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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 医師と医育

医人伝

 江戸時代・明治維新期の伊予の〝医人″たちは、医学の発展に尽くした名医、医業以外の文化史上に足跡を残した人物など様々の生き方をしている。それらを代表する人物を挙げよう。

〈永井権中〉各藩の『家中分限録』に登禄されて姓名の判明する藩医の外に、民間で名医として語り伝えられている医者も少なくない。松山三津浜の永井権中もその一人で、伝説的な逸話がいろいろ残っている。
 ある時田の草取りに出ていた農民がにわかに腹痛・発熱した。権中が診察して、患者にどこで罹患したかと尋ねた。農夫は田の草取り中にわかに発病したと答えると、権中は茶袋を出させ庭に出て、何かを入れ飲ませると、たちまち痛みが去り、やがて平癒した。人々が使用した薬を尋ねたところ、日中田圃で起こったと聞いたので蛭が飲用水の中に居たものと思い試みに塩を用いた。果して蛭だったらしく、速やかに癒ったのは幸いだったと答えた。またある人の左の脇腹に大きな腫物が出来て非常に痛んだ。権中はこれを診て、この腫物は恐れるに足らないけれども、右の脇腹に出るかも知れず、これが恐ろしいと言った。病人は右の脇腹を気にして、左の痛みを忘れてしまった。程なく腫物は治癒し右側に出ることもなかった。権中の診療に巧みであったことを示す代表的な説話である。晩年は松山城下江戸屋茂右衛門の家に寄食、腸胃治療の妙薬を創製してこれを〝寛順圓″と名付け、その処方を茂右衛門に授けた。その薬はおおいに好評を得、江戸茂薬とも呼ばれて盛んに製薬発売された。権中は宝暦一二年(一七六二)一二月病没した。

〈青地林宗〉藩医の家に生まれながら藩を離れて江戸で活躍した人物もいた。杉田玄白の高弟で『和蘭医事問答』編纂者の一人である安東其馨(子蘭)は松山藩医の出であるというが、その出自については不明な点が多い。
 日本最初の物理学書『気海観瀾』を公表して本邦物理学の祖といわれる青地林宗は、松山藩医青地快庵の子として安永四年(一七七五)松山に生まれた。はじめ家業の漢方医学を修めたが、のち蘭学を志し杉田玄自らに師事したといわれる。文化二年(一八〇五)長崎探題であった松山藩主松平定国は、前年のロシア人レザノフ来航に接し蘭学の必要性を悟って林宗を登用しようとしたが、林宗は「此学術を以て国家に利益せんと欲す、今本職に就くハ多年の所志に相違す」と述べて退身を求め、長崎に遊学して研修を積み再び江戸に出て町医師となった。しかし医業には専念せず、清貧に甘んじて天文学・物理学の研究に没頭、天文台の訳官馬場佐十郎や杉田玄卿・宇田川玄真の指導を受けた。文政五年(一八二二)幕府天文台訳官となり蘭書の翻訳に従事、ゴローニン著『日本幽囚記』の訳書『遭厄日本紀事』を完成し、続いて『万国地志』『輿地誌』六五巻、『輿地志略』七巻を訳述した。文政一〇年ボイスの『一般物理教本』に拠って『気海観瀾』を刊行した。医学関係では『依氏薬性論』『詞倫産科書』『医学集成』『公民内科書』などの訳書があり、『厚生新編和解』の仕事にも参加した。天保三年(一八三二)徳川斉昭の要請で水戸藩に招かれ、西学都講を兼ねて訳業に従事した。斉昭は「町医師青地林宗者天文御用も相勤蘭学者にては日本一之由」と書簡で記述するほど林宗を評価していたが、水戸藩出仕一年にして翌天保四年二月に江戸で没した。

〈本間游清〉本業の医師としてよりも余技で名をなした人物に本間游清や山本雲溪らがいる。
 本間游清は安永五年(一七七六)吉田に生まれた。家業の医術修行のかたから、漢学を古屋昔陽、国学を村田春海に学び、村田門の高弟として知られるようになった。やがて藩主伊達村芳の御側医として江戸詰め、天保二年(一八三一)二月夫人満喜子の和歌の師匠となり、元締格御医師として一三人扶持に加えて歌人として二人扶持を受けた。歌人として加増されたとき、「わたくしにくすしの道をよそにすと思ひたがへて人な咎めそ」と医業以外の登用への風評を大変気にしている。実際には医学・本草学にも熱心に研究を重ね、『眠雲医説』五冊、『品物和名類纂』三二巻、『品物雑抄』『動植和訓古義』などの著書がある。嘉永三年(一八五〇)八月江戸で没した。

〈山本雲溪〉山本雲溪は、安永八年(一七七九)越智郡大井村庄屋の家に生まれ、天明三年(一七八三)父母に従って今治風早町に移住した。大坂に遊学して小児科医として修行するかたわら円山派の森狙仙に画技を学んだ。帰国後は今治藩医として勤務、嘉永六年(一八五三)八月には小松藩主一柳頼紹の次男で昨年誕生したばかりの範次郎が重態で、衆議の結果雲溪を迎えることになった。『小松藩会所日記』八月二五日の条には、「今治市中に罷在候山本雲溪小児療治至て巧者の趣、同人彼方御上伺御治療迄も仕居候趣、拝診仰付けられ然る可きと申合せ相伺候処、早々申遣候様との御沙汰に付、伊織(家老喜多川)より彼藩親類御家老鈴木左脇方追頼遣す、先方承知(中略)雲溪若党御足軽壱人駕籠四八薬箱持壱人、夕七時ヨリ出立相成」とある。この時は雲溪の手当の甲斐もなく範次郎は死亡したが、翌年出生した姫順子が腫物に悩んだ折りにも往診しており、小児科医としての声望が藩内外に高かったことが察せられる。文久元年(一八六一)五月八三歳で没した。

〈鎌田玄台〉蘭方外科医としてその技術が全国に知られたのが鎌田玄台であった。玄台は寛政六年(一七九四)大洲に生まれ、幼名を清之助、通称玄閑、後に父の通称玄台を継承した。諱を正澄、桂洲と号した。幼時から父について医学を修業していたが、文化九年(一八一二)三月三〇歳の時紀州に赴き華岡青洲の門に入った。師事五年、青洲は正澄の才能を愛して桂洲の号を授け、「凡そ蘭法を奉ずるものは理に密にして法に略なり、漢法を守るものは法に精しくして跡に泥む、豈真の治を論ずべけんや、汝宣しく諸家に出入し、且つ活物窮理して独創の見を立つべし」と諭した。
 文政元年(一八一八)帰国した玄台は、藩医に任じたが、師青洲の言葉に従って広瀬淡窓・近藤篤山・帆足万里らと交り見識を広めた。玄台の得意とするところは外科手術であり、鎖陰・鎖肛・陰腔・子宮鎖閉・尿道破裂等種々の手術を施行、中でも乳岩(癌)の手術に新軌軸を生み出し、陰狐疝(陰嚢ヘルニア)の手術を初めて実施した。癌の再発については特に留意すべきことを説き、「核の散大にして凝結せざるもの」は必ず再発するから、みだりに切断してはならないと戒めた。また止血法は、「結索」及び「烙鉄」の外に、「細竹二本ニテ造レル具ヲ調べ、瘤根ヨリ乳房ノ突起肉卜共ニ挾ミ、両端ヲ縛シ其下辺ヨリニ処ノ動脈ヲ縫イ止メ、瘤端ヨリ一針縫通」すと、出血が少なくなると自己の創意を述べている。これら手術の詳細につき、症状・治療法に解剖図を加えて著述したのが『外科起廃』一〇巻であった。この本は玄台の臨床講義を門人の松岡肇(吉田藩)が筆記し、門人の羽原正翰と養子の鎌田新澄が校閲して、嘉永四年(一八五一)に発刊された。弘化三年(一八四六)三月、玄台は同僚の岩井重克と謀って死刑囚の死屍を請い受け解剖を実施した。門弟ら五〇余人が見守る中を鎌田新澄・松沢載清・樋口量春・糸川維寧・松岡公正・岩井重長らが執刀し、服部古兵衛正忠が写生した。この「解剖図」は『外科起廃』とともに大洲鎌田家に保存されていたが、現在は大洲市立博物館に寄託されている。
 玄台の名声を頼って近幾・中国・九州からも患者が来集した。玄台は患者に薬礼の請求をしたことがなく、貧しい者には無料で施療をして、医は仁術の模範を示したという。また教えを乞う医学生は伊予諸藩の子弟だけでなく、全国から馳せ参じた。
 玄台は嘉永七年(一八五四)七月六一歳で大洲で死去した。玄台には二人の娘があり、長女に大洲藩士高橋孫三郎の子新澄を配し後継とした。この新澄が四代目玄台鵬洲である。

〈半井梧菴〉医学という枠内にとどまらず、国学や神道を通して人を教化し多くの著書を残したのが半井梧菴である。
 梧菴は文化一〇年(一八一三)六月代々の今治藩医半井元誠の子として今治に生まれた。幼名を倉吉、名を忠見、通称を元美といい、梧菴はその号である。文政八年(一八二五)父が没し長男の元幹が家督を相続したが、天保五年(一八三四)嗣子がないままに死亡した。このため梧菴が家督を継ぐことになり、母と共に京都に赴き、荻野元凱の子徳輿の門に入り医術を修行、天保一〇年一月二七歳の時一三石二人扶持を給せられて今治藩医となった。同年六月藩医池山見龍の娘多満子と結婚、同一二年七月に長男元章、同一四年一二月に次男真澄、嘉永三年(一八五〇)一月三男栄が生まれた。弘化三年(一八四六)一〇〇石の知行を受け名実ともに藩医となった。梧菴の医術は漢洋を折衷して偏るところがなかったといわれるが、菅周庵を支持して今治藩ではじめて種痘を実施したことがよく知られている。
 梧菴は医業のかたわら国学・歌詞の研究に励み、安政年間には伊予の歌人の秀歌を集録した『歌格類選』『鄙の天布利』などを相次いで刊行した。またかねてから、『伊予風土記』の散逸を憂え、伊予国各地を精力的に探訪して慶応二年(一八六六)『愛媛面影』の原稿を完成した。明治元年(一八六八)には藩校克明館の助教となり、皇漢学・兵法・医学を講じた。また敬神の念から神道にも関心を深め、明治六年石鎚神社の祠官となって神職を指導した。
 梧菴は医師よりも国学者として名をなすようになったので、医業は子供たちが継承維持した。長男の元章は京都の典医山本大和守の塾に入門して修行していたが、文久三年(一八六三)二三歳の若さで学業半ばで早世した。次男真澄は漢学・国学者としての道を歩んでいたが、兄の死去により医学修業、明治四年家督相続して眼科を開業したが、同八年京都護王神社の宮司に任じられたのを機に家業をなげうって今治を去った。三男栄は平野家の養子となっていたので、梧奄は今治藩医であった村上又玄の三男晋一を養子に迎え、半井家の医業を継承させた。梧菴自身も晩年は京都に転住、明治二二年一月七七歳で没した。

〈冨澤禮中〉宇和島藩では、藩主伊達宗城の蘭学奨励と医術修行庇護で多くの名医が輩出した。門閥医家出身では冨澤禮中がその代表である。
 禮中は文化八年(一八一一)五月、一五人扶持婦人科医冨澤道龍の二男に生まれた。道龍は長男龍作(享保元年一二月生まれ)を後継者に育てるために文政六年(一八二三)御伺見習に差し出した。龍作は同八年殿様の指示で浅野歓喜らと御庭で猿の解体を見事に行って父を喜ばせたが、文政一〇年七月京都での修行を終えて帰国途中高浜で病を発して死去した。このため、道龍は禮中を相続者とすべく、九月藩庁に願い出た。当時、禮中は眼病を患っていたので、「禮中眼気十分ニ之レ無キ者相続ヲ願出候儀恐入候へ共差向キ心当リシ者モ之レ無キニ付余儀無ク伺ヒ出候」といった苦しい伺いであったが、一〇月許可された。
 天保三年(一八三二)六月常盤喜右衛門娘と結婚した禮中は、同四年修行扶持二人分を得て江戸に留学、同五年帰国した。同六年五月男子元吉誕生、同一四年登用、同一五年父の死去に伴い一一月一五人扶持・薬種料一〇俵で家督相続した。弘化三年(一八四六)江戸詰めとなった禮中は、一〇月伊東玄朴門に入り蘭方医術の会得に励んだ。翌四年二月八日師伊東玄朴と共に宗城の妹正姫に宇和島藩初めての種痘を施し、嘉永元年(一八四八)五月藩主宗城から蘭方医術の志厚いとして、「一昨年伊東玄朴へ入門蘭方医術修行申付候処、此度参着後玄朴より承候ヘハ至テ志厚ク出精療治方格別上達セシメ候旨ノ承知セラレ、此方存意貫徹致シ一段ノ儀満足二存候」といったお褒めの言葉を載き、評判の下熱剤〝キナエン(キニーネ)″一器を贈られた。また、翌嘉永二年一一月玄朴門を退去するに当たり、師から牛痘痂と種痘針を贈られ、種痘方法についての懇切な指示を受けた。
 禮中は、この時期破牢後逃避行を続ける高野長英(伊東瑞溪)を宗城の命で宇和島に伴った。嘉永元年二月七日に命を受けた禮中は、三〇日伊東瑞溪と同伴して江戸出立、四月二日宇和島に着いた。長英は嘉永二年春この地を去るまで藩の庇護の下蘭書翻訳と谷依中・大野昌三郎らの蘭学指導に当たるが、禮中は長英を送った後直ちに江戸に引き返した。
 嘉永三年禮中は大珉と改名、同五年二月砂澤杏雲と共に種痘医を命じられたけれども、生来の眼病を理由に安政四年(一八五七)種痘医を辞した。この間、倅元吉は松庵と改名、大坂の緒方洪庵塾に学び、安政五年番代奉公を命ぜられた。文久三年(一八六三)大珉は眼病難儀に付隠居願を提出した。藩庁はこれを許し扶持方三人分を支給し、家督を松庵に相続させた。明治六年(一八七三)二月禮中(大珉)は六二歳で死去した。

〈二宮敬作〉シーボルトの高弟として著名な蘭方医二宮敬作は、文化元年(一八〇四)に西宇和郡磯津村の半農半商の家に生まれた。文政二年(一八一九)猛烈な好学心でもって長崎に行き、通辞の吉雄塾でオランダ語を学び、ついで美馬順三について蘭医学を研究した。文政六年師順三とともにシーボルトの鳴滝塾に入るが、「伊予の芋敬」と仇名されたように地位も低く学資も十分でないため、シーボルトから給費を受けて下請けの仕事もした。これを通じて、敬作の篤実さがシーボルトの信頼を得、同九年江戸参府の際従者に加えられた。文政一一年敬作はシーボルト事件に連座して翌年六月まで投獄され、さらにシーボルト国外撤去処分とともに長崎から追放されたので、天保元年(一八三〇)一月に故郷の磯津村に戻り、やがて西イワ子と結婚し、長男逸二が生まれた。天保四年敬作は宇和島藩に登用され御合力米五俵を受けることになったが、同藩では刑余謹慎の身である敬作を宇和島に置くことを憚り、卯之町で開業させて時々宇和島に呼び出して蘭書翻訳などを命じた。弘化二年(一八四五)七月には「医業相励療治方実意ニ出精致シ」ているとして帯刀を認めた。
 卯之町にあって敬作は開業のかたから、光教寺に薬草園を設けて諸種の薬草を栽培して投薬に用い医家にも分与した。また甥の三瀬周三をはじめ蘭医学や蘭学を志す若者を教導するとともに、シーボルトに託された伊篤を卯之町に連れ帰り産科を教えた。敬作はまた鳴滝塾の旧友高野長英の宇和島潜伏を斡旋し、探索の眼が厳しくなって宇和島を逃れた長英を一時卯之町の邸内離れ屋にかくまった。嘉永六年(一八五三)村田蔵六の宇和島藩出仕も、『鶴鳴餘韻』に「蘭人シーボルトの高弟たる二宮敬作の名を聞き遥々宇和島に尋ね来り……」とあるように、敬作の名声が蔵六の招聘に少なからず影響していた。蔵六と親交を深めた敬作は、甥周三と長崎で産科医を開業中で折から宇和島を訪ねていた楠本伊篤(伊称)を蔵六に学ばせた。この頃、敬作は脳溢血の後遺症で運動障害(中風)が残っていたが、嘉永五年二月宇和島城下に種痘所が設けられたのに伴い、藩命で卯之町近郷の種痘に従事した。
 安政三年(一八五六)三月、師シーボルトの日本来訪の報に接し、三瀬周三を連れて長崎に赴き、銅座町の楠本伊篤方で開業した。同六年七月シーボルトが再び長崎に現れ、三十数年ぶりに師弟感激の対面を果たした。シーボルトは幕府の外交顧問の地位に就くため江戸に赴くことになった。敬作も帯同東上するつもりであったが、再び襲った脳溢血の発作のため長崎に留まり、周三をシーボルトに付けた。文久二年(一八六二)三月敬作は長崎で死去した。子逸二は、高野長英宇和島潜伏の際学僕となって身辺を世話し、嘉永七年(一八五四)からは緒方洪庵の適塾に学んで蘭学者としての将来が期待されたが、敬作の死と同じ年の文久二年七月長崎で急死した。

〈多々羅杏隠〉学識がありながら生涯市井にあって名利を追わず清貧に甘んじた医者に多々羅杏隠がいる。杏隠は、文化一〇年(一八一三)周布郡三津屋村に生まれた。幼時から学問を好み、小松藩の近藤篤山門に入って漢学を学び、その後大坂に出て医学を修得した。
 弘化三年(一八四六)宇和郡三瓶村に来て医業に従事した。三瓶の庄屋宇都宮氏は杏隠が和漢の学に通じ人物の優れているのを敬慕し医業のかたわら私塾での子弟教育を依頼した。宇和島藩主伊達宗城は、杏隠の名声を聞き藩校明倫館教官に招こうとしたが、「地震にも動かぬこゝろ薬函、身の一生は藪に呉竹」の短歌一首を示して謝絶したという。「いも食ふて屁たれ世帯の気らくさよ、腹は張れども気は張らぬかな」と、杏隠は当時の生活を風詠している。三瓶地方の種痘の普及にも力を尽くし、晩年は請われるままに宇和郡三浦村の医者となり、明治二三年一月この地で没した。

〈志賀天民〉苦学して蘭方医術を会得、電気療法で評判となり、藩医に登用されたのが志賀天民(布清恭)であった。
 天民は文政七年(一八二四)、宇和郡近永村の農民俊吾の長男として生まれた。天保五年(一八三四)一一歳の時医学修行の志をたてて宇和島城下に出、藩士中井九郎右衛門の屋敷に小者として住み込み、ほどなく吉田藩侍医三和玄溪の書生となった。大坂・京都・長崎にも遊学し、長崎では通訳名村定五郎について蘭学を学び、二二歳の時紀州華岡青洲に入門したといわれるが、天民の遊学は身分上門人として入門したというよりも下男として各地に住み込みほぼ独学で蘭学・医学の知識を得たのであろう。
 弘化四年(一八四七)二五歳の時宇和島に帰り、恵美須町で蘭方医を開業した。嘉永二年(一八四九)結婚して裡町に移り町医を続けたが、同四年長男雷山誕生を機に再び長崎に留学して約二年間蘭学を研究、同六年帰国した。安政二年(一八五五)長崎に輸入された医療用新式エレクトルの購入使用を藩庁に願い出て翌三年一月許可された。天民は長崎に赴き吉雄敬斎と蘭医ハンデルブリュックについて電気の医療的応用ならびに使用法について学び、電気機械を三〇両で購入して持ち帰った。
 すでに医者としての技能を評価されていた天民は、安政二年一月に藩から合力米五俵を扶持されて帯刀を許され、五月には種痘の施術を許可された。安政五年戸島にコレラが流行した時には療治を命ぜられたが出向しなかったので咎めを受けた。翌六年三机浦のコレラ流行に際しては率先して防疫に従事、コレラに関する著述『救気懼心』を藩主に献上して、名誉回復した。
 万延元年(一八六〇)一月御目見医師に登用されて苗字布姓を許され、文久二年(一八六二)中之間列御扶持米四人分一〇俵取りとなったのを機に、これまで清恭と名乗っていたのを天民と改めた。翌文久三年医業心掛出精に付虎之門列の旗本組に加えられ、二〇俵に加増、元治元年(一八六四)八月には藩の長洲出兵に従軍して薬種料を与えられた。この年、倅雷山は修行扶持二人分で江戸伊東玄朴門での留学が認められ、三省と改名した。
 布天民は、慶応三年(一八六七)姓を志賀と改めた。維新後、明治三年(一八七〇)軍医として東京詰となり、やがて長野県上田病院長に転じ、同九年四月東京で逝去した。

〈三瀬諸淵〉幕末、維新、日本の夜明けに辛酸をなめた洋学者・医師が三瀬諸淵である。諸淵は天保一〇年(一八三九)一〇月大洲中町の塩問屋に生まれた。幼名辨次郎、長じて周三と称した。母が二宮敬作の姉であった縁で、安政二年(一八五五)以後叔父敬作について蘭学を学び、村田蔵六にも教えを受けた。安政三年敬作に同行して長崎に赴き、楠本伊篤の所に寄寓して研讃を重ねた。同六年シーボルト再来、周三は彼の息子アレキサンデルに日本語を教えるため『日蘭英仏対訳辞典』を編集した。
 文久元年(一八六一)三月シーボルトに随行して江戸に行き、赤羽根接遇所で私設通訳を務めた。一〇月、シーボルトは幕府顧問を解雇、秘密がもれるのを恐れた幕府は、外交機密に関与した周三を、町人の分際で三瀬と名乗り資格もないのに帯刀していたとの理由で獄につないだ。周三逮捕当初、シーボルトと二宮敬作は懸命に釈放運動を試みたが、シーボルト帰国、敬作死去でその道が絶たれ、大洲・宇和島両藩ともに救済の手を差し伸べなかった。このため佃島獄での入牢四年近くにおよんだ。獄中で周三は苦役のかたわら英書・蘭書を翻訳し、囚人の保健衛生改善にも努めた。慶応元年(一八六五)八月伊達宗城の尽力でようやく出獄が許され、大洲で静養の後、一一月宇和島藩に出仕、翌慶応二年三月楠本伊篤の娘高子と結婚した。この年、宇和島藩は英蘭学稽古所を設立して周三がその教授に当たることになり、また六月、イギリス公使パークスの宇和島入港の際通訳に従事した。
 明治元年(一八六八)五月、大阪に医学校・病院が開設されると、周三は前年来長崎で親交をもった蘭医ボードウィンや緒方洪庵の子惟準とともに教授に当たり、同二年九月同病院でボードウィンの手術を受けた旧師村田蔵六(大村益次郎)を必死に看護したけれども、一一月蔵六は死去した。周三は、文部省大助教などを務めた後、明治九年大阪病院一等医となって後進の指導に当たるうちに、同一〇年一〇月三九歳の若さで病没した。

<谷世範〉門閥医家谷家に望まれて相続者となり、維新の地方医育・医療の先駆者として活躍したのが谷世範(岡村松鶴)であった。
 世範(諒亭)は、天保一一年(一八四〇)三月南宇和郡平城村で生まれた。父は土佐宿毛の山本文碩、母は岡村氏の出であった。五歳の時父を失い困窮したが、母方の叔父岡村松軒の下で医術修行、一八歳の時砂澤杏雲の門に入って蘭医学に触れ、やがて杏雲に従って江戸に赴き、竹内玄同に蘭学を学んだ。慶応元年(一八六五)二月、岡村松鶴と名乗った諒亭は、「医術為修行御当地江罷越養生所江入門仕候間蘭医ボードウィン診療等見習様且伝習席江モ罷出候儀御免被仰付被下度奉願上候」と長崎留学を願い出て許された。長崎留学中、後継者に窮していた藩医谷快堂から養子縁組の申し込みがあり、慶応二年一〇月帰国と同時に谷家に入籍、御扶持方三人分で藩に召し出された。一二月には種痘医を命ぜられ、明治元年二月には箱館出兵の軍医として従軍した。
 維新後、谷世範は明治四年一月宇和島藩医学校、病院設立に伴い医学教授となり、講義・診療に従事した。明治六年五月から一二月まで長崎に再遊、同七年一月から一〇月まで大阪病院で研究を重ねた後、愛媛県から松山病院設立を託されて帰県、病院設立後直医として勤務した。明治八年一〇月有志の懇望により私立病院を開設、かたわら医学塾を開いて医師志望者を導いた。明治三〇年医業を長男泰吉に譲って隠居し、大正七年一一月八幡浜で死亡した。

〈谷口長雄〉明治二九年熊本医学校の初代校長として医育面で活躍した谷口長雄は、慶応元年四月宇和島藩の上士告森周蔵(桑園)の三男として生まれ、明治一一年一四歳の時藩医谷口家に養子に迎えられ、豊前中津の福沢塾、松山変則中学校に学んだ後、明治一三年上京、独逸語学校を経て東京帝国大学予科に入り、明治二三年卒業。翌年故郷愛媛県の県立松山病院副院長となり外科手術など近代医学を導入した。明治二八年熊本県立病院長となり、同志らと翌二九年熊本医学校を創設して校長に推され、医学教育の発展に尽くし名校長として尊敬された。明治三五年ドイツに留学してベルリン大学で内科学・動物学を研究、帰国後、風土病肺ジストマ・フィラリア症の究明に従事して、明治三九年医学博士になった。大正九年九月熊本で死去した。

〈永野良準〉小松の門閥医家出身の永野良準は、官費留学・松山医学所で学び、生涯地元で医療活動を続けた。良準(通久)は嘉永五年(一八五二)四月に生まれた。幼名龍之助。慶応元年(一八六五)一七歳の時今治藩医半井忠見(梧菴)に医術を学んだが、維新の新しい時代に即応して英語の必要性を痛感、明治三年一二月小松藩の貢進生として東京大学南校に入り英正則学を修得明治六年同校を卒業した。この間、廃藩置県のため藩費が途絶えたので、「私儀是迄官費ヲ以テ修業仕居候処御県地へ御引合中ニ付当月月俸御渡下サレ候義相成難ク、甚タ以テ学費差支困却仕侯間、右ノ事件御確定相成候迄金拾円拝借仰付ナサレラレ候様御執成下サレ度、此度偏ニ願上奉り候也」と、石鉄県当局に借金を申し込み、苦学している。
 明治七年八月、松山公立病院に収養館医学所が設立されると同校に入学、太田雄寧・本多公敏に従って理化学・解剖学・生理学・薬剤学・病理学ならびに内科学・外科学などを習得した。
 明治八年一月より松山病院収養館に奉職、英学教授手伝を経て薬局掛・看護長となり、同一一年四月直医補助を拝命した。同一二年三月内務省医術開業試験に合格、六月同院四等直医心得、同一三年一月四等直医を歴任、二月松山病院を辞して小松に帰り開業した。小松では、周布桑村郡医・衛生委員・地方徴兵医員などを委嘱されて地域医療活動に従事した。明治三五年八月、コレラの患家で治療中に感染、死亡した。

 医術修業

 門閥医家は子弟を医業相続させるために江戸や京坂に修業に派遣、藩庁もこれを支援した。中でも宇和島藩は医師後継者の遊学も最も積極的に促進した。同藩では、五代藩主伊達村候が元文二年(一七三七)、「本道(内科)、外科、小児、眼医、右悴共修行の為父望次第、年若の内は他所へ勝手次第差出専ら修業致す可く候、修行の内親家督の義も之れ有る時は早速召帰り親家督相違無く下置かれ可く候、親掛の内年若にても心掛宣布、療治も致候様子にては、別段に悴召し出され候義も之れ有る可く候、親掛にては他所へ修業に差出候節は悴修業の内二人扶持下置られ可き事」といった給費制度を設けて医術修業を奨励した。以来同藩侍医の子弟は医術修行の後召し出し、相続を常とするようになり、宗紀の治世の文政年代に入ると蘭方医としての西洋医学の知識を求めて遊学はますます盛んになった。宗紀・宗城の開明君主の下文政七年(一八二四)以降延ベ一〇〇名に近い藩外留学生を江戸・京坂・長崎に送り出している。藩庁はこれら修業生に扶持米二人分を支給するとともに嘉永三年(一八五〇)一二月以後師礼金一〇〇疋ずつを立て替えている。
 弘化・嘉永年間(一八四四~五三)の一〇年間における藩医子弟の医術修業の動きを例示すると、弘化二年四月砂澤中安の倅杏雲が京摂へ出、同三年四月には谷了閑倅依中が父に連れられて江戸に行き、一〇月には冨澤禮中が伊東玄朴門に入り、一二月大洲で修行中の松澤義安倅玄折が帰国した。弘化四年二月、谷依中が京摂に赴き、谷口古庵倅泰元は松山・大洲に行き、松澤玄折が大坂に旅立ち、三月には松本益庵倅文哉の京坂留学願が聴許され、この年渡辺玄泰は江戸で修業に励んだ。嘉永元年一月砂澤杏雲は江戸伊東玄朴門での修業を命ぜられ、二月には京摂留学中の松澤玄折にも江戸行き玄朴入門が許された。出府中の冨澤禮中が高野長英を密かに国元に連れ帰ったのはこの年四月であった。五月には谷依中伯父快堂が京坂での医術修業を終え帰国、谷家の相続問題が起こり、同月冨澤禮中が蘭方医術志厚しとして宗城から〝キニーネ″を贈られた。一一月には砂滓杏雲が衣服新調代として一〇両の取替えを申し出ている。喜永二年には松澤玄折が帰国、同四年砂澤杏雲が帰国、谷口泰元が京摂に出立した。嘉永五年二月種痘所が設けられて冨澤禮中と砂澤杏雲が接種医を命じられ、翌六年九月には前年に伊東玄朴門での修業を終えて帰国した谷快堂・賀古朴庵が種痘医に加わり、同じく玄朴門の松澤玄折が手伝いとして参加した。またこの年二月には緒方洪庵の適塾で修業中の林道仙倅玄仲が帰国した。
 このように一〇年間だけでも修業生の目まぐるしい往来が見られる。彼らが目指すところは高名な蘭方医の塾であり、宇和島藩の場合、伊東玄朴門一三人(冨澤禮中・砂澤杏雲・松本文哉・谷口泰元・谷快堂・賀古朴庵・松澤玄折など)、緒方洪庵門一〇人(林玄沖・冨永習益・冨澤松庵・二宮逸二など)、鎌田玄台門一〇人(矢野杏仙など)、華岡青洲門五人(布清恭など)、土生玄碩門一人を数え、外に二宮敬作・三瀬周三のシーボルト系統や谷口長雄の養父泰庵・岡村松鶴(谷世範)らのボードウィン系統がある。
 華岡青洲・鎌田玄台・伊東玄朴・緒方洪庵らの高名な蘭方医に入門した伊予諸藩修業生の数を表示すると表1―2のようになる。華岡青洲門には、大洲の鎌田玄台のほか、松山の天岸椒玄・明星態碩・望月秉介らの藩医が『春林軒門人録』に名を列らね、西條藩は紀州宗家の関係で木村右膳・矢野快庵・西原玄圭・近藤荒安・都築貞輔など化政期に入門した修業者名が見られる。『適々斎塾姓名録』には、嘉永・安政年間の宇和島藩入門者に先立つ弘化年間に松山の大内貞介、今治の山本良迪・菅謙造・今岡良伯、西条の木村淳碩、大洲の岡部玄章らの名がある。鎌田玄台門は、石田純斎・松田杏庵・大野文昌・岡部達三・藤井道逸・豊田玄省・服部玄琢・音地松庵・後藤玄良・高橋太仲ら地元大洲の医師のほか、宇和島の谷口泰庵、吉田の岡田春台、松山の和久周逸・松本莞爾らの藩医を含めて多くの医人が教えを求めたが、その大半は民間医(町医)であった。

 医学教育の芽ばえ

 伊予の諸藩において、洋学・医学が正式に藩校の課程の中に採用されるのは明治維新以後を待たねばならなかった。
 松山藩は、明治二年二月の藩政改革で藩学明教館内に皇学所・漢学所・洋学所・医学所などの教育機関を併置した。翌三年一〇月明教館に規則六条が制定され、教科課程を小学・普通学・国学・医学・算数学・書字学等に分けた。このうち医学は正科・変科の二科に区分され、前者では原書に基づいて翻訳などの基礎的研究に従事し、後者では訳書の趣旨を摂取してこれらを実地に及ぼすのを目標とした。正科として語数・理化・解剖・厚生・施療実験の五科の授業を受け、余科として健康・本草・毒物・裁判医・医史の五科について学ぶことになっていた。変科では理化・解剖生理・内外治療則・薬剤・治療・完験・雑科治療則などを教授した。この時期、安倍能成の父安倍義任が松山県学校準助教・医学
科専務に任じられて教授陣の一員に加わっていた。義任は広島県尾道の出身で長洲の青木周弼について蘭方医学を修め、文久元年(一八六一)安倍允任(楳翁)に養子入籍している。明治四年七月廃藩置県、翌五年四月旧明教館跡地に松山学校が開校された。この学校の学科は、皇学・洋典学・数学・医学・筆学からなり、医学が一教科として設置されていることは注目すべきであるが、医育の具体的状況はわからない。
 宇和島藩は、明治三年九月に育英機関として文武館を設立した。同館の教科課程は、皇学・漢学・洋学・兵学および武技のほかに医学が加えられ、一~三等医員が教授として配置された。明治三年の『宇和島藩庁日記』によると、一等医員に渡辺玄泰・谷快堂・松本文哉、二等医員に谷口泰庵・冨澤禮中、三等医員に志賀天民、熊崎寛哉が任命されている。ついで、一一月医学を独立させて医学寮・種痘館とし文武館の講堂を利用した。医学掛には渡辺玄泰・谷口泰庵・谷諒亭(世範)・野田律斎、種痘掛に松本文哉・冨澤松庵・熊崎寛哉らを任じた。
 明治四年六月、医学寮・種痘館は医学校日新館・附属病院に発展した。日新館は広小路に設置され、学則を見ると理学(算術)・化学解剖・生理・病理・治療・内科・外科・眼科・産科・薬剤・繃帯等の諸教
科に分かれていた。学生たるものは「一途勉学切磋」につとめ、みだりに「天下之形勢、世間ノ是非」を談じてはならない、休日以外は「校門ヲ出ルヲ免ゼス」といった校則五か条も定めていた。附属病院は向新町にあり一〇か条の規則を設け、学生の診療・調薬伝習などを規定した。同四年一二月時の職員は、一般教官九人・医学関係一一人からなり、明治四年の『宇和島藩庁日記』によると、医学教授谷口泰庵・谷世範、佐教賀古朴庵、大助業松澤潤堂、中助業能島一斎・山田杏仙、少助業熊崎寛平らが配置されている。生徒は入寮の者一六人・通学生八人の合計二四人であった。日新館は神山県に引継がれて県立学校・病院として経営されたが、石鉄県との合併を前に明治五年一〇月民間に払い下げられ、私立宇和島病院となった。
 吉田県は元の藩校時観堂を継承して国学・支那学・洋学・医学の教科を置いた。新谷県は明治四年七月「此度医療館旧学聞所へ御取建ニ相成、医長始生徒昼夜相詰候条病人有之節ハ同所へ診察之義相頼可申候事」と布告して医療館を設置した。『新谷藩日記』によると、石川貫齊を医長に久岡亮臺・児玉玄璞を医員に配し、「毎朝五ツ時出寮八ツ時退引ノ事」「当番之為両人宛昼夜相詰可申事」「惣テ治療中熟談之上配剤可致事」などの「医療定則」を設けている。

 町医(民間医)

 『松山町鑑』には、元禄四年(一六九一)の記録に「医師七拾三人」とあり、同七年時で「一、本道医者三捨九人 一、外科拾壱人 一、婦人方弐人 一、小児方三人 一、針立五人 一、口中医者壱人 一、目医者三人 一、馬医五人」の内訳が記されている。また天明四年(一七八四)の項では「医師 本家弐拾八人借家弐拾七人」となっている。江戸時代における松山城下町の町医者数は、五〇~七〇名の間を上下していたと推定される。
 町医のうち名医の評価を得た者は藩医に登用される場合もあり、この面で積極的であったのは宇和島藩であった。宗紀の治世の文政八年に町医進斎は死刑囚の屍体によって同藩最初の人体解剖を行って評判となったが、藩庁は文政一一年(一八二八)一二月進斎が船大工町に「内外一致和蘭眼療所」の表札を掲示することを許した。同一二年八月には冨岡村医師玄益は「業方専被相行至て親切ニ被療治村々為筋にも相成候趣相聞一段之事ニ候」として褒美に帯刀を許された。また同一三年八月には土居村医師元進が平素療治処方励行の上に今春の疱瘡流行に際し多人数の患者治療に奔走したとして矢野姓の使用が許され米二俵が与えられた
。西洋医学の導入で門閥の有無に関係なく人材登用の必要な時代になると、町医(熊崎)寛哉・(栗田)俊丈・(三好)周伯らが藩医に召し出された。三人は「医業出精」「療治専心」としてそれぞれ苗字帯刀を許され、安政二年(一八五五)三月藩主に御目見え、同五年戸島浦でのコレラ流行の時には熊崎寛哉・三好周伯が派遣されて防疫に当たった。寛哉は翌六年六月療治方親切であるとして四人分扶持一〇俵を支給された。また安政二年から三年にかけて土居村医師(矢野)杏仙・卯之町医師東亭・八代村医師(清家)牧太らに「医業出精」とか「種痘実意ニ取計」とかの理由で苗字・帯刀を許している。
 松山藩は各郡の在郷町に郡医を駐在させて郷方の治療に当らせていた。浮穴郡久万山には岡本祐甫が郡医として出向、文政・天保年間に防疫活動などに従事している。『柳谷村誌』からその活動の一端を見よう。
 文政七年(一八二四)には麻疹が流行した。岡本祐甫は、「はしかは熱が高くて下痢する者が多いだろうから、悪熱がして下痢する者は初めから効き目のよい下剤を呑ませ手早く熱を下げたら熱も下痢も止まる、もし下痢を恐れて温めたり湿布したりして皮膚を剥がすような手当の仕方をしてはならない、取り立てて言うと、はしかの下痢は下痢で体内の毒を取っただけで吉兆と心得え下痢を止めるようなことは決してしないようにせよ。」と指示、ついで薬方として「款谷ノ根、チヨウノ葉、各等分、但此チヨウ葉俗云川柳ハ父コロ柳但柳潰皮ヲケズリテヨシ、石キザミ壱服ヲ掛目五匁位ニシテ水一合半入一合ニセンジ用フ、右熱甚敷者芭蕉根茎共ニ搗キシボリ其汁ヲ右ノ薬ニ入レテ用テヨシ、又シボリ汁バカリ別兼用ニノムノモヨシ、左様二山方共ニ早ク相達シ様取計申上ヘク候」と沙汰した。天保七年の大飢饉による失調とその冬の寒気のため翌八年チフスが大流行した。天保八年(一八三七)三月二五日の郡役人から村々庄屋への沙汰には、「不作の年の後では必ず伝染病が流行すると昔の人は言い伝えている、昨年はことごとく不作であった上冬は寒さも厳しくて、飢えや寒さをしのいで暮した者も多かった、病気にかかった者については心配であるので、この度は岡本祐甫に申しつけて植苗金山湯を三千九拾人分調合させ役人場に渡しているから、村の役人場へ配分し、悪寒・発熱・頭痛・吐瀉・時候障りの類にかかった者には手抜なく呑ませて養生するよう申し付けられたい、人命は大切であって、どれほど御領分か広くても御百姓の数が少くては御領地の有る甲斐はなく、御百姓の多い少いが御国の強弱にかかわる大事なことであるから、一人も減るようなことのないように村役人場で厚く心を用いて介抱してやってほしい、薬については十分気をつけているけれども、家での取り扱いを気を付けないと薬がきかなくなるから、箱のようなものに詰めて置き薬気が散らないようにせよ。」とあり、郡医岡本祐甫がその対応に忙殺され、膨大な量の薬調合とその投与に休む暇なき有り様が知られる。
 風早郡代官所の記録『一番日記呼出』によると、同郡には文化元年(一八〇四)に三津浜町に佐賀寛仲、柳原町に三宅仙安、北條町に細野周庵の郡医が配置されていた。文化六年佐賀寛仲病死、倅敬允は一五歳で医業未熟であったが、格別をもって郡医師相続、定薬代米支給を認め、文化一〇年から御城下湊町里見道仙方に医術修行に赴いている。三宅仙安は文化八年二月病死して倅玄見が相続した。細野周庵は「不慎之儀有之候」として医業を取り上げられ、後任には御城下魚町雁谷良飩の弟子野口頓碩が二神有斎と改名して文化九年北條町に移った。
 二神有斎は二年後の文化一一年一〇月松山の師家雁谷方に帰り、翌文化一二年二月新町で開業、次の療治広告を出した。

 一 拙者十八年の間諸国に医学修行いたし旧冬罷帰り名處披露のため
   左のことし、当時かろき病ハ不及申何病にても年久しく色々手を
   つくし、其印なく患る輩多し、然とも病根を見さだめ治療を施す
   時ハ不治いふ事なし、
 一 癩病癩癇中風労療ハ皆人の難とする處ゆへ大略療治致不申候、其
   餘如何程六ヶ敷病たりとも我医門に預る處たれ
   ハ療治を施進候、
 一 病人御出之節ハ銭札弐匁御持参可被成候、其餘ハ礼物受不申候、
   しかし極々難渋之人者弐匁御持参にも不及申候
    療治毎日九時迄   松山御城下新町
  文化十二亥二月十日ヨリ   ニ 神 有 斎

 村々で医師を確保することは容易ではなく、様々な優遇措置が講ぜられた。西条領中野村の医師越智亘は、父宜庵の長患いと死亡で出費多く、母も病気で家計不如意となり、我が身は医術修業中であるが路銀にも事欠く有り様であったので、「医者之儀は人命を任せ候事故、相応熟練仕らせ置申度」と中村庄屋をはじめ近郷の古川・西田・洲之内・中西・安知生各村の庄屋が申し合せて二八両を修学資金として準備、亘を長崎に留学する願を嘉永七年(一八五四)三月連名で氷見組大庄屋に提出している。奨学金を出資してまでも医師を村に留めようとする事例である。
 幕末・維新期蘭方医学が普及しても村医者のほとんどは漢方医であり、数年間医術修行して開業した。宇摩郡下分村の開業医高橋健斎は天保一二年(一八四一)九月から嘉永元年(一八四八)三月まで讃岐国小橋安造に従って都合六年七か月間漢医産科を修行して、嘉永元年四月から開業した。また同郡下分村医師高橋済之助は慶応元年(一八六五)正月から同二年一二月までの一年七か月讃岐国笠井俊前に従って漢医外科
を修行、同三年一〇月から明治二年七月までの二年九か月大阪の花置良介に学んで、八月二二歳で開業した。
 江戸時代の民間医は一般に藩医が医業免許を与えていたようである。明治四年『吉田藩庁日記』によると、九月二八日付で「是迄市郷の医師共江私共銘々より医業免許差遣政所、………当御管下之者業前介立候者江ハ医師中ヨリ免許差出し不苦義二御座候哉」と士族医師連が伺い出、一一月に従前士族医師中より医業免許を付与した次の二六名の市郷医名を届け出ている。

 吉田町住居岡山春臺、同岡養拙、同田邊大現、同林文昌、宮野下町大高玄龍、同河野呉策、則村野川貞斎、清延村近藤耕哉、中野中村兵頭良仲、吉野町麻生田玄意、同池田静哉、吉野村二宮儀仙、奥野々村池田龍仙、土井中村赤穂三益、小松村岡本俊安、父野川村芝誠之、下嘉寿山村山内春江、深浦増穂永得、俵津浦増穂脩哉、狩濱浦司馬玄調、北灘浦細谷玄澄、朝立浦梶谷寛斎、垣生浦河野順哉、下波浦横田龍軒、同藤井春岱、戸島村清家貞伯