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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 赤痢

 明治一六~一八年の流行

 明治期に大流行して世人を恐怖に陥れ、多くの人命を奪った伝染病はコレラ・痘瘡についで赤痢であった。赤痢とは血液の混じった下痢便を起こす感染性の病気で、赤痢菌は患者の糞便に排出され、これに触れた蠅によって食物・食器などに運ばれて感染源となることが多かった。その赤痢もコレラ予防や種痘励行に追われる明治一〇年前後には十分な防疫態勢が取られず、罹患しても下痢症で処理して届け出る者は少なく、統計も不備であった。
 こうした間隙をぬって、明治一六年から一八年に赤痢の大流行をみた。明治一六年一〇月六日県当局は、本年七月以来三野・豊田郡で赤痢すこぶる流行、今や讃岐地方と新居・宇摩の各郡に波及し追々伝播の景況を呈せりと状況報告した後、この時に当たって撲滅法に力を用いなければ無数の生霊を死滅させるのは必然の勢いであるので去る明治一三年甲第一五〇号達「伝染病予防規則」並びに同年乙第一二一号達「伝染病予防規則取扱心得」に照らし精々予防行き届くよう留意するように、各郡町村と町村衛生委員に指示した。この年の統計による赤痢病届け出患者は五、〇〇八人でうち死亡者は一、五一一人であった。愛媛県内伊予国の患者は表2―4に示すように一、四八九人であったから、流行の中心は讃岐国にあった。
 全国患者数二万人のうち愛媛県は態本県一万に次ぐ数字の罹患者を出して、赤痢流行県の汚名を受けた。患者五、〇〇〇人という大流行となった原因として、県当局の報告によると、医師にかからず売薬などで済ましていること、隠蔽が多いため消毒法が徹底しないこと、便所の構造が悪いこと、医師不足と衛生委員の経験不足などを挙げていた。その対策としては各郡役所に予防事務所を設けて警部一・巡査五・郡吏二・医師二・臨時雇予防係五・小使一を置き、各地に避病舎を設置することにした。しかし、実際に避病院が設けられたのは明治一九年のコレラ大流行の時であり、それも松山・三津・朔日市・今治・郡中・川之江のわずか六避病院に過ぎず、赤痢に対する防疫は明らかに遅れていた。
 明治一七年には、讃岐国を含む本県は五、七一一人の患者と一、四三五人の死者を出して前年をしのぎ、翌一八年には患者数八、六七七人・死者一、九八四人に達した。この年には徳島・高知も大流行、徳島県を視察した内務省衛生局の柳下課長は、四国遍路が赤痢蔓延の媒介となっているとして、四国には遍路のための木賃宿が頗る多く、不潔を極めており、前を通るだけで悪臭にたえないほどである、これら巡礼者が赤痢にかかると行路病人となるから、各町村ともに厄介視して迫い出してしまい、病人は歩けなくなって路傍に倒れてしまう、また汚れた衣類などはそのあたりの河水で洗うから非常に危険である、おそらく赤痢を高知・愛媛に持ちこんだのはこの巡礼であろう、と語っている。

 明治二六、二七年の流行

 明治一八年以後、愛媛県は赤痢の患者数が減じたものの二~三、〇〇〇人の罹患者が毎年生じ、中四国・九州の近県も同様の現象であり、日本の風土病の様相を呈して来た。明治二〇年代になると県もようやく赤痢の防疫に意を用い、同二四年一一月二八日には「赤痢腸窒扶私流行ニ付告諭」を県知事勝間田稔名で出し、コレラでも赤痢・腸チフスでも皆伝染病中の一つであって伝染の速いことはコレラに異なることはない、ただ経済上から見るときはコレラは数日の間に死生を決すけれども赤痢・腸チフスはややもすると、数十日間病床にあり病苦死生の間に呻吟し、業務を廃するをはじめ医薬の費用に至るまで、容易ならない損害があり、この病毒を広く伝播させる時は数多くの人命を害するだけでなく国家経済の損失も甚大であると、コレラ同様赤痢・腸チフスも恐ろしい伝染病であることを認識し、各自摂生に注意して患者が生じたときは速やかに医師の診察を受け治療を怠らず、隔離消毒を厳行して速やかに病毒を断絶せよと呼びかけた。(資近代3 一〇六)
 明治二四年九州から山陰、同二五年近畿から愛知に及んでいた赤痢は、明治二六年に至り西日本全土にわたって大流行となり猖獗を極め、一六万七、〇〇〇人という前代未聞の患者を出した。患者一万を超す
ほどの流行を見た府県を取り出すと表2―5となり、愛媛県は一万五、三七七人というおびただしい患者を出して全国第三位であった。
 県都松山市では七月一六日に市内唐人町二丁目に最初の患者が発生、ついで魚町五丁目大法寺境内通夜堂で一時に患者四人を生じ、以来各所に点々散発して蔓延の兆しを呈し、八月一五日に至り患者総数一一七人に及んだ。一六日市当局は伝染病予防委員七名を置き、検疫所を設けて予防消毒事務を開始した。病勢はさらに進んで八月末までは日々平均一三人余の患者が発病、病毒四方に散蔓してその勢力は全市を侵した。九月に入っても病勢は衰えず、甚しい時は一日二九人の新患者の届け出があるといった事態で、伝染病予防委員を増員し松山警察署からも警部一名・巡査四名を派遣して赤貧者の仮病室への隔離や交通遮断などに日夜従事した。仮病室には自費入室二三人、公費入室一三八人に及び、医師平泉泰蔵・大森修義が治療に従事した。猛威を振った松山の赤痢は九月二五日以後気候の変化とともに病勢漸次沈勢、一〇月一日から小学校の授業も開始、一〇月一四日の強雨後は新患者も絶えた。初発以来の患者数は九六〇人うち死亡者二五〇人であった(松山市報告「赤痢病流行の景況」)。
 明治二七年もまた前年に次ぐ大流行で、一五万五、〇〇〇人という患者数であった。流行地は西日本で、徳島が最高の一万五、〇〇〇余人、愛媛県は九、六八七人の患者数を出し、かろうじて一万人以下であった。この年は前年には平穏であった北陸・東北にも赤痢禍が広がり、次第に全国に及んだ。
 二年連続の流行で県当局も赤痢対策に追われた。明治二七年九月八日付で県知事小牧昌業は、発病の原因は多くは伝染にあるけれども、各自の摂養良くないために誘発するものも少なくない、今や各地神社秋祭挙行の時期に際し多衆が聚集往来するときは自然放飲過食を免れることができず、そのため多数の病者を増発するのが従来の実歴上蔽うべがらざる事実であるとして祭礼の延期を要望した。また一二月二五日には昨二六年中八一万五、〇〇〇以上の患者と三、八〇〇余の死者を出し本年また患者の総数一万近く、死者二、二〇〇余に上っている、逐年流行の地域を拡めまた伝染の猛烈ヲ増幅していると二七、二八年の患者数を挙げ、この実況をもってすれば、「本病ハ県下ノ地方病トシテ永ク災厄ヲ此地ニ存シ其病根ヲ絶ツノ期ナキノミナラス、年々数千ノ生霊ヲ非命ニ殪シ県下ノ生産カヲシテ減少セシメ復タ救済スヘカラサルノ悲境ニ陥ルナルヘシ」と赤痢の害毒を訴えた。ついで、赤痢予防方法の最も容易に実効を発するものは清潔法の施行であり、年末の煤払いに消毒的清潔法を実行しようとして、家屋はまず敷物建具を始め家具を出し天井鴨居床板などの塵埃を掃い柱敷居椽などは拭浄し床下は塵芥を掃除した後湿気を帯びた場所は乾いた砂もしくは石灰を撒布することといった清掃法一一か条を指示した(資近代3 一一〇~一一一)。こうした防疫の強化で、この二年の大流行を境に四国・九州の赤痢は衰えを見せてくる。

 明治後期の流行と防疫の徹底

 明治三一年志賀潔が赤痢菌を発見、予防対策もようやく徹底してきた。愛媛県では明治三〇年には二、〇二〇人の患者を出したが、翌三一年以後著しく減少、明治三九年を除いて一、○○○人を超えることはなかった。
 県当局は、明治三〇年八月七日、同年一二月一一日、同三一年八月一六日、同年一一月一二日、同三二年三月一六日、同年六月七日、同年一一月一八日、同三三年六月一九日と、夏季の発生時には暴飲暴食を慎しみ新鮮で消化し易い物を食するなどの各自の予防摂生を求め、冬季には病菌を越年させないため消毒清潔法の励行を呼びかける告諭・訓令を定期的に発した。特に明治三二年は赤痢防疫対策が一段と進んだ年であった。この年、内務省から「赤痢予防の方針」が出され、愛媛県はこれに従って各郡に検疫委員を配置、市町村には予防委員の設置を義務づけ、三月一六日付訓令で赤痢対策を四期に分けて郡市町村と警察署に指示した。第一期準備処置では、警察官吏・郡吏・市町村吏員・予防委員などが便宜の場所に会合して、消毒薬・器具の使用法、患者死者の取り扱い・病院病舎の取り締まり方法・隠蔽患者発見の手段などの協議実習をすること、病院病舎を修理掃除しておくこと、消毒器具薬品を整備しておくこと、看護婦及び人夫を予約しておくこと、清潔方法を施行すること、衛生組合の活動を図ること、衛生談話会幻燈会などの手段で個人の注意を喚起することなど、第二期初発の処置では、病院病舎を速やかに開設すること、患家及びその付近の消毒方法清潔方法を厳行すること、検診その他の方法で患者の隠蔽を防止すること、河川の使用に注意すること、巡礼・乞食の往来に注意すること、飲食物に注意すること、衛生談話などの方法で一般に警戒を与えることなど、第三期流行時の処置では、貧民患者その他救治の周到を図ること、患家と病院病舎を巡視取り締まること、初発時の処置事項をますます励行すること、第四期善後の処置では消毒など各段の事後処置が倦怠疎漏に流れないようにすること、流行中の処置の当否反省など将来に備えることといった内容であった(資近代3 三〇五~三〇六)。
 六月七日には「赤痢病予防の告諭」を出し、赤痢病の流行を免れるには主として各個人の自衛と防疫機関の活動によるほかない、したがって郡市町村に対しては先に訓令を発して防備に勉めさせなお各郡に検疫委員を配置したと告げ、「赤痢病ハ虎列拉ペストノ如ク病勢猛烈十中八九其生命ヲ奪フモノトハ異ナレルモ亦決シテ侮ルヘカラサルモノアリ、」として、昨三一年の患者は八八五人うち死亡者二三七人、市町村の支出経費およそ三万五、〇〇〇余円と報告、「今ヤ時之レ漸ク向暑将サニ流行ノ期ニ近ツカントス」、よってこの際各自において厚く衛生に注意し、家屋の清潔より不熟の果物生水のごときその他一切の飲食物に意を用い、もし一朝身体に違和を覚え発熱下痢を発するなどの場合は直ちに医師の診察を受け、病勢の初期に阻止して生命を全うし不測の禍を他に及ぼすことがないように心掛け、隣保互いに警戒扶持して各自に生命財産の安全を図ることが大切であることを諭した(資近代3 三〇七)。
 この年の患者数は五八三人、死者は一一九人にとどまり、県当局は一一月一八日付訓令で、赤痢病予防に関し先にその時期に応ずべき諸般の設備を定めたので効果があったと評価しながらも、二、三の郡は一時病勢猖獗を極め、また県下いずれの郡市にあってもほとんどその発生を見なかった所がなかったことを考えれば、まだ全く措置完全であるということはできない、この病毒散蔓の状況から察すると明年の流行を予期しなければならないと分析した。防疫措置については種々の方法を講じたにもかかわらず年々歳々流行を反復して止まらない原因として、予防設備が完備していないこと、予防委員・検疫委員が事務の練熟を欠きその処置が適当でないものがあること、冬季における注意が普及していないことなどを指摘した。このため冬春であっても患者の発見に注意し臨時消毒的清潔法を厳行持続すること、伝染病院・隔離病舎未設置の町村は速やかに建設し既設の病院病舎も諸般の設備を完整すること、速成看護婦を養成することなど看護上経験ある者を病院病舎に配置し附添人廃止の方針を取ること、患者の家庭に消毒その他雑役人夫を義務づける慣習があれば断然廃止すること、衛生談話会を冬春間にも絶えず開催すること、衛生組合未設置の町村は設置し、既設の組合も有名無実に終わらないよう指導誘引して発達を期すること、工場鉱山など多人数集合する場所には病舎を設け医師を置くこと、流水を飲料水に使用する場所には井戸を掘さくさせることなどの予防方法を郡市・町村の機関に指示した。
 こうした防疫の徹底で明治三四年以後患者数四〇〇人前後の年がしばらく続いたが、明治三九年一、〇〇〇人を超す流行があった。多くの患者を出した南宇和郡で、最も猖獗を極めたのは内海村の家串・魚神山・平碆の三地区であり、いずれも海岸に沿い山一つを隔てた八〇~九〇戸の村落であった。赤痢患者の発生する一か月前に家串に腸カタルと称する患者があって、汚物を共同使用の井戸端で洗濯してその汚水を流しており、これが付近の砂地から浸透して井水に混じったのを飲用したので、病毒が散蔓した。最初この地に五人の患者発生という報に接した県では、松崎衛生技師を送って対策に当たらせた。郡の予防医らは戸口調査と健康診断を行った結果、さらに十数人の患者を発見したので、二部落にバラック様の収容所を設けて治療に当たるとともに日々住民の健康診断を行った。また共同使用の井戸三か所は使用を厳禁し、隣村から海路清水を運んで煮沸の上で供給するなどの対策を講じ、また予防液の到着を待って全村民一、六〇〇余人に注射を行い、土地の大消毒を実施したりしている(明治三九・六・三付海南新聞)
 この年九月二五日、県は、県下の赤痢病は本年五月以来南北両宇和郡を始め温泉郡において非常の流行をきたし、今やその病毒はほとんど全県下にわたり続々患者発生し初発以来の総数七四〇人余りの多きに達しなお益々流行蔓延の兆しありと告げ、元来予防は各自の注意摂生を待たなければ完全にその目的を達することはできない、しかるに往々その注意を欠ぎ、甚しくはいたずらに私情に駆られ患家と交通し、あるいは病毒に汚染した物件を河川で洗滌するなど、かえって病毒の散蔓をきたす行為に出る者なきにしもあらずと民間認識の低さを挙げた。こうした弊害を一掃するとともに自衛上遺憾なきを期せとして、「衣服臥具の類は清浄なものを用い、かつ常に日光にさらすこと、飲食物の容器には蚊蠅などを防ぐ装置をすること、すべて暴飲過食は堅く慎しむことなどの注意事項を示した(資近代3 五二五~五二六)。
 明治四二~四四年の三年間には一、〇〇〇人以上の患者が連続して発生した。県当局は、近年赤痢病患者は各府県を通じ著しくその数を減少する傾向があるにもかかわらず、四国各県ではなお年々多数の患者を出し、昨年は四県を通じ患者九、一〇〇余人うち死者二、三〇〇余人に達し、全国患者総数の三分の一を占めた、さらに本県の患者を数えると実に一、二〇〇余人、死者約三〇〇人の多きに及んでいる。「是畢竟一般衛生思想ノ普及発達ニ欠クル所アルヲ示スモノニシテ、殊ニ遺憾ニ堪ヘサル所ナリトス、」といった告諭(資近代3 五三二~五三三)などを発して県民の予防自衛を促した。また、郡市町村に防疫の徹底と清潔法の励行を訓令した。
 明治一四~四四年における愛媛県の赤痢患者と死者の数を示すと表2―6のようである。

表2-4 明治一六年赤痢病患者(伊予国のみ)

表2-4 明治一六年赤痢病患者(伊予国のみ)


表2-5 明治26~27年赤痢流行状況

表2-5 明治26~27年赤痢流行状況


表2-6 愛媛県の赤痢患者・死亡者数(明治14~44年)

表2-6 愛媛県の赤痢患者・死亡者数(明治14~44年)