データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 愛媛県衛生医事体制

医制の公布

 わが国で衛生行政が開始されるのは、明治時代になってからであった。衛生という用語は、明治八年内務省に衛生局が設置された時にその局名としてはじめて使われた。その言葉を付けたのは当時の文部省医務局長長与専斎であった。「私はどうかして〝サニタリー″若くは″ゲズンドハイップレーゲ″というような国民保健の保護といえる意味を広く引ッ掴んで言顕す甘い文字が欲しいものじゃと思ふて、ヤレ保健とか保安とか或は健康養生などの文字を充てて色々とやって見ましたけれども、ドウも局という字付けたり課という字を置いて見たりしますと、ねっから面白くありませぬ、そのうちふと荘子の衛生という語に気がつきましたから、これは本書の義は幾らか違ふでございましょうが、文字の体が面白い、其上唱へても悪くないから、先づこれを牽強して置くが一番よからう、」(『松香私志』)と専斎は〝衛生″の文字を編み出したいきさつを述懐している。九州大村藩の藩医の家に生まれ緒方洪庵や蘭医ボンドなどに学んで先進的な医学者の第一人者であった長与専斎は、明治四年一一月岩倉使節の随員として欧米に渡り、プロシャ・オランダなど先進国の衛生行政を調査して、同六年三月帰国した。専斎は、この視察経験を基に医事衛生行政機構の立案に努め、太政官の承認を得て明治七年八月に「医制」を公布した。
 医制は七六条からなり、その内容は広く衛生行政全般にわたり医学教育にまで及んでいるが、主眼とするところは、第一に政府統轄の下での衛生行政機構の組織化、第二に西洋医学に基づく医学教育の開始、第三に医師免許制度の樹立、第四に近代的薬舗の制度を設けて医薬分業を確立することにあった。この内容を受け入れるだけの素地が当時の地方にはなかったので、医制は東京・大阪・京都の三都に適用されただけであったが、医制を参考に衛生行政の組織化や県立病院・医学校の開設に励む県も見られた。愛媛県もその一つであり、開明的な地方長官岩村高俊の下で試みられた衛生医事体制は、「医制」の地方版であった。

 県衛生科の設置と医務取締・医務調査係

 愛媛県誕生当時の県庁機構には衛生事務を担当する所管はなかった。明治七年三月の「愛媛県職制大綱」で庶務課学校兼社寺掛職務の片隅に病院事務が加えられ、同八年一一月の「愛媛県職制」には、庶務課勧業係の項に「一、病院及医員取締并売薬種痘免許等ノ事」という衛生医事に関する職務がみられる。学校兼社寺掛や勧業係といった機関の中に衛生事務が包含されているのは、この方面の行政が全くかえりみられていなかったことを示している。明治九年一月「愛媛県職制」改正で庶務課内に衛生科が設置され、中属の伊佐庭如矢が専任者に配置された。ここにはじめて「衛生上ニ関スル一切ノ事務ヲ取扱フ」機関が県庁内に誕生した。
 明治九年六月二三日には各大区に医務取締配置を公表した(資近代1 三七一)。医務取締は医制の中に規定された役職で、地方の医師・薬舗主・家畜医などの内から任命され、地方官の指図を受けて部内日常の医務を取り扱うことになっていた(医制第七条)。県当局は、同年七月七日に「医務取締心得」を布達、「区内人民ノ健康ヲ保全スルヲ本旨トシ該シテ医業及ヒ薬舗産婆等ノ取締ヲ為ス」(第一条)ことをはじめ、医術開業・売薬願書の奥印と産婆鑑札の交付申請、種痘勧奨、流行病の予防と発生時の通知、死亡表・患者表の取りまとめなどを指示した(資近代1三七三―三七四)。これが医制にいう日常の医務取り扱いの内容であった。医務取締には、品行正直で西洋医学に通じ官令を読み文書を作る能力を持った人物を選考基準にして、次の一七名の人物を任じた(資近代1 三七四)。

 第一大区(宇摩郡)井上泰庵 第二大区(新居郡)吉田随翁 第三大区(周布郡桑村郡)河野太仲 第四大区(越智郡)重松栄順・池山春樹、第五大区(野間郡、風早郡の大部)三宅協 第六大区(和気郡温泉郡久米郡、風早伊予浮穴郡の一部)大西克有、安倍義仁 第七大区(浮穴郡久万山)露口蘊 第八大区(伊予浮穴郡大部、喜多郡の一部)藤井止水第九大区(喜多郡の大部、浮穴宇和郡の一部)大岡美周 第一〇大区(宇和郡の一部)谷世範 第一一大区(宇和郡の一部)神山幡龍 第一二大区(宇和郡の一部)矢野環 第一三大区(宇和郡の一部)大槻俊英、谷口泰庵 第一四大区(宇和郡の一部)小澤文叔 医務取締の設置に続いて、同九年六月三〇日県は小区ごとに医師一〇名内外を単位とする医員連合(組合)を組織させ、一連合から一人の医務調査係を公選させて届け出るよう区長・医務取締に指示した。医務調査係には医務取締の命を受けて医員組合の事務及び小区内に関係する医事衛生の事件一切を総轄する役目を与えた(資近代1 三七一)。

愛媛県医事会議

 愛媛県立図書館に移管された明治期の県庁文書の中に、『明治九年愛媛県医事会議』『明治十年愛媛県医事会議』と題する珍しい会議録がある。
 この会議録によると、明治九年一二月一八日から二三日までの六日間第一回、同一〇年一二月四日から一二日までの九日間第二回の愛媛県医事会議が開催されている。
 明治九年の第一回医事会議に委員として参加したのは、各大区の医務取締二二名(伊予国一五名・讃岐国七名)、松山病院から院長長谷川漣堂以下医員五名と薬局長の七名、高松病院から院長今井杏平・薬局長三井庄三郎・医員の三名、合計三二名であった。医事会議は、愛媛の医事衛生制度の成立を目指す専門会議であり、県庁から提出された問題に審議を加え、委員の討議・結論をまとめて県に答申する使命を帯びていた。
 一八日午後一時二〇分、県庁に参集した三二名の委員は伊佐庭衛生科長の指示で議席と議員番号を抽選で決め顔合せの挨拶を交した。翌一九日午前八時四〇分再開された会議の冒頭、伊佐庭議長は岩村権令の「夫レ衛生養痾ノ人世ニ急ナルヤ懸河堤防ノ修治ヨリモ甚シトス、是故ニ這回此ニ事ヲ以テ此会議ヲ設ク、各員宜シク心腹腎腸ヲ披ラキ懇討審議以テ人世ノ保安ニ益スルアランコトヲ企望ス」との式辞を朗読した。
 この後、本題に入り議案第一条「本邦ノ医タル其方西洋ニ出ルモノ少ニシテ猶仲景ノ支流ヲ汲ムモノ十中七八ニ渉ル、其間又両方ヲ折衷スルモ有リテ一斉ノ定規ナシ、今此三様ノ体ヲ分テ仮ニ免状ヲ授ケントス」との理由による西洋医、折衷医、漢方医に免状を与える方法の審議を始めた。討論の結果、三井庄三郎の洋医を上等、折衷医を中等、漢医を下等の三等に分け、漢医・折衷医が洋薬の効能を熟知するに至ったならば免状を取りかえるといった案が一八名の賛同を得て可決された。三様の免状の内どれを受けるかは申請者の希望に任せるが、医務取締は医務調査係と図って申請者が希望する等級に該当するかどうかを取り調べて県庁に開申することになった。
 議案第二条「薬舗及売薬家ノ中テ公撰シテ各大区ニ取締一名ヲ置クノ可否ヲ問フ」の諮問に対しては、三井庄三郎が示した取締設置の必要なく、区ごとに連合を組織し連長一名を公選する案を可決した。この案は答申作成委員会で手直しされ、毎区土地の便宜に従い五~二〇戸あてに一連合を作り連長一名を置く、連長は各区の区戸長・医務取締・医務調査係が選ぶと答申することになった。
 議案第三条「医員薬舗売薬家産婆等ニ取締ノ為メ若干金ヲ賦課シ、之ヲ以テ医務取締及調査係ニ手当金ヲ分賦セントス如何」の諮問には、会議の構成員である医務取締は双手をあげて賛成した。賦課方法として、医員は一年間取り扱う患者の多少により、薬舗売薬家は一年間の仕込み薬品金額の多少により、産婆は一年間取り扱う生児の数により賦課金額に段階を付けることに決し、その区分と金額は後日の答申作成委員会に委託された。二〇日の委員会では、医師は、取り扱う患者数一千人以上の者―毎年金五円、五百人以上の者―三円、五百人以下―一円といった方法で賦課、薬舗売薬家・産婆も仕入れ額・取扱生児の多少によって割当額が定められた。
 議案第四条「松山高松ノ両院ヲ始メ管内一般医薬ノ価格ヲ定ムルノ可否ヲ問フ」に対しては、全員一定の値段を決めることに同意、煎剤・散剤・丸剤の一日量は金四銭、水剤の一日量は金五銭と決められた。
 議案第五条「各大区ニ医員ヲ集会シテ各施治スル処病者ノ患状ヲ具シテ討議スル如何」の諮問については、各議員ともこれは良いことだ、是非やろうということになり、集会する上は病状を討論するだけでなく広く医学の研究も行ってお互いに錬磨しようと決議した。その集会の名称は第何大区医員会議と名付け、当分医務取締の居宅か寺院を会場に充てることにした。
 二〇、二一日は会議の決議を基に答申起草委員会が開かれた。委員に選ばれた今井高松病院長、三井同院薬局長、松山病院医師平田尹之、第三大区(小豆郡)医務取締三木方斎が協議して草案を作成、二二日に再開された本会議に提出して承認を求めた。ついで二二、二三日の二日間にわたり各議員の提示した協議題を審議し、取捨選択して総計一二か条の項を県に建議することにした。その主なものは、治療中の患者が他医の診察を希望するときは医者は病状及び処方書を患者に手渡して引き継ぎ医の参考に供すること、薬剤はかならず薬袋・薬瓶に薬名・分量を詳記すること、患者死亡のときは死亡診断書を三通作り、患家・戸長・僧侶に渡すこと、種痘手数料は先方の謝礼に任せること、区内人民の健康を保全するため古今良医の著書中に衛生に関する良法があれば医務取締は松山・高松病院の検閲を受けて各区掲示場に張り出し一般人民に告知すること、医務取締の任期は二年とする、薬舗開業者は医務取締が算術・化学・薬物学・製薬学・処方薬の大意を試験して保証書を添え願い出ることなどであった。
 一二月一八日から二三日までの六日間にわたった第一回愛媛県医事会議は、岩村権令の「各自帰途已二迫ル時寒天数里ノ山川、幸ニ自重セヨ」といったねぎらいの言葉を後に解散した。これらの決議事項は県当局の査定を経て明治一〇年三月二七日県内に布達された(資近代1 六〇七~六〇八)。なお、議案第三条の医務取締・調査係の手当金は、医師などの負担を取り止めて県令が自由に裁量できる賦金から、前者は一年二三円、後者は一年五円を支払われることに改められた。
 この医事会議の決議に基づき各大区に医事会議所の開設が期待された。第一三大区和気郡三津浜町付近の医師は、明治一〇年七月に救患舎を会場にして六番聯合医事会議所を設立、元陸軍々医川井喜樹を会頭
に選び、毎月集会して施療の病因・薬剤の当否を討議したり、西洋医学を研究することとし、また薬舗業者にも参加を呼びかけて医道の大意や用薬の方法を理解し合い、協力して区内の疾病予防と住民の健康保護に当たることを申し合せたと、当時の「海南新聞」が報道している。
 第一回に続いて第二回医事会議は、明治一〇年一二月六日から一週間の予定で松山中学校演説館を会場に六人の松山・高松病院関係者と二六名の医務取締が集まって開かれた。この会議に付託された諮問と答申内容は次のようであった。
 第一問題 種痘普及方法を施行する議案につき、三条七項にわたる原案を検討して、第一条、各大区ごとに一か所の種痘所を設置し、種痘医員を指揮して接術を施行する種痘医主任を選ぶ、第二条、区内の広狭により種痘所支所を設ける、第三条種痘は春秋二期、その年の生児に施接するものとするが、天然痘流行の際は臨時に未種痘児と再三期に近い者を接種する、手数料は五銭から一〇銭とする、但し貧者はこの限りでない、などの原案を承認した。
 第二問題 乳母試験方法の議案につき審議した結果、第一条、各大区に一か所の乳母試験所を置き乳汁及び体格一切を診断して用に適するかどうか審査する、第二条、乳母に適する年齢は二〇歳から三五歳まで、試験手数料は金五銭とし乳母雇人がこれを支払うことなどを決めた。
 第三問題 有志を募り病院を設立する議案の審議では、小学校の建築さえ滞りがちな目下の情勢で病院を設立することは方底円蓋の兆を免がれないという発言もあったが、衛生養痾の道を厚くするためには病院の設立は緊要のことであるという意見が大勢を占めて病院設立を可決し、寄付募集の方法は大区会町村会に任ねることにして、病院の早期建設に各自努力しようと申し合せた。
 第四問題 悪病流行の節予防普及の議案では、県当局の提案の愛媛県はすべて海に沿う地域であるので本年流行したコレラ病のごときも他県の船客から伝来したものである。したがってこの病の流行情報を得れば速やかに諸港湊へ検疫所と避病院を設けて所謂〝キュアンタイシ〟(イタリア語、足止めの意)の法を行うことをもって第一の予防としたい、に同意して内務省に伺い認可を得ることになった。ついでコレラ外悪病一般の予防法についての県の原案
 「第一条、専ら飲食に意を注ぎ、厠を清潔にし、川溝の流通を滞らせず、死体の埋葬地は人家から離れた山岳の地に定める。第二条、常に予防薬を各大区々務所に備え置き、悪病流行の報があればすみやかに各小区へ配布する。第三条、医師が悪性流行病の発生を察知すれば即時医務取締に届け、医務取締は区戸長医務調査掛と協議して予防法を施行し、ただちに県庁に開申する。第四条、沿海の地は各小区に医員一、二名を予防掛に選び、警部巡査などの指図を受けて予防事務を担当する。第五条、医師が激烈な悪病に向い振るって予防治療することは義務であるから、万一これを避ける医者があれば医業を停止する。第六条、医師はあらかじめ悪病に全力でたちむかう旨の誓書を医務取締に差し出し、誓書に背く時はみずから医者を廃業する」を審議した。その結果、第二条のうち予防薬の置き場所は医務取締の居宅にする、第四条のうち予防掛を指図する者は警察官区戸長医務取締とすると改正して医務取締の職権を強め、第五、六条の医師罰則の項は医者を侮辱するものであるとして、これを削除することに決した。
 第五問題 医師の居ない山村島嶼の患者施治の方法如何の議案について、県当局は提案に当たってこの問題は人民の保護上最も必要なことだが、山村島嶼は貧困地で医者を雇う資力もなく、また医者も僻村の地に赴くことを望まない、まるで銭なくして宝器を求める状態であると苦境を訴えた後、この会議でたとえ山村島嶼の地に医者を派遣することを決議しても実現困難であるので、これを議しても無駄として廃棄するか、町村会議に付して公議を求めた後改めて検討するのとどちらがよいだろうかと諮問した。この難問に議員も苦慮し具体的良案もないままにいちおう町村会議に付議してみようということになった。
 第六問題 予讃両国に各一員の医監を置くこと及びその選挙方法の議案について、会議は、公正毅直で医学に熟達し医者の模範となる人物を医監にして県内医員の指導的地位を与えたい、この医監は本来ならば管内一般の医員の総意により公選すべきであるが、衛生医事創業時の今日、とりあえず高松病院・松山病院の医員を充てたいと考えるがどうか、の原案を一四人の賛成で可決した。医監に関する規則は、第三大区医務取締長尾益吉・第一四大区同露口蘊・第一五大区同藤井止水が委員に選ばれて立案、「医監章程」として会議最終日に提出して議員の承認を得た。
 一二日閉会式が行われ、岩村権令の代理として庶務課長天野御民が閉会の辞を述べ、長谷川議長が議員を代表して答辞を捧読、第二回愛媛県医事会議をいちおう終了した。終了後出席者の強い要請で引き続き二日間の会議がもたれ、議員提案の協議題を熱心に討論した。その結果、一、漢方医を漸次洋医に移行させるために松山・高松病院が春秋二回医事問題を付与し、地方の医師に各区医員会議所で協議させて答案を提出させ、病院では答案の当否を評して返送する方法により医師をして学術勉強に励ませる、医師のうち希望の者は六か月間松山・高松病院に駐在勤務させる、一、悪病流行の節は予防普及のため緊要の予防法を仮名文字で黄色紙に書し掲示場に公示する、などを決議して県庁に善処方を要請した。
 第二回医事会議の決議件は、明治一一年四月の「種痘所規則」(資近代Ⅰ八〇七~八〇八)「乳母雇人ノ節注意ノ件」「医事会議所へ問題附与手続改正ノ件」などで逐次布達活用された。明治一一年の第三回医事会議は一〇月一五日から開会することにして各大区の医務取締に参集を求め、九月二五日に「一、堕胎ハ従来ノ厳禁タルモ猶陰ニ侵スモノアリ、之ヲ取締ルノ方法ヲ間フ、」「一、各医員会議所ニ於テ産姿ヲ教育スルノ方法ヲ問フ」「県下各地ノ飲料ニ供スル井水ヲ試験スルノ方法ヲ問フ」「貧民施薬方ヲ設ル方法ヲ問フ」「針灸揉治ノ者ヲ一層厳密ニ取締ノ法ヲ設クル方法ヲ問フ」などの議題を告示した。

医務取締の公選

 岩村権令が医師の参加による衛生医事行政を育成しようとしていたのは毎年の医事会議開催で立証されるが、その会議の議員である医務取締を名実ともに医師の代表者とすべく、明治一一年四月一二日に「医務取締公撰仮規則」を定めた(資近代Ⅰ 八〇七~八〇八)。医務取締の公選は、明治九年一二月の第一回医事会議における県への建議事項を採用したものであり、戸長公選制令地方民会の開設に見られる岩村高俊の開明政策の一つとして実施されたのであった。公選規則の内容は、選挙人は区内在籍の医員で、医務取締には七科医学を習得し地方行政にも通じた品行方正の人物を選ぶこと、任期は二年で再選を妨げないなどを規定していた。
 こうして、県衛生医事行政の議事機関として医事会議が例年開かれた。各大区には医務取締と医員会議所、小区に医務調査係の医員連合が設置され、これらの機関を監督指導するために予讃両国の県立病院から各一名の医監が地方に派遣された。この体制は、高松病院薬局長三井庄三郎の言によれば、「未夕嘗テ各府県二於テ施行セサル」衛生機構であった。医務取締は明治一一年七月の郡区町村編制法で新しく行政単位になった郡に据え置かれ、医務調査係も残された。三新法体制の下でも愛媛県独自の衛生医事体制は存続したが、この体制が開業医の監視や防疫に十分な効力を発揮してないと、医事関係者からも批判の声があがり始めた。
 明治一二年九月、西条公立病院院長今井鑾は、岩村県令にあてて、「衛生医事ノ儀ニ付建言」を提出した。その中で今井院長は、医監は年二度巡回しているが、その試問に応じて筆答する医師は一〇人中一、二人に足りない、これすなわち医事会議所の有名無実であるゆえんである、各郡に種痘館を設けているが、これまた予定のごとく効果を発揮せず、すでに本年も県下で天然痘にかかる者多く、非命の死をとげた人も少なくない、さらにコレラの流行に際し、開業医の中には単なる食中毒患者をコレラ病者として避病舎に送りこむものもあれば、コレラを食中毒と誤診して蔓延を助長したものもいる、かくのごときやぶ医者に限って仮免状の幸運に安んじて医術を研摩することをせず、巧言でもって人を欺き、令色でもって自己の長を説き、盛業進歩の医者を誹謗し、甚しきは衛生上において愚民の迷信を誘導する類が少なくないと、衛生医事体制の意図が活動源となるべき医師一般に十分理解されてない実例を挙げ、これひとえに現行の医制が疎漏緩慢であるためである、これらの弊害を除去するためには、確然として時代の要請に応じた衛生行政を厳重に実行することである、と県主導の衛生行政強化を訴えた。
 この批判に見られる医師一般の認識の低さとコレラ対策の不徹底などで愛媛県衛生医事体制は変更を余儀なくされたのか、明治一一年三月に廃止していた庶務課衛生科が同一二年四月に衛生掛として再設、衛生上の一切の事務、病院、医学校・駆梅院の管轄、売薬医事の取締り、伝染病予防などの行政指導に当たることになった。医務取締・医務調査係や医事会議も、岩村県令の離任後ほどなく廃止された。