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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

五 現代社会における社会福祉

 社会福祉施策の推移

 昭和四五年を過ぎる頃から、我が国の経済は「かげり」をみせ始め、昭和四八年には第四次中東戦争に端を発したオイルショックにより、戦後最大の不況期に入った。狂乱物価の中で翌四九年には、経済成長率が戦後初めてマイナスを記録し、同五〇年には有効求人倍率が〇・六倍に落ち込んだ。しかし産業界はエレクトロニクスを中心に「省エネ」のための技術革新を成し遂げ、景気は徐々に回復し、昭和五〇年以降は実質経済成長率が五%前後で推移する安定成長(低成長)期に入った。
 このような情勢の変化にもかかわらず、高度成長期に増大した国民の福祉要請は低減されなかった。また、そればかりではなく、現代では高齢化社会に対応した福祉施策が急務とされ、西暦二、〇二〇年には国民の五人に一人は六五歳以上の高齢者になるといわれている。限られた財源の中で、国民から質・量ともに「高福祉」を期待される政府は、量的拡大の福祉から人格や人間尊重を視点に置いた福祉の選別拡充化を企図し、また従来の施設中心主義から、コミュニティ・ケアや住民参加を背景とする施設と居宅サービスとの体系的統合化、社会福祉の援助技能高度化のための、経済学・心理学・社会学など学際間のチームワーク化などを図るようになった。
 本県でもこうした経済社会の変動に即応して、各分野の行政施策が見直された。昭和四五年一〇月の「愛媛県長期計画」で打ち出された「高所得・高福祉の確保」目標は、昭和五〇年代には「生きがい」を追求する生活福祉施策へと変化した。高度経済成長期・オイルショック期の本県社会福祉施策は年表で示したが(表3―25)、昭和五〇年一月、「これからは物よりも心、人間の真の幸せと生きがいを求める時代である」として、第二期白石県政がスタートし、新しい生活福祉県の建設が開始された。生活福祉の理念は「生活は福祉の手段であり、福祉は人間幸福の手段であり、幸福の原点は生きがいにある」というもので、県民との対話や県民総参加の県政が推進された。こうした県政の背景には、老人居室整備資金貸し付け事業の好調さから(実施後一年で予算枠が底をついた)、子や孫と一緒に住みたがる老人の気持ちをくみ、三世代交流事業推進の必要性を感じる知事の卓見、国の年金支給が遅れることで生活に困る人々の状況を察知し、県独自の弱者救済基金制度を発足させる知事の決断力があった。
 昭和五〇年代、本県の民生費支出は、表3―26のように一般会計歳出総額の五・八%~七・一%で推移した。これは昭和四〇年代の四・九%~六・三%を上回る率であり、特別会計中の災害救助基金・母子福祉資金なども必要に応じて増額された。
 こうした中で、新しい生活福祉県をめざす諸施策が実施に移された。昭和五〇年七月「愛媛県生活安定福祉基金条例」(資社経下四五九)を制定して、低所得者への生活安定資金や社会福祉施設への運営安定資金無利子貸し付け事業を行い、昭和五四年四月には、愛媛県総合福祉センター調査研究委員会を発足させ、昭和六〇年一〇月までに、松山市道後町に県社会福祉事業団を経営主体とする県身体障害者更生指導所、県身体障害者福祉センター、県障害者更生センター道後友輪荘、県精神薄弱者更生訓練校、県精神薄弱者通勤寮わかば寮、県老人児童福祉センターなどの施設及び県身体障害者更生相談所を集め、総合福祉センターを整備した。この間、盲人ガイドヘルパー派遣事業開始(五一年六月)、第一回「福祉展」の開始(五一年一〇月)、「えひめこどもまつり」開催(五二年五月)、へき地一日児童相談所開始(五二年六月)、南レクこども動物園開園(五四年七月)、サラ金相談コーナー設置(五八年一一月)など種々の施策が講じられた。
 「心豊かな郷土づくり」に即応した地域福祉施策も、ボランティア振興、新しいコミュニティづくりの県民運動の中で進展した。昭和五一年八月、愛媛県県民たすけあい総参加運動推進会議が設立され、県民総ボランティアをめざして、「福祉風土」の醸成と社会の連帯意識の確立運動が進められ、翌年二月二五日には「愛媛県ボランティア憲章」(資社経下四六〇)も制定された。この運動により若者や婦人を中心にボランティアが育成され、県下の手話サークルや要約筆記グループ、点訳奉仕サークルが増加するとともに、各施設との交流会も盛んになり、ボランティアに車椅子を押してもらってショッピングを楽しむ障害者の姿も多く見られるようになった。

 ボランティアの振興

 「住民による、住民のための、住民の福祉」を実現しようとする地域福祉活動は、昭和二六年の全国社会福祉協議会結成以来、同協議会を中心に進められ、本県の社会福祉協議会でも、昭和三〇年代以降、社会福祉協議会組織の充実強化、住民の期待にこたえる社協活動、助け合い精神の高揚を期した共同募金活動が推進された。このような状況のもと、住民参加の社会福祉活動の一環として、昭和四〇年度から、市町村社会福祉協議会の全戸会員制実施運動が進められ、昭和四三年三月にはボランティア・スクールも開講し、ボランティア養成が始まった。
 第一回ボランティア・スクールは県社会福祉協議会傘下の愛媛まごころ銀行が主催したが、一一歳の少女から七四歳の高齢者まで、社会福祉に貢献したいとの熱意ある人々六二名が集まり、社会福祉のあり方を学んだ。その後もスクール開設の希望が多く、スクールはたびたび開かれた。ボランティアという語が一般化していない当時、新聞では「奉仕者のつどい」と紹介されたが、「善意は太陽だ、緑の風だ」のキャッチフレーズで、ボランティア育成活動が県下市町村で展開され、「かくれた善意」が掘りおこされ、多くの無名の善意者が育成された。こうして昭和五〇年一〇月に開かれた愛媛県社会福祉大会では、初めてボランティア部会が設けられ、福祉教育の推進・まごころ銀行運動の一層の発展・ボランティアの発見と組織化の推進などについて研究討議されるようになった。
 昭和五一年八月三日、県民たすけあい総参加運動推進会議が設立された。この運動は、県民すべてが社会奉仕活動(ボランティア活動)に対する理解を深め、これに参加し、心のふれあいの輪を広げることにより、すべての人が幸せで豊かな地域づくりを推進しようとするもので、白石知事が打ち出した「第三の生活福祉県政構想」を受けたものであった。推進会議は、県社会福祉協議会・県民生児童委員協議会・県連合婦人会・県ともしび母親クラブ連絡協議会・愛媛青年社会参加会議・県老人クラブ連合会など一八の団体で構成され、県の各地方局単位でも各地区連絡協議会が組織され、更に各市町村でも推進協議会が結成された。この運動により、高度経済成長期の「福祉は与えられるもの」という観念から、安定成長期の「(福祉は)住民自らがお互いに捧げあうもの、提供しあうもの」へと発想の転換が図られるようになり、「いつでも、どこでも、だれにでも参加できるボランティア活動」が進められた。
 昭和五二年二月二五日には「愛媛県ボランティア憲章」が制定され、同五三年一〇月三日には第一回愛媛チャリティフェスティバルも開催、翌五四年五月には財団法人愛媛県ボランティア振興財団が設立された。同財団は三億円を基金にして、ボランティア活動の活性化と定着化を図り、県下のボランティア団体の助成を行っている。ただ、本県のこうした活動が「官制ボランティア」と評されることもあるが、県下には、数多くのボランティアが着実に根づき始めている。

 点訳・朗読・手話・要約筆記のサークル

 昭和四六年九月、視覚障害者の福祉に理解と熱意を有する人々を対象に、点訳奉仕員養成事業が愛媛県民生部の主催で開始された。この事業には各郡市福祉事務所が協力し、身体障害者相談員、民生児童委員、VYS会員、ライオンズクラブ会員など毎年およそ七〇名近くの人々が参加した。講師は県盲人福祉センターの新田貞男ら四名であった。昭和四六年以来毎年県内二か所で七か月(毎月四回、計二八日)、点字図書の知識、点字法の理論、盲人心理、身体障害者福祉行政概論などの講義のほか点字実技講習を受けた人々は一、〇九二名(昭和六一年度まで)に及び、このうち七三六名が点字技術を修得して証書を授与された。
 こうした点訳奉仕員養成事業が進展する中で、昭和五五年八月、点訳技能を有する人々の間から点訳奉仕団を組織して一層の奉仕をしようとの声が高まった。筒井武徳・木村正子・岸本桐美・木下千枝子ら一一名の発起人は会則案を示して宇和島・八幡浜・今治・新居浜などの同志に呼びかけ、昭和五五年一一月一六日、県盲人福祉センターで結成会を開いた。初代会長は筒井が務め、会則に従って六〇名の会員が点訳奉仕事業、点訳研修会、盲人団体との交流、点字に関する諸資料の収集などを行っている。鉄筆で小さなマスにひとつひとつ穴をあけ、点訳本を作成する作業は根気を要するものであるが、「新国語辞典」をはじめ文学・歴史・娯楽など読者の要望をも受け入れながら、会員はそれぞれの家庭で点訳奉仕を続けている。会の主な活動は四月の総会のほか、在宅盲人への点字講習・西日本点訳朗読奉仕員との交流会、点訳・朗読奉仕員と読者との懇談会、点字文化祭・各種福祉大会への参加などであり、会員相互が点字技術向上のための資料収集や研さんを積みながら毎年五〇〇~六〇〇冊の点訳本(点訳本は紙の厚さと凹凸のため一二〇ページ前後で一冊にまとめる。従って「新国語辞典」は九二冊に分冊されている)を作成している。また愛媛県点訳奉仕団の会員ではないが、善意で点訳奉仕をしている人も多く、会員非会員をとわず、点字技術を有する人々によって西条市・宇和島市・八幡浜市・伊予三島市では広報紙の点訳奉仕活動を行う人々もいる。
 本県の朗読奉仕員養成事業は昭和四九年に開始した。これは、奉仕員が小説や雑誌の記事などをテープに録音し、これを県盲人福祉センターのテープライブラリーに納めるもので、目の不自由な人々が教養を高めたり新しい情報を得るのに役立っている。初年度の養成講座参加者は六八名であった。講習を終えた人々の多くは朗読奉仕したが、朗読奉仕はただ文章を読むだけではなく、アクセントが正しいかどうか、原本を正確に読んでいるかなどの細かい注意と努力を必要としたため、朗読奉仕者は一年後には二〇名、二年後には一二名に減少した。この一二名の中には、昭和三八年、県盲人福祉センター内にテープライブラリーが整備されて以来、川端康成著の「雪国」・山岡荘八著の「徳川家康」(三年八か月を費し、一時間テープ四五九本に収録)などの録音図書を作成した松山市の今川潤子がいた。今川はこうした録音奉仕を通して社会に役立ちたいと、午前四時に起床して自家用車内をスタジオにして録音に励み、雨天時、雨音が録音の邪魔になる時は、作品に登場する地名や人名の読み方を調べるとともに録音構成の構想を練るなど、朗読奉仕者としては本県の草分けといえる人で、昭和五八年には、作成した録音図書の累積量がカセットテープ六、〇〇〇本にのぼり、厚生大臣表彰を受けた。
 昭和五一年、今川のほか堀内キヨ、重松春子、松岡恵美子ら第一回朗読奉仕員養成事業受講生一二名が朗読奉仕員グループ四季を結成した。グループ四季の会員のうち熟練者は県盲人福祉センターの朗読奉仕員養成講座の講師をも務めるとともに、日本信用金庫協会発行の「楽しい我が家」、愛媛新聞社発行の「奥様ジャーナル」その他「P・H・P」などを収録して「声の月刊誌」として盲人福祉センターに納め、センターではこのテープをダビングして、県内外の目の不自由な人々に貸し出している。なお、グループ四季の昭和六二年度の会員数は三七名である。
 県下の各福祉事務所に手話ができる福祉司を新設してほしいとの要望は、昭和四三年四月の第二一回県ろうあ者福祉大会で決議され、県ろうあ協会会長平岡譲ら関係者は県当局に働きかけた。このため、県では従来の指文字講習やろうあ福祉学級に加え、昭和四五年度から手話奉仕員養成事業を開始し、福祉行政担当者の現職教育もより積極的に行うようになった(本章第三節三項県ろうあ福祉センター参照)。
 こうした動きは、県下主要都市に波及し、西条市は昭和五〇年六月より手話学級を開設した。手話学級開設は同市ろうあ協会の要望であったが、従来から手話通訳の奉仕活動を行っていた市内のボランティアグループ「コスモス」会員の協力もあった。講習生は三〇名であったが、手話法を修得した人のうち希望者は、手話奉仕員として、ろうあ者の文化活動やスポーツ大会に協力するようになった。このような手話サークルは昭和五二年度までに県下に六サークルを数え、この年六月五日、各サークルの代表が県ろうあ福祉センターに会合して、愛媛県手話サークル連絡協議会を結成した。
 病気や事故により人生の途中で聴力に障害をもったり聴力を失った人々のために、県では昭和五六年一二月一九日より、要約筆記奉仕者養成講習(本章第三節三項県ろうあ福祉センター参照)を開始した。これに昭和五二年三月、「本県に難聴者協会を作ろう」と新聞に投書した菊間町の渡辺優子の呼びかけに、大岩禮子や海稲司など一三名が応じて結成された愛媛難聴者協会(昭和五二年六月一九日発足)の強い働きかけによるかのであった。同協会は、現在、協力会員を含め約四五〇名の会員を有するが、会結成以来会誌「希望の灯」を発行し、紙面を通して、耳の医療・補聴器・聴能テスト・要約筆記者派遣など難聴者の福祉や生活全般の相談事業を行い、「同障の和を深め、輪を広げよう」とのスローガンのもと、難聴者用電話や字幕付きテレビ放送や映画の普及運動を行う一方、会員相互の交流レクレーションも実施している。
 要約筆記奉仕員養成講習はまだ緒についたばかりで、その奉仕員は一三一名(昭和六一年度末)と少数であるが、愛媛難聴者協会事務局長河野啓一は県当局と協力しながら、聴覚障害者の福祉増進と要約筆記奉仕員養成に力を尽くしている。

 国際障害者年記念事業

 国際連合は、昭和五一年一二月の総会において昭和五六年を国際障害者年(略称IYDP)とすることを決議した。これはリビアを代表とする四一か国の共同提案により決議されたもので、(1)障害者が身体的にも精神的にも社会に適応すること、(2)障害者に適切な援助、訓練、医療及び指導を行うことによって、障害者が適切な仕事につき、社会生活に十分に参加することができるようにすること、(3)障害者が社会生活に実際に参加できるように、公共施設や交通機関を利用しやすくするための調査研究計画を推進すること、(4)障害者が経済的、社会的及び政治活動に参加する権利を有することについて、一般国民を啓発すること、(5)障害の発生の防止及びリハビリテーションのための対策を推進することの五大目的を掲げた。
 障害を持つ人々の社会への「完全参加と平等」をテーマとする国際障害者年の積極的取り組みは、我が国でも昭和五五年三月閣議決定の後、内閣総理大臣官房審議室内に国際障害者年担当室を発足させて中央心身障害者対策協議会と歩調を合わせて進められた。こうして障害者の社会への「完全参加と平等」をテーマに、ノーマライゼイションの理念に基づくこの運動は全国各都道府県で活発な活動が展開された。
 愛媛県でも、昭和五五年九月、副知事を本部長に、関係する八部局長で愛媛県国際障害者年推進本部を設置し、IYDP関連事業の推進体制を整えた。本県は推進方針を国に準じて、障害者の社会への「完全参加と平等」の実現にむけて県民の心身障害者に対する正しい理解を促進するための啓発活動に積極的に取り組むとともに、心身障害者のための生活環境の整備や障害者(児)施設の整備を図った。
 昭和五六年一月、県立主要行政機関の庁舎には啓発の横断幕や垂幕が張られ、二月には啓発リーフレットが県内に一〇万部配布された。四月、県下に六万部配布された「身体障害者へのエチケット」集(写真3―40)は「目の不自由な人の中には、全盲と弱視の人がいて、お手伝いの必要はそれぞれにちがいます。何が必要かを卒直に聞くことが大切です」、「道路を歩くとき、背後からの音がきこえない。病気のとき、病院の窓口などで立往生する。急用のとき電話が使えない。このようなとき耳の不自由な人は一番困っているのです」、「手足の不自由な人を街でみかけても、すぐ手を貸す必要はないのです。困っているときや援助を求められたときに、はじめて手を貸してあげて下さい。不自由な人たちは、人に迷惑をかけるのをとても心苦しく思うのです。それだけに、こまやかな心づかいが必要です」と健常者が障害者と接する時の心得を記していた。
 昭和五六年は、ラジオ・テレビをはじめ新聞申街角のポスター及び巡回パネル写真展などを通して国際障害者年の啓発活動が行われ、五月には県総合運動公園で六千名が参加して身体障害者体育大会も開かれた。また八月には障害児と健常児のふれあい広場と題して助け合う子らのフェスティバルが松山市・今治市・宇和町などで開かれ、松山市の県民館には、中予地区の特殊学校・特殊学級・交流教育協力校より一、五〇〇人の児童生徒とボランティアが集まり、心のふれあいを通して友情と理解を深めあった。このほか国際障害者年愛媛県記念大会の開催(七月)、国際障害者年記念身体障害者福祉のつどい(九月)、国際障害者年記念フェスティバル(一〇月)など多彩な行事を行った。身障者雇用促進月間がスタートした九月一日、大洲公共職業安定所は身障者と企業の「就職お見合い会」を開いて求職者六名中五名の内定者を得るなど、国際障害者年を契機に「社会参加と平等」の意識啓発は実践をも伴いながら県下に浸透していった。
 障害をもつ人も一般の人と同じように生活を営むことのできる温かい地域社会を築き上げることは、白石知事の掲げる地域主義県政の重要な課題でもあったため、県では、昭和五六年五月、心身障害者福祉対策検討委員会を設置した。これは、国際障害者年以降の障害者福祉対策を積極的に検討していこうとするもので、委員会は身体障害者(児)のニード調査、一般県民の意識調査を実施して、実態に即応した心身障害者福祉の長期的指針を報告書にまとめた。昭和五七年三月、県はこの報告書を基調において「心身障害者福祉対策長期指針」を策定し、心身障害者福祉対策の基本的な考え方、保健医療対策・教育対策の具体的方向、福祉サービスの具体的方向、雇用・就労対策の具体的方向、生活環境整備の具体的方向などを示した。更に同年一〇月には、「身体障害者等の利用施設・設備整備指針」を発表し、社会福祉施設、病院、官公庁舎、図書館、公園、電話ボックスなど不特定多数が利用する施設に、車椅子用のスロープ、視覚障害者用床材、点字案内板、身体障害者用便所などの設置を奨励するとともに、自動販売機のコイン投入口、郵便ポスト、夜間金庫の投入口の高さなどを車椅子にすわったままでも使えるように改善を求めた。
 こうした障害者に対する福祉が増進される中、障害者・親・障害者福祉支援者を中心にして県下に、ポッポ共同福祉作業所・わかば共同福祉作業所(新居浜市)・はまゆう共同作業所(宇和島市)・伊予五色作業訓練所(伊予市)など共同作業所(福祉作業所)が設立されるようになった。昭和五七年一一月一日、北条市下難波に誕生したポッポ共同福祉作業所(昭和六一年六月松山市谷町に移転)では、心身障害者が通所して手工芸品を製作しながら社会復帰訓練を受けている。共同作業所は法的にはまだ障害者授産施設として認定されてはいないが、関係者が後援会づくりに力を入れ、また地域の福祉活動を支援する朝日新聞大阪厚生文化事業団の朝日福祉助成金を得るなどして、その拡充発展に努めている。昭和六二年八月三日には、稲葉峯雄を会長とする「地域福祉をすすめる会」の呼びかけで、愛媛福祉作業所連絡会が発足し、ポッポ共同福祉作業所長渡辺鳩子が会長に就任、同年一〇月には共同募金配分金が作業所に配分されることも決定した。
 なお、共同作業所とは別に、宇和島市在宅精神薄弱者等自立促進事業運営委員会による授産事業「焼き物教室」も昭和五五年七月に開所し、入所生が郷土色豊かな牛鬼・闘牛などの焼き物を製作しながら、自立更生をめざしている。

老人福祉の充実

 昭和五〇年代以降、老人福祉は前代に増して充実された。特に六五歳以上人口の四%を占めるねたきり老人(六か月以上床についている老人)や独居老人に対する福祉は緊急の課題となり、社会的関心と期待の中でその福祉施策が遂行された。すなわち、昭和五一年、厚生省はねたきり老人短期保護事業(ショートステイ)を開始し、ねたきり老人を介護している家族が疾病・出産・事故などにより介護できない場合、老人を一時的に特別養護老人ホームに入所させ保護する道を開き、また全国各地に特別養護老人ホームを増設して、医学的管理の下に常時介護を要する老人を入所させた。
 「昭和五〇年国勢調査」結果では、本県の老齢人口比率は一〇・四%で全国一二位に位置し、県下の独居老人(ねたきり老人を除く)は九、六九五名(総人口の〇・六六%)、ねたきり老人は四、〇二〇名(同〇・二七%)であり、地域別では南予が東・中予よりも高かった。県では、こうした状況をふまえ、施設増設を行うとともに(表3―27参照)、家庭介護を柱とした在宅福祉の施策や老人専門病院の構想を打ち出し、昭和五三年五月には、ねたきり老人寝具乾燥機給付事業を開始した。その後も種々の在宅福祉事業をすすめ、老人看護電話相談事業(昭和五七年一〇月)、在宅虚弱老人等に老人ホームを利用した入浴・給食等のサービス事業(五八年一一月)、在宅ねたきり老人等へのデイ・サービスセンター開設(五九年四月)などが行われるようになった。
 昭和五九年四月に開設された宇摩地区広域市町村圏組合経営の豊寿園入園者数は五〇名で、その平均年齢は七九・七歳(昭和六一年八月現在)である。この内、痴呆老人二六名、非痴呆老人二四名となっている。同園では、他の特別養護老人ホームと同様に、痴呆の症状を進行悪化させないよう、身体的・精神的機能訓練に留意して、音楽や体操によるリハビリテーションを実施する一方、ゲーム・手芸・読書などを通して、入園者が「豊かで楽しみのある生活」「健康で生きがいのある生活」「安らかなうるおいのある生活」を送れるよう介護や指導を行っている。同園には開設と同時に県下初のデイ・サービス施設「ひうち荘」が併設された。これは身体が虚弱なために、日常生活を営むのに支障のある在宅老人を、リフトバスで送迎し、一日三〇〇円の使用料で、入浴・食事・生活指導・日常動作訓練・休養などのサービスを行う施設で、定員一五〇名に対し二八五名が利用している(「市町村えひめ」第6号所収「特別養護老人ホームの現況」)
 高齢者が「生きがい」をもって生活を送れるようにする県の努力も、昭和四〇年代以降積極的に進められた。昭和四六年一〇月、既に老人職業斡旋事業が開始されたが、五一年一〇月には「おとしよりと子供の談話室」事業も始まり、老人がその豊かな経験を地域の子供たちに聞かせたり、藁ぞうりの作り方を指導したりする光景がみられた。昭和四四年度に県下一七か所で開始された老人大学の事業も、以後毎年一五~二一か所で行われ、約五千~七千人の参集者をみ、老人体操・老人の交通事故防止・人生と趣味・時事問題解説・郷土史などについての講義が行われ、修了証書も授与された。また、老人の健康保持と生きがいを高めることを目的に、老人スポーツの普及事業も昭和四七年度より、県下の老人クラブを通して活発化し、各地で老人スポーツ大会が開催され、ゲートボールが急速に普及した。
 このほか昭和四八年一一月、老人海上大学(老人の船)事業も開始し、老人・婦人・青年が船で瀬戸内海を巡航し、生活をともにしながら座談会や研修会を開き、また施設見学中レクレーションを通して、老人福祉活動の新たな進展を期した。翌四九年一一月からは老人海上大学に加えて、「三世代のつどい」事業も始まった。これは老人・婦人・青年が相互に意見を交換し合って相互の連帯感を高め、社会奉仕活動を推進するとともに、老人福祉の増進に寄与しようというものであった。昭和五〇年一一月、新居浜市の新居浜観光センターで開かれた東予地区福祉事務所管内の「三世代のつどい」には、管内の老人クラブ・婦人会・母子会・青年団・VYS・青年社会建設隊などの各団体関係者一〇〇余名が集った。ここでは講演や演芸会のほかに座談会がもたれ、老人・婦人・青年に対し、それぞれの立場から種々の要望が出された。
 こうした高齢者の「生きがい」対策は、昭和五四年一〇月開始の高齢者による肉牛飼育事業、昭和五八年一一月、今治市で始まったシルバー人材センター事業などに発展し、高齢者が明治・大正・昭和の三時代を生き抜いて得た貴重な体験や能力を、社会で活用し、自らの力で生きがいを得る方向へ入った。今治市のシルバー人材センターは昭和五五年七月、高齢者の就業志向にこたえて発足した「高齢者いきがいの会」がその前身であり、「豊富な経験や技術を生かして働きたい」「社会のために役立ちたい」「何らかの収入を得たい」という健康な高齢者が、人材センターに登録しておき、一般家庭や民間企業などから高齢者にふさわしい仕事が依頼されると、センターからの連絡を受けて就労するものである。今治市では一九八名が登録し(昭和五九年度)、植木の剪定・封筒やはがきの宛名書・留守番や家事補助などの仕事を引き受けている。なお、昭和五九年九月、新居浜市にもシルバー人材センターが誕生し、その後も各市で同センター設立の準備が進められている。
 こうした中で、昭和五九年一月、本県は高齢化社会対策本部と高齢化社会対策懇話会を発足させ、より積極的で総合的な高齢化社会対策を推進するようになった。翌六〇年二月、同懇話会は「高齢化社会対策に関する意見書」を提出し、(1)高齢者グループの育成等を通じて、ライフステージに見合った健康づくり・体力づくりが行えるシステムの構築、(2)公的援護の充実に加え、地域住民の協助体制の強化による在宅援護の推進、(3)シルバー人材センターや高齢者無料職業紹介所の機能を持つ組織の整備による高齢者所得の安定的確保、(4)ボランティア活動、生涯学習講座、趣味の創作展など既存の事業を一層充実させ、生きがいのある長寿社会の確立などのほか、家庭(同居)対策、住宅対策、介護施設対策、生活環境対策など、今後の老人福祉のあるべき道を示唆した。

 消費生活協同組合と愛媛県生活センター

 消費生活協同組合の起源は、明治三三年三月公布の「産業組合法」第一条に規定された購買組合である。これは、「産業又ハ生計ニ必要ナル物ヲ購売シテ之ヲ組合員ニ売却スルコト」という条文に拠って、米・味噌・醤油などの生活必需品を共同購入・共同販売することにより、消費者の生活の安定と向上を図るものであった。大正期後半から昭和初期の不況期に、こうした購買組合が、労働者・農民・学生・地域を軸とした市民の間で結成され、なかには労働争議を支援するなど社会運動団体としての性格をもつものもあった。戦時下、統制経済による物資配給制により、これらの購買組合は打撃を受け、解散するものも多かったが、戦後、昭和二三年七月三〇日公布(同年一〇月一日施行)の「消費生活協同組合法」に基づき、各地に生活協同組合(生協)が組織されて再び活動を始め、現在に至っている。
 本県では、昭和二〇年代に学校や住友化学などの職域を中心とする生協が約二〇団体誕生し、昭和三〇年代に入ってその活動を活発化させ、組合数も倍増した。これら生協は、衣料品や食料品など日常生活の必要物資を供給する事業の他に、医療施設や賃貸住宅の利用事業、火災・生命・交通災害など保険に関する共済事業を行うものもある(表3―28)。
 高度経済成長期、国民の所得が上昇し、大量生産を行う企業は「消費者は王様」と宣伝して大量消費熱をあおった。こうした中で、ユリア樹脂製食器からホルマリンの検出・チクロ食品の安全性問題・欠陥自動車問題などが起こり、消費者も「かしこい消費者」になろうと、効能を過大に表示した商品や有害添加物使用食品・欠陥商品などの排除を求める運動を展開した。一方、政府も昭和四三年五月に「消費者保護基本法」を公布して、消費生活の安定と向上をめざし、総理府に消費者保護会議を設置して消費者保護の重要な施策を審議決定するようになった。また、国民生活審議会や経済企画庁の国民生活局でも、種々の消費者保護施策を講じるようになった。
 本県では、既に昭和四二年度から国の補助を受けて消費生活モニター制度を始めていたが、同四五年度からは県単独でモニターー〇〇名を委嘱して、それぞれの意見や要望を県総務部県民運動室内の生活相談室で受け付けるほか、県下一四地区で生活学校を開き、消費生活相談事業を行ってきた。昭和四五年八月、県民運動室は生活課と改称され、これが消費者行政の中心となった。同年一二月、県議会議事堂一階に愛媛県生活センターが開設され、食品・計量・品質表示などのパネル展示を行い、また「生活センターニュース」「消費者のしおり」なども発行して消費者の啓発を行うとともに消費者からの苦情処理にも当たった(『愛媛県政』一九七一年版)。県生活センターは昭和四七年四月に松山市三番町に建設された生活保健ビル内に移転し、県内消費者の本格的な保護啓発機関として再出発した。同センターは、県民の生活に密接な関連をもちながら、(1)商品やサービスについての苦情相談や買い物相談、(2)消費者教育の一環としての消費生活をテーマした学習講座開催や通信教育の実施、(3)商品の鑑別テストや試買テスト、(4)消費生活に関する知識啓発のための展示、(5)情報紙「えひめのくらし」による情報提供などの業務を実施している。
 昭和四八年から同四九年に始まる「狂乱物価」の中で、県下の主婦を中心として地域を単位とする生活協同組合が結成され始めた。その中核となるのが組合員数約二万三千余名(昭和六一年度)のえひめ生活協同組合(えひめ生協)である。同生協は、昭和四九年四月、松山市民会館で設立総会を開き、当初は初代理事長山本五月を中心に七一二名の組合員で出発した。その後、地域に根ざした生協づくりをめざして組織の拡大を図りながら、無農薬・低農薬の農産物や有害添加物を使用しない食品の生産運動や共同購入を推進するとともに、家計・食生活・環境・福祉・平和の各分野ごとに専門委員会を設けて多彩な活動を進めるようになった(『明日へかける虹―えひめ生協一〇のあゆみ』)。
 この間、昭和四六年度には県総務部内に環境生活局が新設され、生活課はここに属し、同四八年度からは生活環境部生活課となり、生活行政の推進体制が強化された。昭和五〇年三月には「愛媛県消費者保護条例」が全国で九番目に制定され、条例に基づき、知事の付属機関として県消費者保護審議会(委員数二五名)や県消費者苦情処理審査会(委員数一〇名)が設置され、各県事務所(現地方局)には「くらしの窓口」も設置された。更に同五三年三月には「愛媛県商品表示基準」が告示され、食パンの製造年月日表示や日用品・加工食品・生鮮食品など三七品目に品名・単価価格及び基準単位量などを表示することを義務づけた。こうした中で、昭和五五年三月、愛媛県消費者団体連絡協議会が結成され、毎年「愛媛消費者集会」などを主催している。

 愛媛県生活つなぎ資金協会

 昭和五二年一二月二〇日、愛媛県生活つなぎ資金協会が発足し、同月二六日から、いわゆるサラ金地獄に悩む県民の救済を目的として、低利小口金融制度が開始された。「サラ金」と称されたサラリーマン金融は、我が国では昭和三五年ごろ関西に始まった「団地金融」が最初といわれる。昭和四〇年代後半からは消費ブームを背景に、無担保でしかも簡単な手続きで現金が借りられるという手軽さのため、サラリーマン、主婦、学生を中心に需要が伸び、業界は急成長をみせてきた。本県では昭和四四~四五年ごろには一部の地元金融業者が営業を開始したが、昭和五〇年ごろには県外の大手業者が進出し、昭和五八年三月には県下に三、七〇五業者がサラ金業を営んだ。しかし、返済の目途がなく無計画な借金をした人々の中には、その厳しい取り立てに苦しみ、一家離散、心中といったサラ金悲劇に陥る者もあった。また借金返済のために強盗、殺人などの事件を起こす事例もあり、サラ金の悲劇は大きな社会問題となっていた。
 愛媛県生活つなぎ資金協会は、県総務部長を理事長、総務次長及び県信用保証協会専務理事を副理事長にして、県庁内に本部を置き、松山市、西条市、今治市、八幡浜市、宇和島市に支部を置いた。各支部はそれぞれの地方局管内を担当地域として、「アシスタントローン(生活つなぎ資金の愛称)は、サラリーマンのみなさんが、特別な一時の出費によって、健全な生活を維持することが困難なときに、必要な資金を貸し付ける制度です」と記したパンフレットを配布して宣伝に努めた。県がこうした制度の実施主体となっているのは本県と石川県のみであるが、徳島県、広島県、島根県、宮崎県でもこれに類似する制度を実施している。
 「愛媛県生活つなぎ資金貸付規程」(昭和五二年一二月二六日施行)によると、県内に住所を有する給与所得者を対象に一人当たり三〇万円を限度(昭和五三年度より五〇万円に引き上げ)に、年利七・三%で二年間以内を期限にして貸し付けられている。昭和五二年一二月からの貸付金総額の推移は図3―6の通りであるが、昭和六一年度末では貸し付け累積は二、一一九件、八億九、八〇〇万円となっている。このうち、サラリーローンの借り換えのためのつなぎ資金利用率は、昭和五三年度の二一八件を最高に年平均九〇件前後であり、貸し付け中の約四四%を占めていた。このほか、貸付資金には、療養、婚姻及び出産、葬祭、就学及び就職、転宅、災害復旧、その他の生活維持などの種別があるが、サラリーローンの借り換えに次いで療養、冠婚葬祭資金の利用が多かった。
 なお、愛媛県はこの事業のために、生活つなぎ資金協会に総額二億円を無利子で貸し付け、協会がこれを回転させながら低利小口の融資をすすめている。また昭和五八年一一月からは県の出先機関である各地方局にサラ金相談コーナーを設けている。

表3-25 昭和46年~49年の愛媛県における主な社会福祉事業

表3-25 昭和46年~49年の愛媛県における主な社会福祉事業


表3-26 県歳出一般会計中の民生費(決算額)

表3-26 県歳出一般会計中の民生費(決算額)


表3-27 県下の特別養護老人ホーム一覧(昭和61年10月現在)

表3-27 県下の特別養護老人ホーム一覧(昭和61年10月現在)


表3-28 愛媛県の生活協同組合の消長

表3-28 愛媛県の生活協同組合の消長


図3-6 愛媛県生活つなぎ資金協会の貸付金総額の推移

図3-6 愛媛県生活つなぎ資金協会の貸付金総額の推移