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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 伊予諸藩の医家

 松山藩

 松山藩の抱医師は、御側医師と御番医師に分かれていた。寛政元年(一七八九)の『松山分限録』、嘉永五年(一八五二)ころの『松山武鑑』、安政六年(一八五九)ころの『松山藩御役録』(伊予史談会蔵書)松山藩医師団の氏名と禄高を抜粋すると次のようであった。

 ○寛政元年
  御側医師
  二七〇石西崎杏仙 一八〇石和久周達 一八〇石庄野三折(定府) 一七〇石天岸昇安 一五〇石古川祐玄 一五〇石毛利玄伯 一四〇石三人扶持江崎玄仙(定府) 一四〇石室節林昌 六〇俵上田道安 六〇俵今井栄周
  御番医師
  二二〇石青地快庵 一二〇石岡田順的(定府) 一〇〇石青地玄令(定府) 八〇俵横山泰安 八〇俵片桐文朝 八〇俵明星玄仙 八〇俵安井多仲 七〇俵井手玄度 七〇俵進村文隆 六〇俵服部仲良 一八人扶持松本圓悦
  部屋住見習
  三人扶持西崎三澄 同室節栄玄 同古川玄度 同天岸玄立 同上田賢隆 同今井玄教 同明星道玄 同片桐玄輿
 ○嘉永五年頃
  御側医師
  本科二〇〇石天岸椒玄 本科一三〇石秋山玄徴(常府) 本科一〇〇石室節林昌 本科一〇〇石平田太仲 本科一〇〇石望田文渕 本科一〇〇石内田玄郁(常府) 本科一〇〇石喜多見大民(常府) 本科八〇俵西崎吉安(常府) 鍼科七〇俵渡部春良 本科六〇俵明星玄仙 本科六〇俵井手玄達 本科六〇俵大内禎助(常府) 鍼科一五人扶持磯崎
  東庵
  御番医師
  本科一三〇石和久道圓 本科一〇〇石川井三省 本科八〇俵今井柳庵 本科六〇俵内田玄亭(常府) 本科五〇俵三輪文弥 本科一〇人扶持古川昇達 眼科一〇人扶持松本圓順 本科一〇人扶持青地友益 本科一〇人扶持滝松園 鍼科一〇人扶持田中隆橋 医師格三人扶持室節主膳 医師格三人扶持明星道玄 稽古科五〇俵 寺澤良助
 (常府) 三五俵近村昇水 三〇俵片桐重次 三〇俵岡田大月(常府)
 ○安政六年頃
  御側医師
  二〇〇石天岸椒玄 一七〇石毛利周瑞(常府) 一二〇石室節林昌 一二〇石平田太仲 一二〇石喜多見大民(常府) 一〇〇石西崎杏庵(常府) 一〇〇石磯崎東庵 七〇石三輪忠庵(常府) 八〇俵今井柳庵 八〇俵内田玄揚(常府) 七〇俵西崎松柏 六〇俵明星道源 六〇俵進村文碩 六〇俵服部桂蔵 六〇俵渡部春良 六〇俵大内玄龍(常府) 一〇人扶持松田隆教
  御番医師
  一三〇石和久周達 一〇〇石望田純蔵 八〇俵寺澤良介(常府) 六〇俵片桐玄与 三五俵宇高孝民 三〇俵岡田大月(常府) 二八人扶持松本三友 一〇人扶持古川祐玄 一〇人扶持青地友益 一〇人扶持瀧松園 一〇人扶持宮城純丈 医師格一五人扶持渡部三澄 医師格森周哲
  稽古料
  三〇俵井手数馬介 二五俵永野周策 平田主計 田中某

 右によれば、松山藩では、江戸時代中期の寛政年間御側医師一〇名・御番医師一一名であったのが、幕末の安政年間には御側医師一九名・御番医師一三名に増加している。
 御側医筆頭の天岸家は、初代升悦が肥前唐津藩を浪人して医術修業、元禄一五年(一七〇二)大坂で開業中のところを二〇人扶持で松山藩に召し抱えられて以来代々側医師を勤める家柄であった。寛永年間最も格式の高かった西崎家は元町医師、一時養子の離別などで衰えたが、文化一二年(一八一五)江戸に召し出され常府医として復活した。御番医筆頭の和久家は宝暦一三年(一七六三)町医から登用された。室節家も宝暦七年町医から召し出されており、他の医家も町医出身者が多い。針医者の磯崎家は初代養仙が安永六年(一七七七)江戸で一五石一〇人扶持、同じく渡部家は初代俊良が文化四年(一八〇七)松山で六〇俵の待遇でそれぞれ採用された。また初代井手玄達は野間郡紺原村庄屋井手市郎右衛門倅であるが医師としての技能が認められて宝暦一三年に登用、青地快庵は伊予郡筒井村百姓小右衛門の倅であるが町医での評判を認められて宝暦三年青地家の養子に迎えられるなど、農民出身から召し出される場合もあった。少し時代が下るが、安倍能成の祖父安倍楳翁は、嘉永五年(一八五二)桑村郡中村から松山に在住して町医を開業、明治三年九月に士族医師として召し出され、御切米一二石・高二人扶持を得ている。
 松山藩の場合、召し抱えられた当時は御番医として扶持米を与え技術を見極めて知行取・御側医に格上げといった採用方法であったようであるが、門閥医家が増加するに従い知行取りの御側医と扶持米取りを主体とする御番医の格付けが固定化してきた。年頭礼式の順序でも、御側医は中書院の縁側で元旦祝詞を申し述べ、御番医は大書院で挨拶するなど明碓な格差があった。なお、享保一八年(一七三三)二月から御側・御番医ともに帯刀が許された。また文政三年(一八二〇)四月から有髪勝手次第となった。

 宇和島藩

 嘉永四年(一八五一)改の宇和島藩『分限帳』(伊達家史料「家中由緒書」所収)によると、同藩藩医名と禄高は次のようであった。

 二〇〇石山内大庵 一五〇石外ニ薬種料一五俵松本文哉 一〇〇石外ニ薬種料一〇俵砂澤杏雲 一〇〇石外ニ薬種料 一〇俵浅野洞庵 一〇〇石富永分亮 八〇石外ニ薬種料一〇俵林道仙 米五〇俵御養料土倉瑞山 米五〇俵御養料八 嶋宗仙 六〇石外ニ薬種料一〇俵谷快堂 三〇人扶持渡邊玄泰 一五人扶持外ニ薬種料一〇俵冨澤大珉(禮中) 一五人扶持谷口泰庵 一五人扶持外ニ種料一〇俵賀古朴庵 二〇俵内一〇俵御増高外ニ薬種料一〇俵能島随安 四人分 二〇俵内一〇俵御足高外ニ薬種料一〇俵芝俊伯四人分一〇俵土居元慎 四人分一〇俵熊崎寛哉 三人分九俵松深義安  御合力米七俵栗田俊丈 御合力米七俵三好周伯 御合力米七俵布清恭 御合力米五俵二宮敬策(敬作)

 右によると、二二名の医者が藩医として登録されている。このうち、山内丈庵以下谷快堂までの九名が、先祖代々藩主伊達家の御側医師・御奉薬方を勤めた門閥医家であった。これら医家の出身と代々の相続、医業活動を『家中由緒書』などから抜粋すると、以下のようである。

〈山内家〉山内家の藩医出仕は、谷雲庵が万治元年(一六五八)二代藩主宗利に二〇〇石の知行高で医術をもって召し抱えられたことに始まる。雲庵の子丈庵は病者で御奉公なり難いとして一時暇を認められたが、元禄七年(一六九四)家督を継いだ。庸庵(義全)を経て、寛保三年(一七四三)に相続した雲庵(義郷)は三年間江戸での医学修業を続けた後参勤御供などに勤仕、延享三年(一七四六)井上交恭院に入門してさらに三か年修行した。宝暦二年(一七五二)には宇和島藩内の摺木村で伝染病が流行したので、谷了閑とともに療治のため派遣されてしばらく同地匹逗留、褒美として銀二枚を与えられた。宝暦一〇年吉田の小川俊達方から養子に迎えられた宜仙が相続して庸庵(豊玄)と改名、翌一一年医学修行のため上京、同一三年から御番医入りを仰せつかった。その子雲庵は、谷了閑次男随流が安永二年(一七七三)山内家に入って養子相続改名したもので江戸と国元ほぼ一年交代で番医を勤めた後、天保九年(一八三八)一月倅柳哲への相続願を聴許された。柳哲は丈庵と改名して京摂津に留学、弘化三年(一八四六)一二月には藩主宗城に進講するなど御側医師の代表格となった。嘉永元年(一八四八)四月弟隆仙を連れて出府し、五月参勤立帰り御供の節隆仙を大坂まで伴い医学修行させた。

〈松本家〉松本家の祖益庵(仲郷)は武州生まれで、吉田意安法印の門弟として江戸で医業を営み何方にも奉公しなかったが、延享二年(一七四五)三月伊達家に召し出され藩主に御目見え御脈拝診、七月侍医として任用一五〇石の知行を賜った。同年下向御供を命ぜられ宇和島に初入国、以後、参勤は家督相続と共に伝来の益庵を名乗り、天保元年参勤立帰り御供の節、「兼テ産科ノ儀ニ付相談致度儀モ有之候ニ付京都師家へ罷越五日程逗留致度」旨を願い出て京都に立ち寄った。弘化四年(一八四七)には益庵の倅文哉が医術修行のため京坂に留学して嘉永三年帰国、翌四年七月文哉は医科上達したとして御扶持方三人分を支給、召し出されて旗本組に加えられた。その後、伊東玄朴門に学んだ文哉は、安政三年(一八五六)七月亡父の跡目を継いだ。

〈砂澤家〉宇和島藩最初の種痘医砂澤杏雲の曽祖父常安は、明和・安永年間(一七七〇年代)江戸詰薬種手合に当たるなど藩主とその家族の側医として活動した。常安には子がなかったので、天明四年(一七八四)大洲の藩医鎌田良球の弟文仲を養子に迎え家督相続させた。文仲は京都で医術修行の後、寛政三年(一七九一)「療治方モ相応有之ニ付、亡父遺跡無相違」として一〇〇石知行を認められ、剃髪するとともに祖父名中安を継いだ。中安は寛政一〇年(一七九八)曽祖父名休玄と改名したが、この年一二月病死した。
 休玄にも相続者が居なかったので、末期に際し伊藤太郎左衛門次男の文也が聟養子に入り、寛政一二年(一八〇〇)二月相続が認められて養料五〇俵を支給された。翌享保元年(一八〇一)剃髪、文化三年(一八〇六)中安と改名、同五年(一八〇八)眼科修行のため京大坂と尾張へ留学した後、同八年に至り亡父の遺跡一〇〇石知行が下付され、さらに同一二年より薬種料一〇俵を支給された。天保三年(一八三二)近習格に昇格した中安は、この年八歳になった倅多仲を御目見えさせた。
 天保七年倅多仲は杏雲と改名、弘化二年(一八四五)四月京摂への医業修行が許され逗留中二人扶持を下された。ついで嘉永元年(一八四八)一月一二日付で「杏雲兼々蘭方医業相心掛候ニ付今度御参勤ノ節召連ラレ江戸ニテ尚又修行仰付ラレ候」と、江戸修行を命ぜられた。伊東玄朴に入門した杏雲は、この年一一月「近頃代診等罷越候ニ就テハ書生体ノ鹿服ニテハ病家へ信用モ致サス、師家へ対シ外聞相掛候ニ付、衣服等モ少々取拵候」と、金一〇両の借用を江戸藩邸に申し出ている。杏雲は嘉永四年(一八五一)六月帰国した。
 翌五年(一八五二)冨澤禮中と共に種痘所の接種医を命じられ、同六年家督相続した。杏雲は、その後、御側医として江戸・国元での勤務を続け、文久二年(一八六二)六月参勤交代制の改革による江戸引き揚げで、前大屋形様(宗紀)・大屋形様(宗城)に随伴帰国した。

〈浅野家〉浅野家の相続者は代々洞庵を名乗った。祖洞庵(顕寛)は、宇和島藩一八〇石取今泉与惣右衛門顕明の四男で医業を志し、寛保元年(一七四一)六月医師として召し出されて御扶持方一五人分を支給された。この際、藩祖以来の門閥医家で絶家となっていた浅野の姓を藩主から与えられた。寛保二年(一七四二)と同四年には三机浦と伊方浦の疫病療治に当たり、延享三年(一七四六)には藩主の領内巡見に付き添って酒杯を受けるなど次第に認められた。寛延二年(一七四九)藩主村候痔疾に付御奉薬衆中に加えられて以来しばしば奉薬を仰せつけられ、出精相勤の廉で翌三年新知行一〇〇石支給とともに旧浅野伝来の洞庵襲名を許された。宝暦三年(一七五三)九月法橋を叙爵、その祝いとして殿様から御肴両尾、直筆の御賀章などを拝領、さらに御医師座上を命じられて太刀を与えられた。同五年には御前様(奥方)の妊娠、御産の主治医として奥詰めを続け、安産につき金子三〇〇疋をを拝受した。藩主村候の信任ますます厚く、参勤交代の出府・下向には必ず御側にはべったが、宝暦一三年七月隠居願が許されて御奉薬を免ぜられ、扶持方一五人分を支給されて隠居名を宋休と名乗った。
 二代洞庵(隆正)は、延享四年(一七四七)二月、柳沢道故隆州の二男から浅野家に養子に迎えられ、九月御目見えした。医術修行の後、宝暦一一年御番医師を命ぜられ参勤御供に従事、同一三年二月養父隠居に伴い家督相続して、襲名した。
 三代洞庵は、弘化四年(一八四七)六月家督一〇〇石を相続、安政二年(一八五五)三月薬種料一〇俵を加付された。洞庵を名乗る前は歓喜と称し、文化一〇年(一八一三)文政六、七年(一八二三、二四)大坂で医術修行、文政一二年九月には「父洞庵以来本業ハ本科(内科)ニテ外科ヲモ相兼候処、歓喜儀本科ハ別而不器用ニ付不若儀ニ候ハヽ、本業ハ外科ニテ本科ヲモ相兼ネ御奉公致度」と外科奉公を願い出て聴許された。安政六年(一八五九)一〇月、洞庵は「病気ニ付御子様方御療治引受御免之願」を出し、さらに「久々病気之処全快之程無覚束躰ニ相成俣ニ付、倅杏斎当未八歳ニ相成、業家之身分年若ニ而ハ御用ニ不相立、恐入候間、養子致度吟味候得共、何分程能人物も無之当惑致、倅杏斎江相続之義願上候而も不苦哉」と伺い出、やがて死去した。一二月、藩庁は洞庵の末期願を認めて杏斎に御養料五〇俵を給して医業相続を許した。

〈冨永家〉『嘉永四年分限帳』に見える冨永分亮の祖父分安(直澄)は、吉田藩家中伊藤彦左衛門次男であった。元文三年(一七三八)三月、外科心掛宜しき旨をもって中之間に召し出され、扶持方四人分切米一〇俵を支給された。寛保三年(一七四三)三月藩主村候初入御迎のため江戸に罷越し御切米一〇俵を加増され、五月御供して帰国、一二月格式御医師並となった。宝暦五年(一七五五)藩主村候の痔疾を療治して「段々御快御座成サレ、御満足思召ラレ」、褒美として紋付羽織を下され、翌六年新知一〇〇石下付御奉薬順番を仰せつかった。側医となった分安は、この年三月の松山道後、宝暦一三年の有馬湯治にも供御した。この後、七月分安はかねて病身に付隠居を願い出て聴許された。
 分安の子玄仲(温恵)は、延享三年(一七四六)初めて御目見え、宝暦七年七月学問に心掛ける旨の御意を受けて御文庫書物拝見を許された。同一一年七月御伺御番御供並に加えられた玄仲は、父分安とともに相勤し、同一三年七月分安隠居に伴い知行一〇〇石を継いだ。玄仲は、父に代わって参勤出立下向の御供などを勤めたが、安永元年(一七七二)八月病死した。相続者がなかったので、隠退していた分安に一一月再勤を命じられた。翌安永二年五月土佐国中村の医師水間法庵倅習益を玄仲娘の聟養子に迎えることが許され、習益は六月養子縁組の後、安永三、四年医術修行のため京都に留学した。同四年八月老年を理由とした分安の隠居願が認められ、習益が家督相続して分安の名を継ぎ、従来の分安は玄能と改名した。寛政三年(一七九一)七月、医師有髪の面々は剃髪するよう藩命が下ったが、分安は若年のころ百余の腫物を発した跡があり月代難儀に付有髪願を申し出て許された。
 分安の実子計門は、江戸・京都で修行の後、文化二年(一八〇五)一二月分亮と改め、同六年四月父隠居の跡を受けて家督相続した。文政六年(一八二三)には御近習格となり、同一一年には大屋形様(村寿)附医師に任じた。天保三年(一八三二)一一月分亮病死、末期願で子斗門に医業相続が認められ、御養料五〇俵を支給された。斗門は京摂で医術修行の後、天保八年親の名分亮を襲名、家督一〇〇石知行を継承した。
 倅杏栄は、弘化四年(一八四七)御目見えを許され、安政元年(一八五四)習益と改名、同二年御診見習となり、同年大坂の緒方洪庵塾で修行、同六年種痘医を命じられた。さらに文久二年(一八六二)八月九島浦島方のコレラ病治療に出張、その功労で御扶持方三人分を支給され、御番入りを許された。

〈林家〉初代道仙は、松山藩家中加藤喜左衛門三男で医業修行した後宇和島に移住、町家医業を始めた。享保一一年(一七二六)御前様御用につき江戸に呼ばれ、同一二年「医業専相勤候」として扶持方三人分支給されて出仕、同一三年御中奥病用相勤を命じられた。同一八年扶持方四人分・切米一〇俵を下し置かれ、同年初めて藩主村年の脈を伺い、その節御意をもって平日御容体伺を仰せつけられ、翌一九年二月には村年胸痛に際し冨澤道玄の相談役として御薬差し上げを命ぜられた。元文元年(一七三六)三月御切米一〇俵を加増されて都合二〇俵となり、側医師旗本組に加えられた。寛保元年(一七四一)一五人扶持の加増を経て、延享二年(一七四五)九月一五〇石知行取に昇格、参勤御供を勤めるようになった。道仙は実子を冨澤家に養子に入れたので、俗医二宮治兵衛の倅で門弟の道医が宝暦一三年(一七六三)養子相続して、二代目道仙を名乗った。『嘉永四年分限帳』に登場する林道仙は四代目で、襲名前は玄仲と称し、文政一二年(一八二九)に京都で修行、天保元年(一八三〇)五月二七日「其方兼テ外科ヲモ心掛致稽古候趣相聞兼々被仰出候御趣意ニモ相叶一段之事ニ候、依之以来外療ヲモ相兼療治方被仰付候間猶御用ニ相立候様出精可致候」と外科出精の藩命を受けた。やがて道仙は「慎方不宜、遠慮被仰付」られ、知行八〇石を没収されて御扶持方切米四人分二〇俵に引き下げられた。倅玄仲は嘉永二年(一八四九)以来大坂の緒方洪庵塾に入門修行していたが、父の処罰で金銭面で難渋、学僕同様の修行を続けたという。道仙が咎めを解かれ八〇石を回復するのは安政二年(一八五五)で、倅玄仲も御礼見習出仕を命じられた。

〈土倉家〉土倉家の初代は治庵(崇徳)、二代は瑞仙(崇任)、三代瑞仙(崇受)は享保一〇年(一七二五)父の名を襲い、同一三年病用勤仕を命ぜられた。元文二年(一七三七)江戸詰めを命ぜられ、姫様病気に昼夜詰めて全快に導き、一五〇石を給されることになった。四代仙哲(崇輔)は、寛保三年(一七四三)亡父跡式を相続一五人扶持を下付されたが、延享五年(一七四八)家督相続しないままに死去した。五代瑞仙(崇良)は、幼少のため御養料二〇俵で亡父跡目を相続、宝暦一一年(一七六一)修行に専心せよとして御養米二〇俵を追加されて都合四〇俵支給され、翌一二年瑞仙を名乗った。『分限帳』の瑞仙は七代目で、慶応三年(一八六七)長崎に留学、明治元年(一八六八)一二月の箱館出兵には軍医として随行した。

〈八嶋家〉八嶋家の祖金右衛門は藩祖秀宗に従って仙台から来たが、家督を相続した倅分五郎共々医者ではなかった。分五郎の跡名分太夫には子がなかったので、分太夫の死後八嶋家は一時断絶した。分太夫の弟は洞的と称して針医を業としていたが、天和三年(一六八三)新参召し出され四人分一〇俵で奉公した。貞享四年(一六八七)一〇俵加増、元禄五年(一六九二)八嶋家再興を許され、玄詮と改めた。玄詮を継いだ寿詮は、寛保元年(一七四一)四人分二〇俵の家禄の外に薬種料米二〇俵を下付された。延享四年(一七四七)了安が父跡式を相続、御扶持方一〇人分を下付され御医師並に加えられた。『分限帳』の八嶋宗仙は、谷口泰庵の弟で八嶋玄詮の養子となり、明治元年一二月の箱館出兵には土倉瑞仙らと共に随行医師に任命された。

〈谷家〉谷快堂の知行六〇石は、医家としては最大の禄高を所持する本家谷氏の二四五石を分知されたものであった。本家谷氏の初代谷了閑(義忠)は、寛文九年(一六六九)上方から浪人として宇和島に下り、谷雲庵宅で医療を営んでいた。久しく当地に留まったので他所への移住を考えていたところ、延宝元年(一六七三)藩が召し出すから他には行かないように指示があり、同三年二月より扶持方一〇人を下付され、さらに翌四年六月新知行一〇〇石を支給されることになった。八月桜田監物に連れられて江戸に上り藩主宗利に目通り、以後江戸御供を六度勤め、同七年(一六七九)五〇石、貞享四年(一六八七)五〇石加増、都合二〇〇石の知行取りとなった。宝永五年(一七〇八)三五年の勤仕を終えて了閑は隠居、子了因(義一)が家督二〇〇石相続、同七年三机浦流行病療治に派遣されて三〇〇人余を治療して快方に向かわせたので、藩主宗贇からお褒めの言葉を賜った。了因は延享二年(一七四五)七月御奉薬医師座上を拝命、同四年隠居を許されたが、扶持方一〇人分で引き続き御奉薬席詰を命ぜられた。
 三代了閑(義行)は、初名貞斎、享保一五年(一七三〇)初御目見え、元文四年(一七三九)修行扶持二人分を支給されて京都留学、寛保二年(一七四二)春京都より一時帰国、しばらく逗留して再び上京、延享元年(一七四四)修行を終えて帰国した。この年了閑を襲名、御番方に召し出され初めて御脈拝診した。同四年六月家督二〇〇石を相続、寛延二年(一七四九)江戸留守詰を勤め、翌三年帰国した。宝暦三年(一七五三)摺木村伝染病流行につき山内雲庵と同村に赴き暫く逗留して療治に専念、やがて類病もなくその旨藩に報告したところ、藩主から「摺木村類病格別退ヶ太儀之旨」仰せられ、銀二枚を与えられた。同一〇年知行高二四五石六斗に増禄、明和元年(一七六四)には地方薬種料二〇俵を加付された。同七年初姫様病中出精相勤して綾布二反を与えられた。この年、倅哲斎は医術修行のため上京、修行を終えて安永三年(一七七四)江戸詰め見習を命ぜられた。
 同六年六月父了閑隠居の跡を哲斎が相続、同八年了閑を襲名すると共に、この年聟養子に迎えた伊藤右膳三男佐次郎が哲斎を名乗った。四代了閑は、天明二年(一七八二)法橋を叙爵し、一〇月太刀御礼式の際御医師座上に任ぜられた。同六年医蹟を著述して藩主に献上、参勤御供のかたわら療治方心掛医師の医学世話に当たったので、寛政七年(一七九五)御賞をもって進席を許された。同一二年には医師中若輩の指導に従事するため御番御供御用を免ぜられ、享和二年(一八〇二)隠居を許されたものの扶持方五人分で御療治向きと医師指導を従来同様仰せつかった。藩主村候・村寿の信任極めて厚く、御医師座上として君臨した四代了閑は、三〇年の奉公を終えて文化二年(一八〇五)九月死去した。
 五代哲斎は、享和二年(一八〇二)一二月家督相続、文化四年御近習次席となり、参勤御供や江戸詰めで勤仕した。哲斎は家伝来の了閑を名乗らず、倅が襲名した。倅了閑は、文化一四年(一八一七)江戸詰めの父に連れられて江戸に向かい医術修行、文政七年(一八二四)には京摂で修行に励んだ。天保七年(一八三六)親哲斎死去により、了閑は谷家を継いだが、弘化三年(一八四六)倅依中を医術修行のため召し連れて江戸在番のところ七月急死した。
 谷依中は国元に立ち帰り慌しく父親の葬儀を済ませ、家督を相続、弘化四年(一八四七)京坂に医術留学を予定していたところ祖母死去により忌引受けで延期し、翌五年ようやく京坂に赴いた。この年四月、伊達家に庇護を求めた高野長英が伊東瑞溪と変名して宇和島に下った。蘭学修行の志があった依中は、山内丈庵を通じて長英への弟子入りを願い出、四月二二日「其方(谷依中)蘭学志有之、伊東瑞溪へ相使致稽古候趣ノ処猶又修業仰付誤間往々御用ニ相立候様可致出精候」の許しを得た。急ぎ京より帰国した依中は、かねて馬術に巧みの故をもって「先祖以来医業ノ処、御吟味合之レ在リ、馬練ニ増々被召遣ラレ候旨」の上意を利用して医業出仕放棄を決意、京摂で医術修行中の伯父快堂(四代哲斎次男、五代了閑弟)の帰国を待って相談した。その結果嘉永元年(一八四八)七月一六日、「依中介、先祖以来医業ヲ以召仕ラレ候、其身ニ於テハ医業修行致スヘク処、未夕年若ニ付、唯今ヨリ俗勤仰付ラレ下置カレ候ハ、武芸稽古致シ精勤致シ度」といった俗勤願を提出した。八月二日藩主宗城は格別の計らいをもって俗勤を許し、これまでの御養料支給を止めて家督二四五石六斗相続を認め、虎之間奉公、桜田数馬組入れを命ずるとともに「専ラ蘭学ノ方ヲ修行致スヘシ」と高野長英に随身しての蘭学出精を指示した。
 谷家は代々医業をもって仕えた家柄であったから、依中は伯父快堂に家禄のうち六〇石を分知して快堂の医業出仕許容を願い出て、一一月六日付で「谷快堂 谷依中知行高ノ内分知ノ儀ニ付願ノ趣右之達御聴候処、願ノ通其方へ六拾石分知被仰付虎之間医業ノ家ニ被仰付候、猶又業方相励心掛可相勤候」との沙汰を受けた。なお、谷家では代々秘法〝聖授圓〟を制薬し世上へ差し出していたが、藩庁から「今度俗勤仰付ラレ候付テハ、如何相心得申スヘキヤ」の問い合わせがあったので、依中は快堂に製法を譲ることを申し出た。依中は、嘉永二年(一八四九)閏四月山内太郎左衛門と改名したが、この年、「蘭学修業心掛不宜」と注意を受けるなど、蘭学への情熱を失い、高野長英が宇和島を去ると御番方御小姓の俗勤となった。
 谷依中から六〇石を分知されて医業召し出しとなった谷快堂は、江戸で伊東玄朴門に学び、嘉永六年六月療治方専心の故をもって薬種料一〇俵を加付され、砂澤杏雲・冨澤禮中についで種痘医に任ぜられた。倅権蔵を後継者とすべく、安政四年(一八五七)剃髪させて哲斎と改名することを許され、文久二年(一八六二)御診見習に出仕させたが、眠病を患って医術修業が叶わなくなったので、慶応二年(一八六六)退身させた。哲斎は養子であったのでこれを離緑、相続者がなくなった。このため、同年七月、平城村松軒の甥で長崎で修業中の諒亭を呼び戻して娘の婿養子に迎えることにした。これが後述する谷世範である。離緑された哲斎は、後年、御荘内海村で開業医となった。

〈賀古家〉初代道固(朴庵)は医業を積み、寛永一一年(一六三四)禄高三〇〇石で肥前佐賀の鍋島家に召し抱えられた。二代道意(休柏)は正保三年(一六四六)父を相続して引続き鍋島家に仕えたが、寛文元年(一六六一)致仕して京都に移った。三代順安は道意の次男で長じて後大阪に住居して医業に従事したが、伊予吉田藩伊達宮内少輔が有馬温泉で湯治中に一〇〇石一〇人扶持で採用された。宮内少輔死去の後吉田藩内には御抱医師の数が多いとの理由で暇を賜り、宝永七年(一七一〇)三男玄同を伴って宇和島に来て町医開業した。四代玄同は父没後医業を相続、寛保元年(一七四一)吉田の町医池澤道軒の三男正せん(にんべんに全)を養子に迎えた。
 正せん(にんべんに全)は、宇和島藩医八嶋寿仙に師事して医術の修行をした。寛保三年師寿仙の推挙で伊達村候に御目見え、扶持三人分を与えられることになった。宝暦五年(一七五五)一二月扶待米五人分給せられて御番医となり、藩主の参勤あるいは出向にたびたび従って江戸・大阪に赴いた。その職責勤勉により、宝暦一一年帯刀を許され、明和六年(一七六九)九月には中之間列扶持切米四人分一〇俵外に薬種料一〇俵を給与された。さらに一二月村候次女長姫付となり一五人分薬種料一〇俵を給せられた。安永二年(一七七三)長姫婚礼の際一五〇石に加封され禄高取り藩医に昇任したのを機に父祖名朴庵を襲名した。安永五年病気のため長男玄洞に家督を譲った。
 六代玄洞は安永五年九月父朴庵の死去に伴い医業相続が許され、養料として四六俵を給された。ところが、医業修行中病に罹ったので、天明元年(一七八一)父朴庵の門弟で久枝村庄屋古谷太郎左衛門の倅順迪を入籍して家督を譲り、二三歳の若さでほどなく死去した。玄洞の末期養子となった順迪は、天明五年玄洞の跡式として扶持方四人分切米二〇俵を支給された。長男正せん(にんべんに全)は早逝、二男直松は他家を継いだので、三男宣春に跡目相続を願出た。宣春は寛政五年(一七九三)八月御目見、享和三年(一八〇三)八月医学修行のため上京、文化二年(一八〇五)六月御診見習となり、七月父に代って御番入り、翌三年二月父死去に伴い家督相続、扶持一〇人分薬種料一〇俵を給せられた。文化三年江戸留守居詰、同八年以来朴庵を名乗った。文政六年(一八二三)御近習格御側医に取り立てられ、天保元年(一八三〇)には「医業志厚ク療治方深切ニ心掛候」の趣を以て扶持方五人分を加増、計一五人扶持となった。
 九代宣春は天保八年二〇歳で御診見習となり、翌九年医術修行のため京坂に遊学した。天保一四年医学上達の趣をもって召し出され、九月御番入、弘化二年(一八四五)江戸留守居詰めとなった。同三年父朴庵隠居、跡式一五人分薬種料一〇俵をもって家督を相続、朴庵を襲名した。嘉永三年(一八五〇)大槻俊斎の門に入り蘭方医学を学び、同六年九月種痘所の接種医に指名された。安政三年(一八五六)二月相続者がないので、冨永分亮の次男順承を婿養子にして賀古家を相続させた。

〈冨澤家〉元禄九年(二八九六)扶持方四人分切米一〇石で虎之間惣領に召し出された人物に冨澤伝之允と称する者がいた。伝之允は病身であったので、相勤不行届として同一四年御切米を召し上げられた。町医林道仙の調合した薬を服用した伝之允はやがて元気になり、「医道執行仁、御思立御礼御奉公相勤度」と発奮、道仙に弟子入りして名を道玄と改め、道仙の代縁として御家中町在浦方々に診療活動を続けた結果、宝永六年(一七〇九)医術をもって再登用され、一五人扶持に取り立てられた。享保年中には江戸御供を度々勤めて二〇人扶持に加増、享保一六年(一七三一)には役米三〇俵を得て給人格となった。同一九年藩主村年胸痛の時には師林道仙の助力を得て御薬調剤、無事快癒させて褒美を受けた。
 冨澤家を継いだ道龍は、林道仙の嫡子で杏仙と称していたが、元文四年(一七三九)養子入籍、延享三年(一七四六)相続して修行のため江戸御供、江戸で中條流婦人科を学び、さらに仙台に赴いて中目道味より婦人科の伝授を受けた。延享四年二〇人扶持取り、給人格となったが、宝暦六年(一七五六)死去した。倅杏仙は家督一五人扶持を得て懸命に医業に励んだため、弱年ながら諸方病用専ら相勤めるとして同九年御番入りを命ぜられて薬種料一〇俵を加付され、これを機に祖父名道玄を襲名した。
 安永元年(一七七二)六月道玄病死、相続者が居なかったため親類より出された猶予願が聴許され、翌安永二年医師山田寿安倅正安の養子相続が許された。同三年正安は薬種料一〇俵を支給されて長崎に医術修行、同五年帰国して正玄と改め、一五人扶持を下付された。正玄は家代々の婦人科を業とし、祖父道龍がかって学んだ仙台師家の中目道悦次男扶元が教えを乞いに宇和島に来訪したのでこれに伝授、また婦人科秘薬を調剤、その原料となる猪頭と寒馬を藩庁を通じて在方に求めたりしている。寛政三年(一七九一)御近習次席に昇格したのを機に、伊藤徳円三男を養子に延え、長崎に留学させて成長を期待したが同一〇年病死、このため大州藩士中井和平治次男玄珉を婿養子にして京坂で修行を積ませた。文化元年(一八〇四)玄珉に番代奉公が命ぜられたのを機に先祖名道龍を襲名させ、正玄は大珉と改名した。同六年大珉死去、道龍が家督相続した。道龍の子が禮中であった。

<谷口家〉谷口氏は代々小児科御番医として医業相続してきた家柄であった。祖先は元和年中京都から宇和島に移り、延享二年(一七四五)故庵(光尚)の時従前の冨永姓を谷口に改め、寛延元年(一七四八)虎之門列扶持一五人分支給に昇格した。故庵には子龍伸が居たが、京都で修行中死去、安永四年(一七七五)末期願で大州浪人戸田九郎治弟丈悦が婿養子に入り医業相続、京都で修行の後、安永九年家督一五人扶持継承が認められ、丈悦は故庵を襲名した。文化五年(一八〇八)故庵は隠居して倅宗仙が家督相続、名を泰庵と改めた。文政一〇年(一八二七)泰庵病死の後、倅泰元が古庵と改名して、翌一一年家督一五人分相続を許された。泰元名は子が継ぎ、嘉永元年(一八四八)江戸の伊東玄朴に入門して蘭医学を修行、安政四年(一八五七)父古庵の死去に伴い跡目相続、八月種痘医に任じられ、同六年祖父の名泰庵を襲名した。この泰庵が谷口長雄の養父で、文久二年(一八六二)薬種料一〇俵を加付され、慶応三年(一八六七)には長崎に赴きボードウインに学んだ。
 以上、『嘉永四年改分限帳』を土台にして、山内家以一二の門閥医家を略述した。医家は医療をもって奉公するだけに技術習得研さんが義務づけられ、父健在の時に子息は京都・大阪・江戸・長崎などの良師について修行に励まねばならなかった。父死去あるいは隠居によって後継者は門跡を継ぐことになるが、直ちには家督相続は許されず、養育料で見習詰めとなり藩主の御脈拝診など技術水準を試された後、家督の知行高相続が認められた。したがって後継者選びとその修行には各家とも意を用い実子であっても医業にそぐわない者はこれを離縁し実子のない場合を含めて他の医家や他藩の医家などから子弟を養子に求めた。長い間には、二〇〇石取りの門閥医家村尾家のように当主が急死して相続者が居ないままに断絶する医家もいくつか見られた。また同じく六代続いた二〇〇石取りの名家冨田家のように相続者が医業不如意のままに還俗するか、谷家のように一族の医者に分知させて医家の命脈を保つ場合もあった。医家が相続に苦労した背景には、次の宇和島藩「御掟書」(文久三年三月二七日付再告)があり、とりわけ町医からの召し出しは世襲相続ではないことを明言している。

     御 掟 書
 一、文武医術都て業有之家筋並業を以御取立又ハ被召出候輩、其子ニ至候ても業御用ニ相立候様無油断可為致修業候、若不鍛練ニ於てハ相続可相成養子可相願候、萬一不得止実子相続侯ハヽ格禄減少等を以て相続可被仰付候、尤御取立之者御取立以前へ可被相帰事、
一、諸芸其業を以新ニ被召出候者有之、悴ニ至リ其業不相達候ハヽ跡断絶可被仰付事、

 大洲藩

 寛保二年(一七四二)の「御家中役職部類」(『大洲秘録』所収)などによると、大洲の藩医は次のようであった。

 ○寛保二年
 二〇〇石松野退庵 一〇〇石五人分山本立宅 一〇〇石菊山玄溪 一〇〇石水野玄寿 一〇〇石稲岡正順 三〇人扶持中川宗寿 一五人扶持中川玄順 一五人扶持江戸遠山東安 一五人扶持江戸福与長順 五人分一五石眼科中小姓竹内圓随 一五人扶持一五石御替地中小姓東祐元 四人分一五石外科中小姓鎌田良球 三人扶持一二石針療中小姓渡辺宗隣 四人分一五石長浜高見心硯 三人扶持一二石徒士小姓医者岡島道硯 二人扶持外科坊主格松岡泉悦 三人扶持四石忽那島医師小姓格氏家半入

 このうち、中川宗寿は延享元年(一七四四)一五〇石の知行取・奥医師に昇格した。大洲藩では、藩主とその家族の診療に当たる医師を奥御医師といい、給人診療には表医師(または御番医)、中小姓診療には中小姓医師、徒小姓以下には徒小姓医師が、各々区別して担当した。奥医師は原則として一〇〇石以上の知行取であったようである。文久三年(一八六三)一〇月の『加藤遠江守臣下分限帳』には、奥医師として中川純禎(一五〇石)・樫野栄濤・菊山玄溪・馬島牧庵(各一〇〇石)らが名を連ねている。大洲の医家では、鎌田家が著名である。

〈鎌田家〉鎌田家の先祖は九州の浪人で鎌田次郎右衛門といい、喜多郡八多喜村で農業に従っていた。嗣子良球政信は、蘭医河口良庵について医学を修め正徳年間(一七一一~一五)藩に召し抱えられた。二代良球清信は父の医道を受け外科相勤め、藩主泰温の代に中小姓四人扶持一五石に召し直された。清信は、享保七年(一七二二)父の系統であるカスパル門流の伊良子道牛に入門して外科の研さんを重ねた。
 三代良球廣郷は、清信の実の子で父に流儀を受け、延享元年(一七四四)跡式三人扶持一〇石を与えられ、泰みち(ぎょうにんべんに令、ちょく)の時代に四人扶持一五石となった。泰候の時代、安永元年には「医術出精仕候ニ付」給人格となり、天明六年(一七八六)に一五人扶持を給された。
 四代良球信篤は、大洲家中高橋藤右衛門の次男で鎌田家に養子に入り、養父からカスパル流外科を習得、寛政元年(一七八九)跡式一五人扶持を相続した。信篤は、同三年藩主泰済の許しを得て伊良子道牛の孫光顕に入門して技を磨いた。五代良覚守経は寛政九年(一七九七)相続、六代良珉信郷は養子入籍、文化五年(一八〇八)跡式一〇人扶持を相続した。七代良球守篤は文政八年(一八二五)華岡青洲に入門、蘭方医の修行に励んだ。八代良球良篤は一〇人扶持の藩医として仕え維新を迎えた。
 鎌田良球家と本家分家の関係に当たるのが鎌田玄台家であった。良球家初代政信の長男政基は当時家業であった農業を継いで八多喜に定住した。その曽孫玄閑清澄は幼くして父母を失い、良球方で養育され医術を学んで町医になった。その長女タミの婿となったのが玄台明澄であった。讃岐の尾関左膳に医術を学び、やがて杉田玄白に入門して蘭医学を修行した。寛政元年(一七八九)藩は玄台を徒小姓身分で召し出して三人扶持八石を給し、後に二石を加増した。玄台明澄の長男が名医玄台正澄であった。

 今治藩

 延宝二年(一六七四)六月改『今治藩分限帳』(資近世上三八四)と嘉永四年(一八五一)分限録から医師と明記されている人物を抜き出すと次のようである。

 ○延宝二年
  一〇〇石一〇人扶持松原壽庵 五〇石五人扶持西村宗純 二〇石五人扶持松本昌庵 二〇石五人扶持中村道設 一五石五人扶持石川道軒 一五石三人扶持友部三清 一二石三人扶持外科福井徳元
 ○寛政二年
  江戸定府給人中小姓徒格
  一〇〇石高橋雲雪 一〇〇石和田済安 一〇〇石林玄與
  給人格
  一五石三人扶持中村玄悦 一三石三人扶持外科滝山保
  定番中小姓
  一〇石三人扶持外科加藤玄昌 一〇石三人扶持針師東条仙庵 一〇石三人扶持針師渡辺嘉仲 一〇石三人扶持針師永野玄安 九石三人扶持田窪周安
 ○寛永四年
  給人医師
  一二〇石本科定府和田貞珉 一〇〇石本科定府林玄順 一〇〇石本科定府中村自仙 一〇〇石本科半井梧菴 一五人扶持外科池山龍勢
  給人席医師
  一一石三人扶持針治定府小山玄亮 九人扶持本科外科星野良沢
  無足医師
  一一石三人扶持本科屋住中村良是 一一石三人扶持本科針治高橋春章 一〇石三人扶持針治大久保昭庵 一〇石三人扶持本科外科鉢治菅周庵 一〇石三人扶持本科針治河野玄碩 一〇石三人扶持本科外科滝山祐精

 延宝二年の医師数が少ないのは給人医師のみに限定しているからであろう。今治藩の門閥医家は和田・林・中村氏などであるが、いずれも江戸在府の医家である。幕末、著名な医人である半井梧菴の家系についてみると、半井家が今治藩に医官として召し抱えられるのは延享年間(一七四四~四八)で、俸禄一〇〇石取りの給人医師になるのは天明四年(一七八四)梧菴の祖父元易の時からである。また今治に種痘を導入する菅周庵の家は大三島の祠官であったが、初代周庵が医師として登用されるのは天明年間(一七八〇年代)である。
 なお、『今治藩庁日誌』明治三年二月一七日付によると、上医兼任半井忠見(梧菴)、上医中村良昱・池山元澄・河野亮弼・滝山保、中医村上又玄・大森章輔、小医楠岡安節・重松栄順・藤田小市郎(宇摩郡詰め)・山本松白の格付となっている。

吉田藩

 宇和島藩分知に際し家臣数十名が吉田藩に移ったが、医師では鳥井宗玄(六人分三〇石)、牛岡休宅(八人分三〇石)、大森寿閑(六人分)が藩医に任じた。安政四年(一八五七)の分限帳には次の医師がある。

 ○安政四年
  元締格御医師一三人分本間游清 一三人分河野立安 一二人分岩田周達 一二人分三和元溪 一〇人分河村祐庵 一〇人分岡田瑞仙 給人格三人分西田耕雲

 このうち、本間游清は国学者・歌人として知られ、岩田周達は「能く視能く療する事神の如し」といわれるほどの名医であったという。

 小松藩

 文化五年(一八〇八)改め『小松藩分限録』には、四人の医師が名を連ね、俸禄の外に若干の薬種料が給されていた。

 ○文化五年
  一五石三人扶持瀬川良庵 一二石三人扶持宮田隆庵 一二石三人扶持永野昌伯 三石三人扶持飯塚外記

 『小松藩御家中旅用御定』によると、医師の供揃えは「金三両、手入一人、借人足軽一人、長刀持一人、薬箱持一人」と定めていた。小松藩の場合一万石の小藩であったから、藩医の薬種料などもしばしば削減されており領民治療の副収入で生計を維持したようである。

 〈永野家>永野家の祖先は小松領内の大頭村に住居して農業を営んでおり、かなりの豪家として知られていたようである。長右衛門(通貫)の代となって住居を北川村に移した。通貫には男子二人があり、兄通倫(善助)が家業を継ぎ、弟の通昌(寿三)が医術を学んで業としたが、兄が病没したので家督を相続した。享保元年(一七一六)小松藩主蝶庵駿府御加番に際し供を仰せつかるなど藩医格として扶持米若干を受けた。
 第二代芳通(昌庵)は通昌の死直前家督を相続、やがて北川村を離れて長野村に行者ここで医業に徒事した。芳通は藩の侍医として正式に登用されたが、民間医としても引き続き活躍していた。藩医召し出しを機に藩主頼邦から永野の姓を賜った。三代通音(昌庵)は藩医・民間医を兼ねて駿府御加番の御供に加わったりしている。四代通政(昌伯)の時、寛政年間(一七九〇年代)小松に屋敷地を賜って移り住み、一二石三人扶持御側医師の対面を保った。文政元年(一八一八)江戸詰めとなり、やがて江戸で病死した。これより先の文化一二年(一八一五)江戸在勤中の通一(昌察)が早逝していたので、通政の跡目は次男通粛(寿仙)が継いだ。
 七代通規(春沢)は通粛の長男、天保七年(一八三六)京都の竹中秀四郎門に入り内科・外科・産科を修行した。翌八年帰郷、同一五年二月御番医となり、嘉永三年(一八五〇)三月御側医に昇進、翌四年江戸詰めとなり「初産治験録」を編さんしたりしたが、嘉永五年一二月三四歳の若さで病没した。通規の嗣子龍之助は未だ幼少であったので、未弟通頴が養子となって家督相続、京阪で医術修行中安政五年(一八五八)七月病没した。このため、今治藩士青山左衛門の厄介で医業心得のある広島藩士の次男が養子に迎えられて通愷(良節)と称し、安政六年八月中小姓格待医となった。明治元年(一八六八)二月出精相勤の故をもって扶持米・薬種料などを加増され、同年六月の北越征伐に軍医として参加したりしている。この良節の庇護の下で、医師として成長したのが永野家の嗣子龍之助改め通久(良準)であった。