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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 私立衛生会と連合医会の結成

 大日本私立衛生会愛媛支部

 民間では、明治二〇年ころから医師を中心に各界から理解者を集めて環境・公衆衛生向上のための啓蒙団体を結成する動きが起こった。すでに首都東京では明治一六年二月に長与専斎・後藤新平らにより官民合同の大日本私立衛生会が設立されており、大阪など各地に支部を結成して衛生問題に取り組んでいた。この衛生会の働きかけもあって松山病院の赤羽武次郎・愛媛新報編集局長山本盛信らの奔走で大日本私立衛生会愛媛支部が成立した。明治二一年一月二三日創立総会が開かれ、「一、当支部ノ目的ハ県内人民ノ健康ヲ保持増進スルノ方法ヲ討議講明シ以テ大日本私立衛生会ノ目的ヲ翼賛スルニ在リ、」会員は会費として毎月一〇銭を納めること、総会は毎年二月常会及び評議会は毎月、臨時会は臨時に開くなどの会則を定めた。役員は、会頭は知事、副会頭は第二部長に依頼することにして、幹事に医師の赤羽武次郎・伊奈信弌・添田芳三郎を、評議員に松山病院長鳥居春洋・医師高橋恒麿らを選び、事務所を温泉郡小唐人町に置き、月一回『愛媛衛生雑誌』を発行することなどを決議した。
 総会終了後、役員は時の藤村紫朗知事に会頭就任を要請したが、知事は衛生会に熱意を示さずこれを拒否した。会頭・副会頭は欠員のままで置かれたが、同二一年二月藤村知事の後任として本県知事になった白根専一は、政府の内務書記官時代に大日本私立衛生会の幹事を務めるなどの経歴を持っていたので即座に会頭を引き受け、副会頭には第二部長の野村政明、幹事に衛生課の豊島満莞・浜茂光が就任した。ここに愛媛支部は本部と同様、官民一致の協力体制が成立した。以後、県首脳の藤尾伍鹿・津田顕孝、衛生課長浜田正郷、風早和気温泉久米郡長土屋正蒙、県会議員小林信近・河原田新、愛媛新報御手洗忠孝らの名士が続々と入会して、明治二一年末には会員六三八名の多きを数え、宇和島・三津浜・観音寺に分会を持つ大きな団体に発展した。
 こうして軌道に乗った大日本私立衛生会愛媛支部は、月に一度着実に常会を開き、医師の医術衛生に関する発表や名士・新聞記者の談話などがあり、常に一〇〇名以上、時には八〇〇名から一、〇〇〇名近くの聴衆を集め、衛生思想の啓蒙普及に貢献した。『愛媛衛生雑誌』から明治二二年の総会・常会の景況を見よう。
 第二回総会は二月一七日松山宮古町大林寺で開かれた。幹事豊島満莞が、会員は入会の申し込み者七〇七名、退会並びに死亡者一三一名、差し引き現員六三八名、常会は開設数一一回、演説者二四人、演題四五件談話題一七件、化学試験四回、幻燈使用八回、評議会は開会数一一回、議事の件目幹事撰挙・審事委員撰挙・分会規則・雑誌発行期日・幻燈絵画買入・本年末会費取り立て人の派出などと事業報告や会計報告を行い、幹事赤羽武次郎が県下衛生景況を報告して、役員を改選した。三月四日、第一三回の常会を新栄座で催し、「衛生的日本人の進取力を論ず」会員御手洗忠孝、「日本人の命数」会員清水政則、「衛生家と医師の分限を論ず」会員河原田新、「衛生の種蒔と培養の関係」会員日土玉匱、「空気の話」評議員高橋恒麿、「乳汁の話」評議員根尾達吉、「衛生の穴探し」幹事赤羽武次郎、「売薬の話」評議員鳥居春洋の論談演説があり「胎児発育の順序」と衛生的滑稽画二〇余種の幻燈を写した。四月六日には県諮問の審議答申をするための臨時総会を西堀端町勧善社で開き、第一問「従来ノ産婆ハ追々老廃セシニヨリ之レ二代ル者ヲ養成スルニハ如何ナル方法ヲ以テシ、又生徒募集及ヒ費用支弁ノ方法ハ如何スレハ可ナルヤ」、第二問「従来ノ井戸ハ多ク野面石又ハ瓦ニテ其内側ヲ畳ムヲ以テ汚水浸透ス、依テ之レヲ防クニハ如何ナル構造ニ改正セハ浸透ヲ防キ且ツ民間ニ普及シ易キヤ」、第三問「従来下水ハ多ク小溝ヲ設ケ排除セシニヨリ日光ニ暴露スルヲ以テ不潔ノガスヲ発生シ、且ツ地中ニ浸透シテ自然井水ヲ汚シ、又其近傍ヲシテ湿気ヲ帯ヒシムルニヨリ之レヲ防クニハ如何ナル方法ヲ以テスレハ民間ニ普及シ易キヤ」を審議、第一問については、公立産婆学校を起こすことを県会に請求する、第二・第三問は委員を選び調査の上答えると答申した。
 四月一一日には同じ勧善社で第一四回常会を開催、医制の立案者で衛生行政の推進者である内務省衛生局長長与専斎が七〇〇人の聴衆を前に「衛生談」と題して講演した。長与は四国四県の衛生状況視察のため四月五日今治に着き、今治西条を巡回して七日に来松した。愛媛支部で本部の副会頭でもあるこの権威者を歓迎して、一一日午後大林寺で県政財界の名士八〇名からなる「長与専斎先生を囲む衛生有志懇親会」を催し、同夜常会での講演を依頼したのであった。白根知事から「医事衛生上の団十郎」と紹介され登壇した長与専斎は、「今日の世の中ではとかく智力を発達させんがため体力を損う傾きがあるので、長生きするためには体力と智力とを平均させることが必要である」と前置きし、「愛媛県は腸チフス・赤痢・コレラの多いところで、私はこの名物を見るために参りました」と述べて聴衆を苦笑させた後、松山市街中ノ川の某富豪が無類の清潔好きにもかかわらず先年コレラで死んだという卑近な例を挙げて、「一つの家のみがいくら清潔にしても隣りの家や町などが不潔であれば、病毒は自在に地中に潜るものであるから伝染病予防は公衆共同一致して行わねばならない」と説いた。終わりに「本県には幸い衛生会が設けられているので、十分活用して各自衛生思想の向上に心がけていただきたい」と聴く人々に依頼、医師に対しては「衛生会での演説や談話はあまり学理的な理論に陥らず、つとめて実際的で緊要のことを取り上げられたい」と要望して壇を下りた。さすがに条理を極めた長与の演説に聴衆はおおいに感服して傾聴した様子であったと『愛媛衛生雑誌』第一四号は伝えている。専斎は一三日松山を立ち八幡浜・宇和島・大洲を巡視して再び松山に帰り、三〇日久万町を経て高知に向かった。
 七月一八日の第一七回常会は道後松ケ枝町宝厳寺で開き、「禍福輪廻」幹事赤羽武次郎、「浴客の注意」会員山崎集、「道後は衛生の地」幹事高橋恒麿、「衣食住」会員清水政則、「病を陰蔽するの害」会員御手洗忠孝、「娼妓の利害」評議員鳥居春洋などが論ぜられた。
 大日本私立衛生会愛媛支部は、明治二一、二二年にかけて活発に活動し、衛生思想の啓蒙、県下衛生状況の調査伝達、医事と衛生の連携に努めた。しかし同二三年ころからその活動は次第に停滞し、退会者が相次ぎ常会の出席者も減少して、同二四年にはついに月例常会は中止された。この年の総会は延期を重ね、八月ようやく第四回総会を開いたものの愛媛支部解散を決議するのやむなきに至った。支部停滞の第一原因は会計の行き詰まりにあった。会が隆盛であった明治二一年でも会費未納高は四割近くで、各郡役所の衛生係に督促方を依頼したり、松山市街は集金人を雇って徴収に走らせるなどしたが、あまり効果はなかった。このため、発足当初計画していた会独自の衛生事業経営を実現できないばかりか、経常費も節約して支出しなければならない状態であった。同二二年には五割以上の未納高が計上された。会員が六〇〇~七〇〇人いた時は衛生会は何とか維持できたが、同二一年一二月香川県分離を機に讃岐側の会員一〇〇人以上が一斉に脱会、連鎖反応で同二二年末までに県民一〇〇人近くが退会したことも大きな打撃となった。こうした事情が重なって、大日本私立衛生会愛媛支部は創立以来わずか四年にして解散した。

 愛媛連合医会

 明治二一年、大日本私立衛生会愛媛支部を組織した添田芳三郎・赤羽武次郎・高橋恒麿らは、松山病院医官や市街とその周辺郡の開業医に呼びかけて同年一二月松山医会を結成した。会頭に添田芳三郎、副会頭に宇高正之が選ばれ、幹事には赤羽武次郎・伊奈信弌・明星延徳・根尾達吉・高橋恒麿らが任じ、「本会ハ同業医師相団結シ、主トシテ学術及業務上ノ改良進歩及衛生ノ普及ヲ図ルカ為ニ設クル」(第一条)などの規則を定めた。松山医会に刺激されて、明治二三年一月西宇和郡医師会、同二四年に東宇和郡西部同盟医会が組織されるなど郡部でも医会結成の動きが始まり、県全体の医師の団結を図ろうとする気運が芽生えた。明治二四年一〇月松山医会評議会で県下連合医会設立を決議、一一月の秋期総会に提出して賛同を得、規則草案の起草と開会準備のため委員一〇名を選んだ。以後数回委員会を開き趣意書と規則を作成印刷、これを郡長に送って開業医師への配布と勧誘を依頼、県衛生課の佐藤清光・豊島満莞の公務巡回に託して規則書配布を乞い、また知名の医師には発起人が個別に書を送って賛成を求めた。この段階で各郡医師代表を出すには郡医会の組織が必要であるとの声が強くなったので、当時の松山医会々頭で松山病院長でもあった谷口長雄が県下を巡回して指導に努めた結果、今治越智医会・久万郷医会などが創立された。
 明治二五年三月一九日、第一回愛媛連合医会を松山公会堂で開催した。谷口長雄が設立委員を代表して開会の辞と連合医会設立に至るまでの顛末を報告、電報祝文及び来賓祝詞の後会則草案を討議、一、二を修正して承認、会長に谷口長雄を選んで開会行事を終えた。会則第一条は「本会ハ各会区ヲ以テ聯合組織ス」とあり、会区は郡役所々轄単位に一〇会区を設けて各会区で医会を組織するとしていた。連合医会の目的は、業務を拡張する事、医風を改良する事、学術を研究する事、衛生法の普及を図る事で、毎年一一月総会を今治松山大洲宇和島西条の持ち回りで順次開催、各会区から三名以上の代表者が出席することになっていた(資社会経済下七九五~七九六)。翌二〇日に午前中医薬分業論の可否を討議、時期尚早が多数を占めた。午後は学術演説会に移り、「非医薬分業論」堤積造、「結核病予防法」木下俊英、「自治制度と医師」高橋恒麿、「眼球腫瘍の実験」山崎集、「脳髄切除の実験」谷口長雄らの発表があった。これらの発表内容は、後日『第壹回愛媛聯合醫會報告』として会員医師に配布された。二一日は参会者一同監獄署病院・衛戌病院・松山病院を参観した。
 こうして愛媛連合医会が誕生、第二回総会は明治二六年一一月一九、二〇日今治の常高寺で、第三回総会は同二七年松山市で、第四回総会は同二八年一〇月二〇、二一日大洲の法華寺でそれぞれ開催、その都度編集された報告書が国会図書館に保存されている。連合医会は明治二九年宇和島、同三〇年西条で開かれ、西条での第六回総会で連合医会を発展
的に解消して愛媛医会を創立することに決した。
 愛媛医会の創立総会は明治三〇年四月二七日に松山市公会堂で開かれた。翌二八日の海南新聞は会場の模様を報道し、「来会者は五十余名にして、式の順序により、開会し、開会の式辞祝詞ありて役員の選挙を行ひ、会長に津下寿氏、副会長に添田芳三郎氏を選し、夫より議事に移り原案に多少の修正をなせり、次いで数番の演説あり、閉会せしは午後四時頃なり」と伝えている。総会で承認された「愛媛医会々則」は一八か条で、第一条に「本会ヲ愛媛医会ト称ス」とあり、第二条で本会は愛媛県下在住医師をもって組織すると規定し、会の目的として医風の振粛、業務の拡張、学術の進歩、衛生の普及の五項目を挙げ、本会に会頭・副会頭一名・幹事八名・評議員ニ〇名を置くこと、本部を松山に置き各郡市をもって一区域とし支部を組織することなどを記していた。
 愛媛医会第ニ回総会は明治三一年一一月一二日松山市で開催して県立松山病院間題などを論議した。同三二年一一月一八、一九日の両日松山市の公会堂で開かれ、各支部代表三〇名、その他会員二〇数名が参加して挙行された。この会には北宇和南宇和支部代表が欠席、脱会の風聞が伝えられたので、会則を改めて松山市・今治・西条・大洲・宇和島の五か所で順次総会を開設する案や雑誌を編さんして会員に配布する案など運営面での改善策が討議された。審議では、今日のように会運が隆盛でないのは組織不完全の結果であるので、本会は断然解散して従前のように連合組織とするべきであると医会の解散を主張する高橋恒麿の意見も有力となり、原案の総会持ち回りを支持する山崎集らと激論が展開された。かろうじて原案が可決されたが、翌三三年一一月今治での第四回総会に再び解散論が持ち出されて今度は可決され、愛媛医会は翌三四年一一月から愛媛連合医会に逆戻りした。
この後数年にして明治三九年「医師法」が公布され、この法に基づく「医師会規則」によって法定の郡市医師会が誕生することになる。

 愛媛県私立衛生会設立の動き

 明治三四年一一月、復活した愛媛連合医会総会で衛生会再興の意見が出され多数の賛同を得て県当局に建議することになった。県もこれに積極的な姿勢を示し、翌三五年四月県庁における郡市長会及び警察署長会にこの問題を諮った。医界でも同年一一月松山公会堂での第二回連合医会で衛生会結成を確認した。そこで、県官・医師の代表が集まって衛生会再興発起人を開き、会則の制定その他万般の事につき協議した結果、衛生会の名称は愛媛県私立衛生会とし、会長に県知事本部泰、副会長に中里丈太郎を推し、評議員以下の役員は会頭の指名に一任することにした。
 愛媛県私立衛生会設立の趣意と会則は明治三六年一月六~九日付の「海南新聞」で紹介された。趣意書は、国民の健康が富国強兵に重要であること、そのため衛生は教育勧業とともに建国の要素であることに触れ、ついで教育や勧業方面では県内に私立の教育協会や農談会・商工会が設けられて活動しているのに、衛生面では大日本私立衛生会支部が廃絶して以来民間活動団体がないことは県下衛生向上に一大支障をきたすものであると述べ、「県下衛生の情況たるや年々歳々伝染病流行の絶ゆるなく、之が原因を探究すれば衣食住の不完全なる、地水の不清潔なる、起居労逸の不摂生なる、畢竟個人衛生の幼稚なるに因せざるはなし」「今や衛生行政機関としては之が設備に遺憾なきに至りしと雖も固より国家公衆衛生上の施設にして、個人の衛生上に至っては隔靴掻痒の感なき能はす」と県下の個人衛生の不備を憂え、「我等は茲に県下百万の個人衛生発達の為、之が健康保持のため併せて公衆衛生を稗補し、県下貴賤上下の区別なく、均一平等に利益を亨けしむべき目的を以て実行的組織の一大衛生会を設立し、県行政機関と相侯ちて着々之を事実に試みんことを期す、希くは同感の士奮て此挙を賛し一身一家及び帝国富強増進の為に力を致されんことを」と結んだ。会則は、「第一条 本会は愛媛県に於ける個人衛生の発達を促進し、併せて公衆健康の保持を図り、其施設を翼賛するを以て目的とす」「第二条 本会を名付けて愛媛県私立衛生会と称し之れを松山市に置き、各郡に支会を置く」以下、三四か条にわたり会員・役員・事業などについて規定していた。発起人には、県知事本部泰・第二部長西田栄太郎・警察部長中里丈太郎・衛生課長松崎宗信らの県首脳、大道寺一善・橋本是哉らの郡長、藤野政高・井上要らの政界、堀内胖次郎・仲田槌三郎らの財界、高橋恒麿・添田芳三郎・伊奈信弌らの医師界の代表人物が名を列らねていた。こうした周到な準備にもかかわらず、衛生会の性格をめぐって県と医会との間で紛議が生じたのであろうか、愛媛県私立衛生会は設立するに至らなかった。
 これ以後、官民一致による衛生会設立の動きはみられず、衛生組合を下部組織にした郡市単位の衛生会が作られて県主催・後援の衛生講話会や幻燈会などを催すようになった。