一日)、老人クラブ大会開催(同三六年五月二七日、第一回大会)、老人大学、ホームヘルパー制度、老人福祉センター設置、特別養護老人ホーム設置など数多くの施策を打ち出し、昭和四六年一一月一日からは七五歳以上の老人医療公費負担制度を開始した。
 精神薄弱者の福祉分野では、既に昭和二二年「児童福祉法」の制定により、精神薄弱児を施設に入所させる道が開かれていたが、同三五年の「精神薄弱者福祉法」の制定によって精神薄弱者も援護施設へ入所できるようになった。本県でも、昭和二九年一月設置の県立八幡浜学園、同三三年一月設置の新居浜東雲学園など精神薄弱児の施設が各地に設置されていた。しかし、この頃にはまだ精神薄弱者の援護施設は存在せず、昭和三五年一二月に愛媛県精神薄弱者更生相談所が、同三九年八月には精神薄弱者更生施設として愛媛県立重信清愛園が設置され、精神薄弱者の福祉要求にこたえた。その後、昭和四〇年代になって、久谷育成園(松山市)、大洲育成園・まさき育成園(新居浜市)などの援護施設も、社会福祉法人によって設置された。
 母子福祉の分野では、「母子福祉法」制定以前から、いわゆる未亡人家庭の生活安定を図るため内職斡旋や母子福祉資金貸し付け制度を進めるとともに、昭和三三年以来、県立道後動物園や県民館など公的施設内に「母子の店」という売店を開いて就業の機会を増してきた。この間、県下の未亡人を結集した愛媛県婦人更生連合会は、昭和三二年三月三〇日、会名を「愛媛県母子福祉連合会」と改称し、昭和三六年八月には財団法人化した。母子家庭の種々の相談、生活指導、生業指導を行う愛媛県母子福祉センターが開設されたのは昭和三九年六月一日であった。なお、母子家庭の子供が成長して自立していき、寡婦が増加傾向をみせ始めた昭和四〇年代、寡婦に対する福祉施策が講じられるようになり、昭和四四年一〇月一日、「愛媛県寡婦福祉資金貸付規則」が定められた。
 このほか児童福祉分野では、愛媛県VYS連合協議会の結成(昭和三一年四月)、全国に先がけての少年式の実施(昭和三九年二月、立春式実施、翌年より少年式)、児童文化会館えひめ子どもの家の設置(昭和四二年九月)などの事業が推進された。また婦人保護の分野でも、「売春防止法」に基づく婦人保護事業の中心機関として、昭和三二年七月愛媛県婦人相談所が設置され、同三四年五月一日には婦人保護施設さつき寮も開所した。
 なお、昭和二七年以来全国の民生委員が推進してきた低所得者に対する援護指導や自立更生を図る世帯更生運動は、昭和三六年以降、しあわせを高める運動と改称されたが、本県でも二、四五八名(昭和三七年度)の民生委員を中心にこの活動を進めるとともに、昭和三七年七月には県下全市町村に「心配ごと相談所」が設置され、同年八月一日には県下各市町村の社会福祉協議会に愛媛まごころ銀行を開設(徳島県、大分県に次いで全国三番目)、民間からの善意あふれる寄付金を受け付けるようになった。

 生活保護の実情

 昭和二五年五月、「生活保護法」が公布された。これは昭和二一年九月公布の「生活保護法」を全面的に改正したもので、憲法第二五条によって示された「すべての国民が健康にして、文化的な最低限度の生活を営む権利」を具現化したものであった。保護の種類は、生活扶助、教育扶助、住宅扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助などであり、人口一〇万人に対して一か所の割合で設置される福祉事務所が保護業務を担当し、民生委員がこれに協力した。
 愛媛県では、表3―17のように昭和二〇年代・三〇年代に二%台であった保護率が、四〇年代以降は一%台に漸減した。しかし、本県の生活保護率は全国的には高率であり、昭和二六年度は一三番目、昭和三六年度は七番目、昭和四六年度一五番目となっている。県内郡市別では、昭和三三年度、宇和島市・西宇和郡が三%を超え、新居浜市・今治市・西条市が一%台であり、南予が高保護率を示し、東予が低率であるという傾向は経済変動と深く関連しながら昭和五〇年代まで続いている。ちなみに昭和三六年度を例にあげると、宇和島市・南宇和郡・八幡浜市・大洲市・西宇和郡(ともに三~四%台)の高保護率は、第一次産業に依存する南予地域、更に大都市へ向けて若い労働力が流出した南予地域のいわゆる後進性とも関連があった。この年、東予新産業都市の指定を二年後にひかえた東予地域の新居浜市・今治市・西条市・川之江市(ともに一%台)では諸工業の好況が反映してか、生活保護率は低かった。
 生活保護基準は、要保護者の年齢、性別、世帯人員、地域別その他の保護種類に応じて必要な事情を考慮し、給付すべき最低生活費を算定したもので、厚生大臣がこれを定めた。地域的にみた場合、昭和四〇年代、愛媛県の市部は三級地、郡部が四級地であり、東京都は一級地、政令指定都市の広島市が二級地となっていた。保護基準は、一般国民生活水準の推移や消費者物価の変動に伴って変化するものであるから、昭和二一年の基準が、終戦直後の急激なインフレ、高度経済成長期における国民所得の増加などの中で逐次改定された。昭和四三年四月一日の第二四次改定で生活扶助基準は一三%引き上げられ、標準的な四人家族で市部二万一、七三〇円、郡部一万九、三四五円が扶助されることになった。扶助基準の引き上げはその後も続き、前記四人家族を昭和五九年度の基準で概算すると松山市の場合一〇万六千円弱、その他の地域で九万六千円弱となる。
 生活保護の種類は前述のように生活扶助・教育扶助・医療扶助など七種にわたるが、昭和二六年度の本県生活扶助人員四万六〇七人を一〇〇とする本県生活扶助人員指数は、昭和三一年度八二・九、同三六年度八三・七、同四一年度六五・六と減少傾向を示しているのに対し、医療扶助は、昭和二六年度の五、四三五人を一〇〇として、昭和三一年度一二二・八、昭和三六年度一八一・○、昭和四一年度二四五・〇と二倍以上に上昇していることは大きな特色である。本県における保護費総額の年次推移をみると、昭和二六年度四億六、九四三万余円、同三六年度一四億七、〇二五万余円、同四六年五二億二、四四二万円余となっているが、これら保護費上昇は生活水準の向上などに伴う保護基準の数次の引き上げのほか、医療扶助費の増加も大きな要素であった。総保護費の中に占める医療扶助費は昭和二八年度までは生活扶助費に次いで二位であったが、昭和二九年度以降は次第にその様相が変化し、医療扶助費の占める割合が一位となり、その後も、保護費中で医療扶助費の占める割合は上昇している。
 このように医療扶助費が増大する原因は、患者の増加、医療費の改訂、医療技術の向上が考えられるが、とりわけ、「生活保護による患者は、治療が長びくという傾向が強いことが極めて大きな原因」(昭和三八年愛媛県民生部「社会福祉一〇年の歩み」)であるといわれ、いわゆる貧困と疾病の悪循環が指摘されている。これは生活保護を受ける原因からも裏付けることができ、昭和四〇年代前半までは、世帯主又は世帯員の傷病を理由として保護を受けるものが常に六割~七割を占めており、病状がかなり進行するまで働かざるを得ない低所得者層の生活実態を示していた。これら低所得者層をも含む医療保障は昭和四六年一一月一日全国的にも早く実施した七五歳以上の老人医療の公費負担を初めとして、健康保険制度の拡充による本人負担金の引き下げ、療養費支給制などにより、現在ではかなり整備されてきた。

 児童福祉の発展

 昭和二〇年代に整備された児童福祉機関は、昭和三〇年代以降も逐次整備拡充されてきた。県下三か所の児童相談所では、児童専門のケースワーカーである児童福祉司が増員され、昭和三三年度には、中央児童相談所に七名が配置されていた。また担当区域内の児童及び妊産婦の生活状況を把握して、その保護や援助指導を行う児童委員(民生委員が兼務)も増員された。特に婦人の児童委員は昭和三一年度五八二名、四〇年度六九二名、五二年度八八八名と急増し、児童福祉司や社会福祉主事と協力して児童福祉の推進に努めてきた。
 青少年の健全育成についても、昭和二四年一月の「愛媛県児童不良化防止対策要綱」にそって設置された愛媛県不良化防止対策協議会が、昭和二八年七月「青少年問題協議会設置法」が公布されたため、同年一〇月二〇日には愛媛県青少年問題協議会として再出発した。同協議会は、昭和三三年三月に要保護児童調査を実施し、その結果を分析して、青少年不良化防止対策、映画・出版物等の不健全文化財対策、長欠児童及び年少者の不当雇用防止対策の基本施策を打ち出すとともに、青少年の健全育成にも力を入れた。
 県青少年問題協議会は、中央青少年問題協議会の提唱する青少年保護育成運動に則し、県内でも毎年五月を運動強調月間として、「県民手つなぎ運動」、「夕食をともにする運動」、「愛のよびかけ運動」など地域や家庭の健全化をめざし、児童を取り巻く環境の改善に努めてきた。これらの運動は民生部・教育委員会・婦人少年室・警察本部の協力体制下に展開され、昭和三〇年代以降、VYS活動や婦人ともしび運動(本節第四項参照)の促進、児童遊園や児童館の増設、学校における非行防止指導、青年学級・青年団・ボーイスカウト・ガールスカウトなど各種青少年団体指導、PTAを中心とする愛護班活動の展開、年少労働者の福祉増進、少年警察協助員の活動促進などが実施され、昭和四一年九月五日には愛媛県青少年育成協議会が結成された。(『えひめの青少年』一九六九年版)
 こうした中で、県社会福祉協議会会長戒田敬之の主唱により、「自覚」「立志」「健康」を目標とした「少年の日」運動が展開された。昭和三九年二月には松山市立御幸中学校・同拓南中学校が中学二年生の立志を期して「立春式」を実施し、翌年にはそれが「少年式」として県下に定着し始めるとともに、全国にも注目されるようになった。また昭和四〇年代に入っても、「悪書追放・良書普及運動」の一環としての「白いポスト」設置(昭和四〇年度は県下一一市に設置)、新居浜市立勤労青少年ホーム建設(同四〇年六月)、県立えひめ子どもの家開設(同四二年九月)、第一回勤労青年の船派遣(同四四年八月)などが実施された。これらの事業や活動を通して、本県青少年の間に連帯と奉仕の精神をもって社会づくりに参加する態度が育まれた。
 昭和二〇年代には「児童福祉法」や「児童憲章」が制定されたが、三〇年代に入って「精神薄弱者福祉法」(昭和三五年三月)「児童扶養手当法」(同三六年一一月)「母子福祉法」(同三九年七月)が公布され、四〇年代には「母子保健法」(昭和四〇年八月)「児童手当法」(同四六年五月)が公布されて、児童福祉を推進する法制の整備も進展した。このうち、「精神薄弱者福祉法」は、精神薄弱者の更生と保護を目的とし、児童から成人まで関連性をもって福祉の措置を講じることを規定し、そのための援護施設や更生相談所などが設置されることになった。なお「児童手当法」には、義務教育終了前の子女に対して、その養育費の一部を国家費用で社会的に負担することを規定したが、親の所得制限や児童数による制限があった。
 本県では、昭和二〇年代に設置されていた児童福祉諸施設が、同三〇年・四〇年代には徐々に改築や増築、あるいは移転・新築などが行われ、設備内容も充実してきた。特に心身障害者(児)福祉施設は整備が図られ、表3―18に示したように県下各地に諸施設が建築された。昭和二九年一月、ようやく精神薄弱児問題に世人の関心が湧き始めた頃に誕生した県立八幡浜学園は、この種の施設としては県下最初のものであった。初代園長近藤仁ら設立当初の職員は、創設期の困難な諸条件の中で、中央・東予・南予の各児童相談所を経て入園した一九名の児童を受け入れ、指導した。園児の平均知能指数は四〇であった。同園の児童指導員大野明良らは、こうした障害児教育のあり方を研究し、実社会の生産活動に参加する準備教育として、クリーニング教室や楽焼教室を開いての職業教育、佐田岬半島六五㎞徒歩旅行や佐島への遠泳などの指導を行った。昭和三五年五月には火災により児童寮が焼失し、翌年には再建され、この頃から地域のともしび婦人会やVYSとの交流も盛んになっていった。
 新居浜市にある県立えひめ学園は、昭和四五年七月一〇日に県立新居浜家庭学園と県立家庭実業学校が統合されて発足した教護院である。教護院とは、児童福祉施設の一種で、不良行為をなす児童またはそのおそれのある児童を入院させ、教育と保護に当たる施設である。本県の教護事業は明治四二年一二月に、愛媛慈恵会が発企して松山市に自彊学園が創設され、民間篤志家の手で進められた。大正三年四月に自彊学園は県立移管され、松井豊吉や奥山春蔵などキリスト者が園長となり、夫婦職員制を採用して寄宿舎(家族舎とよぶ)生活を通して、児童の保護更生が図られてきた。自彊学園は昭和九年一〇月に家庭実業学校と改称した。一方、工都新居浜市では、共稼ぎ家庭の子弟保護を目的に昭和一八年二月新居浜家庭寮が設置されていたが(第二章第二節三項八〇五ページ参照)、昭和二六年八月三日、これが県立新居浜家庭学園として再出発し、同二九年四月には「愛媛県立教護院設置規則」(資社経下四四五)も施行された。
 合併統合によって誕生した県立えひめ学園では、普通教育のほか情操教育・労作教育・体育に重点を置き、入園児童が自らの問題行動を自らの力で取り除く能力を養成するとともに、子供を取り巻く環境の改善にも力を入れている。

 保育所の設置と県立保育専門学校

 保育所は「児童福祉法」に基づいて制度化されたもので、保護者が労働または疾病などの理由で保育に欠ける状況にある乳児や幼児に対し、原則として一日八時間の保育を行う施設であり、厚生省の所管下に置かれている。昭和二三年三月、全国の保育所総数は一、四七六か所、在園乳幼児数は一三万五、五〇三人であったが、昭和五二年五月には一万九、七一六か所、一八〇万四、五四一人と、施設数・在園乳幼児数ともに著しい増加をみせ、その間、保母一人の受け持つ乳幼児数の改善や保母資格の確立、保育内容の充実などが進められた。特に昭和四〇年八月の厚生省児童家庭局長通知による「保育所保育指針」では、従来、乳幼児の保護育成を中心としてきた保育所に、「養護と教育とが一体となって、豊かな人間性をもった子どもを育成するところに、保育所における保育の基本的性格がある」と新たな理念が導入された。このため、各保育所では、園児の年齢や発達に即した指導のあり方が追求され、実践されてきた(『戦後保育所の歴史』)。しかし、昭和五〇年代に入ると、乳児保育、障害児保育、長時間保育、夜間保育など保育ニーズが多様化し保育所への期待が高まるとともに、ベビーホテルなど無認可保育施設の新たな問題も生じており、また一方では、出生率の低下による定員割れも起きている。
 本県では昭和二三年当時、県下に六四か所の保育所があり、収容定員六、四〇〇人に対し七、五〇〇人が入所していた。また県下二四五か所に農繁託児所も開設され、二八六名の保母によって一年間に延べ二万四、五〇〇名の乳幼児が保育されていた(『愛媛県統計年鑑』昭和二五年版)。その後、ベビーブーム期に生まれた乳幼児が入所する昭和二六年~二八年には毎年二四~四七か所の保育所が新設され、昭和三〇年代に入って県下に約二〇〇か所の公立保育所と約一〇〇か所の私立保育所がみられるようになった(表3―19)。この間、昭和二九年八月二三日には、えひめ保母の会(現在の愛媛県保母会)が誕生して、保母の処遇改善を願いながら「よい保育をし、よい人間を育て、国をよくしたい」と保母の専門性確立に努め、今日に及んでいる。
 昭和三六年四月一日、八幡浜市、宇和島市、保内町などにへき地保育所が設置された。これはすべて公立の施設であり、その後も宇摩郡新宮村、喜多郡内子町、温泉郡中島町など多くの市町村にこうした施設が置かれ、昭和四三年度は八三施設にのぼった。昭和六一年一〇月現在で県下の公立保育所数二七七(定員二万四、七三四人)、私立保育所数九五(定員八、三九五人)、へき地保育所三五(定員一、一六〇人)となっている。
 保育所の増加に伴って保母の養成も急がれた。保母は「児童福祉法施行令」で「児童福祉施設において、児童の保育に従事する女子」とされ、厚生大臣の指定する保母を養成する学校その他の施設を卒業した者、または保母試験に合格した者が資格を有するとされた。このため、厚生省は昭和二三年四月「保母養成施設の設置及び運営に関する件」を通達し、昭和三〇年までに全国に二四の保母を養成する学校が誕生した。
 本県でも昭和二三年度以来、保母試験が行われ、昭和三〇年度までに三、八七九名が受験して七七六人が合格した。当時はまだ保母試験によって資格を得る人が圧倒的に多い時代であった。
 昭和二八年三月二四日「愛媛県立保育専門学校設置条例」(資社経下四四四)が制定され、同年四月二四日には「愛媛県立保育専門学校規則」も定められて、本県最初の保母養成機関が設置されることになった。県立保育専門学校は同年五月一五日、松山市中歩行町の児童福祉館を仮校舎として開校、四〇名の第一期生は音楽実技、児童心理、保育理論、育児実習、社会福祉事業一般などの科目を二年間にわたって学んだ。保育専門学校はその後、松山市道後今市に移転(二八年七月)、昭和三〇年一一月には寄宿舎むつみ寮を新築して遠来の学生の便を図った。更に同三五年には器楽練習室をも新築、同四四年一一月には校舎が御幸二丁目に新築整備され、ここに移転した。その後も校内の施設設備の拡充を図りながら、昭和六一年度末までに本県の高校卒業生を中心に一、五八八名の保母を養成した。
 県立保育専門学校の学年定員は五〇名であり小規模ではあるが、学生は家庭的雰囲気の中で、福祉のニーズがあればどこへでも行くという児童福祉に対する強い使命感を身につけ、卒業後は保育所や養護施設等の児童福祉施設に就職している。特に草創期の卒業生の多くは、現在、保育行政や保育現場の指導的立場にあり、本県保育界をリードしている。
 なお、昭和三九年一〇月、中央児童福祉審議会保育制度特別部会が保母養成機関の整備と保母の専門職制の確立を要請したが、この頃から私立短期大学を中心に保育科、幼児教育科を設ける傾向が高まり、県下でも昭和四一年四月以降、松山東雲短期大学、愛媛女子短期大学、聖カタリナ女子短期大学、今治明徳短期大学、桃山学院短期大学に保母資格が取得できる学科やコースが新設された。また昭和五二年三月「児童福祉法施行令」の一部が改正されて男性保育者が法的に認められ、県内にも男性保育者が誕生し、昭和五七年には八名を数えている。

 身体障害児の福祉施設

 身体に障害をもつ児童の福祉施設は、障害の種類や程度に応じて様々である。昭和六一年現在、愛媛県には、愛媛整肢療護園(肢体不自由児施設)、松葉学園(ろうあ児施設)、松山市母子療育ホーム・大洲愛育ホームなど六か所の肢体不自由児母子療育ホーム、国立療養所愛媛病院・同南愛媛病院併設の重症心身障害児施設のほか、就学前の心身障害児が通園して療育を受ける施設が三か所あり、それぞれの施設で施設関係者、障害児の親、行政担当者などを中心にして児童福祉の向上に努めている。
 愛媛整肢療護園は、昭和二六年八月三日制定の「愛媛整肢療護園設置条例」により今治市別宮に設置されることになり、翌二七年六月より約五〇〇坪の敷地に工費一千万円の屋舎が建設され、同年一二月二三日に開園した。これは全国七番目に開園した県立県営の肢体不自由児施設で、上肢、下肢または体幹の機能に障害のある児童を治療するとともに、独立自活に必要な知識や技能を与え、児童福祉施設であると同時に「医療法」に規定される病院の機能をも有している。設立に当たっては、我が国の療育事業の開拓者で肢体不自由児の父といわれる高木憲次博士、地元今治市の整形外科医三木仁博士など多くの関係者が情熱を傾けた。開園直後同二八年四月には、園内に今治市立別宮小学校分校を併設、更に同三〇年には今治市立近見中学校分校が併設された。
 愛媛整肢療護園は県下の肢体不自由児の有効かつ適切な療育を行うため、入園治療のほかに外来診察、巡回検診、居宅療育指導相談などの事業を行っているが、入園治療については開園時の定員三五人を徐々に増やして昭和四二年には定員一四〇人(うち母子入園一〇人)とし、施設の拡充整備に努めてきた。昭和四〇年代には肢体不自由児父母の会を主体にして居宅の肢体不自由児の療育ホームが各地に設置されたが、療護園の医師・看護婦・理学療法士・作業療法士などが月に一度、新居浜・今治・大洲・宇和島の四市を訪れ、父母に対する療育方法の指導に当たる園外療育指導を行っている。また昭和四一年度から、主として脳性麻痺の乳幼児を母親と共に入園させ、家庭における療育方針を母親に理解・認識させるための指導も開始した。これは早期治療という考えに基づくもので、一か月を原則として、月平均六~七名が入園している。更に昭和四三年には、開園以来の入園児及び外来児のカルテを製本し、レントゲン写真も整理し、以来、今日までカルテやレントゲン写真の整理に完璧を期すとともに、追跡調査や治療適正化に努めている。
 昭和四九年九月一日、愛媛整肢療護園は今治市から愛媛県の中央部に位置する松山市に移転した。移転に伴い、新たに昭和四九年四月一日付で県立第一養護学校整肢療護園分校が誕生した。学齢児は同じ敷地内にある療護園と養護学校を車椅子で行き来し、治療や機能訓練を受ける一方、教育や生活指導も受けている。また未就学児は治療などのかたわら保育室で絵画、集団あそび、歌とリズムなどによる保育を受けている。
 昭和五四年度に発足した養護学校教育義務化により、障害の重い児童の入園が増加した。開園当初は先天性股関節脱臼、内反足、ペルテス、斜頸の入園児が多かったが、昭和三七年頃より脳性麻庫児が多く入園するようになり、昭和五〇年代にはこうした傾向が進んでいった。このため、関係者は治療法を吟味しつつ肢体不自由児の総合的な療育に励んでいる(愛媛整肢療護園「開園30周年記念誌」 同「事業概況」)。
 東宇和郡宇和町の松葉学園は昭和三三年二月五日、宇和町社会福祉協議会の主体事業として同町下松葉の県立宇和聾学校の一角に創設され、翌三四年五月六日児童福祉施設に認可された。この施設は、乳児を除く満一八歳未満の聾児のうち、保護者がいない、保護者に養育能力がないなどの理由で養護を必要とする者を収容し、家庭的環境のもとで聾児を保護育成するろうあ児施設である。昭和三七年八月、宇和聾学校が同町卯之町に移転したのに伴い、松葉学園も必然的に卯之町に移転し、昭和四〇年五月新園舎を建設した。定員五〇名の松葉学園は隣接する宇和聾学校と連繋を図り収容児童の福祉向上に努め、昭和四七年度には宇和町が社会福祉法人宇和町社会福祉施設協会を結成したため、同協会が経営主体となっている。当時の入園児は四五名、職員は一四名であった。
 このほか、心身障害児のための教育施設増設要望も、その父兄や福祉関係者・教育関係者の間で高まり、昭和三〇年代から五〇年代にかけて、表3―20に示した学校が新設あるいは増設された。なお、この時期、県下に精神薄弱児のための特殊学級が普及したが、その最初は昭和二六年四月開設の川之江市立川之江中学校及び新居浜市立角野中学校の特殊学級であり、川之江中学校教諭石川希代孝らはその後の県下障害児教育を指導した。

 心身障害者福祉の発展

 昭和三〇年~四〇年代にかけて、身体障害者福祉事業が一段と進歩した。昭和三〇年四月、「身体障害者福祉法」施行五周年を記念する身体障害者福祉強調運動が全国で展開された。本県でも県・県社会福祉協議会・日本赤十字社愛媛県支部の共催で、県民への理解を深める啓発活動や更生相談・更生施設慰問などの諸行事が行われた。当時、本県の身体障害者更生援護機関は、昭和二〇年代に設置された更生相談所や更生指導所、ろうあ福祉寮、光明寮などであったが、県盲人協会が光明寮の拡充整備を要望するなど、諸施設の拡充・増設が期待され、昭和三三年八月には、新居浜市に結核回復後保護指導所が開設された。同所は結核回復者を収容して、医学的健康管理の下に職業指導を行い、内部障害者の社会復帰を図るもので、六〇名定員で電気科・洋裁科・農芸科が設けられた。
 こうした状況の下、昭和三〇年二月、手足の不自由な子供をもつ親たちが集まって愛媛県肢体不自由児協会(資社経下五三〇)が設立され、昭和三五年からは巡回検診や療育相談、療育キャンプも開かれるようになった。また、昭和三七年一〇月一三日には、松山市本町の県立松山聾学校運動場(現在は愛媛整肢療護園となっている)で、第一回愛媛県身体障害者スポーツ大会を開催し、昭和四〇年代に入って多くの参加者を得て盛況をみるようになった。この大会にはボランティアとして県民有志の協力もあり、また新居浜市や今治市など県内の都市でも身障者のスポーツ活動が盛んになってきた。昭和二六年に発足した愛媛県身体障害者団体連合協議会(資社経下五二六)も、同四六年には愛媛県身体障害者団体福祉協議会として再出発した。同会は県の身体障害者福祉行政に協力して、障害者スポーツ大会、技能大会、福祉のつどいなどの障害者福祉推進事業を県と共催するほか、身体障害者と健常者のふれあい事業、障害者の啓発事業など県の委託事業をも実施している。
 昭和四七年五月一二日、松山市に、四国で最初、全国で五番目の盲老人ホーム権現荘が落成した。これは県盲人協会会長世良彰雄を中心とする県下約九千人の視力障害者の願いがかなったもので、五月末までに六九歳から八九歳までの盲老人三四名が入所した。同荘では盲老人が生活しやすいように、調度品はすべて角をとり、各室に入ると各種のチャイムが鳴って、それぞれの場所を教える没前を有した。また同年七月一日、松前町に県下初の身体障害者療護施設松前清流園が開所した。同園の設置主体は愛媛県であったが、経営は同年四月に発足した社会福祉法人愛媛県社会福祉事業団が当たり、当初は一九歳から七〇歳までの身体障害者四五名が入所した。
 一方、精神薄弱者の福祉事業は昭和三〇年代に入って活発化した。既に、「児童福祉法」に基づく精神薄弱児施設(八幡浜学園・新居浜東雲学園など)はあったが、精神薄弱者援護施設(一八歳以上が入所)はなく、施設入所児童が一八歳になると退所を余儀なくされるので、その親たちにとってはその後のことが心配であった。昭和三三年一一月一一日、知恵おくれの子供をもつ親たちが集まり、松山手をつなぐ親の会を設立して、「精薄児の収容施設を設置していただきたし、精薄者その他自立不可能な者の入所施設を設置していただきたし」「精薄児(者)が通園して教育、生活指導を行ってもらえる施設を作っていただきたし、各学校に特殊学級を設置していただきたし」との陳情書を県議会議長に提出した。こうした願いは県下に広がり、同年中に東予地区の親たちの間で東予手をつなぐ親の会も結成された。
 県では、昭和三五年三月公布の「精神薄弱者福祉法」に基づき、同年一二月一三日、愛媛県精神薄弱者更生相談所を松山市山越の身体障害者更生指導所に併設し、医学的・心理学的・職能的判定業務や職業補導などの指導・相談を行うようになり、県下一一か所の県福祉事務所(資社経下四四五)に精神薄弱者福祉司を配して、各種の援護措置に当たった。また昭和三七年度には、民生委員の協力を得て精神薄弱者一斉調査を実施した。この結果、県下に重度者が二、四五〇人、中度者が五、五五〇人、軽度者が六、〇〇〇人いると推定され(愛媛県民生部発行「社会福祉のあゆみ」一九六三年版・一九六四年版による)、これをもとにした援護対策もとられ、この年全国にさきがけてオープンケアー巡回指導を県下六か所で実施し、職親開拓事業も開始された。
 昭和三九年八月一日、重信町に精神薄弱者援護施設(昭和四二年一〇月、法改正により更生施設)として、愛媛県立重信清愛園が開園した。同所は一八歳以上(児童相談所長が入所を適当と認めた者は一五歳以上)の精神薄弱者を収容保護し、二四時間体制で生活指導と職業訓練を行い、自立生活のための知識や技能及び社会的適応性の養成を行っている。同所の定員は七〇名(男四〇、女三〇)で、入所者は、農芸畜産科・工芸科(木工班・ブロック班)、和洋裁科に分かれて職業訓練を受けている。なお、昭和四四年五月には松山市に社会福祉法人親和園が経営主体となって久谷育成園が設置され、同四七年七月には大洲市に大洲育成園、同四八年四月には新居浜市にまさき育成園が設置された。ともに精神薄弱者更生施設である。また、昭和四九年以降設置認可の援護施設は表3―21の通りである。

 愛媛県盲人福祉センターの諸事業

 県下の視力障害者を対象として総合的な更生福祉の向上を図るため、愛媛県盲人福祉センターが松山市本町六丁目に建てられ、昭和三八年八月一日より業務を開始した。こうした眼の不自由な人たちだけの福祉センターは当時としては全国にも例がないといわれ、鉄筋コンクリート造四階建の建物は県下に住む眼の不自由な人たちの心のセンターともなった。この施設の前身は昭和二五年四月二八日に松山市中一万町に新設された盲人会館であり、盲人会館は昭和二五年七月の「愛媛県立身体障害者更生援護施設設置規則」により県立松山光明寮と改称されて視力障害者の自立更生施設として広範な事業を行ってきた。
 松山光明寮は、木造瓦葺二階建及び平屋各二棟が一四〇坪の敷地に建てられたもので、入寮者一〇名・通寮者一〇名を定員として、按摩・針灸術師の再教育、盲学校入学者のための準備教育(昭和二九年~三一年)、点字出版、点字図書貸し出し事業のほか修養講座も開かれていた。光明寮開設当初は貸し出すべき点字図書も少なく、担当者の苦労で昭和二七年ころ迄にやっと七〇〇冊が集められ、貸し出し事業が本格化したのは昭和二八年度からであった。その後蔵書の拡充が図られたため、昭和三〇年三月には光明寮内の図書室が愛媛県立点字図書館として厚生省より点字図書館の指定を受けた。この間、開設当初、一期生八名、二期生一二名であった按摩・針灸術などの職業訓練希望生も増えたため、定員は三〇名に増員され、更に昭和三八年には定員が五〇名になった。
 昭和三八年九月時における県内の視力障害者総数は五、四三一名であり、そのうち六〇%が無職であった。また点字の理解度は読み書きともできない者八一・八%、読み書きできる者一四・九%、読めるが書けない者二・二%、書けるが読めない者一・一%であったが、県盲人福祉センターでは、これら視覚障害の原因、障害の級別分類、罹病の年令別分析などを通して、その実態を把握し、実情に適応した更生福祉事業の展開にも努めた。昭和三八年以降、センターの行う職業訓練は正式には職業補導訓練と呼び、人生の中途で失明した視力障害者を対象に盲人の伝統的職業である按摩、マッサージ、指圧師としての学術を修得させ、その失意と困窮を克服して自立更生の意欲を高め、社会に復帰できるよう教育指導を行ってきた。二年間の訓練期間中、平均年令三四歳(昭和五七年度は四三歳)の生徒は全員寮内で所定の日課時間にそって共同生活を行った。
 このような身体障害者更生援護施設としての職業補導訓練機関は昭和五八年度、全国でも国立五、府県立三、法人によるもの二~三か所しかなく、視力障害者にとっては数少ない更生援護施設であるために他県から入所する人もあり、盲人の自立更生に顕著な実績をあげている。昭和三四年以来昭和六一年度までに四三二名の卒業生を送り出した。
 職業補導訓練のほかに、点字図書の閲覧・貸し出し、点字及び点字出版、テープライブラリー、一日盲人福祉センターの実施などを含む視力障害者の更生相談及び更生指導、その他更生福祉に関する事業も行われている。このうち各種の録音テープを無料で貸し出すテープライブラリー事業は昭和三八年から開始された。昭和三九年度には、伊予鉄バス、宇和島自動車、瀬戸内バスの各会社の協力を得て県内観光のバスガイド嬢の声を収録し、これが予想外の反響をよんだため、南海放送をはじめ中四国の各民間放送局から観光テープの寄贈を受けてテープ所有数を増していった。その後、NHKから「盲人の時間」、「文芸劇場」、「民謡をたずねて」、「放送演芸会」、「私の本棚」など二、七九六巻(昭和五八年度まで)のテープを委託され、年間延ベ一万二千人近くの利用者を得ている。なお、これら録音テープの整備補充には朗読奉仕者の力によるところが大きく、盲人福祉センターでは昭和四九年度より朗読奉仕員養成講座をも開始させた。
 盲人福祉センターの事業中、点字出版事業は全国的にも注目されている。これは視力障害者の教養を高めるため点字の単行本、教科書、月刊誌などを出版するものであり、このうち月刊誌「新生」は昭和二七年発刊以来一度も休むことなく刊行され昭和六二年四月に第四一七号を出版した。およそ一〇〇ページのこの点訳誌は県内約九〇名、県外約八〇名(昭和五八年度)の愛読者の期待をうけ、所員の手で原稿の選択、編集、点訳原版の作成、点字本用機械を利用しての出版が行われている。出版部数も昭和三八年度二、三三六冊を最高に毎年約二、〇〇〇冊にのぼり、点字月刊誌では全国三位の出版実績を有したこともある。また松山市広報、盲人のための福祉パンフレットなどの受託出版も行い、昭和五八年度だけでも、単行本三三二冊、教科書二二冊、松山市広報一、三五〇部、パンフレット類八、四六九部を出版した。

 愛媛県ろうあ福祉センターの設置と活動

 昭和二四年度制定の「身体障害者福祉法」による更生援護施設として、昭和二五年四月二八日松山市山越町に愛媛県立松山聾唖福祉寮が建設され、同年七月一八日にはその設置規則(資社経下四四一)も公布(施行日は七月一日)された。県立松山聾唖福祉寮は、ろうあ者で雇用されることが困難な者または生活に困窮する者を収容し、必要な訓練を行い、かつ職業を与えて自活させる目的で設置され、更生相談、職業補導訓練、授産、聾唖者に対する宿所の提供、その他更生福祉に関する事業を行った。昭和二六年五月三〇日には聾唖福祉寮付設授産場も建設され、入所期間を五年(職業補導一年、授産四年)として同年六月一〇日から事業を開始した。
 昭和二七年一〇月一〇日、松山市中一万町にあった愛媛県身体障害者更生相談所が聾唖福祉寮の東隣りに移転し、また同日愛媛県身体障害者更生指導所も福祉寮の西隣りに開所して、松山市山越町に身体障害者更生援護機関や施設が集中した。これらの施設はそれぞれ独立したものではあったが、更生指導所長が更生相談所長や福祉寮長を兼務した。聾唖福祉寮長が専任となったのは昭和三八年八月一五日からである。
 県立松山聾唖福祉寮では、開所以来昭和三九年度までに聾唖者二四四人の更生相談や職業指導に応じ、一、三三八名に宿所を提供、二、七三九名の施設見学者を受け入れる一方、ろうあ協会の育成指導にも努めてきた。また同付設授産場でも家具製造を主とする木工科を置いて、昭和二六年度は一〇名(男九、女一)を受け入れ、同五九年度末までに一六九名の授産生に技術訓練を行ってその七割を就職させた。なお、授産生には工賃が支払われ、昭和三六年度の一人平均支給額は月額一万六〇〇円(四一年度は一万三、二〇〇円)であった。
 昭和四一年四月一日、県下聾唖者の総合福祉施設化をめざして、県立松山聾唖福祉寮及び同付設授産場は愛媛県ろうあ福祉センターと改称され、これを機に授産科目に定員一〇名の洋裁科を新設し、施設を整備していった。
 県ろうあ福祉センターは、更生相談や職業指導のほかに、手話奉仕員養成講習、要約筆記奉仕員養成講習、ろうあ者巡回相談などを実施してきた。センターでは福祉寮時代の昭和三七年度から県ろうあ協会と共同して県下各市で指文字講習会や、ろうあ福祉学級を開催して健常者と聾唖者のコミュニケーションを深めてきた。この事業には、身体障害者福祉司、民生委員、市町村の福祉行政担当者、聾唖教育関係者、ボランティアを志す人など多くの人々が参集した。この試みが基礎となり、昭和四五年度には、ろうあ福祉センターを実施主体とする手話奉仕員養成事業が開始された。初年度は松山市と宇和島市に一三九名の受講者を得、ろうあ福祉センターの職員や県ろうあ協会副会長を講師として、聴覚言語障害者の福祉行政、指文字、手話法を一〇日間(毎週一回期間一〇週間)で指導した。その後も手話奉仕員養成講座は毎年実施され昭和六一年度までに一、七九一名が受講し、このうち、一、〇一一名が手話法などを修得して修了証を授与された。
 また、要約筆記(話し手の内容を要約して黒板やOHPのTP上に文字で表し、難聴者や中途失聴者に話し手の意志を伝える)の奉仕員養成講習会も愛媛難聴者協会の協力を得て昭和五六年度より毎年県下一~二か所で実施され、昭和六一年度までに一八五人が受講、一三一人が修了証を授与された。
 なお、愛媛県ろうあ福祉センターは昭和六一年度末をもって発展的に解消し、聾唖者のみならず重度身体障害者をも対象として、昭和六二年四月一日新設された松山市下伊台町の愛媛県重度身体障害者授産所にその授産業務を引き継ぎ、手話講習会、要約筆記講習会及び更生相談などの業務は松山市道後町の総合福祉センターに引き継がれた。

 長寿社会の訪れ

 厚生省の「厚生白書」では、昭和五九年版から従来使用してきた「高齢化社会」という言葉に代わって「長寿社会」という言葉を使うようになった。高齢化社会という言葉には暗いイメージがあるという考えから、人生八〇年時代にふさわしい表現を採用したのである。一般に六五歳以上の人口が総人口の七%以上を占める現象を高齢化現象というが、我が国では大正九年に五・三%、昭和二五年に四・九%、同四〇年に六・三%であった六五歳以上者の総人口比率は、昭和四五年には七%になった。
 愛媛県の高齢者人口比率は全国平均よりも高く、昭和三〇年以降全国数値との差を大きくする傾向にあり、昭和六〇年には全国が九・五%に対し、本県は一二・一%である。こうした人口高齢化の主な原因は、医療技術の発達向上や経済成長の結果としての生活全体の向上のほか、本県の場合には、温暖な気候風土によるものとされている。県下の一〇〇歳以上の長寿者数は五名(女四・男一、昭和二六年九月)、一二名(女九・男三、同三三年九月)、二一名(女一七・男四、昭和四九年九月)と倍増し、昭和六二年九月の「全国高齢者名簿」(長寿番付)では、四一名(女三八・男三)となり、人口一万人に占める長寿者比率は全国一六位であった。
 高齢化社会に対応する施策は昭和三八年七月制定の「老人福祉法」によって本格化するが、それ以前にも「生活保護法」に規定された養老施設の設置や、全国社会福祉協議会の提唱による「としよりの日」(昭和四三年より敬老の日)の諸行事開始(昭和二六年九月一五日)、軽費老人ホームや老人憩の家建設費国庫補助及び融資(昭和三六年度)、老人家庭奉仕員(ホームヘルパー)事業(同三七年度)などが行われた。
 昭和三〇年代までに整備された養老院(老人ホーム)は表3―22に示している。このうち川之江市の敬寿園は、天理教川之江大教会の発企で、生活保護を受ける六〇歳以上の老人を収容保護することを目的に設立され、当初は同教会が社会福祉法人二州会に事業運営の一部を委託したが、昭和三三年からは市の直営となった。越智郡大三島町の楠風園は昭和三〇年七月診療所をも付設し、同三四年三月には施設を増築して、一町村経営のものとしては珍しく定員五〇名の養老施設であった。この施設設置と養老事業に尽力したのは、戦前は本県社会事業主事や方面委員を、戦後は県民生委員審査会委員や県社会福祉協議会理事を歴任した菅誠寿であった。当時の養老院は市町の経営、市町村組合の経営、市社会福祉協議会の経営によるものの三種に分類されるが、昭和二五年一二月実施の社会調査の結果、困窮老人の保護が急務となり、地域住民の要望、行政担当者や社会福祉関係者の努力によって設置されたものが多い。こうした施設には、毎年九月一日のとしよりの日を中心にして、浪曲大会、浄瑠璃大会、演芸大会などの慰安行事が行われるほか、真綿のチョッキや拡大鏡など善意の寄贈が相次いだ。
 本県で高齢者の増加に対応した施策をとるようになったのは、本県の六五歳以上人口率が七%を超え、長寿社会に入った昭和三五年ころからである。この年一〇月の県社会福祉大会で楠風園園長の菅誠寿は当時の老齢人口の増加ぶりを説明した後、「今後はますます長生きする人が増え、いまの若い人にとっても老人福祉問題はゆるがせにできない大切な問題だ」と述べ、「老人福祉法」の制定促進や五五歳定年制の全廃を要望した。また同三七年の大会でも、老人人口の増加や家族と別居を余儀なくされた老人の増加による不安定な老人の生活が問題にされた。県下の老人クラブを結集した愛媛県老人クラブ連合会は昭和三五年三月に結成され、種々の活動が行われていたが、昭和四〇年一一月に松山市で開かれた四国老人クラブ大会でも高齢化社会における老人のあり方が語られた。大会に臨んだ厚生省社会局老人福祉課長村上松五郎は、講演の中で「老人クラブは戦前の敬老会と違う。敬老会はほかから何かしてもらったが、老人クラブは自分たちでするものである」と述べ、老人自らが生きがいのある生活を送る努力をするよう要望した。
 こうして、長寿社会の訪れとともに昭和三八年八月「老人福祉法」が制定され、その基本的理念として、老人に対する敬愛とそれにふさわしい生活の保障を行うとともに、老人の自立的努力によるその主体性の確保と社会に参加する機会を与えることが打ち出された。本県でも同年一二月二七日「愛媛県老人福祉法施行細則」(資社経下四五〇~)を定め、福祉の措置、老人福祉施設、費用などについて明記した。
 なお、昭和四三年からは、全国一三万人の民生委員が毎年各種の福祉調査活動を行うこととなり、同年には朝日新聞社の協力によって全国一斉に「ねたきり老人」の調査を実施した。その結果、本県の状況は表3―23の通りであった。この調査は県下すべての民生委員が直接家庭を訪問して実施したもので、老人問題が社会の大きな関心を呼び始めていた時であったため、反響も大きく、この調査活動は「在宅福祉」の夜明けともいうべき貴重な資料を提供した。

表3-17 被保護人員と保護率の年次推移

表3-17 被保護人員と保護率の年次推移


表3-18 愛媛県下の主な児童福祉施設(昭和61年10月時)

表3-18 愛媛県下の主な児童福祉施設(昭和61年10月時)


表3-19 保育所数と保育所園児数の変化

表3-19 保育所数と保育所園児数の変化


表3-20 本県の障害児教育のあゆみ(昭和30年~昭和54年)

表3-20 本県の障害児教育のあゆみ(昭和30年~昭和54年)


表3-21 県下の精神薄弱者援護施設(昭和49年以降設置のもの)

表3-21 県下の精神薄弱者援護施設(昭和49年以降設置のもの)


表3-22 昭和39年度における県下の老人ホーム一覧

表3-22 昭和39年度における県下の老人ホーム一覧


表3-23 県下のねたきり老人の実態調査結果(昭和43年)

表3-23 県下のねたきり老人の実態調査結果(昭和43年)