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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

六 伝染病法令の整備と防疫

 伝染病予防規則と同予防心得

 明治一三年七月九日、政府は中央衛生会にはかって懸案の「伝染病予防規則」を制定公布し、全文二四条にわたって、コレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・痘瘡の伝染病について、医師の届出、避病院の設置、患者の収容、患家の標示に関して規定を設けるとともに各伝染病ごとに排泄物などの焼却埋却、未消毒衣服器具などの使用授与販売の禁止、河流水道厠芥溜下水などの掃除清潔、船舶の検査、検疫委員の設置などについて指示した。さらに、この法令の付属法規として、同年九月一〇日に「伝染病予防心得」を定めたが、愛媛県は同年一〇月二八日これを小冊子にして県民に配布し、予防知識の普及に努めた。
 予防心得は、その緒言で伝染病予防方法として清潔法・摂生法・隔離法・消毒法の四つを挙げ、病毒は地中・水中で助養物に生殖して気中に混入し、人体に侵入するものであるから、その助養物の多い魚市屠場などの不潔の地や糞尿塵芥の堆積地をはじめ家屋までも清潔にしなければならない(清潔法大意)、病毒は過度な労働と飲食の不良不足などによって身体が衰弱するときに侵入するのであるから常に健康な状態を保持しなければならない(摂生法大意)。病毒は患者の排泄物呼吸などからも感染するから、病人・屍体やその排泄物などを速やかに隔離して触れないようにしなければならない(隔離法大意)。病毒は伝送物中に混入して人体に達するから、その伝達物を焼却するか薬剤で薫蒸洗滌することが必要であるとして、患者・看護人・屍体・排泄物・衣服臥具・家屋・船舶・厠せい(囗がまえに靑)・溝渠などに対する消毒方法と石炭酸水・硫酸鉄合剤・亜硫酸ガスなどの薬用方(消毒法大意)を論じた。以下、予防心得は、コレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・痘瘡の各伝染病の伝染経路・症状・流行期・予防法について詳説している。その内容を項目別に整理したのが表2-10である。
 愛媛県当局は、伝染病予防心得書の県内配布とともに明治一三年一一月八日には警察署及び町村衛生委員に「伝染病予防取扱心得」を布達、伝染病予防規則・心得実施上の指示を与えた。この取扱心得は、コレラ関係三六条・腸チフス関係六条・赤痢関係一〇条・ジフテリア関係六条・発疹チフス関係一九条・痘瘡関係一八条からなる。内容は県が先に制定したコレラ病予防心得を他の伝染病に拡大したものであり、コレラ以外の伝染病にも患者届け出の義務を課した(資近代2 二一四~二二三)。
 こうして、伝染病予防規則・伝染病予防心得とその関連法令によって、従来コレラにのみ施行されていた防疫体制が赤痢などの伝染病にも適用されることになり、明治一三年をもって一応の総合的予防体制が法制面では成立することになった。今日からみれば、予防法規そのものが不備であり、これを忠実に守ったところで伝染病撲滅ははかりがたいが、蠅・蚊・蚤・しらみなど昆虫類が伝染を媒介することや病原菌すらも発見されていない当時にあっては、手さぐりながらも予防に万全を期したものといえよう。

 伝染病予防細則と避病院設置の促進

 明治一三年の伝染病予防規則と伝染病予防心得は実施してみると次第に内容の不備が明らかになったので、政府は明治二三年一〇月一一日に「伝染病予防心得」を改正した。改正予防心得は、市制・町村制の趣旨である自治的精神を強くうたい、緒言で伝染病予防は市町村の負担する事務であり、衛生組合を設け互いに警戒、隣保相互の制裁をもって各人の注意戒慎を喚起して防疫に当たるよう指示した。内容は、総則で衛生組合を設け規約を立てること、医師は伝染病者の届け出を怠らず、予防法を病家に懇諭すること、衛生主務吏員や警察官は自宅治療する病者を巡視して予防方法を守っているかどうかを注意すること、郡市長は防疫を指揮し病況と予防法実施の景況を地方長官に報告することなどを規定した後、コレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・痘瘡別に予防法・消毒法・交通遮断・清潔法などを明記した。愛媛県は翌二四年五月五日にこの心得書を伝達、同日、これに基づく「伝染病予防取扱心得」を郡市役所・町村役場・警察署に示して伝染病予防心得に拠り予防法一層行き届くよう取り計らえと訓令した(資近代3 一〇〇~一〇四)。
 さらに県は明治二七年七月四日に「伝染病予防細則」を定め、伝染病流行に際し患者・家族・地域の人々の遵守すべき事項を具体的に示し、コレラ・発疹チフス・赤痢・腸チフス・痘瘡患者は原則として隔離病舎に収容すること、ジフテリア患者に児童を、痘瘡患者に未痘者を近づかせないことなどを規定した。またはじめての罰則条項を設け、予防細則の指示事項に違反して勝手な行動をとる者はニ~五日の拘留または五〇銭以上一円五〇銭以下の科料に処することを明らかにした(資近代3 一〇七~一〇九)。
 この細則で伝染病患者の避病院隔離がほぼ強制されたので、県は同二八年五月七日に、避病院建設地は努めて患者運搬の便利を図り道路険悪交通不便の地を避けること、避病院には重症患者室・軽症患者室・快復期患者室・医員事務員詰所調剤所看護人室炊場・消毒所・屍室・汚物置場焼却所・物置を設けること、医長・医員・調剤掛・看護人を置くことなどの「避病院設置標準」を定めて市町村に避病院の設置を促した(資近代3 一一四~一一五)。また五月一五日には医長医員看護人の執務と予防注意書をまとめた「市町村避病院管理方」を示した(資近代3 一一六~一一七)。これに応じて市町村に避病院が設けられた。松山市は土居田に避病院を建設、六月一六日に「松山市避病院仮規則」を定めた。同規則は一〇か条からなり、避病院には院長・医員・調剤係・看護人・炊夫・事務員・小使を置く、入院料は上等室一日七〇銭・中等室五〇銭・下等室二五銭とする、患者の衣食寝具はすべて本人の負担とするなどを内容としていた。松山避病院は明治三一年には伝染病院と改称、二月一二日に「松山市伝染病院規則」を定めて、食費・薬価に至るまで整備した規定を設けた。「市町村避病院管理方」は翌二九年八月五日に「市町村避病院管理心得」に改められ、避病院は時々市町村吏員に巡視監督させ、かつ破損の場所は速やかに修繕を加え何時開院しても差し支えないよう諸事準備をして置くこと、避病院には寝具病室用衣消毒器具及び消毒薬品などを備え置くこと、避病院には常に看守人を置き院内の取り締まり及び掃除をさせることなど緊急非常時に備える規定を加えて避病院の整備を図った(資近代3 一三〇~一三一)。

 伝染病予防法の制定

 明治三〇年四月一日、政府は「伝染病予防法」を制定して、総合的な予防法規を一七年ぶりに全面的に改めた。この法は三六条からなり、法定伝染病として従来の六病の外にペスト・猩紅熱を加え、国・府県・市町村・個人及び医師の責務を明らかにし、府県に検疫委員、市町村に伝染病予防委員を置く制度を定め、府県・市町村及び個人の負担すべき費用を区分して、市町村に対する地方税の補助、地方税に対する六分の一の国庫補助の規定を設けたものであった。予防法制定に伴い、「伝染病予防法施行規則」「伝染病予防法による清潔方法並消毒方法」「検疫委員設置規則」「汽車検疫規則」「船舶検疫規則」などの関係法令が制定され、ここに伝染病に対する予防体制が法制的に確立された。以後、しばしば改正はあったが、伝染病予防法は防疫の中心法令として現在に至っている。
 愛媛県は、同年一一月二日に「伝染病予防法及同法施行規則取扱細則」を布達、各項二八条と発病報告・患者台帳・患者死者移動報告書式でもって予防法施行法を具体化した。伝染病が発生した時は速やかに町村長は郡長を経て県庁に報告し、警察官検疫委員は伝染病予防医の診断を求めること、患者は原則として伝染病病院または隔離病舎に入れること、患者を移送するときに吏員が付き添うこと、患家からは食費一度分五銭以内、薬価一日分六銭以内を徴収することができる、交通遮断は患家、患家に接近した家屋、病毒潜伏の恐れがある家屋について行い、該当家屋には門戸に病名及び交通遮断と記した赤紙を貼り付け縄張りをすること、患者の死体は火葬すること、検診の強制、市街村落の交通遮断、人民群集の制限・禁止・清潔消毒方法の施行、一定の場所の漁撈遊泳などの停止が必要と考えられる時は町村はその事項を詳記して郡長に、郡市長は県庁に具状すること、警察官検疫委員などが消毒法・清潔法を実行する場合は市町村長にその許可を受けること、市町村ではあらかじめ予防医を任命し、湿熱消毒器・太平釜・石炭酸水容器・同調整器・石灰乳調整器・便器・汚物運搬器・スプレー・如露・ブラシ・杓などの消毒器具、石炭酸五瓶・塩酸一瓶・生石灰五〇貫以上の消毒薬を準備することなどの内容であった(資社会経済下六九四~六九七)
 ついで県は、明治三一年一月一五日に「市町村伝染病予防費補助規程」を定め、隔離病舎諸費・貧民患者生活費・衛生組合の予防救治支出費には三分の一、予防委員予防医師に要する諸費・清潔法消毒法の費
用・消毒器具薬品などの買入費に対しては六分の一を地方税で補助することとし、市町村が予防費負担に堪えられないと認められる場合には特別に補助を与えることにした(資近代3 三〇〇~三〇一)。
 伝染病予防法制定後は、伝染病の流行ごとにその伝染病の種類に応じて告諭・訓令などに予防法令を抜粋した注意事項を付けるのが慣例となった。明治三六年七月四日付の「伝染病ニ付告諭」はその典型であり、この年コレラ・赤痢・腸チフスが同時に流行したので、「虎列剌赤痢腸室扶斯ハ同シク消化器伝染病ニシテ、其人体ノ侵入ノ門ロハ必スロニアリ、其ロニ来ルノ媒介ハ飲料水使用水飲食物飲食用物器具等ニアリ、故等物件ニ病毒ノ侵入若クハ附着セサルコトニ注意スヘシ」に始まる「虎列刺赤痢腸窒扶斯病予防ニ関スル注意事項」を掲げ、「此際左記事項ニ則リ、飲食水及下水ノ改良ヲ計リ、家屋内外ノ清潔法ヲ厳施シ、尚飲食物ノ摂取等各自自衛ノ途ヲ守リ、苟モ是等疾病ニ罹ルコトナキ様深ク留意警戒ヲ如フヘシ」と諭している(資近代3 三一二~三一四)。なお、伝染病予防法には当初ペストに関する防疫規定はなかったが、明治三八年三月一一日に予防法を一部改正して鼠族駆除・交通遮断の適用・住居の焼却などについての条項を加えた。これに従い愛媛県の予防法施行細則も同年六月一二日にペストに関する規定を加えた。
 伝染病予防法を中心とした防疫法令により防疫は法制的には確立、この防疫体制の強化や衛生思想の普及に加えて、細菌学の進歩でコレラ・ペストなどの伝染病は漸次減少していった。

民間防疫の実態

 明治二八年六月二二日の「衛生委員へ虎列刺病予防ノ義ニ付告諭」、関県令は、今日民間の状態を察するに、病毒蔓延猖獗を極める時にのぞみ、顛転狼狽手足の置く所を知らず、戦々競々として恐愕ただならざるものがあるが、病勢が少しおさまるとすぐ恐ろしさを忘れ、摂生予防をかえりみようとしない、「あに長大息の至りならずや」と嘆いているが、明治前期の伝染病に対する民度の低さをよく表現している。明治一六年内務省少書記官寺島秋介の愛媛県視察資料として作成された『県治調』の「衛生事務ノ施行及ヒ其概況」には、当時の県内衣食住の生活と衛生状態が報告されているので、次に示す。

 衣食住ニ就キ其健康ノ害否如何ヲ観察スルトキハ、山部ハ其常食蜀黍ニシテ一着ノ垢衣ハ以テ寒ヲ凌クニ足ラス、又衾褥ノ之レヲ掩フナク藁薦以テ之レ二換フルノミ、冬季極寒ノ候ハ倭陋室中ニ大爐ヲ設ケ其周井ニ団楽起居セリ、海浜及ヒ嶋嶼二至テハ其食ハ甘薯及ヒ魚介ニシテ其服ハ苫以テ衾褥トナシ、他家屋ハ狭隘僅カニ膝ヲ容ルノミ、其甚シキハ至テハ枕辺釜竃卜厠せい(口がまえに靑)ノ併列スルアリテ、不快ノ悪臭常ニ鼻ヲ奪フアルモ敢テ意二介セス、其間ニ起居飲食シテ一世ヲ終ルモノ往ク所皆然ラサルナシ、其不潔臭穢ニシテ清潔摂生等ノ法ヲ知ラサルハ幾ント羊豚ト一般ニシテ、人類ヲ以テ視ルヘカラスト云モ敢テ誣言ニアラサルナリ、中部即チ平地ノ住居ハ稍々前者ト其趣ヲ異ニスル所アリト雖モ其細貧ノモノニ至テハ亦庭径アラサルナリ、是ヲ以テ其疾病死亡ヲ類別統計スルトキハ、常食ノ不良ハ身体ノ栄養ヲ欠キ、為メニ全身病ハ其第一ヲ占メ、消化器病之ニツク、不潔臭穢ハ呼吸器病及ヒ皮膚病等ヲシテ又之レニツカシム、豈恐レサルヘケンヤ、今ニシテ之レカ原因タルモノヲ除クノ方法ヲ講究スルハ最モ必因的否最急ノ事タリト雖モ如何セン、多年ノ慣習ヲ以テ天性トナリ、其異ヲ異トセス、其害ヲ害トセス、帖然茲ニ安ンスルヲ以テ他ノ之レヲ制止スルヲ厭フノ情アリ、遍ネク其慣習ヲ攻ムルニハ一朝一タノ能ク及フ所ニアラサルナリ、(資近代2 二四四)

 この不衛生な環境は病毒の温床であり、流行を助長する格好の条件であった。愛媛県が明治一二年コレラ発生地の汚名をこうむり、明治一六年赤痢が大流行して風土病化したのもこうした土壌にあった。
 大日本私立衛生会愛媛支部の発行する『愛媛衛生雑誌』から医師の見た明治二二年時の防疫状況を紹介しておこう。松山の医師高橋恒麿は、論説「間違の養生」で、伝染病流行時において県民はまじない、神仏の祈祷、売薬の信仰、手療治及び医師でない者に治療をゆだねる傾向があるが、これらの間違った養生で治る病人を随分殺していると説き、間違いの養生をする原因として、教育の程度が低いこと、富の度が十分でないこと、衛生思想が普及していないこと、世間の宗教心が劣悪であることを列挙している。また松山病院の赤羽武次郎は「衛生的の穴探し」と題する演説文を掲げて、「衛生布告が戸長役場の掲示物や新聞の公布欄内にありましても注意して見る人は殆どない位で、偶に見た人も衛生の事といへばすぐに忘れてしまって此布告の有難さを真実に味ふものかありません、況んやこれを完行するものは何人ありましょうぞ、虎列刺の流行し始めた時なぞに其予防法を書き又は清潔法実施などのことを書き立てたものを配布して各自の注意を肝要と致しましても、私か邪推で考へますと、これは地方税の催促戸数割の督促かなどと心得て手にたに触れん人があろうではない、そういう穴があっては如何に政府や県で注意が行届でも布告や諭達の効能は豆腐の幽霊に手裏剣程もききますまい」と、民間での衛生布告はあまり効果がないと指摘している。県内の某医師は、健康庵主人のペンネームで「衛生的法令又遵奉セサルモノ多カランコトヲ推測シ併セテ法令ノ実際ニ行ハルヘキ次第ヲ概論ス」と称する長い題目の論説を発表、防疫に率先して当たらねばならない立場の医者が伝染病患者届出の義務を怠り患者を隠蔽する傾向があると暴露、「疾病ハ人以テ危険ナリトシテ嫌避シ、吏、頑民ノ最モ恐レテ鬼神視スル所ノ吏、到ツテ消毒隔離ヲ厳命ス、患家ハ人ニ忌嫌サルコトヲ好マス、吏ノ声ヲ耳ニスルコトヲ恐ル、殊ニ頑民ハ彼ノ浄衣鳴靴帯剣ノ吏ヲ見レハ大ヒニ驚愕シ、其声ヲ聞ケハ戦慄スルモノ多キニ於テオヤ、患家ハ切ニ之レヲ嫌フノ余り医ニ乞フテ届出ヲ止ムコトヲ謀リ遂ニ隠蔽ノ罪悪ヲ得ントス、医此時ニ当リ孜々諒々説イテ病ノ伝染スル理由予防ノ忽ニスヘカラサル事実例証ニ告ケ、吏ノ恐ルヘキモノナラスシテ却テ敬愛信奉スヘキモノタルヲ誨ユルハ正当ナルコトナリト雖トモ、其説諭ノ容易ナラサルト届出ノ手数ニ煩ハサルトヲ脱セントテ患家卜共謀シテ隠蔽スルニ至ルハ実際ニ於テアルヘキコトナラン、況ヤ患家ノ欲セサル伝染病届出ヲナストキハ患家ノ為ニ忌マレ再ヒ病者アルモ招カレサルノミナラス、他ノ患者モ彼ハ届出ニ厳重ナル医ナリ、食傷ヲモ虎疫トシ、疝(腹痛)ヲモ疫痢トナス、容易ニ彼ノ医ニ診ヲ乞フヘカラストスルニ至ランカトテ、己レノ名利ヲ重スルノ心ヨリ斯ノ如キ誤謬ナル想ヲ生フルニ至ルノ事実モ世間多クコレアルヘシ」と医者の無届け原因を究明した。
 以上、いくつかの実例で示したように、県民一般は日頃防疫に関する布告をかえりみず、不衛生な生活に慣れて病毒の温床となるに任せ、運悪く伝染病に罹患でもすれば、周章狼狽して近隣に忌み嫌われるのを恐れ、いかめしい警吏から消毒隔離を厳命されるのに戦慄して、神仏の祈祷や売薬による手療治に懸命となり、病を発見した医者には届け出をしないように哀願する。医者の中には患家やその周辺の人々に不評をかうのを恐れてこれに協力する。市町村当局や警察はこれを阻止しようとして威圧的にこの隠蔽を探り出そうとする。民衆はまた罪人扱いされるのを恐れて隠蔽を貫こうとする。一部の医者は不承不承これを見逃す。この三つ巴の悪循環が明治期の民間防疫に効果をあげられない最大の原因であった。
 この事象は明治末期に至っても変わらなかった。明治四四年八月「海南新聞」が連載した「医者と病院」の中で、松山市医師会長添田芳三郎は、「昔は赤痢や虎列拉があって予防消毒の為に警察から巡査を派遣すると、患者の家ではありがとうとも御苦労とも思はず却って患者を殺しにでも来た様に之を嫌悪するのみでなく、蔭では之を誹譏讒謗して甚だしきは巡査の行ふ当然の職務でも之に抵抗する様なことがあった。今でも尚多少此の傾きがないと云はれぬ様である。而して又、上官の方からは職務の執行が手ぬるいとか厳格でないとか云はれて頻りに鞭撻督励を受けて居る。上からは圧せられ下からは嫌はれて其中間に立ちて自分の危険を省みるの暇なく予防事務に従事するのであるから誠に気の毒なものである」と防疫に当たる巡査に同情を寄せている。県衛生課長林鉉吉は同じ「医者と病院」の中で、「各開業医共近来は公徳の念が増進して何れもよく各自に於て其分を尽されては居る様ではあるが、併し偶には営利を図るに汲々たると又一つは患者の私情に纒綿して法定伝染病の如きも往々届出を怠り又は遅滞することがある。之は患者其者に向ては或は医師の厚意となるかもしれぬが、社会衛生の為より云へば実に容易ならぬ害毒となるのである」と医者の公徳に訴えている。また衛生技師多田英治は、「自分が常に感ずるのは市街の開業医と警察の衛生吏員との間に意思の疎通を欠いで居る事が多い様である。偶々自分が二三の開業医でも訪問することがあると、警察の医者だと云ふので警察の二字を嫌ふて快よく面会する者が少ない。仮りに面会しても相方打解けて胸襟を開くことが甚だ稀れである。こんな風を一日も早く廃して官私共一致して衛生事務に当り、衛生課に於て研究したる材料は直ちに開業医に通知する代りに又病菌の検査分析等は当課へ送って貰ひたい」と要望している。

表2-10 伝染病予防心得一覧 1

表2-10 伝染病予防心得一覧 1


表2-10 伝染病予防心得一覧 2

表2-10 伝染病予防心得一覧 2


表2-10 伝染病予防心得一覧 3

表2-10 伝染病予防心得一覧 3